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第二次世界大戦

ファシズムの台頭

導入

big5
「今回のテーマはファシズムの台頭と題しまして、世界恐慌の後にドイツ・イタリアでファシズムが台頭してきた歴史を見ていきます。言い換えれば、第二次世界大戦へと続く時代の歴史ですね。」
名もなきOL
「この辺りの話、怖いのが多いから苦手です。」
big5
「そう感じるのも無理はありませんが、この時代の歴史を学ぶことは大きな意味があります。例えば、ナチスがどのようにしてドイツを牛耳るようになったのか、知ることはとても大事です。同じ過ちを繰り返さないためにも。ヒトラー率いるナチスは、当初は合法的に選挙で勝って議席を増やし、最後は策略と脅迫で国を乗っ取りました。これは、最初からクーデターを起こしたイタリアのムッソリーニや、明確なリーダーを持たなかった日本の軍国主義とはまったく異なる方法でした。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょうか。」

年月 ナチス・ドイツのイベント 他地方のイベント
1932年 7月 総選挙でナチスが第一党となる (日)五・一五事件
1933年 1月 ヒトラー内閣成立
2月27日 国会議事堂放火事件
3月24日 全権委任法(授権法)成立
10月14日 ドイツが国際連盟脱退
3月 日本が国際連盟脱退
1934年 8月 ヒンデンブルク大統領死去 ヒトラーが総統となる
1935年 1月 ザール地方ドイツ復帰
3月 再軍備宣言
6月 英独海軍協定締結
4月 英仏伊がストレーザ戦線を結成
10月 イタリアがエチオピア侵攻開始
1936年 3月 ラインラント進駐
8月 ベルリンオリンピック 開催
8月 スペイン内戦に介入
10月 ベルリン・ローマ枢軸の成立
11月 日独防共協定
2月 二・二六事件
5月 イタリアがエチオピア併合
7月 スペイン内戦勃発
1937年 11月 日独伊防共協定 7月 日中戦争 開戦
12月 イタリアが国際連盟を脱退
1938年 3月 オーストリアを併合
9月 ミュンヘン会談とズデーテン地方併合
4月 イタリアがアルバニアを併合
5月 独伊同盟
1939年 3月 チェコスロヴァキアを解体
5月 独伊軍事同盟
8月 独ソ不可侵条約
4月 イタリアがアルバニア侵攻
5月 ノモンハン事件

選挙で広がったナチス支持

big5
「さて、まずはナチスはドイツ国内で支持を広げていった、という話から始めましょう。日本で五・一五事件が発生して騒然とした空気になってから間もない1932年7月、ドイツ(当時はヴァイマル共和国)で総選挙が行われた結果、ヒトラー率いるナチスが第一党となりました。議席獲得率は38%なので、ナチスだけで過半数を取ったわけではないのですが、それでも選挙でここまで躍進できた、という点がナチスの特徴の一つなんです。」
名もなきOL
「なんか意外ですね。日本の軍国主義化みたいに、ナチスもテロ事件とかクーデターで政権を乗っ取ったイメージがあったので。」
big5
「ちなみに、ナチスも最後はクーデターもどきをやっています(後で説明します)。ですが、クーデターやテロなどを行わなくても、ドイツ国民からある程度支持を得ていた、と言う点は重要ですね。なぜ、あのナチスがドイツで支持を得ることができたのか、主だった理由をいくつか考えてみましょう。

@ヒトラーは演説が上手く、聴衆の気持ちを惹きつけることに長けていた。
Aドイツの現状は、アメリカ・イギリス・フランスによって作り上げられたヴェルサイユ体制のせいだ、と主張して支持を得た。
Bソ連と共産党を敵視し、資本家や地主層からも支持を得た。
C社会政策の充実を訴え、中間層や労働者階級からも支持を得た。

