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「ここでは、鎌倉時代に発生した一大歴史イベント元寇を見ていきます。日本の歴史の中で、外国から侵略を受けた事件はいくつかあります。その中でも、知名度でも規模の面でも圧倒的に大きいのが元寇です。日本が鎌倉時代に入って武家政治が確立し始めた頃、ユーラシア大陸では、モンゴル高原の一部族から身を起こしたチンギス・ハーンによって、史上空前の大帝国・モンゴル帝国が世界の覇者として君臨していました。5代目のハンであったフビライ・ハンは国号を元と定め、日本にも服属を要求して大軍を動員して2回に渡って攻め込んできました。しかし、鎌倉武士たちの奮戦と大嵐によって撃退され、多額の資金と兵士を投入した大遠征は大失敗に終わりました。一方、勝者となった日本でも、御家人の窮乏がさらに進行し、鎌倉幕府は衰退の道を歩んでいくことになります。
いつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。」
| 年月 | 日本のイベント | 世界のイベント |
| 1259年 | 高麗がモンゴルに降伏 | |
| 1260年 | フビライがモンゴル皇帝に即位 | |
| 1268年 文永5年 |
元の最初の使者が来日 | |
| 1271年 文永8年 |
フビライが国号を元と定める | |
| 1274年 文永11年 |
元軍1回目の日本遠征 文永の役 | |
| 1281年 弘安4年 |
元軍2回目の日本遠征 弘安の役 | |
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「さて、まずは日本に攻め込んできたモンゴル帝国の概要を見ていきましょう。モンゴル帝国を建国したのはチンギス・ハーンです。「ハーン」というのはモンゴルの言葉で「主君」を意味する言葉です。漢字では「汗」と書きます。音を正確に訳すなら「カン」と書いた方が実際の発音に近い、という意見もありますが、ここでは「ハーン」 or 「ハン」と書きます。ちなみに、「ハーン」と呼ばれるのはたいていはチンギスのみです。その後継者は「ハン」と呼ばれることが多いです。」
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「チンギス・ハーンは、モンゴル遊牧民の一部族の長として一族を率い、群雄割拠状態だったモンゴル高原を統一。さらに周辺国も征服して帝国の礎を築きました。」
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「フビライ・ハンはチンギス・ハーンの孫にあたります。フビライの頃は、広大なモンゴル帝国のハンの地位を巡って、チンギス・ハーンの子孫たちが後継者争いを繰り広げたのですが、フビライが争いに勝利し、1260年にハンに即位しました。なので、フビライがモンゴル帝国の君主なのですが、それは形式上の話。ヨーロッパ方面や西アジア方面を直接治めたのは親戚でした。なので、モンゴル帝国という大きな国家を、いくつかのエリアに分けてそれぞれ実際の統治を行う、という形式が取られました。フビライはモンゴル高原と中国方面を統治しました。そのため、その政治は中国の影響を強く受けており、1271年に国号として「元」を採用しました。元寇の由来ですね。
元は1259年に朝鮮半島の高麗を力ずくでねじ伏せて属国としていました。そのため、次のターゲットとして日本を設定し、1268年には使節を送って服属を迫りました。
しかし、鎌倉幕府と朝廷は服属せず、元の侵攻に備えます。この時、鎌倉幕府の第8代執権として指揮を執ったのが北条時宗(ほうじょう ときむね 1251-1284年 執権在職:1268-1284年)です。」
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「1274年、フビライは約3万の遠征軍を編成し、第一回日本遠征を実行しました。3万の内訳は高麗、女真、漢人(華北の中国人)そしてモンゴル人など、広い支配領域から様々な文化の兵が召集されました。ここでは、これら多国籍遠征軍をまとめて「元軍」と呼びます。元軍はまず対馬を襲撃し、住民を虐殺しあるいは拉致して連れ去り、続いて壱岐に攻め込んで蹂躙しました。日本側は、守護の少弐氏を現場の指揮官として、東国から移住してきた大友氏や千葉氏などの有力御家人などおよそ4000人が博多で迎撃しましたが、衆寡敵せず敗退。太宰府の手前の水城(みずき)まで後退しました。しかし、九州南部から動員された援軍が駆け付けたこともあり、元軍はこれ以上の進撃を諦めて撤退しました。この戦いは文永11年のことだったので、文永の役と呼ばれます。この時の史料として有名なのが、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)です。」
