Last update:2025,JUL,26

中世(前半)

第1回十字軍

導入

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「今回のテーマは十字軍(Crusaders)です。十字軍は中世を代表する歴史イベントであり、その後の歴史の転換点となった重要イベントです。十字軍は複数回行われていますが、一番重要なのがこの第1回十字軍になります。
まずは年表から見ていきましょう。」

1099 Siege of Jerusalem
エルサレム攻囲戦 制作年:推定14世紀 制作者:不明

年月 十字軍のイベント 他地方のイベント
1095年 クレルモン公会議にて教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱
1096年 第1回十字軍 出発
1099年 十字軍がエルサレムを攻略する
1101年 1101年の十字軍
1113年 聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)成立
1115年 女真人が金を建国
1119年 テンプル騎士団成立
1130年 ノルマン人がシチリア王国建国
1157年 大セルジューク朝 滅亡
1167年 平清盛が太政大臣となる
1190年 ドイツ騎士団成立

第1回十字軍

クレルモン公会議とウルバヌス2世の演説

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「11世紀に入り、東方でセルジューク朝が台頭しはじめると、ビザンツ帝国は再び衰退していきました。十字軍のきっかけはここから始まりました。ビザンツ帝国のコムネノス朝の開祖であるアレクシオス1世(Alexios 1048?/1056〜1118年 在位:1081〜1118年)は、セルジューク朝の脅威から国を守るために、大規模な援軍を西ヨーロッパに要請しました。これを受け、ローマ教皇のウルバヌス2世(Pope UrbanII 1042〜1099年 在位:1088〜1099年)は、1095年、フランスのクレルモンで開催されたクレルモン公会議で、ビザンツ帝国の援軍要請に応え、異教徒から聖地エルサレムを奪還すべき、と呼びかけました。この呼びかけに多くの騎士や民衆は割れんばかりの大歓声で応え、大軍勢が編成されることになりました。この時のウルバヌス2世の演説内容は以下のようなものだった、と伝えられています。

「最愛の同胞諸君。至上者たる法王にして、神に許されて全世界の最高聖職につくわたくし、ウルバヌスは・・(中略)・・あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らねばならない。・・・その理由は、トルコ人がかれらを攻撃し、またローマ領の奥深く・・・進出したからである。」
(出典:「十字軍」 著者:樋口倫介 岩波新書)

Urbano II (Francisco de Zurbaran)
ウルバヌス2世 制作者:Francisco de Zurbaran (1598?1664) 制作年:1655 / 1630

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「また、ウルバヌス2世は聖地エルサレムがあるパレスティナ方面を「乳と蜜が流れるパレスティナ」と表現しました。つまり、パレスティナはたいへん豊かである、と言ったわけですね。この演説に対し、多くの諸侯や騎士が敬虔なキリスト教徒の責務として、遠征軍に加わりました。もちろん、十字軍に参加したのは宗教的な理由ばかりではありませんでした。争いの中で土地を失ってしまった騎士や、貧しい下層民の若者などにとっては、人生大逆転の可能性を秘めた一世一代の大勝負でもありました。宗教上の大義名分に加え、このような社会事情もあったために、第1回十字軍は4個の軍団から編成され、合計で騎士4,500人、歩兵3万人の大軍勢となりました。
第1回十字軍の派遣を決定したクレルモン公会議が開催された1095年は、重要歴史年号なので暗記しておきましょう。有名な語呂合わせがあるので記載しておきます。