というところですね。」
名もなきOL
「@はテレビ番組で見たことあります。Aは当たり前と言うか、戦争に負けたので仕方ない部分はあると思いますが、桁外れの賠償金の金額とか、は不満を持たれても仕方ないかな、と思います。BとCは初めて聞きました。そうだったんですね。」
big5
「Bはヒトラーに限らず、米英仏といった西側諸国が一貫してソ連を警戒していたのと同じですね。特に、ソ連は世界各国に社会主義革命を輸出しようとし、各国で共産党がそれなりの勢力として台頭してきたので、地主や資本家といった人々からはたいへん恐れられました。Cについては、世界恐慌対策ですね。ただでさえ行き詰まりを見せていたドイツにとって、世界恐慌は泣きっ面に蜂です。そのあおりを受けた労働者層は、日々の生活にも苦しむ有様。ナチスの社会政策は、労働者層からも一定の支持を集めました。
続いて、ナチスが第一党となる前、1930年時点でのナチス党員の割合を見てみましょう。
1.労働者:28.1% 2.職員:25.6% 3.農民:14.1% 4.手工業:9.1% 5.商業:8.2% 6.自由業:3.0% 7.教員:1.7% 8.その他官吏:6.6% 9.他:3.6%
これを見てOLさん、何か気づく点はありませんか?」
名もなきOL
「そっか、ナチス党員の職業って、けっこう幅が広いんですね。労働者から教員、商業・工業関係者に教員と、社会のほとんどの階層に党員がいたんですね。」
big5
「そうですね。職業ごとの人口が違うので一概には言えませんが、例えば共産党はほとんど労働者で占められているのに対し、ナチスは労働者の割合は30%弱で、他の職業からも幅広く党員が出ています。つまり、ヴェルサイユ体制、そして世界恐慌を経て行き詰まりを見せていたドイツにとって、ナチスの掲げる政策はドイツ国民の少しずつ浸透していった、ということなんですね。」

ヒトラー独裁への道

big5
「年が明けて1933年1月30日、ヴァイマル共和国大統領であるヒンデンブルクは、ヒトラーに組閣を命じました。こうして、ヒトラーを首相とするヒトラー内閣が成立しました。といっても、この時点ではナチスの単独政権ではなく、保守派との連立政権でした。そのため、閣僚11名のうちナチス党員は3名だけだったんです。このような構成だったヒトラー内閣を、当時の人は「保守派の反発を受けてすぐに崩壊する短命内閣」と見ていたそうです。」
名もなきOL
「あのナチスが、短命政権だ、なんて思われていた時期があったんですね。意外です。」
big5
「ここで、ヒトラーは勝負に出ます。「国民に信を問う」ということで、ヒトラーは議会を解散。3月5日に総選挙を行うことを決定しました。それからしばらく経ち、総選挙を2月27日、国会議事堂放火事件が発生しました。その名のとおり、何者かによって国会議事堂が放火された、という事件です。ヒトラーはこれを共産党員の犯行と断定。容疑者の共産党員を逮捕すると同時に、非常事態を宣言して一切の反政府活動を合法的に取り締まるようにしました。結果、共産党には解散命令が出されました。」
名もなきOL
「これは・・・怪しいかんじが・・・」
big5
「そう思いますよね。私も、これはナチスによる自作自演なのでないか、と思います。しかし、それを証明することはできません。
そして3月5日に予定通り総選挙が行われました。その結果がこちらです。
ナチス:43.9% 中央党:13.9% 社会民主党:18.3% 共産党:12.3% 国家人民党:8.0%

名もなきOL
「ナチスは前回よりも議席を増やしましたね。ヒトラーの思惑通りでしょうか。でも、解散命令が出てるはずの共産党も議席を取ったんですね。」
big5
「そうなんです、ナチスは議席を増やしたとはいえ過半数には及ばず、弾圧したはずの共産党もしぶとく議席を確保することになりました。ヒトラーはこの結果に満足しませんでした。そこで、総選挙から間もない3月24日、全権委任法(別名:授権法)を成立させました。これは、ヒトラー内閣に無制限の立法権を与えるという法律でした。」
名もなきOL
「内閣がかなりの力を持つことになったんですね。あれ?内閣が自由に法律を作ることができるということは、議会はいったい何をするんでしょうか?」
big5
「議会も立法権は維持していましたが、内閣が無制限に法律を作ることができるのなら、議会の立法権など有名無実です。こうして、共和政国家として始まったヴァイマル共和国は事実上崩壊し、ナチスの首領であるヒトラーの独裁国家が実質的に誕生することになりました。
1933年4月には、悪名高いゲシュタポ(秘密国家警察)が創設され、ドイツ国民生活は厳しい統制下に置かれ、ナチスを批判する人々は厳しく弾圧されるようになりました。
同年10月14日には、日本に続いて国際連盟を脱退し(日本の国際連盟脱退は3月)、翌年の1934年8月2日にはヴァイマル共和国大統領・ヒンデンブルクが死去(この年87歳)したことで、ヒトラーは大統領と首相の権力を併せ持つ総統(ドイツ語音訳は「フューラー」)に就任しました。いわゆるヒトラー総統(この年45歳)の誕生です。」