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「元軍が撤退した理由は、当時からいろいろな憶測が飛んでいましたし、実は今でもハッキリとした理由は不明のままです。以前は巨大台風で元軍の船の多くが沈んだからだ、「神風が吹いたからだ」と言われていましたが、信頼できる史料には、文永の役の際に神風が吹いた、という記述はありません。
こうして、第一回の日本遠征は失敗に終わったのですが、これで終わりではないことは元も日本も承知でした。幕府は高麗に遠征して逆襲する、という案も出しましたがこれは実現しませんでした。代わりに、元軍上陸を妨害するために博多湾沿岸に石塁(石築地(いしついじ))を築いたり、異国警固番役(いこくけいごばんやく)を設けて北九州や長門の沿岸警備に当たらせました。これには、御家人のみならず非御家人も動員しており、国防という一大事の下で幕府の権威が増していることを示しています。」
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「1279年、元は華南で抵抗を続けていた南宋を完全に滅ぼし、中国全域を支配下に置きました。この時、降伏した南宋の兵士が数十万にいたのですが、フビライはこれらの兵士を第二回日本遠征の主力とすることにしました。第二回日本遠征軍は、総勢約14万で、その内訳は前回同様に高麗、女真、漢人、そして約10万の元南宋降伏兵にモンゴル人と、多国籍部隊です。元軍は大別して二手に分かれました。一手は東路軍(とうろぐん)と呼ばれ、前回同様に高麗から出港しました。東路軍の兵力は約4万となっています。もう一手は江南軍(こうなんぐん)と呼ばれ、華南沿岸部の慶元(けいげん 現在の寧波)から出港しました。こちらは南宋の降伏兵を主力とし兵力は約10万となっています。両軍は壱岐で合流する予定だったのですが、江南軍はいろいろあって出発が遅れたため、東路軍だけで博多を攻撃しました。しかし、前回は存在しなかった石塁に妨害されたうえに、日本側も九州のみならず四国、西国の御家人・非御家人も動員して兵力は不明ながらも、おそらく前回よりも多数の兵を揃えて迎撃にあたりました。そのため、東路軍は博多に上陸できず、いったん後退し、肥前の鷹島で江南軍と合流したのですが、この時は大暴風雨に巻き込まれて多くの船が沈没。生き残ったわずかの船は撤退し、島に取り残されたわずかな元軍兵士は殺されるか捕えられて全滅。こうして、第二回日本遠征も大失敗に終わりました。
フビライは、メンツにかけても日本遠征を成功させようとして第三回遠征を計画しましたが、別方面で内乱や問題が発生したために実現には至りませんでした。一方、鎌倉幕府も3回目の遠征に対処するため、鎮西探題や長門探題を設置して強い権限を与え、防衛体制を強化しました。」
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「元寇は単なる軍事上の事件に留まりませんでした。元では、大遠征の失敗が国力減退のきっかけとなり、元は衰退の道を歩み始めることになりました。一方の鎌倉幕府も、従来の支配体制が揺らぎ始めました。特に影響が大きかったのが、御家人の窮乏です。実は元寇の前から、生活困難となって土地を手放す者が増え始めていました。土地を手放してしまうと、もう御家人として軍役を果たすことはできません。これは、鎌倉幕府の支配にヒビが入っている状態と言えるでしょう。御家人の生活困窮の原因として挙げられているのが「分割相続」です。御家人の所領は兄弟で分割して相続することが通例であったため、相続を重ねるたびに、御家人の所領は小さくなっていきました。これでは、郎党一人雇うこともできません。そこで、女性の相続はその代限りとし、女性が亡くなったら惣領に土地を返還するという「一期分(いちごぶん)」の制度が採用されたりしましたが、分割相続が続く限りは焼け石に水でした。
そんな時にやってきたのが元寇です。元という大国から国を守るために、御家人のみならず非御家人まで動員されましたが、戦いに勝っても幕府が新たなと土地を得たわけではなく、戦功のあった御家人への恩賞は十分に配分されませんでした。そのため、元寇の戦費でさらに困窮する御家人が増えました。異国警固番役も御家人にとっては新たな負担でした。そこで、これらの役務は惣領が行うのではなく、庶子も惣領と別に行ってもよい、ということになりました。惣領の負担は減りますが、その代わりに庶子も「一人の御家人」という意識が強くなるきっかけとなりました。こうして、鎌倉時代の社会構造の一部であった惣領制は崩れ始め、それはやがて鎌倉幕府の崩壊につながることになります。」
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