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「今回の主題はフィリップ4世と教皇のバビロン捕囚です。十字軍時代が終わった後、カトリック世界における教皇の威信は少しずつ下がっていったのですが、その象徴ともいえる事件がアナーニ事件と教皇のバビロン捕囚です。これらの結果、教皇庁はローマからフランスのアヴィニョンに移動することとなり、しばらくの間はフランス人が教皇位を独占する状態が続きました。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。
| 年月 | 本編のイベント | 他地域のイベント |
| 1285年 | フィリップ4世 即位 | |
| 1291年 | スイス独立 | |
| 1294年 | 教皇ボニファティウス8世 即位 | |
| 1295年 | (英)エドワード1世が模範議会開催 | |
| 1299年 | (土)オスマン1世が建国(後のオスマン帝国) | |
| 1302年 | 三部会 開催 | |
| 1303年 | アナーニ事件 ボニファティウス8世死去 | |
| 1309年 | 南仏のアヴィニョンに教皇庁を開設 教皇のバビロン捕囚 | |
| 1314年 | テンプル騎士団を解散させて財産没収 フィリップ4世死去 |
|
| 1328年 | カペー朝断絶 ヴァロワ朝の始まり | |
| 1333年 | (日)鎌倉幕府滅亡 | |
| 1338年 | (日)足利尊氏が室町幕府を開く | |
| 1339年 | 百年戦争 開戦 | |
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「さて、まずは本編の主人公となるフランス王フィリップ4世(1268-1314年)から見ていきましょう。」
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「フィリップ4世の父はフィリップ3世、祖父は聖王と称されるルイ9世です。あだ名はフランス語で"le Bel(ル・ベル)"で、日本語訳は「端麗王」とか「美王」となっています。実際、同時代の記録や残されている証言を見ると、フィリップ4世の美しい容姿を褒める記録が多いそうです。
さて、美しきフィリップ4世ですが、高校世界史では彼の治績としてだいたい以下3点が挙げられることが多いです。
1.三部会を開催した。
2.アナーニ事件でボニファティウス8世を憤死させた。
3.教皇庁を南仏アヴィニョンに移し、教皇のバビロン捕囚を実行。
4.テンプル騎士団を解散させて財産没収。
それぞれの内容を順に見ていきましょう。」
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「フィリップ4世の時代、フランスはイングランドやフランドル地方との戦いを繰り返しており、イングランド王のように戦費調達のために課税を強化する必要がありました。フィリップ4世の場合、課税対象が教会や修道院に及んだことが特徴です。これに対し、時の教皇
ボニファティウス8世(1235?-1303年)は当然大反対です。」
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「フランス国王が教会や修道院に課税するなどとんでもない、というわけですね。そこで、1302年にフィリップ4世がフランス国内での支持を取り付けるために開いた議会が三部会(さんぶかい)です。三部とは三つの身分のことで、第一身分が聖職者、第二身分が貴族、第三身分が都市の商人や農民の代表で、この三身分で構成されるものでした。イギリスのエドワード1世の模範議会と同じように、フランス史におけるたいへん重要な議会です。この時代から約500年後、フランス革命の始まりのイベントとして三部会が再登場します。三部会では教会や修道院に課税するという案は賛成でした。これを背景に、フィリップ4世は課税を強行したため、ボニファティウス8世はフィリップ4世を破門しました。こうしてフランス王フィリップ4世 vs 教皇ボニファティウス8世の対立が始まったわけです。
翌年の1303年(この年ボニファティウス8世68歳くらい)、教皇ボニファティウス8世と対立していたイタリア貴族のコロンナ家とフィリップ4世の腹心の部下が、ボニファティウス8世が滞在していたアナーニ(ローマの東南東にある町)に押しかけ、教皇弾劾の公会議を開くから出席しろ、と脅しました。しかし、ボニファティウス8世はこれを拒否。ならば力づくで、ということでボニファティウス8世は殴られたうえに着用していた冠と服を奪い取られる、という屈辱を受けました。結局、ボニファティウス8世を連行することはできなかったのですが、翌月にボニファティウス8世は死去しました。歴史の教科書ではよく「屈辱を受けた悔しさと怒りで憤死した」と書かれています。これがアナーニ事件です。かつて、神聖ローマ皇帝が教皇と対立したカノッサの屈辱とは立場が逆転しており、アナーニ事件は教皇権失墜の象徴的な事件として考えられています。」
