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大戦後の世界

冷戦の始まり

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「今回の主題は冷戦の始まりと題しまして、第二次世界大戦後すぐに始まったアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営の対立の始まりの歴史を見ていきます。

まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。

年月 冷戦関連イベント その他のイベント
1945年 6月5日 ドイツの4分割管理始まる
8月2日 ポツダム協定
1946年 3月5日 チャーチルの「鉄のカーテン」演説
1947年 3月 トルーマン=ドクトリン 冷戦の本格化
1948年 2月 チェコで共産党によるクーデター
3月 ブリュッセル条約(西ヨーロッパ連合条約)締結
6月 ドイツ通貨改革を強行 6月24日 ソ連がベルリン封鎖⇒空輸開始
1949年 1月25日 ソ連がコメコン結成
4月4日 NATO(北大西洋条約機構)発足
9月7日 西ドイツ(ドイツ連邦共和国)成立
10月1日 中華人民共和国 建国宣言
10月7日 東ドイツ(ドイツ民主共和国)成立
1950年 2月 中ソ友好同盟相互援助条約
6月25日 朝鮮戦争 開戦
8月10日(日)警察予備隊発足
1951年 9月8日 サンフランシスコ講和条約&日米安全保障条約
1952年 8月 警察予備隊が保安隊に改組される
1953年 7月 朝鮮戦争 終結
1954年 保安隊が自衛隊に改組される

ドイツの4ヶ国分割管理

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「1945年5月7日、ドイツが無条件降伏した後、ヤルタ協定に基づいてドイツは4ヶ国によって分割管理されることとなりました。4ヶ国とはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4ヶ国です。ドイツと戦った主要4ヶ国ですね(フランスは早々に降伏していましたが)。この4国の司令官は6月5日に「ベルリン宣言(四国宣言)」を出し、ドイツと首都のベルリンを4国で分割して管理することを発表しました。」

Occupation map of Germany after WW2
4国+ポーランドによって分割管理されたドイツ

Occupied Berlin
首都ベルリンの4国分割

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「世界史初心者が誤解しやすいのが、ドイツが4分割されただけでなく、首都ベルリンも4分割された、ということです。ベルリン4分割は覚えていても、ドイツ全体も4分割されたことは知らない人が多い気がします。ベルリンは東側に位置しており、管理区域ではソ連エリアになるのですが、首都ベルリンは特別扱いで、ベルリンは別に4分割されました。なので、イギリス・フランス・アメリカのベルリン管理区域は飛び地になっていました。これが、後の事件の下地になります。
8月2日のポツダム会談では、「占領下のドイツは一つの経済単位として扱う」とされたので、4国は管理理事会を設置して共同管理に当たったのですが、この時から既にアメリカとソ連の対立はくすぶり始めていました。そもそも、資本主義と社会主義では経済に対する考え方が根本的に違います。両者が歩み寄ることは不可能であり、この4国が共同して管理する、という体制自体に既に無理がありました。」

1946年3月5日 チャーチルの「鉄のカーテン」演説

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「戦後間もない1946年、既に資本主義陣営と社会主義陣営の対立関係は明白になっていました。それを象徴しているのが、前イギリス首相チャーチルによる鉄のカーテン演説です。(※この時、チャーチルは選挙に敗北していたので「首相」ではありませんでした)」

Photograph of President Truman waving his hat and Winston Churchill flashing his famous "V for Victory" sign from the... - NARA - 199350
1946年3月、鉄のカーテン演説が行われた米国ミズーリ州へ向かうチャーチル(左のVサイン)右は米国トルーマン大統領

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「鉄のカーテン演説とは、ソ連が東ヨーロッパ諸国の共産主義政権を統制し、西側の資本主義陣営と敵対している状況を批判した演説です。「鉄のカーテン」という言葉が登場するのは以下の一節です。

バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた
(原文:From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic, an iron curtain has descended across the Continent.)