Hitler portrait crop
ヒトラー 撮影年:1938年

big5
「ヒトラーが支配するナチス・ドイツのことを第三帝国と呼ぶこともあります。ドイツにおける三番目の帝国、という意味です。ちなみに第一帝国は神聖ローマ帝国、第二帝国はビスマルクが統一したドイツ帝国、そしてナチス・ドイツの第三帝国、という数え方です。」
名もなきOL
「そして恐ろしい第二次世界大戦へと続いていくんですね。最初はナチスは合法的に支持を集めて、最後の一押しは強引な手法で内閣に立法権を与えることで、国を乗っ取ったわけですね。キライですけど、上手く当時の状況を利用してのし上がったんですね。」

ナチス・ドイツの戦争準備

ザール編入(ザール併合)

big5
「総統となったヒトラーは、着々とドイツの復活と戦争の準備を始めました。まず最初にイベントが1935年1月のザール地方編入(ザール併合、とも)です。ザールとはドイツ西部の一番南でフランス国境沿いにエリアです。フランス・ドイツの争いの歴史にしばしば登場するアルザス・ロレーヌ地方の隣ですね。ザールが重要視されたのは、国境地帯だからというのもそうですが、当時は石炭が採れる炭田があったため、資源面でたいへん重要なエリアだったことです。第一次大戦後、ヴェルサイユ条約でザール地方は国際連盟の管轄となり、15年後に住民投票を行ってフランス・ドイツのどちらに帰属するかを決める、ということになっていました。(参考:世界大戦と平和への試み ヴェルサイユ体制)」

Locator map Saarland in Germany
左下赤のエリアがザール地方

名もなきOL
「元々、この住民投票実施は決まっていたわけですね。その結果、ドイツに帰属することになったわけですね。そういうことならこの結果は仕方ないとは思いますけど、私だったらナチス・ドイツに属するのは絶対イヤだな〜・・。。」
big5
「当然ですよね。ただ、もともと、ザール地方の住民の90%はドイツ系住民だった、ということが大きな理由なのですが、それでも異様さを示していたナチス・ドイツへの帰属が賛成多数で決まったことは、ヒトラーに大きな自信を与えることになります。ザール炭田を獲得したことでドイツの石炭産出量は大きく増加し、さらなる軍備拡充を進めていったんです。」

徴兵制復活 1935年3月

big5
「ザール編入から約2か月後の3月16日、ヒトラーは徴兵制を復活させました。これはよく「ドイツの再軍備宣言」と言われています。これにより、1935年末にはドイツ陸軍の総兵力は70万になり、一躍陸軍大国となっています。」
名もなきOL
「こうなると、もう既にドイツを抑え込むヴェルサイユ体制は崩壊目前ですね。」

ストレーザ戦線による対抗 1935年4月

big5
「このようなナチス・ドイツに対し、イギリス・フランス・イタリアの首脳がイタリアのストレーザで会談を行い、ドイツのヴェルサイユ条約違反に対して共同で抗議声明を発表しました。この緩やかな連帯を地名をとってストレーザ戦線と呼びます。」
名もなきOL
「あれ?イタリアも?英仏はわかりますけど、イタリアの首脳ってムッソリーニですよね?ムッソリーニはヒトラーの仲間なんじゃないですか?」
big5
実は、ヒトラーとムッソリーニは当初はお互いを警戒していたんです。特に、対オーストリア関連では敵対することが多く、ドイツ・イタリアの関係は良くはありませんでした。なので、ストレーザ戦線はナチス・ドイツの暴走を止める勢力として期待されました。ところが、この後の一連の事件の結果、ストレーザ戦線はあっけなく崩壊することになります。」

