Last update:2016,Dec,23

スンナ派 シーア派への分裂

1.アリーの後継者

big5
「前回でアリーが暗殺されたことにより、ムアーウィヤによるウマイヤ朝が興った、という話をしました。最終回となる今回は、アリー亡き後のアリー一族と、イスラム教の2大派閥、スンナ派とシーア派について見ていきましょう。」
日本史好きおじさん
「そういえば、アリーに子供はいたのですか?」
big5
「はい、いました。これまで登場していませんでしたが、ハサンフサインという男子が2人いました。そして、二人の母親はファーティマ。預言者ムハンマドの娘です。」
名もなきOL
「ということは、ハサン・フサイン兄弟はムハンマドの孫になるんですね。」
big5
「そうです。そして、それが歴史に大きな影響を与えます。
アリーが暗殺されたことにより、兄のハサンが後継者としてカリフに就任しました。この時既にアリー一族の勢力はだいぶ衰えていたのですが、指導者であるハサンはムハンマドの血を受け継いでいる孫です。ムハンマドの子孫にこそ、カリフとなる正統性があると考える人々は、ハサンを支持しました。この人々をシーア派と言います。反対に、事実上イスラム世界の覇者となったムアーウィヤの権威を認めた人々はスンナ派と呼ばれています。スンナ派の方が多数派で、それは現在でも同じですね。」
高校生A
「スンナ派とシーア派の違いは、この点にあるんですね。」
big5
「そうです。シーア派は、少数ながらもムアーウィヤの支配に抵抗を続けました。しかし形勢を覆すことはできず、ハサンはカリフを退位し、ムアーウィヤのカリフ位を承認したんです。」
日本史好きおじさん
「ついに諦めてしまったんですな。しかし、シーア派の人々はそれで納得したんでしょうか?」
big5
「何とも言えませんが、簡単には受け入れられなかったと思います。ただ、一つ望みはありました。それは、ハサンとムアーウィヤが結んだ和睦内容の中に、ムアーウィヤの死後、ハサンが生存していた場合はハサンがカリフとなる、という条項があった、という話です。ハサンが死亡していた場合は、弟のフサインがカリフとなる、とあったとか。」
日本史好きおじさん
「うーむ、絶対とは言えませんが、かなり優位に立っていたムアーウィヤが、そんな条件を飲むとは思えませんな。」
big5
「はい、この話はシーア派の史料が伝えるところです。スンナ派の史料にはこのような話はないそうですよ。このように、イスラムの歴史史料はスンナ派とシーア派で異なることがあることも特徴です。」
高校生A
「その後どうなったのですか?」
big5
「ハサンはメディナで隠居生活を送っていましたが、669年(670年説も)に45歳で亡くなりました。父・アリーの死からまだ8年しか経っていませんでした。一方、ムアーウィヤはこの時66歳ですが、まだ健在でした。」
名もなきOL
「ムアーウィヤはけっこう長生きしたんですね。」
big5
「はい。ムアーウィヤが亡くなったのは680年ですので、77歳まで生きたことになります。この時代に77歳ならかなり長い方なのではないでしょうか。そして、この年にイスラム史上たいへん有名な事件が起きました。」

