Last update:2016,Oct,25

第3代カリフ ウスマーンの治世

1.第3代カリフ ウスマーン

big5
「さて、イスラムを「アラブ帝国」に育て上げた第2代カリフ・ウマルの後継者に選ばれたのが、ウスマーン・イブン・アッファーン(Uthman ibn Affan:70歳)です。」
高校生A
「後継者といっても、かなり年配の方なんですね。」
big5
「そうです。まず、ウスマーンについて簡単に見ていきましょう。ウスマーンはメッカの有力者の一つであるウマイヤ家の出身でした。ムハンマドのハーシム家と同様に、メッカでも指折りの家柄です。そしてもう一つ重要なのが、ウマイヤ家は当初、ムハンマドと激しく敵対した家だったことです。こちらのコーナーでも、ムハンマドと敵対した主要人物の一人としてアブー・スフヤーンが登場しましたが、彼もウマイヤ家の人間です。メッカが降伏した後、イスラム教に改宗した家なんですね。これが、後で重要な意味を持ちます。
そんなウマイヤ家の中で、ウスマーンはかなり特殊な人だったようです。まず、ウスマーンは他のウマイヤ家の人と異なり、ムハンマドの布教開始初期の時点ですぐにイスラム教に入信しています。」
日本史好きおじさん
「敵対していたウマイヤ家の人間である一方で、古参のイスラム教徒だったわけですな。なんとも複雑な関係ですね。しかし、ウマイヤ家の他の人が皆、ムハンマドと敵対していた中で、自分だけがムハンマドの教えを信じるなんて、かなり難しかったのでは?」
big5
「はい、そのようです。ウスマーンがイスラム教に入信したことが発覚した時、ウスマーンはウマイヤ家一門の人々から徹底的に糾弾されたそうです。一説によると、ウスマーンは柱に縛り付けられて、入信撤回を迫られたそうです。しかし、ウスマーンの決意は固く、イスラム教への信仰を捨てることはありませんでした。」
名もなきOL
「そこまでされても信仰を捨てなかったんですね。何がそこまでウスマーンの意思を強くしたんでしょうね?」
big5
「正しい信仰、というのは人を強くするんですよ。・・というのは優等生の答えですね。ある説によれば、ウスマーンはムハンマドの娘の一人であるルカイヤに恋をしていたそうです。理由はそこにあるかもしれません。・・というのが歴史好きの見方です。」
名もなきOL
「愛の力、ですね。」
日本史好きおじさん
「ちょっと待ってください、ウスマーンはこの時点で70歳なんですよね。ムハンマドが布教を始めたのは34年前ということは、その時ウスマーンは36歳ということになります。ムハンマドは40歳前後ということは、その娘のルカイヤはまだ10代そこそこなのでは?本当に恋愛対象になりえるのでしょうか?」
big5
「現代の感覚ではそうなりますよね。でも、当時の感覚ならそこまで不思議なことでもないかもしれません。本当かどうかはわかりませんが、ウスマーンは「将来、ルカイヤを妻とすることになる」という予言を受けて、それを信じていた、という話もああります。実際、ウスマーンはその後ルカイヤを妻にしています。
ウスマーンとルカイヤは平穏な日々を過ごしていたそうですが、メッカでのムハンマド弾圧が強くなってきたために、エチオピア(当時の名前はアビシニア)に移住していた時期もありました。」
名もなきOL
「海外移住ってすごいですね。当時はそんなに簡単にできたんですか?」
big5
「当時もそんなに簡単なことではなかったと思います。海外移住できた理由の一つは、ウスマーンはかなりの大富豪だった、ということでしょう。ウスマーンの父は、ウマイヤ一門の中でも商売で大きな利益を稼いでいたそうです。ウスマーンはその後を継ぎ、誠実な商売で人々の信用を得て巨万の富を得ていたそうですよ。」
名もなきOL
「大富豪のアラブの商人かぁ・・。やっぱり財力は重要ですね。」
big5
「しかしエチオピア生活はそれほど長くはなかったようで、しばらくしてメッカに戻った後、622年のヒジュラでは妻・ルカイヤとともにムハンマドに同行しています。その後もムハンマドやカリフたちの相談役として、控えめながらも重要な役割を果たしていたそうですよ。」
日本史好きおじさん
「なるほど。目立たなかっただけで、ずっとイスラム教の中枢にいた人だったんですね。それなら、後継者候補になってもそんなに不自然ではありませんな。」
big5
「そういうことです。ウマルの後継者として、アリーではなくウスマーンが選ばれた理由は、ウスマーンであればアブー・バクルやウマルの政策を安定して継承するであろう、という期待があった他、やはりウマイヤ家からの支持が大きかったようですね。」