チャーチルの「鉄のカーテン」演説は、冷戦の幕開けを告げる演説であった、と後世の歴史家は評価しています。」

トルーマン・ドクトリン 1947年3月

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「チャーチルの鉄のカーテン演説の後、資本主義陣営と社会主義陣営の争いは深刻化していきました。これを受けて、資本主義陣営のリーダーであるアメリカ合衆国の大統領・トルーマン(1884-1953年 Harry S. Truman)が、アメリカ議会に向けて「社会主義陣営を封じ込める」という政策方針を発表したのがトルーマン・ドクトリンです。」

Harry S. Truman, ca. 1947
トルーマン 撮影日:1947年

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「トルーマン・ドクトリンは共産党勢力の拡大をあらゆる方法で防ぐ、という主旨であったので「封じ込め政策」と呼ばれたりします。トルーマン・ドクトリンが発表される前、ソ連は社会主義陣営拡大のために、トルコやギリシアにも干渉して社会主義国に体制変更させようとしていました。ギリシアでは共産党勢力と王党派の争いで内戦になっていたのですが、ソ連は当然のように共産党を支持。イギリスは王党派を支持していたのですが、形勢不利となったため、撤退しようとしていました。ここでイギリスが撤退したら、ギリシアまで社会主義国になってしまう、と危惧したトルーマンは、イギリスの代わりにギリシアを支援することを決定しました。
このように、トルーマンはこの後に登場するマーシャル・プランNATO(北大西洋条約機構)の結成など、資本主義陣営の結束を強化し、社会主義陣営の拡大を阻止する政策を打ち出していくことになります。
そのため、トルーマン・ドクトリンは、冷戦の宣戦布告のようなもの、と例えられることも多いです。」

マーシャル・プラン 1947年6月5日

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「トルーマン・ドクトリンを代表する最初の政策が、国務長官マーシャルが発表したヨーロッパ経済復興援助計画がマーシャル・プランです。ヨーロッパ経済復興のために、アメリカが大規模な経済援助を提供し、ヨーロッパ諸国の経済を安定させることで共産主義勢力の浸透を防止することが狙いでした。これは「封じ込め政策」の一環です。
ヨーロッパの西側諸国はマーシャル・プランを受け入れ、翌年のヨーロッパ経済協力機構(OECC)の発足に繋がりました。しかし、既にソ連の影響力が強かった東ヨーロッパ諸国は拒否。逆に、コミンフォルム(共産党情報局)を結成して対抗し始めました。
一方で、東ヨーロッパ諸国でも、異なる動きを取った国が2国ありました。一つはティトー率いるバルカン半島のユーゴスラヴィアです。ユーゴスラヴィアは社会主義ではあるものの、ソ連とは異なる独自路線を歩み始めてソ連と仲違いしたため、1948年にコミンフォルムから除名されました。
もう一国はチェコスロヴァキアです。一度はマーシャル・プラン受け入れを表明したのですが、国内の共産党とソ連の圧力がかかり、1948年2月に共産党によるクーデターが発生。共産党政権が成立し、マーシャル・プランの受け入れを撤回しました。
チェコスロヴァキアがクーデターで社会主義国に変化したことは、イギリス前首相のチャーチルに大きな影響を与えました。これが次のイベント、西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)に繋がります。」

西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約) 1948年3月

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「チェコスロヴァキアの共産主義化に驚いたチャーチルは、これに対抗するために西側諸国で同盟を結成しました。1948年3月、英仏にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国を加えた五カ国で、西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を締結し、集団防衛体制を整えました。この同盟の目的は、もちろん共産主義勢力からの防衛です。
しかし、このようなあからさまな同盟構築はソ連の怒りを買いました。ドイツは4カ国分割管理が続いていましたが、ソ連は管理理事会から脱退し、冷戦は本格化していきます。」

ベルリン封鎖 1948年6月24日

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「本格化する冷戦を象徴づけた事件が、1948年6月24日から始まったベルリン封鎖です。ベルリン封鎖の直接の引き金となったのは、米英仏管理区域における通貨改革(旧通貨ライヒスマルクから新通貨ドイツマルクへの切り替え)の断行でした。ドイツが戦後復興するためには、価値が著しく下落している旧通貨ライヒスマルクから、新通貨へ切り替えることが必須と考えられていました。ポツダム会談でも「ドイツを経済的に一体とみなす」と宣言されていたのですが、東西対立の深刻化により、ドイツを一体として管理することは事実上不可能となっていました。
米英仏がソ連に内緒で新通貨を導入したことに対し、ソ連はベルリン封鎖。西ドイツからベルリンに繋がるすべての道路、鉄道、水道はすべて閉鎖されました。」

