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「今回は「広がる世界・変わる世界」の詳細篇ということで、大航海時代(Great Navigation)について、本編よりも詳しく見ていくぜ!」
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「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
年月 | 大航海時代のイベント | その他のイベント |
1418年? | ポルトガルのエンリケ航海王子がサグレス城に研究所設置 | |
1419年 | マデイラ諸島再発見 | |
1427年 | アゾレス諸島発見 | |
1437年 | タンジール攻略に失敗 | |
1441年 | ポルトガルがアフリカ西岸のブランコ岬に到達 この頃、ポルトガルによる黒人奴隷貿易開始 |
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1445年 | ヴェルデ岬到達 | |
1453年 | コンスタンティノープル陥落しビザンツ帝国滅亡 英仏百年戦争終結 |
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1456年 | ギニア湾到達 | |
1460年 | シエラレオネ到達 エンリケ航海王子死去 |
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1471年 | ギニア湾方面のミナ(エルミナ)で金取引に成功 | |
1481年 | ジョアン2世即位 | |
1482年 | ポルトガルが黄金海岸付近にエルミナ要塞建設 | |
1488年 | バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達 | |
1492年 | スペインがグラナダを攻略しレコンキスタ完了 コロンブスが西インド諸島に到達 |
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1493年 | コロンブスの発見をめぐって、教皇子午線が引かれる | |
1494年 | トルデシリャス条約でスペイン・ポルトガルの境界が定められる | |
1498年 | ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達 | |
1500年 | カブラルがブラジルに漂着 | |
1510年 | ポルトガルのアルブケルケがインドのゴアを占領し拠点とする | |
1513年 | バルボアがパナマ地峡を横断し太平洋岸に到達 | |
1517年 | ルターが宗教改革を開始 | |
1519年 | マゼランが世界周航へ出発 | |
1521年 | コルテスがアステカ帝国を征服 | |
1522年 | マゼランの部下が世界周航を達成 | |
1529年 | サラゴサ条約 | |
1531年 | ピサロがインカ帝国を征服 | |
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「『賢者は歴史から学ぶ』という諺がある。成功した他人の事例を分析・研究し自らに活かそうとするのはたいへん有用なことだぜ。まずはポルトガルが大航海時代で成功を収めた要因を考えてみようか。」
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「当時のポルトガルは人口100万にも満たない、フランスやハプスブルク家のオーストリアなどと比べれば小国に過ぎませんでした。そんな小国が、他国に先駆けて一大海洋帝国を築くことができたのですから、何かしらの特殊な要因があったと考えるのが自然ですよね。」
@政治的要因
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「意外に思うかもしれないが、当時のポルトガルは政治面では比較的安定しており、探検航海にリソースを注ぐ余力があった、ということが要因の一つとして挙げられるぜ。」
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「イギリス・フランスは百年戦争をやってた頃ですし、後に貿易で競争することになるオランダも、成立すらしていません。ヴェネツィアは中東経由の香辛料貿易で満足していましたし、カスティーリャは相次ぐ王位継承紛争でそれどころではありませんでした。そんな中、ポルトガルは比較的平穏でしたね。」
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「これらの背景のもと、ジョアン1世が王権強化に成功し、国策として探検航海を推進できた、というわけだな。」
A地理的要因
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「次に地理の面から考えてみよう。いまさらだが、ポルトガルはヨーロッパの西端に位置する。そういう意味では大陸の辺境なのだが、他の大陸から見れば地中海世界の入り口であるわけだ。なので、ポルトガルが海を出て海外に進出していく、というのは自然な流れと言えるよな。」