英独海軍協定 1935年6月

big5
「ストレーザ戦線から一番最初に抜けたのは、なんとイギリスでした。時のイギリスはボールドウィン内閣は、ヒトラーと海軍戦力について以下のように取り決めました。
・ドイツが保有する軍艦はイギリスの33%までとする。
・ドイツが保有する潜水艦(Uボート)はイギリスの65%までとする。
これはつまり、イギリスがナチス・ドイツの軍拡をある程度認めてやることで、ナチス・ドイツに満足してもらおうという宥和政策(ゆうわせいさく)でした。」
名もなきOL
「なるほど。相手の言い分をある程度受け入れたところで妥協する、という考え方ですね。」
big5
「ただ、この宥和政策は大失敗だったことはその後の歴史が示しているとおりです。イギリスから譲歩を得たヒトラーは、さらなる要求を繰り返してさらに譲歩を迫ることになります。例えていうなら、ナチス・ドイツは「飢えた虎」です。飢えた虎が肉を要求するので、そのとおりに肉を与えていればそのうち虎は満足して大人しくなるだろう、と期待したのが宥和政策だったのですが、結果は「飢えた虎は、自分の要求が通ることを知ってますます獰猛になった」でした。
イギリスの単独行動によりストレーザ戦線の連帯にヒビが入り、次の事件であっさり崩壊します。」

イタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争) 1935年10月

big5
1935年10月、イタリアのムッソリーニはエチオピア侵攻を開始しました。この戦争は、1896年の侵攻(そして敗北)を第一次(参考:しのぎを削る列強 分割されたアフリカ)として、第二次エチオピア戦争と呼んだりします。
この時、イタリアはまだ国際連盟に加入していたので、エチオピア侵攻は加盟国から非難され、結果として経済制裁が行われました。具体的にはイタリアに対する輸出禁止が行われたのですが、何を禁止するかについては各国の思惑によって決められない部分も多く、特に軍需品である石油については禁輸項目に入らなかった、という問題点がありました。そのため、この経済制裁にはほとんど効果が無かった、と評価されています。」
名もなきOL
「現代でも、北朝鮮とかに対する禁輸措置が取られていますけど、北朝鮮のミサイル発射は止まりませんし、経済制裁を有効にするってけっこう難しいんでしょうね。」
big5
「そうですね。これは国際連盟という組織の問題点の一つでもありますね。各国が足並みを揃えられなければ効力が発揮できない、というのが国際連盟の問題点だと言えるでしょう。結果的に、イタリアによるエチオピア侵攻を止めることはできず、翌年の1936年5月にイタリアはエチオピア併合を宣言しました。強い国が弱い国を武力で負かして併合する、というのは近代までは当たり前のように考えられてきましたが、1936年になっても堂々と行われたという事実が、第二次世界大戦前の国際状況の一端を示していますね。」

DC-1936-52-d 戦勝を報じるイタリアの新聞 1936年12月27日

ラインラント進駐 1936年3月

big5
「年が明けて1936年3月7日、ヴェルサイユ条約で非武装地帯、ロカルノ条約で国境の非武装が決められていたラインラントに、ヒトラーは突如ドイツ軍を送り込んで占領する、という事件が発生しました。これをラインラント進駐と呼びます。ラインラント非武装地帯は、ヴェルサイユ条約の目玉の一つです。これを実力で踏みにじるという行為は、ヒトラーにとってもかなり勇気のいる決断だったようなのですが、宥和政策によってこれも黙認されました。
これによって、ヒトラーの軍備拡大政策は更なる自信をもって推進されることになりました。10月には四カ年計画と呼ばれる、さらなる軍国主義推進のための経済計画を発表しています。」
名もなきOL
「本当に全然「宥和」されていないですね。「宥和」されるような人じゃないですもんね。」
big5
「7月にはスペインでスペイン内戦が勃発すると、ヒトラーはフランコを支援してドイツ空軍を送り込んでいます。この時、ドイツ空軍が爆撃を行った街の一つが、ゲルニカです。後にピカソが描いて有名になっています。ゲルニカはピカソの有名な絵として知られていますが、政治的にはヒトラーとドイツ軍の実戦演習も兼ねていました。このようにして、ドイツは着々と戦争の準備を整えていったわけですね。

