Last update:2025,JUL,19

日本史 鎌倉時代

執権政治の確立

導入

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「ここでは、鎌倉時代の政治面での変化として、北条義時らが作り上げた執権政治が根付いていく過程を見ていきます。また、農業や商業・手工業でも、大きな進歩がありましたので、社会面からも見ていきたいと思います。」

年月 日本のイベント 世界のイベント
1224年
元仁元年
北条義時没。息子の北条泰時が第3代執権に就任
1225年
嘉禄元年
連署、評定衆を設置
1226年
嘉禄2年
藤原頼経が征夷大将軍に任命される(摂家将軍)
1227年 チンギス・ハンが西夏を滅ぼす
1231年 モンゴルが高麗に侵攻開始
1232年
貞永元年
御成敗式目(貞永式目)を制定
1234年 モンゴルが金を滅ぼす
1241年 ハンザ同盟成立
ワールシュタットの戦い
1242年
仁治3年
北条泰時没。孫の北条経時が第4代執権に就任
1243年 バトゥがキプチャク・ハン国を建国
1244年
寛元2年
藤原頼嗣が征夷大将軍となる
1246年
寛元4年
北条経時没。弟の北条時頼が第5代執権に就任
1247年
宝治元年
宝治合戦 北条時頼が三浦泰村とその一族を滅ぼす
1249年
建長元年
引付衆を設置
1250年 エジプトでマムルーク朝成立
1252年
建長4年
宗尊親王を将軍に迎える(皇族将軍)
1256年
康元元年
北条時頼が執権を辞任。一族の北条(赤橋)長時が第6代執権に就任
1258年 フラグがアッバース朝を滅ぼし、イル=ハン国を建国
1259年 高麗がモンゴルに降伏
1260年 フビライがモンゴル皇帝に即位
1263年
弘長3年
北条時頼死去

第3代・北条泰時の治世

連署と評定衆 集団指導体制の整備

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「承久の乱が終わり、北条義時や北条政子、大江広元ら幕府草創期のメンバーが死去し、鎌倉幕府は新しい時代を迎えました。新時代の最初のリーダーとなったのが、義時の息子である北条泰時(ほうじょう やすとき 1183〜1242年)です。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、冷酷な政治家となった義時の後継者となり、善政を行う希望の星というキャラで描かれた泰時ですが、それ以前から名君として褒められることが多い人物です。執権に就任したのは1224年(元仁元年)、41歳になる年でした。」

YASUTOKI NISHIKI
明治時代の錦絵に描かれた北条泰時 制作者:歌川国芳 制作年:1886年

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「1225年(嘉禄元年)、執権を補佐する連署(れんしょ)を設置しました。現代に例えるなら、執権が総理大臣、連署は官房長官、といったところでしょう。また、この年に評定衆(ひょうじょうしゅう)も設置しています。評定衆は執権・連署と共に幕府内の最高意思決定機関のメンバーです。現代で例えるなら閣僚メンバーといったところでしょう。有力御家人や政治の練達者から11人が選ばれました。
このように、泰時は鎌倉幕府の運営は権力者一人の独裁体制ではなく、集団指導体制としての仕組みを整えたところに特徴があります。」

摂家将軍のはじまり

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「1226年(嘉禄2年)、源実朝が暗殺されて以後、後継の将軍候補として迎えていた摂関家の子である九条頼経(くじょう よりつね 藤原頼経とも 1218〜1256年 この年8歳)が朝廷から征夷大将軍に任命されました。ここは誤解を招きやすいのですが、1226年に将軍宣下がされたということであり、この時に九条頼経が京都から鎌倉にやってきた、というワケではありません
これが摂家将軍の正式な始まりになります。ただ、これは泰時の政策と言うよりは、父・義時と政子が準備していたことを、泰時が実行に移した、ということなので泰時オリジナル政策とは言えません。」

御成敗式目(貞永式目)