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「また、帆船の航路という観点からは、アソーレス海流があるそうです。アフリカに近く、大西洋を回流するアソーレス海流が時計回りにポルトガル沖を回ってカリブ海に至り、アソーレス諸島を通過して戻ってくる、という流れになっているそうです。なので、海流に乗ってカリブ方面へ行きやすく、またポルトガル方面にも戻りやすいという、航海上の利便性もあったそうですよ。」
B人材面の要因
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「次に「人材」の観点からだ。まず、航海に馴染みのある職業といえば漁師が挙げられるが、ポルトガルでは遠洋漁業に従事する漁師が多かったそうだ。他には、貴族の次男三男坊なども探検航海に乗り出す人材としては有用だった。彼らは国内に残っても肩身の狭い思いをするだけで人生に面白みがないからな。そして、ポルトガルの商人もまた海外に商機を見出すことを期待して、探検航海に協力的だったことも重要だろう。そして、エンリケ航海王子時代に有力だったのは、彼が主張を務めていたキリスト教騎士団の人材と財力だ。キリスト教騎士団はテンプル騎士団の後継組織で、ポルトガルがカトリック国家として確立する基盤を整えるのに貢献している団体だ。」
C技術面の要因
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「続いて技術面だ。まず、探検航海の進展に大きく貢献したのはカラヴェル船(キャラベル、カラヴェルとも。英語はCaravel)だ。↓のような船で、大航海時代全盛期に標準となった船だ。」
大航海時代のポルトガルのキャラベル船
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「キャラベル船が開発された時期や経緯の詳細は不明ですが、エンリケ航海王子が1441年にヌーノ・トリスタンに初期の試作型を与えたという記録が残っていますね。この時期に標準だったもう一つの船としてキャラック船があります。こちらは大砲を積んで戦闘用にも用いられた頑丈な船なのですが、キャラベル船はキャラック船よりも軽量で小回りが利くそうで、未知の海を探検するのに向いていたそうです。」
コロンブスが乗っていたサンタ・マリア号はキャラック船(現代に復元されたもの)
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「技術面の貢献は船だけではないぞ。航海術はもちろん、天文学なども探検航海にはたいへん重要なのだが、この点についてはイベリア半島のイスラム教徒・ユダヤ教徒の研究が貢献したんだ。イベリア半島の宗教事情は、フランスやドイツ・イタリア方面とはやや違って寛容だったからな。」
D宗教面の要因
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「もう一つ、重要なのが宗教面、つまりカトリックの思想だな。比較的寛容だったイベリア半島とはいえ、キリスト教 vs イスラム教は一つの対立軸だった。イスラム国家との戦いを優勢に進めるために、遥か東方に存在すると信じられていたプレステ・ジョアンの国を探求する、というのは、当時の人々にとってはたいへん重要な話だったんだぜ。」
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「上記のように、ポルトガルが大航海時代に成功した要因を分析してみた。ここに上げたのは、よく要因として挙げられている話なので、人によっては別のことを要因とする人もいるだろう。なので、一般的に指摘されている成功要因、と考えてもらえばOKだ。」
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「これらの結果として、大航海時代を経てポルトガルは本質的に海洋帝国となった、と言えますね。スペインは新大陸を植民地支配する植民地帝国となりましたが、ポルトガルは航路と港・要塞を結ぶエリアを大砲で武装した帆船で守り、香辛料貿易で稼ぐという、まさに海を軸にした国家に変わっていったわけですね。」
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「大航海時代の端緒を切り開いたのが、本編でも登場したエンリケ航海王子だ。彼についてより詳しく見ていこう。まずは、基本情報だ。
父:ジョアン1世 母:フィリパ・デ・レンカストレ(イングランド王ヘンリ4世の姉)
長兄:ドゥアルテ1世(ポルトガル王) 次兄:コインブラ公ペドロ 妹:イサベル
弟:ジョアン、フェルナンド聖王子」
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「エンリケ航海王子はサグレス城に航海研究所を設置し、当時の先端技術を集めて探検航海技術の発展に尽力した、と言われています。ところが、この話が本当かどうかは、議論が交わされています。