2.カルバラーの悲劇  680年10月10日

big5
「ムアーウィヤは680年の4月に亡くなりました。ムアーウィヤの後継者となったのは、息子のヤズィード(33歳)です。ムアーウィヤは、遺言の中で、亡くなったハサンの弟・フサインについて
『彼を担いで反乱を起こす者達が現れるだろう。だが、フサイン(この時54歳)は高貴な生まれなので大切にせよ。』
と伝えたそうです。」
高校生A
「そういえば、ハサン亡き後、フサインはどうしていたのですか?」
big5
「ハサンの後を継いで一家の長となり、メディナで生活していました。その頃、イスラム世界には不穏な空気が漂っていました。ムアーウィヤが死に、息子のヤズィードがカリフを世襲すると、ウマイヤ家をよく思わない勢力はただならぬ様子でした。ムアーウィヤの遺言にあったように、アリーが拠点を置いていたイラクのクーファでは、預言者ムハンマドの血を受け継いでいるフサインの方がカリフに相応しいと考えるシーア派勢力が強かったため、本当に反乱の準備をしていたそうです。そして、フサインもこれに応えるべく、少人数でクーファに向かっていました。」
日本史好きおじさん
「ムハンマド一族のウマイヤ家に対するリターンマッチですな。」
big5
「ところがそうはならなかったんです。ヤズィードはムアーウィヤの遺言を聞いて警戒を強めていたため、クーファの反乱準備は実行前に露見してしまい、たちまちヤズィードが派遣した3000の軍に制圧されてしまいました。ヤズィードは、軍にフサインを捕えるように命令を下します。
その頃、フサインは72人の部下を率いてクーファ近くのカルバラー砂漠まで来ていました。ヤズィードの3000の軍は、フサイン一行を襲撃して、全員を殺害してしまいました。これが、カルバラーの悲劇とよばれる事件です。3000人と72人ではまともな勝負にはならなかったので、実際は一方的な殺戮だったとも言えます。そのため、カルバラーの虐殺とも呼ばれます。」
名もなきOL
「ちょっと待ってください、ヤズィードはフサインを捕えることを命令していたのですよね?なぜ軍は殺害してしまったのでしょうか?」
big5
「そこは私もまだ調査中なんです。命令が伝わっていなかったのか、伝わっても誤解されたのか、襲撃の混乱のなかで意図せず殺してしまったのか、わかりません。
ただ、ヤズィードのこの後の処理も物議を醸す内容でした。生き残ったフサインの家族は捕らえられ、全財産を没収されたうえに、身分を奴隷落とす、という処分が下されました。」
高校生A
「ムアーウィヤの遺言をまったく守っていないですよね。全然大切にしていない。」
big5
「そのため、シーア派にとってカルバラーの悲劇は決して忘れてはならない歴史事件となりました。現在でも、カルバラーの悲劇が起きた日に「アーシュラ(アシュラ or アーシュラー、ともいう)宗教行事が行われています。参加者は自身を刃物で揃ったり鞭を打って傷つけ、血を流しながら歩く、という内容です。You tubeで関連動画を見ることができます。こちらがそのうちの一つです。」

名もなきOL
「あ、それテレビで見たことあります。何でこんなことしてるのかわからなくて、怖かったです。」
big5
カルバラーの悲劇は、シーア派のみならず、スンナ派からも激しく批判されました。預言者ムハンマドの子孫に過酷過ぎる、ということでヤズィードはかなり非難されました。おそらくヤズィードは、ウマイヤ家に逆らう者達がどうなるのか、見せしめにして人々を畏怖させようとしたのでしょう。しかし、多くの人々は畏怖するのではなく、ウマイヤ家の横暴に怒りを覚えたわけですね。」
日本史好きおじさん
「うーむ、褒められる話でないことは確かですが、そこまで批判されることでしょうか?と疑問に感じるのが正直な感想です。シーア派が怒るのは理解できる。しかし、スンナ派から見れば、自分達のカリフが反乱を未然に防いだまでのことなのでは?」
big5
「一つの考え方ですが、らくだの戦いの戦後処理と比べてみましょうか。らくだの戦いは、カリフであるアリーに対してアーイシャらが起こした反乱です。これは戦闘も行われました。しかしアリーは捕らえたアーイシャを叱責するに留め、生命は取っていません。反乱の首謀者であるにもかかわらず、です。アーイシャが女性だった、ということもあるでしょうし、ムハンマドの元妻という立場も考慮されたのでしょう。イスラム社会における特別な地位の高さは、フサインにかなり近いと思います。これと比べると、フサインはかなり厳しく処罰されていると考えられます。」
名もなきOL
「それだけ批判されたのなら、その後何か起きたのですか?」
big5
「ヤズィードのやり方が酷すぎる、ウマイヤ家はカリフの地位を私物化している、と怒った人々らが聖地メッカで武装蜂起して占領。メッカに籠城してヤズィードが派遣した鎮圧軍と攻防戦を繰り広げる、という内乱が起きています。と、この話は、またの機会ということで、そろそろ「イスラムの誕生」のまとめに入りましょうか。
イスラム教はムハンマドが布教を始めてから、短期間のうちに軍事力を用いて中東方面を制覇し、アラブ帝国と呼ばれるイスラム文化圏を形成しました。しかし、後継者争いで内乱状態となり、誰が正統な指導者なのかの考え方の違いからスンナ派とシーア派という2大派閥が生まれました。このように、イスラム世界の基礎はこの時期に既に形成され、現在まで続いているわけです。
もちろん、イスラムの歴史はまだまだ続きます。王朝の交代劇や、ギリシャ・ローマ文明の継承と更なる発展を遂げた全盛期、そして近代化に遅れを取って欧米諸国に侵略される衰退期と、興味を惹かれるトピックはたくさんあります。これらについてはまたの機会に。それでは皆様、お疲れ様でした。」

スンナ派 シーア派への分裂 略年表    
680年
4月ムアーウィヤ死去
10月10日カルバラーの悲劇

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