big5
「今回のテーマはワシントン体制とロカルノ体制と題しまして、第一次世界大戦後に進められた国際協調と平和への取り組みについて紹介していきます。」
名もなきOL
「こないだのヴェルサイユ体制の他にも「〇〇体制」があるんですね。」
big5
「ヴェルサイユ体制は問題をいろいろと残している仕組みでしたが、目指すところは国際協調と平和でした。そこで、ヴェルサイユ体制を補完するような仕組みが構築されていったわけです。まず、アメリカ主導で作られたワシントン体制。これは四か国条約、九か国条約、海軍軍縮条約の3本柱で構成されており、それぞれ太平洋、中国に関する現状維持と紛争回避への取り組みが定められました。ロカルノ体制は、ドイツの国際社会への復帰とヨーロッパの集団安全保障、さらにはパリ不戦条約という画期的な条約がポイントです。また、ドイツの賠償金問題についても対応しています。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」
年月 | ワシントン&ロカルノ体制のイベント | それ以外のイベント |
1921年11月 | ワシントン会議 始まる | |
1921年12月 | 四か国条約 締結 | |
1922年 | 九か国条約 海軍軍縮条約 締結 | ドイツとソ連がラパロ条約 締結 |
1923年 | フランスとベルギーのルール占領 | ヒトラーのミュンヘン一揆 |
1924年 | ドーズ案成立 | |
1925年 | ロカルノ条約 締結 | |
1926年 | ドイツが国際連盟に加盟 | |
1927年 | ジュネーヴ軍縮会議が失敗に終わる | |
1928年 | パリ不戦条約 締結 | |
1929年6月 | ヤング案 発表 | |
1929年10月 | 世界恐慌 始まる | |
1930年 | ロンドン軍縮会議 | |
1931年 | フーヴァー=モラトリアム | 満州事変 |
1932年 | ローザンヌ会議 | |
big5
「さて、ワシントン体制とロカルノ体制のうち、先に成立したワシントン体制を見ていきましょう。まず、ワシントン会議は名前の通り、アメリカのワシントンで開催されました。つまり、会議の主催者はアメリカ(時の大統領はハーディング(Harding この年56歳 共和党)でした。ヴェルサイユ体制のページで学んだように、アメリカは国際連盟には加入していません。そこで、独自の外交で国際協調と外交戦略を進めていったわけですね。ワシントン会議の参加国は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本、中国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの9か国になります。なぜこの9か国なのかは、後で説明します。」
名もなきOL
「アメリカはどんな狙いでワシントン会議を開催したんですか?」
big5
「それは、これから説明する3つの条約からアメリカの戦略が想定できます。まず、最初に締結されたのが四か国条約です。締約国はアメリカ、イギリス、フランス、日本で、太平洋における各国の勢力範囲の現状維持を確認したものになります。」
名もなきOL
「そっか、イギリスやフランスは太平洋にも植民地を持ってますもんね。アメリカも、ハワイを併合してフィリピンも持ってました。日本は・・あれ、日本は太平洋に植民地を持っていましたっけ?」
big5
「はい。ヴェルサイユ条約でドイツ植民地だったパラオやマーシャル諸島は日本の委任統治領となっていました。委任統治領といっても、実質は植民地です。日本の領域は太平洋の西側に大きく拡張されていたんです。」
名もなきOL
「そうでした。それでこの4国で太平洋における勢力圏の確認をしたわけですね。でも、それだけですか?現状維持の確認だけでは、教科書に載るほど重要な話でもないような・・・」
big5
「OLさん、鋭いですね。もちろん、他にも取り決めがありました。まず、太平洋で紛争が生じた場合、まずは平和的に会議で解決しようとすること、そして日英同盟の破棄です。これより約20年前、日露戦争前の1902年に結ばれた日英同盟は更新されずに失効しました。4か国条約が日英同盟の代わりの条約のようになったわけですね。既に東アジアにおけるロシアの脅威は消え去り、日英同盟の当初の目的は既に達成されていました。この20年で世界情勢は大きく変わったので、同盟関係も再度見直された、ということですね。
ただ、日英同盟破棄の要因は他にもあったのではないか、と思います。よく言われているのは、アメリカが日本と戦争になった場合、イギリスは日英同盟に基づいて日本側で参戦しなければならなくなることを避けるため、というものです。」