Mural del Gernika
ゲルニカ=ルモ・ムニシピオにある実物大レプリカ 制作者:パブロ・ピカソ 制作年:1937年

その一方で、1936年8月1日にはベルリンオリンピックが開催されています。しかし、これが見せかけだけの平和の祭典だったことは、皆さんご存じのとおりです。よりによって、ナチス・ドイツの首都・ベルリンで平和の祭典が行われた、というのは皮肉な話です。」

日本・ドイツ・イタリア 枢軸国の形成

big5
「スペイン内戦から間もない1936年10月、これまで警戒しあっていたドイツとイタリアは、米英仏とソ連を共通の敵として結託するようになり、テレビ放送で両国の友好と協力関係が盛んに喧伝されるようになりました。この結託をベルリン・ローマ枢軸と言います。
それから間もなく、ドイツは1936年11月にはソ連を共通の敵として日本と日独防共協定を締結。翌年の1937年11月6日には、イタリアも参加して日独伊防共協定となりました。この結果、翌月の1937年12月にはイタリアも国際連盟を脱退。日本・ドイツ・イタリアの三国が連合国を相手に戦う、という第二次世界大戦の基本構図はこうして出来上がりました。」
名もなきOL
「これが日独伊三国同盟、というやつですね。」
big5
「いえ、違います。これは間違われやすいポイントなのですが、1937年11月時点では「防共協定」であり、ソ連をはじめとした共産党勢力に対抗する、という約束でした。なので、いわゆる軍事同盟とは違う内容なんです。日独伊三国同盟は、実は大戦が始まってから1年ほど経過した1940年です。この辺りの話は、次章で詳しく見ていきましょう。」

1938年 オーストリア併合とサウンド・オブ・ミュージック&トラップ一家物語

big5
「ヒトラーによる領土要求は留まるところを知りませんでした。1938年には南のオーストリアを併合し、さらに領土を拡大させました。」
名もなきOL
「あれ、その話、どこかで聞いた覚えが・・そうだ、映画のサウンド・オブ・ミュージックって、その頃の話でしたよね?」
big5
「その通りです。オーストリア海軍のトラップ少佐の家に来た女性家庭教師と、一家で合唱団を作り、ナチス・ドイツに併合されたオーストリアから亡命する、というあらすじでしたよね。サウンド・オブ・ミュージックは実話を基にして作られた映画です。
ちなみに、日本では1991年にフジテレビ系列で放送された「トラップ一家物語(参考:トラップ一家物語)」も有名ですね。どちらも実話を基にしているとはいっても、それなりに脚色しているので、事実からだいぶ改変されているのですが、サウンド・オブ・ミュージックよりもトラップ一家物語の方が改変に近いそうですよ。」
名もなきOL
「そうなんですね。でも、思い出しました。トラップ一家物語で、怖いおじさんが一家の屋敷にやってきて「ナチスの旗を飾れ」と言ってきたんですよ。お父さんが「ウチはお金がないから買えない」と断ったら、後でナチスの旗を持って来て「金がないならこの旗を飾れ」と命令してきて、旗を飾らざるを得なかった、っていうシーンがありました。オーストリアがナチスに併合されちゃったから、そうなっちゃったんですね。なるほど。」
big5
「そのとおりです。オーストリアはナチスに併合されてしまったんです。ただ、映画や『トラップ一家物語』と事実で大きく異なるのは、オーストリア民衆の多くはナチスによる併合を大歓迎したことです。亡命したトラップ一家は例外的な存在、といっていいでしょう。オーストリアもドイツ系民族の国ですし、ナチスに併合される前からファシズムが浸透していたんです。翌月の1938年4月の国民投票では、99.9%が併合に賛成したそうです。また、国際連盟もドイツ民族の国同士が一緒になることについては、特に異論は出ませんでした。」