『図説 ポルトガルの歴史』によると、この話はエンリケ航海王子が存命中にアズスラ(1410頃〜1474頃)が書いた『ギネー発見征服誌』に既にその萌芽が見られると記載しています。さらに、17世紀のイギリスの歴史家サミュエル・パーチャスは
『エンリケがマジュルカから招いたマエストロ・ジャコメに海員学校を創設させ、ポルトガル人に航海技術を教授させた』と一節に記述しているそうです。さらに、1836年にはポルトガル政府がサグレス要塞の入り口に『エンリケはこの地にみずからの負担で居館、有名なコスモグラフィーの学校、天文観測所、造船所を建設した』と刻んだ石碑を立てました。つまり、政府公式見解でもあったわけですね。この内容を受けて、日本でも複数の人物がサグレス研究所について言及しています。和辻哲郎は『鎖国ー日本の悲劇』で『エンリケはアルガルヴェ州のサン・ヴィンセンテ岬サグレスの城に住み、そこに最初の天文台、海軍兵器廠、天文現象、世界地理などを観察叙述するコスモグラフィーの学校などを創設してポルトガルの科学力をことごとくここに集結しようと努力した』と記述しています。著名作家の司馬遼太郎は『南蛮のみち』でサグレスを訪れた際に『その高所からあらためて岬の地形を見、天測の練習に仰いだであろう大きな空を見たとき、ここはたしかに世界最初の航海学校があった、というゆるがぬ実感を得た。』と記述しているそうです。」
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「日本人にとっては遠い外国の細かい歴史ポイントだからな。外来の情報でそのように記載されていたら、普通はそう信じるのも自然な流れだろうな。ところが、サグレス城の研究所は存在しなかった、という説もあるのが現状だ。1959年、ポルトガル人のドゥアルテ・レイテはサグレス航海学校は存在しなかったことが証明された、と主張しているんだ。我々には事の真偽はわからないし、調査の仕様もない。興味のある人は、是非調べてみてほしいぜ。」
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「探検航海事業の最初の結果となったのが、1419年のマデイラ諸島再発見です。マデイラ諸島自体は既にポルトガル人によって発見されていたのですが、エンリケ航海王子はマデイラ諸島に植民を行い、産業としてサトウキビとブドウの栽培を始めました。」
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「マデイラ諸島の総面積は741平方キロメートル、日本の佐渡島が854,81平方キロメートルなので、諸島全体でも佐渡島よりも少し小さい大きさだな。現在ではマデイラ・ワインの産地として有名だ。著名人物はサッカー選手のロナウドがマデイラ諸島出身だ。観光業も盛んで、イギリスやドイツ人などの外国人観光客のリゾート地として有名だそうだ。」
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「次の成果が大西洋に浮かぶアゾレス諸島(ポルトガル語発音だとアソーレスとなるとのこと)だ。発見されたのは1427年で、エンリケ航海王子がの船団が再発見したのが1431年、ということのようだ。この辺りの記述は資料によって内容が若干異なっているのだが、だいたいこれくらいの年、ということでいいだろう。アゾレス諸島は9つの島から成り、総面積は2,322平方キロメートルということで、マデイラ諸島よりも広い。リスボンから西に1000kmも離れたところにあり、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を繋ぐ航海の中継地点としてたいへん重要だったんだ。」
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「ポルトガル本土からかなり離れていて、それなりの広さがある島ということで、アソレス諸島は歴史にもたびたび登場します。1820年のポルトガル内戦では自由主義派の拠点となりましたし、第二次大戦では中立を保っていたポルトガルが、連合国優勢が明らかになってきた後半からは、アメリカ軍などの中継拠点としての利用を認めているなど、地理的な重要性は高いですね。」
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「探検航海に成果を上げたエンリケ航海王子だが、失敗もしている。それが1437年のタンジール攻略失敗だ。マデイラ諸島、アゾレス諸島と、着実に新天地を切り開く一方で、貴族の一部は領土切り取りを切望しており、エンリケ航海王子は彼らの先頭に立ち、フェズ王国のタンジール攻略に乗り出したのだが敗北している。しかも、この時の敗北で弟のフェルナンド聖王子(この年35歳)が捕えられてしまった。」