名もなきOL
「そっか!実際、太平洋戦争の時にはアメリカもイギリスも日本の敵でしたもんね。日英同盟がもし存続していたら、そうはならなかったのかもしれませんね。」
big5
「はい。ですが、これは結果に基づいた推論に過ぎません。実際、どのような思惑があったのかを調べるのはかなり困難でしょう。いずれにしろ、日英同盟は消滅し、太平洋における4か国の勢力圏の維持と協調を確認したのが四か国条約です。」
big5
「次に九か国条約です。九か国条約は、ワシントン会議に参加した9か国で締約されたのですが、OLさんはなぜこの9か国が締約国なのか、わかりますか?」
名もなきOL
「なんだろう・・・う〜〜〜ん、難しいです。。」
big5
「答えは中国に利権を保持していた国、です。イギリス、フランス、日本は比較的大きい植民地を持っていました。ポルトガルもマカオを植民地にしていましたし、アメリカ、イタリア、オランダ、ベルギーは植民地というほど大きくはないですが天津や上海の「租界」に治外法権を持ったエリアを持っていたんです。なので、これらに中国を加えた9か国で、中国における中国の主権尊重、領土保全と門戸開放、機会均等が再確認されました。アメリカにとっては、1899年にジョン・ヘイが出した門戸開放宣言を、締約国にハッキリと認めさせた、という条約になります。」
名もなきOL
「領土保全と言いながら、列強は植民地を手放さないわけですから、これも建前だけですね。他には、どんな取り決めがあったんですか?」
big5
「日本がドイツから引き継いだ山東省における権益を、中国に返還することになりました。山東権益問題については、もう一度流れを復習しておきましょう。第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本は、ドイツ植民地に攻め込んでこれを占領しました。1915年には袁世凱に21か条の要求を突き出して山東省における権益を認めさせます。1917年には日本とアメリカの間で石井・ランシング協定が結ばれ、アメリカは日本の山東省権益を認めました。さらに、イギリスとフランスにも、山東省の権益を日本が引き継ぐことを認める秘密協定を結んでいたので、ヴェルサイユ条約では山東省権益は日本のものとなりました。北京の民衆がこれに抗議して五・四運動が起きたわけですね。」
名もなきOL
「日本がしっかりと根回しをしておいたわけですね。中国には可哀想ですが、当時の国際政治ではこのような話はわりと普通にある話ですよね。でも、それが9か国条約で覆されてしまったわけですか。あれ?これはつまり・・・」
big5
「はい、アメリカは日本が中国に進出するのを妨害したわけですね。その理由はもちろん、中国におけるアメリカ勢力の入り込みを狙っていたことでしょう。こうして、半植民地化していた中国は、山東省のみ日本から返還されただけで、他の列強支配地域はそのままになったわけです。」
big5
「最後は海軍軍縮条約です。名前の通り、海軍の軍備を削減しましょう、という条約です。ワシントン会議では、海軍の主力となる戦艦の保有比率をそれぞれ
米:英:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67
と定めました。」
名もなきOL
「日本はアメリカ&イギリスに次いで2番目の保有数なんですね。でも、なんで海軍だけ軍縮なんですか?陸軍はしなかったんですか?」
big5
「戦艦は、建造にも運用にも莫大なお金がかかるから、というのが一つの理由ですね。アメリカやヨーロッパ諸国は、第一次大戦からの経済復興を優先させたいので、関係各国で戦艦の保有数の足並みを揃えて一国だけが突出しないようにしたんです。また、軍備の縮小は国際平和への第一歩、ということで大義名分も立ちます。」
名もなきOL
「なるほど、アメリカは上手く考えているわけですね。国際協調と戦後の復興という大義名分の裏で、自分の利益はしっかりと確保していくという、やり手ですね。」
big5
「こうして、国際連盟にアメリカは独自の外交で第一次大戦後の秩序を形成していきました。これは、ヴェルサイユ体制を補完するような仕組みだ、ということでワシントン体制と呼ばれます。ワシントン体制によって、太平洋や中国の秩序を維持し、海軍軍縮条約で海軍への投資をばるべく減らして経済復興を優先させた、ということでワシントン体制はアメリカの外交的勝利、と言われたりもしますね。
