Last update:2025,MAR,22

中世

教会大分裂とフス戦争

導入

big5
「今回のテーマは教会大分裂とフス戦争と題しまして、中世の終わりに発生した宗教改革の話をしていきます。宗教改革といえば1517年から始まったルターの宗教改革が有名ですが、実はルターよりも100年ほど前から、ルターと似たような考え方と宗教改革運動が始まっていたんです。」
名もなきOL
「宗教改革といえば、ルターさんを連想しますよね。それより前の宗教改革ってどんな感じだったんでしょうか?」
big5
「最初のきっかけは、イギリスの神学者・ウィクリフが、金儲けに熱心になっているカトリック教会の体制を批判し、信仰の拠り所は聖書であるべき、と主張したことだったんですよ。」
名もなきOL
「それって、ルターさんと同じ意見ですよね(参考:広がる世界・変わる世界 ルターの宗教改革)。そっか、ルターさんの随分前からカトリック教会ってそんな感じだったんですね。」
big5
「いつの時代も、どの地域も、宗教とお金は密接に関係していたわけですね。ウィクリフが教会を批判する中、カトリックは教皇が3人同時に君臨して争うという、スケールの大きい内輪揉めをする、という体たらくでした。また、チェコではウィクリフの影響を強く受けたフスが教会批判を展開。カトリック側は、コンスタンツ公会議で教皇鼎立体制をようやく終結させ、ウィクリフの説を異端とし、フスを火刑とすることで事態を収拾させましたが、残されたフス派は蜂起しておよそ15年に渡るフス戦争を戦いました。フス戦争はカトリック側の勝利に終わり、約100年後にルターが登場するまで宗教改革運動は一時鎮静化することになりました。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょうか。」

年月 宗教改革のイベント 他地方のイベント
1375年? ウィクリフが教会批判を展開しはじめる
1378年 ウルバヌス6世が教皇に選出されるものの、アヴィニョンでクレメンス7世が対立教皇として立てられる(教会大分裂(シスマ)〜1417年まで)
1381年 ワット・タイラーの乱
1384年 ウィクリフ死去
1396年 ニコポリスの戦い
1397年 カルマル同盟結成
1402年 ボヘミア(ベーメン)でフスの活動始まる
1405年 ティムール死去
鄭和の遠征始まる
1409年 ピサ公会議 アレクサンデル5世が新教皇に選出され教皇が3人に
1414年 神聖ローマ皇帝・ジギスムントがコンスタンツ公会議開催(1418年まで)
1415年 7月6日 フス火刑に処される (百年戦争)アジャンクールの戦い
ポルトガルがセウタを攻略
1419年 フス戦争 開戦
1429年 ジャンヌ・ダルクがオルレアン解放
1434年 フス戦争 終結

ウィクリフの教会批判

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「さて、今回のテーマとなっているカトリック教会の危機の話から始めていきましょう。中世ヨーロッパにおいて、カトリック教会の力は絶対的なものでした。国王や神聖ローマ皇帝に比肩しうる政治力を持ち、寄進や税金を集めて経済的にもたいへん裕福でした。本来、清貧であることを趣旨としている修道院にも金が集まり、裕福な暮らしをしていたわけですね。」
名もなきOL
「一般庶民がギリギリの生活をしていたのとは、だいぶ違いますね。」
big5
「そんな状況に疑問を感じ、教会批判を行ったのがイギリスの神学者・ウィクリフ(ジョン・ウィクリフ John Wycliffe 1324-1384年12月31日)でした。」

John Wycliffe 01
ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe) 製作年:1384年以前 制作者:不明

big5
「ウィクリフはオックスフォード大学の神学教授でした。神学を究めた彼は、金と権力の亡者のようになっているカトリック教会を厳しく批判します。1375年くらいから自説を発表し、多くの支持者を得ました。」
名もなきOL
「ウィクリフさんと同じ気持ちだった人も多かったんでしょうね。でも、カトリック教会はもちろん反発しますよね?」
big5
「当然です。カトリック教会はウィクリフの説を否定し、ウィクリフを異端審問にかけようとしました。しかし、カトリック教会内で大問題が発生したため、ウィクリフ問題はしばらく棚上げとなります。大問題とは、1378年の教会大分裂シスマ)です。」