とおく(109)へご(5)出発、第1回十字軍

第1回十字軍とエルサレム攻略

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「クレルモン公会議で十字軍が呼びかけられたのは1095年ですが、その後軍の召集に時間がかかりましたので、実際に遠征に出発したのは翌年の1096年のことでした。結論から言いますと、第1回十字軍は成功し、聖地エルサレムを奪還した、となります。受験対策であれば、その過程について知る必要はほぼないのですが、せっかくなので概要には触れておきましょう。
まず、十字軍はビザンツ帝国に向かいました。十字軍というとエルサレム奪還が目的、というイメージが強いのですが、第1回はビザンツ帝国の救援も目的の一つです。大軍の援軍を得たアレクシオス1世は、十字軍に自らへの忠誠の要求と、十字軍が今後占領する領土はすべてビザンツ帝国に返還する、という約束をさせようとしました。しかし、多くの十字軍参加者にとっては奇妙な話です。彼らの目的は、聖地奪還と自らの栄達であり、ビザンツ皇帝の臣下としてその土地を取り返すことではありませんでした。ビザンツ側は忠誠を誓わないと補給物資も提供しない、という強い態度に出たため、十字軍は渋々忠誠を誓いました。そして、ビザンツ帝国軍と十字軍が共にアナトリア半島に入ってルーム・セルジューク朝の領土に攻め込むのですが、すぐに仲違いしてビザンツ帝国軍は帰り、遠征は十字軍だけで続行することになりました。この時の戦いは、こちらの動画で詳しく紹介していますので、ぜひ見てみてください。」



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「エルサレム包囲戦もたいへんな苦戦を強いられましたが、1099年、ついにエルサレムが陥落。十字軍兵士らは狂乱してエルサレムになだれ込み、宗教的な達成感と幸福感に浸りながら、異教徒に対して殺戮と略奪の悪行を繰り返しました。宗教戦争の恐ろしさを表現していますね。」




民衆十字軍

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「さて、ここまで見てきた第1回十字軍は、貴族や騎士達が率いた、いわば正規の十字軍でした。その一方で、正規の十字軍ではない、一般の民衆が宗教的情熱に動かされて大群となって聖地へ向かった民衆十字軍がありました。
民衆十字軍は、一般庶民で構成されていますので、要するに戦の素人です。なので、戦争の進め方や準備などは何も知らず、道すがら略奪をしながら、ただただ聖地を目指して進みました。彼らにとっては、聖地奪還という大義名分に基づいた正義の行動ですが、略奪される方から見れば、巨大な野盗の集団と変わりません。結果として、民衆十字軍はイスラム教圏に入る前に壊滅してしまったり、アナトリア半島に入ったものの、ルーム・セルジューク軍に滅ぼされてしまうなど、悲惨な結果となりました。」

十字軍国家と1101年の十字軍

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「エルサレムを占領した十字軍は、功を挙げて土地を得た一部の騎士を残し、多くの参加者が国に帰りました。占領地域には、手柄を上げた騎士たちが報酬として自分たちの土地を手に入れました。これらは十字軍国家と呼ばれ、以下の4つが大きな十字軍国家です。

@エルサレム王国(1099〜1289年)
名前の通り、エルサレムを首都とした王国。およそ200年に渡ってキリスト教徒の拠点となった。イスラム世界の英雄・サラディンと激闘を繰り広げた。映画「キングダム・オブ・ヘブン」でも有名。

Aエデッサ伯国(1098〜1146年)
エルサレム王の封臣であるエデッサ伯の国。地中海沿岸ではない内陸部にあり、イスラム勢力との最前線となった。十字軍国家の中では一番短命で1146年にイスラムのザンギ―朝に滅ぼされ、第2回十字軍のきっかけとなった。

Bアンティオキア公国(1098〜1268年)
地中海東岸北部の重要拠点・アンティオキアを都とした国。1098年、アンティオキア攻略で手柄を立てた南イタリアのノルマン人(つまりヴァイキングの子孫)・ボエモンが建国。ちなみに、ボエモンはアンティオキア獲得が決まった時点で十字軍から離脱して自分の所領掌握に専念したので、エルサレム攻略には参加していない。
エルサレム王国より少し早い1268年、イスラム勢力のバイバルスに滅ぼされた。

Cトリポリ伯国(1102〜1289年)
地中海東岸に面した重要港湾都市・トリポリを中心とした国。第一回十字軍に参加した南仏のトゥールーズ伯レーモンが1102年にトリポリを攻略して領主となった。