2.征服事業の終了とクルアーンの統一

big5
「ウスマーンのカリフ即位後も、イスラム教団は征服事業を進めていきました。具体的には、事実上滅亡したササン朝のイラン方面の領土や、アゼルバイジャン、アルメニアなどを征服して、さらに領土を拡張しています。650年、イスラム教団の征服事業はここで一段落ついたため、650年は「征服事業完了の年」とも言われています。それ以降、ウスマーンの政策は拡大し過ぎたイスラム教団国家の内政に取り組み始めました。」
名もなきOL
「これだけ広くて、多種多様な民族が含まれている国を治めるのは大変だったんでしょうね。」
big5
「そうですね。結論から言うと、様々な問題に対処しきれず内乱に発展していくことになります。それはさておき、まずはウスマーンの政策を見ていきましょう。
ウスマーンの実績の中でも特に重要なのは
クルアーンの統一
です。
ムハンマド布教開始時点からイスラム教に帰依していたウスマーンは、信徒としての歴史はトップクラスの長さです。そんじょそこらの幹部よりも長いわけです。しかも、ウスマーンはクルアーンの朗読がとても上手ということで有名でした。そんなウスマーンにとって、教義の基礎となるクルアーンが各地でちょっとずつ異なる、という状況は見過ごすことはできなかったのでしょう。ウスマーンはクルアーンの統一事業を進めました。何が正しいクルアーンなのかを決定し、それとは異なる内容の「偽クルアーン」を排除していったわけです。こうして、クルアーンは651年頃には現在の形にまとめられた、と考えられています。」
日本史好きおじさん
「基礎をきちんと統一する、というのは地味ですが非常に重要な仕事ですね。ウチの会社の工場でも、製品品質を一定に保つために作業標準がきちんと定められています。必ず作業標準に従って作業をすることで、誰がいつやっても同じモノができるようにしています。それに似ていますな。」
big5
「イスラム教の場合、クルアーンの内容はとりわけ大事です。豚肉を食べてはいけない、など生活の基本的なところも規定していますので。これが地方によって異なると様々なトラブルが発生する可能性が高くなります。例えば、ある地域では豚肉は食べてもOKということになるとか、『〜〜〜の場合は豚肉を食べてもよい』など、地域ごとのローカルルールができてしまうと、何が正しいのかわからなくなってしまいますね。そういう意味では、ウスマーンは地味ながらも重要な仕事をした、と言えると思います。」