教会大分裂(シスマ) 1378〜1417年


名もなきOL
「「教会大分裂」って、名前からなんとなくわかる気がするのですが、どんな話なんですか?」
big5
2人の教皇が同時に並立し、お互いに「自分が正統だ」と言って譲らなかったんです。経緯を簡単に説明した方がいいですね。
教会大分裂が起こる前まで、教皇庁はローマではなくフランスのアヴィニョンに置かれていました。「教皇のバビロン捕囚」とか「アヴィニョン捕囚」と呼ばれていますね。1309年から始まったので、70年くらいアヴィニョンが教皇の居場所だったわけですね。
1377年、時の教皇・グレゴリウス11世は、ローマに教皇庁を戻し、アヴィニョン捕囚を終わらせました。しかし、翌年の1378年には亡くなってしまいました。そこで、次の教皇が選出されたのですが、ここで揉め事になります。」
名もなきOL
「何で揉めたんですか?」
big5
「次の教皇として選ばれたのは、イタリアのナポリ出身であるウルバヌス6世でした。ところが、ウルバヌス6世に反発する枢機卿ら(主にフランス人枢機卿ら)が、スイスのジュネーヴ出身であるクレメンス7世の方が教皇に相応しい、と言い始めたんです。両者はともに譲らず、結局ウルバヌス6世はローマに残り、クレメンス7世はアヴィニョンに戻って、お互いに「自分が教皇だ」と主張しました。結果として、教皇が2人いるという事態になってしまったわけですね。」
名もなきOL
「なんか、国王の跡継ぎ争いみたいですね。教会なのに。」
big5
「そうですね。ローマとアヴィニョン、それぞれに教皇がいるという分裂状態は約40年も続きました。これが当時のカトリック教会の実態だったわけですね。」

ワット・タイラーの乱とウィクリフの死 1381年&1384年

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「このような体たらくのカトリック教会を、それ見たことか、とウィクリフはますます批判しました。ウィクリフの説は次第にイングランドで広まっていきます。中でも、とりわけ信者間の平等や教会権威の否定を布教する一派が現れました。彼らはロラード派と呼ばれます。
1381年、大規模な農民反乱であるワット・タイラーの乱が発生しました。ワット・タイラーの乱にはロラード派の人々も多数参加していたようで、特に司祭であったジョン・ボール(John Ball この年43歳?)は
「アダムが耕しイブが紡いでいた時、誰が貴族であったか?」
という有名なセリフを残しています。」


John Ball encouraging Wat Tyler rebels from ca 1470 MS of Froissart Chronicles in BL
反乱軍を鼓舞するジョン・ボール(中央騎馬の人物) ワット・タイラーは左手前赤の服に青のケープをまとった人物
制作者:不明 制作年:1470年?

名もなきOL
「単純ですけど、核心を突いたセリフですね。答えは「貴族なんていなかった」ですもんね。この思想は反乱というよりも革命みたいですよね。教会だけでなく、王侯貴族も危機感を持ったと思います。」
big5
「そうですね。ただ、ワット・タイラーの乱はすぐに鎮圧されてしまい、ジョン・ボールも処刑されてすぐに鎮静化しました。ウィクリフは反乱には加担していませんでしたが、オックスフォード大学を去ることになりました。
しかし、ここで終わるウィクリフではありませんでした。ウィクリフはある革新的な事業を始めました。聖書の英語訳です。」
名もなきOL
「え・・それって、そんなに革新的なんですか?」
big5
「はい、革新的です。というのも、当時の聖書はラテン語で書かれていました。なので、聖書に何が書かれているか、読める人はラテン語を勉強した人だけで、ラテン語を勉強するのは聖職者とか一部の貴族だけだったんです。一般庶民はラテン語は読めません。というか、字が読めませんでした。
そんな中、1382年に時のイングランド王・リチャード2世の王妃としてボヘミア(現在のチェコ)からアンが嫁入りしてきた時に、アンがチェコ語で書かれた聖書を持参したことを知って、自分は聖書を英語訳することを思いついたそうですよ。」
名もなきOL
「なるほど〜。聖職者たちは、聖書を独占していたわけですね。」
big5
「聖書の英語訳という活動もあったため、ウィクリフの主張はイングランド内にどんどん広まっていきました。それから間もない1384年12月28日、ウィクリフは礼拝中に脳卒中を起こして倒れ、3日後の12月31日に死去しました(この年60歳)。
ウィクリフの死後もロラード派は活動を続けましたが、カトリック教会の支配体制を否定する考え方は、異端とされたため、やがて勢いを失っていきました。」
名もなきOL
「まだこの時点では宗教改革には至らなかったんですね。」
big5
「はい、イングランドで宗教改革が行われるのは、これから約200年後、ヘンリ8世の治世になります。
(参考:広がる世界・変わる世界 イギリスの宗教改革)」