これらの十字軍国家のその後については、この後の中東方面の歴史で改めて見ていくことにしましょう。
そしてもう一つ、第1回十字軍の陰に隠れがちですが1101年の十字軍についても見ておきます。順番的には第2回になりますが、第2回十字軍とナンバリングされることなく、「1101年の十字軍」と呼ばれます。1101年の十字軍は、十字軍国家を支援するために援軍として送られた十字軍です。主な参加者は、第1回十字軍に参加していない or 途中で離脱した人たちで、周囲の圧力をかけられて参加した、という経緯がほとんどだったそうです。総勢20万人と言われており、数では第1回の6倍以上になります。さらに、既に目的地には味方がいるため、第1回十字軍よりは危険度が下がっているように思えましたが、実際は大失敗でした。途中でルーム・セルジューク朝に攻撃にあって大敗し、十字軍国家までたどり着けたのはわずか1%相当の2,000人程度だったそうです。第2回、とナンバリングされずに影の存在となってしまった理由は、結果が大失敗だったからなのではないか、と思います。」

宗教騎士団の誕生

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「十字軍の副産物として重要なモノの一つが宗教騎士団です。騎士団というと、映画やゲームに登場する、王国とは違った優秀な騎士の集まりで精鋭部隊、というイメージがありますが、実態はやや違います。宗教騎士団は「騎士修道会」とも呼ばれ、騎士が修道士を兼ねており、主に聖地とその周辺を守る目的で結成された組織です。十字軍の後に生まれた騎士団の中でも、聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)テンプル騎士団ドイツ騎士団の3つが三大騎士団として有名です。他にも、イベリア半島にも騎士団が結成されましたが、ここでは省略します。

@聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団) 1113年結成
元々は1070年代にエルサレム市内の聖墓教会に隣接するキリスト教徒居住区にあった聖ヨハネ病院(兼修道院)。巡礼者や居住区のキリスト教徒に医療を施していた。第1回十字軍の際、ジェラールというフランス人修道士が、十字軍と連携して手柄を立てたことで有名になり、1113年に時の教皇・パスカリウス2世に認められて、聖ヨハネ病院を独立した修道会となった。
1291年に十字軍国家が壊滅した後、キプロス島に下がって抵抗を続け、さらにその後はギリシアのロードス島に移動してオスマン帝国などに抵抗活動を継続。さらにその後は地中海のマルタ島に逃れて活動を続けた。今も続いており、慈善活動などを行っている。
Flag of the Order of St. John (various)
聖ヨハネ騎士団の旗


Aテンプル騎士団 1119年結成
映画やゲームなどで、なぜか悪役として登場することが多い。名前を聞いたことがある人も多いはず。1118年、フランスのシャンパーニュ出身の騎士であるユーグ・ド・パイヤンがエルサレムに至る巡礼路の警備に挺身したことが始まりで、翌年の1119年に騎士団となった。「テンプル騎士団」の名前の由来は、エルサレム王ボードワン2世によって、騎士団の宿舎としてソロモンの栄華で有名なソロモン神殿(テンプル)の跡をあてがわれたこと。1128年、教皇から「キリストの貧しき騎士にしてエルサレムなるテンプル騎士修道会」として、教皇直属の騎士修道会となった。
十字軍国家壊滅後も、ヨーロッパ各地の支部で金融業などを行って政治力を保っていたが、フランスのフィリップ4世によtって1312年に解散させられた。

Flag of the Knights Templar
テンプル騎士団の旗


Bドイツ騎士団 1190年結成
3大騎士団の中では一時代遅い1190年結成の騎士団。第3回十字軍の際に、アッコンにてリューベックとブレーメンの商人が建てた病院が起源。その後、ドイツ諸侯が保護して発展させ、1198年に教皇の承認を受けた。ただ、聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団と異なり、聖地での活動はあまりなく、むしろ本部をドイツにおいて東方植民を熱心に進め、東欧の歴史に名を刻むことになった。

Insignia Germany Order Teutonic
ドイツ騎士団 14世紀に使われた紋章

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「こうして、第1回十字軍は聖地・エルサレムを攻略し、十字軍国家を建設することに成功しました。十字軍を提唱した教皇の政治力も大いに増し、西ヨーロッパ世界では教皇と教会がさらに力をつけることになりました。
しかしこの十字軍運動によって、中世封建社会は少しずつ変質していくことになり、中世は後半の時代に突入していくことになります。この後の展開はまた改めて。」


大学入試 共通テスト 過去問

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