3.ウスマーンの死

高校生A
「あれ、もう死んじゃうんですか。やっぱり高齢者の後継者は早いですね。」
big5
「確かに高齢で後継者となりましたが、ウスマーンが殺されたのは656年のことなので、12年間カリフに就任していたことになります。先代のウマルの10年よりも長いんですよ。」
名もなきOL
「え、殺されたんですか?ウマルと同じように奴隷とかに?」
big5
「そこも重要なポイントです。ウスマーンを殺したのは奴隷などではなく、同胞であるイスラム教徒だったんです。そのため、イスラムの歴史の中で大きな意味を持っているんです。」
日本史好きおじさん
「ウスマーンを殺害したのは誰なんですか?動機は?」
big5
「まずはウスマーン殺害の動機を産みだした背景から見ていきましょう。630年のムハンマドのメッカ征服から、征服事業が終わった650年の20年間で、イスラム教団は飛躍的な成長を遂げました。それまで、メディナを根拠地とした小勢力だったイスラム教団が、あっという間にアラブ人を中心とした「アラブ帝国」を築き、多くの外国人や非イスラム教徒を支配するようになったわけです。とてつもないスピードで国家が膨れ上がっていく一方で、その国家を維持する行政の仕組みの整備はあまり進んでいませんでした。そんな中、「ウマイヤ家だけが優遇され過ぎている。差別だ。」という問題が大きくなり始めました。ウマイヤ家は、ウスマーンの出身の家ですね。」
名もなきOL
「あれ?でもウスマーンは実家であるウマイヤ家から酷い仕打ちを受けてきたんですよね?ウマイヤ家に復讐するならわかりますけど、優遇したのはなぜなんですか?」
big5
「おそらく、ウスマーンの人柄なんじゃないかと思います。ウスマーン本人は、本当にムハンマドの教えに深く帰依した敬虔なイスラム教徒だったと思います。ウスマーン自身は大富豪でしたが、彼の生活はとても質素なもので、自分の富をひけらかして周囲に自慢するような人ではありませんでした。何かの建設事業に対して自分の財産から多額の寄付をしたり、石材運びも手伝った、というエピソードが残っています。現代風に言えば「優しくて、控えめで謙虚な人」だったのはないかと思います。
そういうタイプの人は、他人を疑うということをあまりしません。例えば、自分の実家であるウマイヤ家の人々に対しても、最初は抵抗しても最後にはイスラム教を受け入れたのだから、彼らも立派なイスラム教徒になったんだ、と考えていたのではないでしょうか。そのため、ウマイヤ家の人々が言うことに耳を傾け、彼らの意向が実現されるように便宜を図ったのではないか、と私は考えています。いつの間にか、政治の要職はウマイヤ家の人々で占められてしまっていました。
しかし、ウスマーンを除くウマイヤ家の人々は、ウスマーンのように心底イスラムの教えに帰依したわけではありませんでした。メッカで降伏したのも、軍事力で負けたのでやむなく降伏しただけであって、ムハンマドの教えを受け入れたから、ではありません。ウマイヤ家の人々は自らの地位を利用して莫大な富を手に入れ、豪奢な暮らしを満喫していたそうです。これに激しく反発する人は一人二人ではありませんでした。
まず、ムハンマドの妻であり初代カリフのアブー・バクルの娘であるアーイシャです。アーイシャは、夫と父が築いたイスラム教団が、当初は敵であったウマイヤ家のやりたい放題になっている現状を批判していました。同じように、ムハンマドの娘婿・従兄弟であるアリーも、ウマイヤ家に好感を持っていなかったため、ウスマーンの政策には懐疑的でした。最もウスマーンの政策に対して不満を感じていたのは、イラクやエジプトのミスルに配属されたアラブ人戦士たちです。征服事業が終わってしまうと、アラブ人戦士らの生活は苦しくなっていきました。征服事業が終わってしまうと、征服地の戦利品山分けの収入が入らなくなってしまうんですね。そうなると、普段の給料で生活していかなければならないわけです。ところが、各方面の政治を行う総督はアラブ人戦士らの「普段の給料」を低く抑えていたようで、アラブ人戦士たちの生活は困窮しはじめました。そんな中、ウマイヤ家は豪奢な生活を派手に送っていたわけですから、ウスマーンの政策に不満を招くことになりました。「ウスマーンは実家のウマイヤ家ばかり優遇している」「征服事業を再開すべき。それができないのはウスマーンが悪いからだ」という具合にです。
戦士らの不満に対し、ウスマーンは各地の総督らを集めて対策を検討しました。しかし、ここで事態が大きく動きます。総督不在となった各地からアラブ人戦士らがこぞってメディナにやってきて、口々にウスマーン批判を唱えました。一度は、アリーが戦士らを説得して帰したのですが、656年6月、一部の過激な戦士らがウスマーンの自宅に押し入り、ウスマーンを殺害してしまいました。この時、ウスマーン82歳前後でした。」
日本史好きおじさん
「兵士が主君を殺したんですか!それは大問題ですな。」
big5
「そうですね。主君の政策に不満を持った兵士が主君を殺す、というのは国の根本的な秩序に関わる大問題です。今回の場合、ウスマーンはカリフだったことも、後のイスラム教の考え方に大きな影響をもたらしました。カリフは、預言者ムハンマドの後継者です。預言者の代わりに、民衆を導く者の地位です。そのカリフのやり方が気に入らないからと言って、カリフを殺害することがイスラム教徒として許されることなのかどうか、後に様々な議論を呼びました。
なお、ウスマーンを殺害した兵士らはそのまま逃亡してしまい、彼らが罪に問われることはありませんでした。それよりももっと大きな問題が発生し、イスラム世界は内乱の時代に突入してしまったので、うやむやになってしまったんですね。」

イスラムの分裂 略年表        
644年

ウスマーンが第3代カリフに選ばれる
650年

イスラムの領土拡張が一段落ついて終了する
651年頃

クルアーンが現在の形にまとめられる
656年6月

ウスマーンがアラブ人戦士らに殺害される。

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