Berliners watching a C-54 land at Berlin Tempelhof Airport, 1948.
西ベルリンのテンペルホーフ空港に着陸するC-54輸送機と見上げるベルリン市民 撮影年:1948年
 

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「これに対し、アメリカとイギリスは封鎖されたベルリンに、必要な物資を空輸で運ぶ、という作戦で対抗しました。輸送機を大量に動員し、西ベルリン市民の生活必需品を毎日何度も空輸で運びました。ベルリン封鎖は1949年5月12日に終了したのですが、空輸はしばらく継続して行われ、約15か月間、延べ27万回、輸送量183万t史上最大規模の空輸作戦が実行されました。」

コメコン(経済相互援助会議) 1949年1月25日

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「一方、ソ連も西側陣営の経済政策に対抗するため、東ヨーロッパの社会主義国を集めてコメコン(COMECON 経済相互援助会議)を結成しました。原加盟国はソ連、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの6カ国で、その後モンゴルやベトナムなどを加えて10カ国になりました。コメコンは1991年まで42年間続いたのですが、ソ連の強引な役割分担によってソ連だけが得をするような組織となってしまったため、途中からほぼ機能しなくなっています。」

NATO(北大西洋条約機構)と東西ドイツ分断 1949年

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「深刻化する東西対立の結果として成立したのが有名なNATO(北大西洋条約機構)です。「北大西洋条約機構」という日本語訳では、どういう組織なのかイメージがつかみにくいと思います。簡単に言えば、NATO加盟国が第三国から攻撃を受けた場合、NATO加盟国全体がその第三国に反撃する、という、西側諸国の防衛同盟です。NATOの仮想敵国はもちろんソ連とその傘下の社会主義諸国です。NATOには、イギリスやフランスのような西欧諸国だけでなく、アメリカとカナダも加わっていることが特徴です。
なお、NATOの原加盟国は以下の12カ国です。
アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ポルトガル、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、イタリア、デンマーク、ノルウェー、アイスランド
ソ連にとって、NATOの結成は当然のように反発し、東西対立は抜き差しならない事態となりました。この結果、4国分割管理となっていたドイツの統合は不可能となり、ドイツは東西に分断されることとなります。
1949年9月7日、西側のドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)として建国されました。首都はボンです。これに対抗するかのように、1か月後の1949年10月7日には東側のドイツがドイツ民主共和国(東ドイツ)として建国されました。
東西対立の結果としてドイツは東西に分断され、1991年に再統一されるまでの間、分断国家としての歴史を歩むことになりました。」

中華人民共和国の成立と朝鮮戦争

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「上記のように、冷戦はヨーロッパ方面における資本主義国と社会主義国の対立によってエスカレートしていったのですが、アジアにおいても東西対立が生じました。1949年の中華人民共和国の建国と、朝鮮戦争です。
1949年10月1日、国共内戦を制した中国共産党の毛沢東が、北京の天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言しました。突如、東アジアに現れた大きな社会主義国家は、その後の歴史に大きな影響を与えることになります。ソ連と中国は、同じ共産党でも考え方に違いがあったため、それほど友好的ではなかったのですが、冷戦真っ最中の当時は、共通の敵に対して連携しました。1950年2月には中ソ友好同盟相互援助条約を締結しています。」

Mao Zedong's Proclamation of The People's Republic of China during a Speech on October 1, 1949.
建国宣言を読み上げる毛沢東 撮影日:1949年10月1日

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「西側陣営は、台湾に逃れた資本主義を掲げる中国国民党を支持していたため、中国をすぐには承認しませんでした。ただし、一国だけ例外的に1950年に中国を承認した国があります。それは、イギリスです。当時のイギリス首相・アトリーは、植民地の香港を維持するために、中国を承認しています。この違いが、後のサンフランシスコ講和会議でも話が複雑になる原因の一つになります。
それから間もない1950年6月25日、朝鮮戦争が始まります。意外なことに朝鮮戦争のきっかけはよくわかっていません。朝鮮では、冷戦の影響を受けて1948年に北側に金日成(キム・イルソン )が社会主義国である朝鮮民主主義人民共和国を建国し、南側では李承晩(イ・スンマン )が資本主義国である大韓民国を建国し、南北に分断されました。両国が対立する中で、金日成が軍隊を送り出して韓国に侵攻することで朝鮮戦争が始まりました。国連の安保理は緊急会議を開催し、北朝鮮に撤退を勧告することを決議しました。なお、常任理事国であるソ連は、中国代表権問題(中国を代表するのは共産党の中国か、それとも台湾の中国か)で揉めていたのでボイコットしています。戦況は北朝鮮が圧倒的に優勢だったため、トルーマン大統領は米軍単独で参戦することを決定しました。この米軍の司令官に任命されたのが、マッカーサーです。」