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「1232年(貞永元年)、泰時はたいへん有名&高い評価を得ている御成敗式目(年号をとって貞永式目、とも)を制定しました。これは武家が作った最初の成文化法典です。当時、鎌倉幕府の支配体制が日本全国に及んだことで、幕府が任命した地頭が各地を治めるようになったのですが、あちこちで既存勢力である荘園領主らと揉め事を起こしていましたし、地頭同士の揉め事も頻発するようになりました。それらの揉め事を裁くのが幕府なのですが、この裁きが公正に行われるために、判断基準を明確にしようとしたのが御成敗式目です。
武家社会の慣習や源頼朝以来の事例を成文化し、また平易でわかりやすく書くことであまり教養のない武士でも理解できるように配慮されています。御成敗式目は51箇条からなり、地頭と守護の任務と権限、御家人が守るべき規律や所領についての取り決めが書かれています。適用範囲は御家人のみですが、御家人と荘園領主(貴族・寺社)との揉め事にも適用されました。御成敗式目の内容はたいへん評価が高かったため、後の時代の室町時代や戦国時代の分国法にも影響を与えています。なので、御成敗式目はたいへん重要であるわけですね。
なお、時代が変わるとともに御成敗式目にも追加のルールが加えられていきました。式目追加と呼ばれます。室町幕府も御成敗式目を受け継ぎ、同じく追加法を加えて運用しました。室町幕府が建武年間以後出した追加法を集めたものは「建武以来式目追加」と呼ばれています。
こうして、第3代執権・北条泰時は1242年(仁治3年)に死去。59歳になる年でした。後継者となったのは、既に亡くなっていた息子の子(つまり孫)の北条経時(ほうじょう つねとき 1224〜1246年 この年18歳)です。」

第4代 北条経時の治世

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「第4代執権・北条常時の治世はわずか4年で若くして亡くなっているので、ここでは簡単に済ませます。1244年(寛元2年)、お飾りの将軍でしかないことに不満を持ち始めた九条頼経と鎌倉幕府が対立を始めてしまったので、九条頼経は将軍職を息子の九条頼嗣(くじょう よりつぐ 藤原頼嗣とも 1239〜1256年 この年5歳)に譲りました。その後も鎌倉に留まり、一部の御家人と結託して北条氏の打倒を画策していたのですが、失敗してその後京都に戻っています。ただ、頼嗣はそのまま将軍として鎌倉に残りましたので、摂家将軍体制はまだしばらく継続します。」

第5代・北条時頼の治世

宝治合戦と三浦氏の滅亡

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「若くして亡くなった第4代執権・北条経時の後継者となったのが、弟の北条時頼(ほうじょう ときより 1227〜1263年 この年19歳)です。北条時頼も祖父の泰時と同様に人格者で、政治面でも御家人や庶民に善政を敷き、宗教面では禅宗に深く帰依していた、と好評が多いです。そのため、諸国を回って武士や民衆らの生活を視察した、という物語も作られています。」

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北条時頼(江戸時代に描かれたもの) 所蔵:建長寺

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「たいへん評判がいい第5代執権・北条時頼ですが、高校日本史の範囲では治績として3つ知っておけば十分です。まず一つ目が1247年(宝治元年)の宝治合戦です。時頼の執権就任の翌年ですね。執権に対して反抗的な動きをしていた有力御家人である三浦泰村(みうら やすむら ?〜1247年)とその一族を滅ぼした戦いです。
三浦泰村は御家人の中でもかなり格が高い武家でした。泰村の父・義村は幕府草創のメンバーの一人ですし、三浦泰村本人の妻は北条泰時の娘でしたし、泰村の妹は北条泰時の最初の妻であり、時頼の祖母になります。なので、北条時頼と三浦泰村の祖父母の代ではかなり近い親戚であるわけです。しかし、時頼の母は安達家の娘であり、縁戚関係では以前よりも縁遠くなっていました。さらに、三浦泰村自身は摂家将軍である九条頼経を擁立する動きを見せるなど、北条氏の支配体制に反抗的な態度を見せたため、両者の関係は急激に悪化。ついに鎌倉内で武力衝突となり、敗れた三浦泰村は自害。泰村の一族はほぼ全員亡くなりました(一部は逃れています)。鎌倉有力御家人としての三浦家は宝治合戦で滅んだわけです。」

引付衆の設置

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「時頼の治績の2番目は、1249年(建長元年 この年時頼22歳)、幕府内の新たな役職として引付衆(ひきつけしゅう)が設置されました。引付衆は、裁判の公正化と迅速化促進のために、評定会議の前に案件を予備審査しておき、評定会議で早期に結審することが狙いです。当初、引付衆は3局(のちに5局)の部署を持ち、各局は引付頭人(とうにん 長官の意)がいて、引付頭人は北条一門の評定衆が兼任することになりました。なので、結果として北条一門による支配体制はかなり強化されたわけですね。」