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「ボニファティウス8世が亡くなったので、次の教皇を選ぶ必要がありますが、これがなかなか決まりませんでした。結局、1305年にフランスのボルドー大司教がクレメンス5世として教皇に選出されましたが、これはかなり異例の選出です。というのも、教皇は枢機卿の中から選ばれるからです。枢機卿ではなく大司教の人物がいきなり教皇に選出されたのは異例中の異例です。
<カトリック教会の役職>
1.教皇(英:Pope) 企業で例えるなら社長
2.枢機卿(英:Cardinal) 企業で例えるなら本部長クラス
3.司教(大司教)(英:Bishop 大司教は Archbishop) 企業で例えるなら課長クラス
4.司祭(英:Priest) 企業で例えるなら主任・係長
5.その他教会の使用人など 企業で例えるなら平社員・派遣社員
1309年には南仏のアヴィニョンに豪華な新しい教皇庁を作り、ローマではなくアヴィニョンで教皇の仕事が行われるようになりました。これを、聖書の故事になぞらえて教皇のバビロン捕囚とか教皇のアヴィニョン捕囚と呼んだりします。アヴィニョン教皇庁は、1377年にグレゴリウス11世がローマに戻るまでの約70年間続きました。
捕囚というと、鎖につながれて過酷な労働を強いられるイメージがありますが、実際にはまったくそのようなことはありません。なお、アヴィニョン教皇庁は世界遺産に指定されています。」
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「ここからは余談です。
上の話だけで考えると、多くの人はボニファティウス8世のことを「教皇権衰退のシンボルで、憤死という悲しい最期を遂げた可哀そうなお爺さん」という印象を持つ人が多いのではないでしょうか?私も学生時代はそんな印象を持っていたのですが、実際のボニファティウス8世は「可哀そうなお爺さん」とはだいぶ違います。
ボニファティウス8世は華美で派手なものを好み、宝石をちりばめた服や豪華な食事と酒を好むという、「清貧」とはかけ離れた生活を楽しんでいました。そもそも、教皇に選出された経緯もいわくつきです。ボニファティウス8世の前の教皇はケレスティヌス5世という人だったのですが、ケレスティヌス5世は教皇に選出された半年後に自ら退位しました。教皇は終身制なので、生前退位は異例中の異例です。退位の理由として、夜な夜な「教皇を辞して隠遁生活に入れ」という声が聞こえる、ということで衰弱したとなっているのですが、これを仕組んだのはボニファティウス8世である、という説を取る歴史書が多いそうです。
一方で、ボニファティウス8世は文化と学術の保護育成に貢献したのも事実です。書庫の充実・拡充を図ったり、芸術家を支援するパトロン活動を行っていました。
ダンテとの関係
『神曲』で有名なダンテはボニファティウス8世をかなり嫌っていました。『神曲』の中で、ボニファティウス8世を「地獄に落ちた教皇」として登場させ、逆さまに生き埋めにされて焼き殺される、という話にしています。この理由は、ダンテとボニファティウス8世が政治的に対立していたことが原因でしょう。ダンテはフィレンツェの重鎮として市政に携わっていたのですが、フィレンツェを教皇の支配下に置こうとするボニファティウス8世と激しく対立し、結果的にダンテはフィレンツェから追放されています。当然、ダンテがボニファティウス8世を良く思うはずがありません。
この頃から、教皇の世俗化はかなり進展しており、ルネサンスが盛んになって文化的繁栄を迎えることになるのですが、その萌芽はこの頃から出ていた、と考えることもできそうです。」
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「フィリップ4世の最後の治績が、テンプル騎士団の解散と財産没収です。テンプル騎士団は、十字軍時代の最初のほうに設立され、1291年にエルサレム王国のアッコンが陥落して十字軍時代が終わった後は、ヨーロッパ各地に支部を作って金融業を営んで、カトリック世界で政治力を保っていました。フィリップ4世は、テンプル騎士団に異端の嫌疑をかけて総長のド・モレーらを逮捕し、裁判で有罪としてテンプル騎士団の解散を命令。ド・モレーらは火刑に処されました。この時、ド・モレーはフィリップ4世に呪いをかけた、と言われています。実際、フィリップ4世はその後しばらくして倒れて急逝しました。フィリップ4世の子供たちも、王に即位してもすぐに死んでしまったため、1328年にフィリップ4世の直系男子は断絶。このため、ユーグ・カペーから始まったカペー朝は約350年の歴史をもって断絶となり、フィリップ4世の甥がフィリップ6世となりました。フィリップ6世から始まるフランス王家はヴァロワ朝と呼ばれています。
そして、カペー朝の断絶によって、イングランド王エドワード3世が「自分はフィリップ4世の孫(母がフィリップ4世の娘)だ」という理由でフランス王位を要求したことから、百年戦争が始まり、中世は終盤を迎えることになります。
というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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