フスの活動とコンスタンツ公会議 1415年

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「さて、1384年にウィクリフは亡くなりましたが、その思想を強く受け継いだ人物がいます。ボヘミア(ドイツ語発音はベーメン 現在のチェコ)の神学者、フス(ヤン・フス Jan Hus 1369年頃〜1415年7月6日)です。」

Stimmer Jan Hus
フス 制作者:Christoph Murer 1587

名もなきOL
「フスって、聞き覚えがあります。確か、フス戦争の原因となった人ですよね?」
big5
「よく覚えていますね。そのとおりです。フスは東欧の学問の中心地であったプラハ大学で神学を学び、1393年に学術学士号、1394年に論理学士号、1396年に学術修士号を取り、1401年に哲学部長、1402(この年フス33歳頃)年にはプラハ大学の学長に就任しました。
ウィクリフの話の時に、「ウィクリフが聖書の英訳を始めたきっかけは、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語訳の聖書を持参したことだった」という話をしましたよね。アン王妃の縁で、逆にウィクリフの思想がボヘミアにもたらされ、フスはウィクリフの思想に強く影響を受けました。そして、教会大分裂で内部抗争を繰り返している教会に対し、激しい批判を展開していきました。時のボヘミア王・ヴァーツラフ4世がフスの主張を支持したこともあり、フスの思想はボヘミアに浸透していきました。フスの影響を強く受けた人々は、やがてフス派と呼ばれるようになります。」
名もなきOL
「ウィクリフさんの思想は、フスさんによってボヘミアで盛んになったわけですね。」
big5
「しかし、当然ながらフスの活動はカトリックによって厳しく糾弾されることになります。1414年、ハンガリー王兼神聖ローマ皇帝のジギスムント教会大分裂を終息させるためにコンスタンツ公会議を開催しました。


Sigismund, Holy Roman Emperor
ジギスムント 制作者:デューラー 制作年:1509〜1516年

コンスタンツというのはドイツ南部の町の名前です。(参考:Wikipedia
当時、教皇はなんと3人いたんです。1409年にローマ、アヴィニョン両方の教皇を廃位して、新教皇を立てる、という対策がなされたのですが、両教皇共にこれを拒否。結果として、教皇が3人もいることになってしまっていたんです。」
名もなきOL
「完全にお家騒動ですよね。「神の代理人」の組織とは思えないわ。」
big5
「コンスタンツ公会議の一番の目的は教会大分裂を終息させることでした。これについては、既存の3人の教皇を廃位し、新たにマルティヌス5世を選出する、ということで決着させました。
ついでに、カトリック教会を厳しく批判するフスについても処分を決めます。カトリック教会はフスに自説の撤回を要求しますが、フスは断固拒否。結果、フスは異端者とされ火刑となり、1415年7月6日に処刑されました。」
名もなきOL
「最後まで自分の意思を変えなかったんですね、フスさん。もの凄く信念の強い人だったんですね。」

Jan Hus at the Stake
火刑に処されるフス 

フス戦争 1419〜1434年

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「フスの処刑は、フス派の人々の不満を著しく高めました。これまでフス派を支援してきたボヘミア王ヴァーツラフ4世も、フスが異端者として処刑されたことを受け、態度を変えてカトリックを優遇するようになりました。」
名もなきOL
「フス派の人々は怒り心頭だったでしょうね。」
big5
「1419年、これまでフス派で占められていたプラハの教会のほとんどをカトリックに復帰させる、とヴァーツラフ4世が決定したことがきっかけとなり、フス派がついに暴走。カトリックの市参事会員7人を市庁舎の窓から放り投げて殺害する、という事件が起こりました。この事件は第一次プラハ窓外放出事件と呼んだりします。これに対し、1648年に始まったドイツ三十年戦争の直接の原因となったのは第二次プラハ窓外放出事件と呼ばれたりしますね。」

Liebscher, Adolf - Svr?eni kon?el? s Novom?stske radnice 30. ?ervence 1419
第一次プラハ窓外放出事件