皇族将軍への切り替え 1252年

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「時頼の治績の3番目は、1252年(建長4年 この年時頼25歳)、摂家将軍である九条頼嗣に代えて、後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王(むねたかしんのう 1242〜1274年 この年10歳)を将軍として迎えました。これまでは摂関家出身の将軍でしたが、さらに格が上がって皇族出身の将軍になりましたので、これを皇族将軍といいます。

上記以外にも時頼の治績はあるのですが、試験対策としては優先順位が低めになります。なので、以下2点を簡単にまとめて記載しておきます。

@宋船の入港数を5隻に制限 1254年(建長6年)

鎌倉時代の中ごろになると、日本と中国の宋の間で貿易が盛んになってきました。日宋貿易です。日本からの主な輸出品は刀剣、硫黄、美術工芸品、砂金、水銀、木材などで、宋からの輸出品は宋銭、絹織物、木綿、香薬、陶磁器、書籍などです。特に重要なのは、宋銭です。日本でも貨幣の使用がかなり広まっていましたので、貨幣はたいへん重要でした。面白い点は、朝廷も幕府も貨幣を自国で造らず、宋の貨幣を輸入してそのまま使っていた、ということですね。
幕府が宋船の入港数を制限した理由は、日宋貿易の利益を幕府が独占しようとした、と考えられています。ただ、この制限で民間の経済を止めることはできず、あまり実効性は無かったそうです。

A時頼引退後も政治の実権を握る 得宗専制体制への道

北条時頼は1256年(康元元年 この年時頼29歳)、赤痢に罹ったことを機に執権を辞任しました。執権の地位は、北条一門である北条長時(ほうじょう ながとき 赤橋長時、とも 1230〜1264年 この年26歳)に譲り、出家しました。ただし、これはあくまで繋ぎにすぎませんでした。時頼の後継者は、元寇への対処で有名な息子の北条時宗だったのですが、この時点でまだ5歳と幼少だったためです。なので、引退後も時頼は実権を握り続けていました。これは一種の院政ですね。北条泰時は集団指導体制を整えましたが、結果的には、幕府の実権は北条義時から始まる直系子孫が代々受け継いでいく、ことになりました。この北条義時の直系の家は得宗(とくそう 得宗家、とも)と呼ばれ、時頼の子の時宗、時宗の子の貞時の頃は得宗専制体制と呼んだりします。得宗専制体制への道しるべを付けたのが、時頼の院政だったわけですね。」

地頭の領主化

地頭請所と下地中分

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「さて、鎌倉幕府の中枢で執権政治が確立し、さらに得宗専制体制へと向かっていく一方で、地方では地頭が着実に力を伸ばしていきました。この章では、地頭が事実上の領主となっていった過程を見ていきましょう。
まず、当初設置された地頭の役割と権限は、あくまで荘園領主(貴族や寺社)の代官のようなものでした。都など都会にいる荘園領主の代わりに現地に赴き、年貢を取り立てて荘園領主に納める、という地方役人的なものでした。律令制における国司のようなものです。ところが、律令制の時代と決定的に違ったのは、地頭は実力行使が可能な武士であり、鎌倉幕府という強大な後ろ盾があったことでしょう。間もなく、地頭は荘園領主の意向に反して、勝手に年貢を取り立てたり、荘園領主の取り分である年貢を滞納・横領するなどして社会問題化しました。
そこで、荘園領主が用いた対策が地頭請所(じとううけしょ)です。地頭が荘園管理者であることを正式に認めて管理を委ねる代わりに、荘園領主の取り分となる年貢はきちんと納めさせる、というものです。しかし、地頭請所は荘園領主らが期待した効果を発揮しませんでした。というのも、既に地頭が実質的な荘園管理者だったわけですから、それを名目上認めたところで、地頭にとっては大した変化はありません。
そして、最終的に行われたのが下地中分(したじちゅうぶん)です。下地中分は、荘園領主の所領の半分くらいを地頭固有の所領と認めてやることです。下地中分によって、地頭は正式なその土地の領主となりました。その代わりとして、地頭は荘園領主の土地には手を出さない、という約束をすることになったのですが、これは後の時代に無視されるようになり、武士がほぼ全国の所領を直接支配するようになっていきます。」