1938年 ズデーテン地方要求とミュンヘン会談

big5
「オーストリア併合の後、勢いに乗るヒトラーはチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合を要求しました。理由は、ズデーテン地方にはドイツ人居住者が多いから、というものです。」
名もなきOL
「ヒトラーの領土要求は本当に留まるところを知りませんね。オーストリアまで併合して、ドイツの元々の領土よりも広くなったのにさらに領土を要求してきたんですね。」
big5
「そこで、例によって大国同士の会議が行われました。ミュンヘン会談です。ミュンヘン会談には有名な風刺画がありますね。」


ミュンヘン会談の風刺画 左からヒトラー、チェンバレン(英首相)、ダラディエ(仏外相)、ムッソリーニ。背後の地図はチェコスロヴァキアの地図。ドアの所で立っているのがスターリン。

big5
「例によって、当事者であるはずのチェコスロヴァキアは参加していません。強い国の都合で決まる、という国際社会の現実を表していますね。ヒトラーは「これが最後の領土要求である」と主張し、英仏に認めるように要求。英仏はこの要求を呑み、ズデーテン地方はドイツに併合されることとなりました。このように、ドイツの要求を認めて宥める(なだめる)ことで、戦争を回避しようとした政策を宥和政策といいます。」 名もなきOL
「ドイツは第一次大戦に敗れた後、かなり厳しい仕打ちを受けましたからね。でも、結局第二次大戦が起こったのですから、宥和政策は失敗に終わったわけですね。」
big5
「そのとおりです。例えていうなら、ナチス・ドイツは飢えた虎です。飢えた虎は肉(領土)を次々と要求してきます。宥和政策とは、飢えた虎の要求通りに肉を与え続ければ、虎は満足して大人しくなるだろう、という考えですね。ところが実際は、腹を満たした虎は次の餌を求めて戦争を起こしたわけですね。これは、現代人も学ぶべき教訓でしょう。」
名もなきOL
「そういえば、ドアに立っているスターリンは結局何をしたんですか?」
big5
「何もしていません。言い換えれば、あえて外された、ともいえるでしょう。というのも、ヒトラーはソ連の共産主義を敵視してロシア人を劣等民族と見下していました。さらに、チェコスロヴァキアはロシアと同じスラヴ系民族の国なので、スターリンにとってはズデーテン地方併合には反対です。スターリンを呼んだら宥和政策は取れないから、ですね。そのため、スターリンは外して決めたわけです。これは、スターリンが英仏に対して不信感を持つようになり、これが約1年後の1939年8月の独ソ不可侵条約の締結に繋がることになります。」

イタリアのアルバニア併合(1939年4月)と独伊軍事同盟(1939年5月)

big5
「ヒトラーが軍事力と戦争をチラつかせて、ズデーテン地方に加えてチェコスロヴァキアも勢力圏を収めていく姿を見ていたのが、イタリアのムッソリーニです。英仏が強い態度に出ないことを確信したムッソリーニは、1939年4月に保護国としていたアルバニアに軍を送り、併合してしまいました。」
名もなきOL
「ヒトラーの要求が通ったのがきっかけとなって、なし崩し的にファシズムが実力行使に出始めたんですね。」
big5
「ミュンヘン会議などを通して、英仏を共通の敵として連携できる、とヒトラーもムッソリーニの意見が一致したのでしょう。1939年5月にはドイツ=イタリア軍事同盟(独伊軍事同盟)が成立しました。日本の教科書的には、日独伊三国同盟が有名で、この3国から成る枢軸国が連携して連合国を相手に戦争した、という印象が強いですよね。でも、ヨーロッパ視点から見ると、元々ドイツ=イタリア同盟だったところに、日本が加わった、という見方になります。ドイツ=イタリア同盟が共同して倒すべき敵は、もちろんフランスとイギリスです。
これは今後の話ですが、ドイツ=イタリア同盟はイタリアにはメリットがありましたが、ドイツにとってはかえって負担になってしまいます。」