名もなきOL
「プラハでは、人々が怒ると窓から敵を放り投げる傾向があるんですね。」
big5
「そうかもしれません。それはさておき、第一次プラハ窓外放出事件は、フス派がカトリックに挑戦状を突き付けたようなものです。この知らせを聞いたボヘミア王ヴァーツラフ4世はショックで脳卒中を起こしてしまい、間もなく死去。子がいなかったため、神聖ローマ皇帝のジギスムントがボヘミア王となりましたが、フス派は当然認めませんでした。」
名もなきOL
「あれ?なんでジギスムントがヴァーツラフ4世の後継者になったんですか?」
big5
「この二人は異母兄弟なんです。二人の父は名君と名高いカール4世で、ヴァーツラフ4世が兄、ジギスムントは弟でした。ヴァーツラフ4世には継承権を持つ男子がいなかったので、ジギスムントが後継者になったんです。
ですが、フス派が多数となっているボヘミアで、カトリックのジギスムントが王として実効支配することなどできません。そこで、ジギスムントと新教皇マルティヌス5世は十字軍を結成し、異端であるフス派殲滅の戦争を始めました。これがフス戦争です。」
名もなきOL
フス戦争って宗教戦争だったんですね。」
big5
「ヨーロッパほぼ全域を敵に回し、ボヘミアのフス派はすぐに滅ぼされるだろう、と予想されましたが、結果はまったく逆でした。フス派は送り込まれた十字軍を何度も撃退し、フス戦争は長期化しました。」
名もなきOL
「フス派は強かったんですね。何か理由があるんですか?」
big5
「要因の一つは、フス派の指導者となったヤン・ジシュカが行った原始的な銃を使った戦術が騎士中心の十字軍を圧倒したことが挙げられますね。」

Statue of Jan ?i?ka on the Vitkov Hill, Prague, Czechia
ヤン・ジシュカ 騎馬像 設立:2004年2月 場所:プラハ

big5
「またフス派の軍の構成も特徴がありました。中世の軍隊は、騎士や傭兵で構成されるのが普通なのですが、フス派は貴族や庶民が信仰の下で一致団結し、近代以降の国民軍のような構成だったんです。ヤン・ジシュカは軍の主力を原始的な銃を持つ歩兵としたため、子供や女性でも銃兵として参戦するケースがあったそうです。
このような要因でフス派は長期に渡って頑強に抵抗したのですが、やがてフス派内部で穏健派と強硬派に分かれて揉めるようになり、内輪もめで1434年に穏健派が強硬派を撃破。フス派はカトリックと和解して15年にわたってフス戦争は終結しました。」
名もなきOL
「結局、フス派はカトリックに認められたんですか?」
big5
「認められました。なので、フス派の「信仰を守る」という目的は達成されました。また、チェコ語の公用語化、一部カトリック教会の財産没収など、和睦内容を見るとフス派に有利なものが多いです。その代わり、ジギスムントは名実ともにボヘミア王であることが認められました。
こうして、フス派は信仰の自由を勝ち取ることに成功し、事態は沈静化しました。しかし、この約100年後の1517年にルターの宗教改革が始まり、さらに200年後にドイツ三十年戦争が始まるなど、ボヘミアにおける宗教事情は再び戦乱の火種となりました。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

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「今回まとめた「教会大分裂とフス戦争」について、大学入試共通テストでは時折出題されます(特に再試験で)。試験前に復習しておくと効率がいいかもしれません。」

令和5年(2023年)本試験 問題28 選択肢A
・聖職者(司祭)のジョン=ボールが「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」と説教し、農民一揆を指導した。〇か×か?
(答)〇。「農民一揆」はワット・タイラーの乱のことを指していると考えられるので、この文章は正しいです。〇。なお、問題は28は4択問題で、これが正解の選択肢でした。

令和3年(2021年)再試験 問題14 選択肢A
(問題)空欄イには、かつて連合王国を形成していた国の名が入る。ジャガイモ飢饉以降のイに関する出来事として最も適当なものを選べ。
Aワット=タイラーが指導する農民反乱が起こった。
(答)Aの内容自体は正しい。しかし、イはアイルランドが該当する。ワット・タイラーの乱は上記の通りイングランドで起こった農民反乱なので、Aは不適となる。

令和2年(2020年)再試験 問題29
(問題)空欄イに当てはまる語を選べ。
他方、南フランスの諸侯に保護されていたイも異端とみなされ、13世紀にアルビジョワ十字軍による武力弾圧を受けた。
@カタリ派 Aフス派
(答)@カタリ派。Aフス派は上記の通り、ボヘミアで広まった信仰。十字軍の侵攻は受けたが、15世紀のフス戦争と説明されるべきなので、Aフス派は正しくない。
カタリ派とアルビジョワ十字軍、これが南仏の話であることは、世界史選択の受験生なら知っておくべき知識です。

平成31年(2019年)再試験 問題6 選択肢C
(問題)フランスで、ワット=タイラーが指導する農民反乱が起こった。〇か×か?
(答)×。上記の通り、フランスではなくイングランド(イギリス)です。





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参考文献・Web site