地頭の所領経営

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「さて、領主となった地頭の所領経営について見ていきましょう。まず、地頭の館の周囲には免税とされる地頭の直営地がありました。この直営地は複数の名称で呼ばれます((つくだ)、門田(かどた)、御作(みつくり)、正作(しょうさく)、など)。これらの直営地で農業を行うのは、地頭本人であることはかなり稀で、実際に農作業に努めたのは下人(げにん)とか所従(しょじゅう)と呼ばれる、地頭が保有する農民(農奴)でした。また、近郊に住んでいる小作人を使うケースもあったそうです。
地頭の所領となったエリアの元荘園管理人であった名主(みょうしゅ)らは、引き続き自分たちの土地である名田(みょうでん)を作人(さくにん)と呼ばれる近郊の小作人達に農作業させ、そこから領主である地頭に年貢を納めることになりました。
このように、領主となった地頭は、自分の館の周囲の直営地と、周辺の名主らを従えて実力を付けていくことになりました。これが、後に朝廷も幕府も地方を統治することができなくなった戦国時代の基礎となります。」

農業・商工業の発達

農業の発達

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「鎌倉時代は農業面でも大きく進歩しています。農具の改良が進み、新たな土地を開墾・畑作して農地面積が広がったことに加え、技術面でも進歩がありました。その代表例が二毛作(にもうさく)です。二毛作とは、稲の収穫が終わった水田の水を抜いて、畑として麦を栽培する農法です。同じ土地で稲だけでなく麦も採れるという、生産力が大幅に向上する方法です。ただし、水田を畑に転用する技術が必要であり、また稲も麦も育てるためには肥料の使用が欠かせませんでした。肥料として使われたのは、刈敷(かりしき その辺の草を刈って、そのまま田畑に敷いて腐らせて肥料にする)や草木灰などです。また、気候も重要でしたので、鎌倉時代で二毛作が行われたのは主に西国と畿内です。関東以東にも広がるのはもう少し後の時代になります。
また、主食となる稲や麦のみならず、商業・手工業に用いる原料作物の栽培も増えてきました。代表例は荏胡麻(えごま)です。荏胡麻は食用だけでなく燃料としても使われました。平安時代から既に栽培されていましたが、鎌倉時代にはほぼ全国に広まっています。他にも染料に使う藍(あい)、布や和紙に使う楮(こうぞ)とカラムシなどが広く栽培されるようになりました。」

商業・手工業の発達

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「鎌倉時代は商業・手工業も発達しています。農業技術の向上に伴い、鉄製農具や鍋、かまどなどが作られるようになりました。また、手工業品や余剰農産物はで売買されるようになりました。市が立つ場所は、交通の要所や寺社の門前が多かったです。鎌倉時代では市の多くは常設ではなく 定期市です。月に3回、毎月10日に開かれる定期市は三斎市(さんさいいち)と呼ばれます。


資料集等によく登場する一遍上人絵伝 岡山の定期市の場面

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「鎌倉時代に新たに登場した業種が問丸(といまる)です。問丸は現代でいうと運送業者にあたります。運ぶのは年貢や商品などです。その他にも、保管や委託販売といった業務も引き受けるようになり、原始的な流通業が生まれました。
また、鎌倉時代の経済の特徴は宋銭の普及です。市での取引に使われるのはもちろん、年貢も現物納付から銭での納付(銭納(せんのう)という)も行われるようになりました。これに付随して、貸金業者も現れます。借上(かしあげ)です。借上は現代でいうサラ金のようなもので、ほとんどが高利貸しでした。中にはは借金が返せず、土地を奪われる者もいました(これは後に徳政令の話で再登場します。)。
そしてもう一つ登場したのが為替(かわせ or かわし)です。これは「替銭」という別名もあり、こちらの方がわかりやすい表現かな、と思います。為替は、地頭や商人らが遠隔地にいる取引相手に安全にお金を届ける手段として使われました。例えば、ある地頭が京都にいる荘園領主に年貢を銭で納めようとした、とします。通常であれば、銭を京都まで運ぶ必要があるのですが、多量の現金を持ち運ぶのは危険です。そこで、銭の代わりに為替を使いました。地方にある割符(さいふ)屋にいって、銭を支払って代わりに「為替」を受け取ります。この「為替」を問丸などに運んでもらって京都の荘園領主に届け、荘園領主は京都にある割符屋で「為替」と銭を交換します。これで、京都の荘園領主に銭が届けられるわけです。後で、地方の割符屋と京都の割符屋で決済が行われて取引が完結します。例えていうならトラベラーズチェックですね。
このように、鎌倉時代は世の中の支配者が朝廷と貴族から、幕府と武士に変化しただけでなく、社会や経済も大きく変化した時代でした。」

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