日本とソ連の衝突 ノモンハン事件(1939年5月)

big5
「一方その頃、アジアでも第二世界大戦の勢力分けを決定づける事件が発生しました。ノモンハン事件です。ノモンハン事件は、日本の関東軍とソ連軍が、満州国とモンゴルの国境付近で戦闘になった事件です。」
名もなきOL
「聞いた覚えがあります、ノモンハン事件。日本が大敗しちゃったんですよね?」
big5
「はい、昔はそのように教えられていました。日本は大損害を出したことでソ連の強大な力を知り、ソ連と敵対することはやめて代わりに東南アジア方面へ侵攻することにした、という話です。確かに、結果はそのとおりなのです。が、ソ連崩壊後に明らかになったソ連側の史料によると、実はソ連側もかなりの損害を出してしまっており、実は痛み分けの引き分けだった、というのが実態のようです。ともあれ、結果的に日本はソ連と敵対する道は選ばず、9月15日には休戦協定が結ばれました。ちなみに、9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まっています。日本とソ連の休戦協定は、ポーランド侵攻のすぐ後です。」
名もなきOL
「そっか、日本は北に敵がいなくなったので南へ侵攻することができたんですね。逆にソ連は、東に敵がいなくなったので、気兼ねなく西に侵攻することができたんですね。
あれ、でもソ連って日本やドイツの敵でしたよね?」
big5
「OLさん、そこが国際社会の難しさと複雑さを表しているんです。「欧州情勢は複雑怪奇」なんですよ。これらの事件の結果、第二次世界大戦の開戦と勢力分けが決まることになります。独ソ不可侵条約です。」

まさかの連携 独ソ不可侵条約(1939年8月)

big5
「欧州情勢が緊迫していく中、1939年8月23日に世界を驚かせる発表がありました。ドイツとソ連がお互いを攻撃しないと約束した独ソ不可侵条約です。有効期間は10年間とされました。」
名もなきOL
「あれ?第二次世界大戦でドイツとソ連は激闘を繰り広げたんですよね?」
big5
「はい、後にドイツとソ連は戦うことになりますが、1939年時点では相互不可侵を約束したんです。ヒトラーは以前から共産党を敵視して(参考:ファシズムの台頭)、ユダヤ人の次くらいに非難していました。さらに、ポーランド方面などの東欧を「生存圏(独語:Lebensraum、レーベンスラウム)」と呼んで、スラヴ民族を排除してドイツ領にすべき、と過激な思想を掲げていました。当然、ソ連のスターリンがヒトラーの主張を受け入れるわけがありません。なので、そんな仲のドイツとソ連が手を組むなんて、到底考えられないわけですね。ただ、この提携にはしっかりとした狙いがありました。まず、ドイツは東の脅威を減らすことで、英仏との戦いに注力することができます。第一次世界大戦では、二正面作戦になってしまいましたから、同じ轍は踏みたくなかったのでしょう。」
名もなきOL
「ドイツ側のメリットはわかりやすいんですけど、ソ連って何か得することがあったんですか?」
big5
「実は、独ソ不可侵条約には附属の秘密協定があったんです。秘密協定の主な内容は
(1) ソ連はポーランドの東部を獲得する。
(2) ソ連はバルト三国を支配下に置く。
というもので、これらをドイツが承認する、というものでした。」
名もなきOL
「はは〜、そういうことか。戦争になってから揉めて英仏の介入が入る前に、あらかじめ自分たちの取り分を決めておこう、という魂胆だったんですね。あれ?ソ連ってレーニンが革命起こしたときに、秘密条約の廃止をうたっていませんでしたっけ?」
big5
「レーニンの平和についての布告ですね(参考:第一次世界大戦 (World War I) 後編)。そのとおりです。第一次世界大戦が生じた要因の一つは、列強が結ぶ秘密協定だ、ということだったのですが、ソ連は自ら破っています。残念ながら、それが現実です。

こうして、第二次世界大戦(前半)の舞台は整いました。この数日後、ついにその時を迎えます。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、「ファシズムの台頭」で扱ったネタはよく出題されています。試験前に復習しておくのがおススメです。」

平成31年度 世界史B 問題36 選択肢B
・(第二次世界大戦の終結以前に)ドイツ軍が、スペインのゲルニカを爆撃した。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、1936年に始まったスペイン内戦にナチス・ドイツが介入し、ゲルニカに空爆を行っています。