general of the army Douglas MacArthur smoking his corn cob pipe
マッカーサー 撮影日:1945年8月2日 

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「こうして、マッカーサーは日本から離れ朝鮮に向かうことになりました。朝鮮に向かう米軍は一番近い日本に駐留していた部隊が向かうことになりました。そのため、日本に置かれている軍事力は手薄になります。そこで、マッカーサーは日本に警察予備隊(後の自衛隊)を設立することを命じています。
北朝鮮軍は、一時韓国南端の釜山まで占領地を広げ、完全勝利は目前だったのですが、米軍の参戦によって形勢は逆転。逆に平壌を攻略されて、敗北寸前まで追い込まれるのですが、10月19日に建国されたばかりの中華人民共和国が大量の援軍を送り出したため、反撃され、北緯38度線のあたりで戦線膠着状態となりました。結果、1953年7月27日に板門店で休戦条約が結ばれ、朝鮮戦争は終結しました。

こうして、第二次世界大戦が終結して間を置くことなく、資本主義陣営と社会主義陣営は対立を始めて、冷戦が始まりました。その中でも朝鮮戦争は、それぞれの陣営に所属する国同士の戦いで、アメリカと中国がそれぞれ援軍を送って戦った「熱い」戦争ということで、たいへん重要です。

戦争中の講和条約 サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約 1951年9月

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「朝鮮戦争中の1951年9月4日、アメリカのサンフランシスコにて、第二次世界大戦における日本と連合国51ヵ国の講和会議が開催されました。この時、日本の代表として参加したのが首相の吉田茂(よしだ しげる 1878〜1967年 この年73歳)です。」

Japan′s most famous post war politician, Prime Minister Yoshida Shigeru.
吉田茂 撮影年:1950年 

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「講和会議と言っても、昔のウィーン会議やヴェルサイユ会議とは異なり、内容は事前にほぼ決まっていたようで、会議は五日間の日程で終わり。9月8日にサンフランシスコ平和条約が日本と連合国48か国の間で調印されました。さて、会議では51カ国だったのに、調印で48カ国と、3国減っていることに気づいたでしょうか?会議中、ソ連は、樺太・千島におけるソ連の主権を認めること、台湾における中華人民共和国の主権を認めること、日本にはどの国の軍隊も駐留しない事、その代わりに日本に自衛のための軍隊を設置すること、などを提案しましたが、すべてアメリカ大統領トルーマンが却下したため、傘下のポーランドとチェコスロヴァキアと共に署名を拒否したため、という背景があります。
また、中国代表権問題については、中華人民共和国も中華民国(台湾)も会議に呼ばれていません。イギリスは中華人民共和国を承認していましたが、アメリカは承認していない、というズレがあったので、どちらも呼ばれない、という結果になりました。

サンフランシスコ平和条約調印後、場所を変えて日本とアメリカの間で日米安全保障条約が締結されました。現代まで継続している「日米安保」ですね。最初の日米安保の主な内容は
@武装解除されて「警察予備隊」しかいない日本では自衛できないので、暫定的に日本は米軍の駐留を希望し、米軍はこれを受諾する。
A日本に駐留する米軍の第一の任務は、内乱や騒擾の鎮圧である。
B日本は自国の防衛のために、漸増的に自らの責任を負う。
この内容は、21世紀になっても継続され、日本に米軍が駐留しているわけですね。Bに日本が漸増的に自衛力を強化するとあるため、翌年の1952年8月に警察予備隊が保安隊に改組され、管轄省庁として保安庁が設置されました。また、海上部門も追加されています。そして、1954年に自衛隊となり現在に至ります。


というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」







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