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「フェルナンド王子は捕虜として過ごし、6年後の1443年に死去しています。これについては、資料によって経緯が異なっていますね。Wikipedia日本語版フェズ王国のスルタンはセウタと引き換えにフェルナンド王子を解放する、という条件を出したものの、フェルナンド王子は自らその交換条件を拒否。ポルトガル議会もこれを認め、エンリケ航海王子にその旨通告した、となってます。そのため、フェルナンド王子は祖国のために犠牲になった「聖フェルナンド王子」と呼ばれている、と記述しています。ところが、『図説ポルトガルの歴史』では、エンリケ航海王子がセウタ領有にこだわったあまり、フェルナンド王子を見殺しにしてしまった、とまるでエンリケ航海王子の汚点のように記述していますね。」
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「この後、エンリケ航海王子の探検事業は西アフリカ沿岸を少しずつ南下していきました。詳細は年表に記載の通りです。ポイントとしては、エンリケ航海王子はボジャドール岬以南の貿易権の独占を認められ、象牙、アザラシ、さらには奴隷貿易も行いました。エンリケ航海王子が1460年(この年66歳)に死去した段階で、探検航海は西アフリカ南部のシエラレオネまで到達していました。」
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「ヨーロッパ勢力によるアフリカ侵略の始まりでもあるな。ただ、この時点ではアフリカ内陸部を領有することは目的ではなく、交易による利益が優先されていたので、ポルトガルがアフリカで一気に領土を拡大したわけではない、ということは重要だな。」
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「エンリケ航海王子が亡くなった後、ポルトガルの探検航海は、リスボンの大商人であるフェルナン・ゴメスに委託された。国家運営事業が、一時的に民間事業になったわけだな。」
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「この経緯として、『図説ポルトガルの歴史』では、時のポルトガル王アフォンソ5世は探検航海よりもモロッコ侵攻やカスティーリャとの継承戦争に熱心だったため、と記述していますね。」
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「アフォンソ5世がどう思っていたのかはわからないが、ここで民間事業に切り替わったのは興味深いよな。フェルナン・ゴメスが開発を進めていた時の事績としては、1471年のエルミナにおける金取引の開始が重要だな。エンリケ航海王子が目標の一つに掲げていた、アフリカの金の直接取引がようやく実現できたわけだ。これ以後、サハラ砂漠の黒人商人と定期的に取引が行われるようになった。これまで、サハラ砂漠を越え、イスラム商人を介して地中海世界に入ってきた金が、大西洋経由で直接ポルトガルに入ってくるようになったわけだ。金取引は次第に増加していき、ポルトガル財政は大いに潤うことになるんだぜ。」
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「なお、フェルナン・ゴメスとの契約はそれから3年後の1474年に期間満了となりました。その後事業を引き継いだのは、アフォンソ5世の息子のドン・ジョアン(後のジョアン2世)です。
タイミングから考えると、金取引の旨味を王室独占にしたかった、という狙いがあったんだろうな、と簡単に予測できますね。」
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「さて、探検航海はドン・ジョアンによって推進された。ドン・ジョアンが1481年にポルトガル王に即位してジョアン2世となっても、それは変わらなかった。1482年にはエルミナ商館兼要塞(サン・ジョルジェ・ダ・ミナ商館兼要塞)を建設し、西アフリカ方面との交易拠点を確立させている。このエルミナ要塞は、ヨーロッパ勢力がアフリカに最初に築いた本格的な要塞になるな。」
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「この頃、金取引の量は毎年約800kgにもなり、ポルトガル本国に輸送されていたそうです。ジョアン2世には「金の子」という異名も付けられたそうですね。」
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「この頃から、インドに到達することが探検航海の目標になった。1483年にはディオゴ・カンがザイール川(コンゴ川)に到達しているな。」
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「それから5年後の1488年、バルトロメウ・ディアス(年齢不詳 英語表記:Bartholomew Diaz)がアフリカ南端の喜望峰に到達しました。最初、ディアスはこの岬を「嵐の岬」と名付けましたが、ジョアン2世が「喜望峰」と名付けた、という話はわりと有名ですね。本編でも触れてますが、1488年の喜望峰発見は覚えておいた方がいいです。ゴロ合わせなら
いよ!(14)母(88)も喜ぶディアスの喜望峰
と、覚えましょう。」