なお、海軍軍縮条約には続きがあります。1927年、アメリカ大統領・クーリッジがジュネーヴ軍縮会議を主催しました。参加国は、ワシントン海軍軍縮条約と同じ米英日仏伊だったのですが、フランスとイタリアは不参加。アメリカ、イギリス、日本の3国で会議となりましたが、アメリカとイギリスの意見が合わずに失敗に終わっています。」
名もなきOL
「失敗してしまった会議もあるんですね。」
big5
「その後、1930年にイギリス首相・マクドナルド(労働党 この年64歳)がロンドン軍縮会議を主催。参加国は同じく米英日仏伊の5か国ですが、同じくフランスとイタリアは不参加。アメリカ、イギリス、日本の3か国会議で、補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とすることに決まりました。
ロンドン軍縮会議も難航し、ジュネーヴ軍縮会議のように失敗しかけたのですが、この時既に世界恐慌が始まっており、3国ともに軍事費を削減したいという共通の意思を持ち合わせていたので、なんとか合意に至りました。この時、日本の決断は「良識ある妥協」として国際的に評価されています。
しかし、日本国内では軍部と右翼が「政府が軍縮会議で軍備削減に同意するのは、天皇の統帥権を侵害している」という統帥権干犯問題が持ちだされてしまいます。その結果、日本の首相・浜口雄幸(はまぐち おさち)が東京駅で銃撃されて重傷を負い、その翌年に負傷が元で死去する、という事件が起きました。日本では、軍部による政治への干渉が進むきっかけになった、というのはなんとも皮肉ですね。」
big5
「ヴェルサイユ条約で問題視された内容の一つは、賠償問題です。1320億金マルクという、現実性が無いほど高額な賠償金を課せられたドイツは、本当に賠償金を払えるのか?どうやって払うのか?という問題が残りました。
1923年1月、賠償金を支払えないドイツに対し、フランスとベルギーは工業地帯であるルール(Ruhr)地方を占領する、という実力行使に出ます。ルール占領です。」
big5
「多くのドイツ国民は怒りを感じましたが、これに抵抗できるだけの力はありません。そこで、ドイツは労働者によるゼネストなどの「消極的な抵抗」を見せました。しかし、消極的抵抗では収まらない人々もいました。その一人が、ヒトラー(Hitler この年34歳)です。ヒトラーらは、ドイツ政府を弱腰と批判し、11月にミュンヘンで蜂起しました。これをミュンヘン一揆と言います。この一揆は鎮圧され、ヒトラーは逮捕されて5年の禁固刑が科せられました。この間、獄中で口述筆記されたのが『わが闘争』です。
ヒトラーのような過激派の蜂起は鎮圧されたものの、心情的には過激派に同情するドイツ人は多く、一つ間違えば再び戦争が始まるかのような状態です。ルール占領によって、ただでさえ進行していた物価高がハイパーインフレーションと呼ばれる、常軌を逸したインフレが引き起こされました。こちらは、1kgのライ麦パンの値段の推移を示した表です。」
日付 | 価格(マルク) | 歴史事件 |
1914年12月 | 0.32 | 第一次大戦開始時期 |
1918年12月 | 0.53 | 第一次大戦末期 |
1922年12月 | 163.15 | 九か国条約 締結年 |
1923年4月 | 474 | ルール占領の年 |
1923年6月 | 1,428 | |
1923年8月 | 69,000 | |
1923年9月 | 1,512,000 | |
1923年11月 | 201,000,000,000 | |
1923年12月 | 399,000,000,000 | |
名もなきOL
「もう、信じられないくらいの物価高ですね。こんな状況じゃ、賠償金の支払いなんてできないのも納得です。でも、フランスも賠償金を取れなかったら納得できないですよね?どういう風に解決しようとしたんですか?」
big5
「まず、1923年に時のドイツ首相・シュトレーゼマンがレンテンマルクを新たな通貨として発行しました。1レンテンマルク=1兆マルクです。いわゆる「通貨の切り下げ」ですね。それに加えて出てきたのがドーズ案です。」
big5
「1924年8月、アメリカの財政家・ドーズ(この年59歳)は、賠償金の支払いを数年間は軽減させると共に、支払い通貨はマルクでも可、という案を提案しました。最終的に、連合国側もドイツ側もドーズ案を受け入れ、フランスとベルギーはルールから撤退。戦争の危機は回避されました。賠償問題も一時的に沈静化します。ドーズはこの功績が認められて、1925年にノーベル平和賞を贈られています。」
名もなきOL
「ドーズさん、すごいですね!ノーベル平和賞をもらったのも納得できます。」
big5