令和2年度追試 世界史B 問題27 選択肢b
・(イギリス・ドイツの石炭産出量推移グラフを見て)ドイツの産出量が3億5000万トンを超えたのは、ヒトラーが政権を掌握した後である。〇か×か?
(答)〇。グラフを見ると、ドイツの石炭産出量が3億5000万トンを超えたのは1936年の半ば以降であることがわかります。上記の通り、1935年にザール編入によりドイツにおける石炭産出量はさらに増加するようになっています。これがヒトラー政権による結果であることを知っておくことは重要です。

令和3年度 世界史B 問題2 選択肢B
・ナチス体制下では、ゲシュタポにより国民生活が厳しく統制され、言論の自由が奪われた。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、ゲシュタポはドイツ国民を厳しく監視し、ナチスに反対する人々を厳しく弾圧しました。

令和4年度 世界史B 問題24
「53ほどの国々が戦争の舞台裏で偽善的な言い合いをしている間に、ムッソリーニはアビシニア人を爆撃した。」ことに関する以下の選択肢の中で、最も適当なものを選べ。
@国際連盟はイタリアの行為を非難したが、エチオピアに対する侵略を阻むことができなかった。
A九か国条約に基づいて、その締結国がイタリアを非難するにとどまり、エチオピアは植民地化された。
B不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)は、イタリアによるリビアの併合を阻むことができなかった。
C国際連盟はイタリアに対して経済制裁を加えるにとどまり、リビアの併合を阻むことができなかった。
(答)@。「アビシニア」とは、エチオピアを指す古い名称です。それがわからなくても、問題文の記述から、問題になっているのはムッソリーニの第二次エチオピア戦争のことはわかるので、その説明が正しいのは@になります。
Aは、「九か国条約」が誤り。九か国条約は中国における列強の利権についての申し合わせなので、エチオピアを対象としていません。B、Cは併合したのがリビアとなっているのが誤り。

令和4年度 世界史B 問題25(一部改題)
ヒトラーやムッソリーニの政権と、同時期の日本の政権を同じファシズム体制だとする見方(あ)と、日本の戦時体制をファシズムと区別する見方(い)の両方がある。それぞれの見方を支持する根拠として正しいものを、以下の選択肢から選べ。
(W)ソ連を脅威とみなし、共産主義運動に対抗する陣営に加わった。
(X)国民社会主義を標榜し、経済活動を統制した。
(Y)政党の指導者が、独裁者として国家権力を握ることがなかった。
(Z)軍事力による支配権拡大を行わなかった。
(答)(あ)W (い)Y
「ファシズム」の定義に関連したやや難しめの問題。ヒトラーやムッソリーニ政権のドイツ・イタリアと日本の軍国主義は同種かどうかについては、様々な意見があります。そのそれぞれの意見の根拠を選ぶという、高いレベルの歴史問題になっています。
(W)は日独伊防共協定が結ばれているように、三国は対ソ連でまとまっていましたので、これが三国を「ファシズム国家」とまとめて見る時の一つの根拠となります。よって、(あ)を支持するのは(W)です。(X)の国民社会主義の標榜と経済活動の統制は、三国とも実施していないのでどれにも入りません。(Y)については、ヒトラーやムッソリーニのように、著名な独裁者が日本にはいないので、(い)を支持する根拠となります。(Z)については、三国とも軍事力による領土拡大を行っていますので、どれにも入りません。

令和5年度 世界史B 問題25(一部改題)
・(問題)ナチスの強制収容所について述べた以下の空所に当てはまる正しい用語の組み合わせを選べ。
『「労働を通じた矯正」という初期の段階の背景には、(ア)という法の成立があります。この法の制定をきっかけに、他の政党が排除されていき、(イ)が確立しました。』
@ア:全権委任法 イ:民主主義体制
Aア:全権委任法 イ:独裁体制
Bア:社会主義者鎮圧法 イ:民主主義体制
Cア:社会主義者鎮圧法 イ:独裁体制
(答)A。上記の通り、ヒトラーは1933年に全権委任法を成立させて独裁体制を確立しました。「社会主義者鎮圧法」は、ドイツ帝国の宰相:ビスマルクが採用した法律の一つなので、時代が違います。ヒトラーが確立したのが「民主主義体制」のワケがないので、@、Bは論外です。



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