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「これで、喜望峰周りでインドに行ける、という目途が立ったわけだ。ただ、ジョアン2世は海路とは別に陸路でも人を探検に出していて、ペロ・ダ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァの2人だ。この2人には、陸路でインドに向かい、プレステ・ジョアンの国の情報収集を行わせているな。」
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「さて、喜望峰が発見された4年後の1492年、コロンブス(この年41歳?)が西インド諸島に到達した、というのはあまりにも有名だな。この辺の話は本編でも触れられているから、ここでは本編では割愛した話をしよう。
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「まず、コロンブスは最初はポルトガルの支援を受けて西回り航路に挑もうとしたのだが、ポルトガルが断ったのでスペインの支援を受けることになった、という経緯は本編のとおりだ。だが、コロンブスがヨーロッパに帰って来てからも一騒動あったんだ。『図説 ポルトガルの歴史』では以下のようにまとめている。
@帰り道で、コロンブスはリスボンに寄港し、ジョアン2世に新発見を伝える。
Aジョアン2世はスペインと締結していたアルカソヴァス条約(1479年締結)に基づけばポルトガル領になる、と主張。
B結局1494年のトルデシリャス条約でカルボ=ヴェルデ諸島から370レグア(1レグア=約5.6km)の経線を境界線とし、東をポルトガル領、西をスペイン領とすることで決着。
としているな。」
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「さて、ここまでポルトガルによる大航海時代の流れを見てきたのだが、インド航路以外の探検についても紹介しておくぜ。
@テラ・ドス・バカリャウス(鱈の地)
テラ・ドス・バカリャウス(鱈の地)とはあだ名で、おそらくグリーンランドかニューファンドランドのことではないか、と考えられている。ジョアン15世紀末に、ジョアン・ヴァス・コルテ・レアルとアルヴァロ・マルティス・オーメンが発見したとされている。ただ、途中で放棄されたようだ。
Aラブラドール島到達 1498年
アゾレス諸島出身のジョアン・フェルナンデス・ラヴラドールが1498年にラブラドール島に到達した、とされている。ラブラドール島の名は、発見者の名にちなんでいる、というわけだな。」
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「喜望峰発見から10年後の1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama 1469?〜1524)が喜望峰を回ってついにインドに到達したな。本編でも説明されている通り、大航海時代の目玉イベントだな。ここでは、ヴァスコ・ダ・ガマの足取りについて申少し詳しく見てみよう。」
ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル語Wikiトップの絵) 制作者:Antonio Manuel da Fonseca (1796?1890) 制作年:1838年
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「『図説 ポルトガルの歴史』では、ヴァスコ・ダ・ガマ(以後、「ガマ」と記載)の航路はこのように書かれている。
@ポルトガル王マヌエル1世は側近の反対を押し切って1497年7月8日、リスボン郊外のレステロ港からガマの船団を送り出した。
A8月3日、ガルボ・ヴェルデ諸島を出港。
B11月22日、南米大陸近くまでぐるっと西に回って喜望峰に到達。
C1498年4月、メリンディに到着し、ようやく水先案内人を確保。4月24日、メリンディ出港。
D5月21日、インドのカリカットに到達。しかし、敵対的なイスラム商人の妨害で、わずかな胡椒を積載。8月、北東の季節風に乗って出港。
E1491年9月、リスボン帰港。無事に帰国できた乗組員は3分の1。
なんと出港から帰港まで2年もかかっている。初めての航路でもあるから、かなり時間がかかったんだろうな。無事に生還できた乗組員が3分の1、というのも、この航海がいかに危険なのものであったのかを示していると考えられるな。ちなみに、『図説 ポルトガルの歴史』では、ガマだカリカットで行った砲撃や人質連行については触れられていない。」
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「ガマの来航は、アフリカやインドにとっては、その後の植民地支配の歴史の前触れになっていますね。ともあれ、ガマがインドまで行って少量とはいえ胡椒を獲得できた、という事実はその後のヨーロッパの商流を大きく変化させました。これまでは、イスラム商人からヴェネツィア商人というルートを経て入って来た香辛料が、時間がかかるとはいえ直接買い付けに行けるようになったわけですからね。そういう意味でも、ガマのインド到達は世界史に大きな影響を与えた事件と言えますね。」
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