「そうですね。ただ、ドーズ案にも欠点がありました。それは、1320億金マルクという総額は変えなかったという点です。そのため、賠償問題はこれで解決、とはならなかったんです。賠償問題については、後述する1929年のヤング案で再び修正されることになります。とは言え、戦争の危機を回避したドーズ案は大きな役割を果たしたことは間違いないですね。」
big5
「賠償問題が一段落したところで、ヨーロッパでは平和維持のための新たな取り組みが行われました。1925年12月に締結されたロカルノ条約です。ドイツ外相・シュトレーゼマン(Stresemann この年47歳)の提案に基づいてスイスのロカルノで会議が行われました。参加国はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、ポーランド、チェコスロヴァキアの7か国です。内容は
(1) ラインラントの現状維持(ライン左岸(西側)は連合軍が15年間占領、右岸(東側)は幅50kmに渡って非武装地帯とする)と相互不可侵
(2) 紛争の際には仲裁裁判所で取り扱う。それでも解決しない場合は国際連盟理事会が仲裁を行う
といった内容です。」
名もなきOL
「ラインラントの現状維持は、ドイツにとっては不利な内容のままなんですね。でも、紛争に関しては仲裁裁判所を通すとか、国際連盟で議論するとか、ルール占領みたいにすぐに武力に訴えないようにする、というのはいい事だと思います。」
big5
「はい、そのとおりです。ロカルノ条約のポイントは、敗戦国であるドイツをヨーロッパの国際政治の舞台に加えたこと、と言えます。これには、要因が一つありました。1922年にドイツとソ連が締結したラパロ条約です。ラパロ条約で、ソ連とドイツはお互いに領土や賠償金の要求はすべて放棄し、国交を正常化させた、いわばドイツ・ソ連の友好条約といえるものでした。つまり、国際的に孤立していたソ連が、敗戦国であるドイツを自分の側に引き入れた、ともいえる条約です。このような動きは、連合国側でも警戒されるものでした。ロカルノ条約は、ドイツを連合国側に引き戻すための最初のきっかけにもなったわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。国際政治は奥が深いですね。確かに、ドイツをのけ者にし続けていたら、のけ者同士が連合して対抗勢力になる、というのは会社でもしばしばありますからね。」
big5
「そして、翌年の1926年にはドイツが国際連盟に加入しました。これで、敗戦国・ドイツはほぼ完全に西側諸国の枠組みにも参加することになったわけです。これらの功績で、シュトレーゼマンは1926年にノーベル平和賞を受賞しました。」
big5
「平和ムードが高まる中、画期的な条約が誕生しました。1928年に締結されたパリ不戦条約(単に「不戦条約」とも。)です。提唱者の名前に基づいてケロッグ・ブリアン協定ともいいます。参加国はアメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・日本など15か国で、最終的には63か国まで増えました。内容は、紛争解決の手段として、戦争を用いることを放棄する、というものでした。」
名もなきOL
「え!?戦争放棄って、これって凄い条約なんじゃないですか!・・でも、このあと第二次世界大戦が起きるわけですよね?ということは・・・どういうことですか?」
big5
「一言で言えば、残念ながらパリ不戦条約は守られなかった、ということです。不戦条約の発端は、アメリカ国務長官・ケロッグ(Kellogg 1928年で72歳)とフランス外相・ブリアン(Briand 1928年で66歳)が、アメリカ・フランス間で不戦条約を締結しようとしていたところ、ケロッグがこれを一般化することを提唱し、パリで国際会議となったものでした。結果として、残念ながら不戦条約は破られてしまったのですが、不戦条約の存在はぜひ皆さんに知ってもらいたいことですね。第一次世界大戦後、国際社会は平和な世界を目指して不戦条約を締結することができた、という事実は貴重なものである、と私は思います。
このように、第一次世界大戦後の世界は、やや問題を残したヴェルサイユ体制を補完するかのようにワシントン体制、ロカルノ体制が築かれ、国際平和への道のりを歩んできました、というのが重要です。」
名もなきOL
「同感です。そして、私たちの世代で、不戦条約が破られることのない、平和の世界を実現できればいいですね。」
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