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「今回は「広がる世界・変わる世界」の詳細篇ということで、ポルトガル海上帝国(Portuguese Empire)について、本編よりも詳しく見ていくぜ!」
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「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
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「さて、まずは歴史用語のポルトガル帝国の意味合いから確認するぜ。ポルトガル帝国というと、大航海時代から1999年のマカオ返還までのポルトガル本国&植民地の国を指す言葉だ。地図で示すと以下のようになる。」
1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域
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「注意点が一つ。500年間ずっとこの領域を支配していたわけではない、ということです。この章で扱うのは大航海時代の後半、16世紀頃のポルトガル領&勢力圏を示している水色のエリアになりますね。」
年月 | ポルトガルのイベント | 他地域のイベント |
1495年 | マヌエル1世即位 ユダヤ教徒・イスラム教徒国外追放 | |
1505年 | マヌエル1世がインド総督(副王)としてアルメイダを派遣 | |
1506年 | マヌエル1世が香料貿易を王室独占とする | |
1509年 | 2月 ディウ沖の開戦でエジプトに勝利 | |
1510年 | ポルトガルのアルブケルケがインドのゴアを占領し拠点とする | |
1511年 | ポルトガルのアルブケルケがマラッカを占領 | |
1513年 | バルボアがパナマ地峡を横断し太平洋岸に到達 | |
1515年 | ポルトガルのアルブケルケがペルシア湾のホラズムを占領 12月 アルブケルケ死去 |
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1517年 | ルターが宗教改革を開始 | |
1519年 | マゼランが世界周航へ出発 | |
1521年 | マヌエル1世はマヌエル法典を発布 | コルテスがアステカ帝国を征服 |
1522年 | マゼランの部下が世界周航を達成 | |
1527年 | ポルトガル初の国勢調査 | |
1529年 | サラゴサ条約 | |
1531年 | ピサロがインカ帝国を征服 | |
1536年 | 異端審問所設立 | |
1543年 | 種子島に漂着 日本に鉄砲伝来 | |
1547年 | 異端審問所が最初の禁書目録作成 | |
1549年 | フランシスコ・ザビエルが日本に布教開始 | |
1554年 | マカオに拠点確立 | |
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「ポルトガル海上帝国の基礎を築いたのは、初期にインド総督(副王)に任命されたアルメイダとアルブケルケだ。まずはアルメイダから見ていこう。」
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「フランシスコ・デ・アルメイダ(Francisco de Almeida 1450年頃〜1510年3月1日 以下、「アルメイダ」と記載。)はポルトガルの貴族で、1492年のグラナダ攻略戦にも参戦していたそうです。1505年(この年55歳?)、マヌエル1世からインド総督(副王)に任命され、1500の兵と21隻の船でインドへ向かいました。目的はインドとの香辛料貿易航路の確保です。軍を率いたのは、敵対が予想されるイスラム勢力や反抗的なインド勢力を力でねじ伏せるためでした。余談ですが、この船団には後に世界周航に挑んだマゼランも参加していました。」
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「1506年に東アフリカのソファラとキルアを征服し、インドに到着するとカナノールとコーチンに拠点となる要塞を建築しているぜ。1509年にはディウ沖の海戦でエジプト(ヴェネツィアの支援付き)と交戦し、これを破っているぜ。」
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「ただ、それから間もない1509年11月、新たなインド総督としてアフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque 1453年〜1515年12月16日 以下、「アルブケルケ」と記載。)が任命されています。何があったのか詳細は不明なのですが、Wikipedia日本語版によると、アルメイダのインド統治の方針がマヌエル1世に認められなかった、というのが要因のようですね。『図説ポルトガルの歴史』では、アルメイダが海洋戦略にこだわったのに対し、アルブケルケは地上での要塞増強を主張したため、両者は対立していた、と説明しています。」
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「その辺りの詳細はまた機会があったら調べるとしよう。
余談になるが、アルブケルケの肖像は上半身と下半身がアンバランスだな。上半身が大きいのに対し、下半身は小さい。アルメイダも同様のタッチで描かれているが、これはまだ人間として標準的なばらんすになっていると思う。まぁ、それもさておき。
アルブケルケは、航路に近い陸上拠点の増強に力を注いだ。具体的には、1510年にインド西岸のゴア占領だ。インドにおけるポルトガルの拠点として有名かつ重要な知識だな。その後も、1511年に東南アジアのマラッカを占領、1512年に部下のセランをモルッカ諸島に派遣してテルテーナ島に到達し、丁子やナツメグなどの高級香料にもアクセスしている。そして、1515年にはペルシア湾のホラズムを占領した。」
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「ここまで見てきたように、ポルトガルは短い期間にポルトガルからインドまでの航路の安全を確保するために、海上覇権を確立させている。アルメイダの派遣から数えれば、わずか10年だ。この短期間で、ここまで制覇できた理由としてよく挙げられているのが
- 進んだ帆船と強力な大砲
だな。インド航路を開拓するために改造・改良を重ねられた帆船に航海術。そして大砲を主力とした戦術など、当時のポルトガルはインドやイスラム勢力を上回っていた、ということだな。」
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「また、ポルトガル海上帝国の構成は「点と線」と表現されることが多いですね。勢力圏の広さに惑わされがちですが、広い勢力圏のほとんどは海です。陸地は、本国以外は沿岸部だけです。ポルトガルが押さえているのは航路とそれに付随する拠点となる港や要塞、貿易用の商館がほとんどです。スペインのように、アステカ帝国やインカ帝国を滅ぼして,u>植民地として支配する形態とはまったく違うわけですね。」
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「その通りだな。だが、例外的に都市として発展したのがインドのゴアだ。ゴアはインド州の州都扱いとなっていたので、都市として開発が進められたんだ。マントヴィ川とズアリ川の間の中州に本国並みの建物が建設され、市参事会も設置された。セミナリオ、コレジオなどの教育機関兼キリスト教施設も建設され、インドにおける政治・経済・宗教の中心地として発展したんだぜ。意外なことに、ポルトガル人はヒンズー教徒との結婚が推奨されていたそうだ。このように発展したゴアは、1540年時点でヨーロッパ系の住民は1万人いた、と記録されているそうだぜ。
ゴアの繁栄を伝える史料はいくつかあるそうだが、『図説ポルトガルの歴史』では、『東方案内記』(ヤレ・ハイヘン・ファン・リンスホーテレ著)を紹介している。それによると・・・
直線通りでは宝石、絨毯、香料をはじめアラビア馬、奴隷から身の回りの品々まであらゆる商品が競売にかけられた。市は日曜日を除いて朝7時〜9時まで開かれ、誰でも参加できた。
と記述されているそうだ。」
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「さて、次はポルトガル海上帝国経済の要である香料貿易(胡椒貿易、とも)について見ていこう。
ポルトガル王マヌエル1世は、アルメイダを派遣した翌年の1506年、香料貿易は王室独占事業とすることを決めた。莫大な利益が見込まれるから、それを全部国王のものにしようとしたわけだな。このおかげで、ポルトガル王はヨーロッパでもトップクラスの金持ち国王になることができた。ただ、独占と言っても完全100%独占ではなかったようで、イタリアのアフィターデ家、マルキオーニ家、ドイツのフッガー家など、当時のヨーロッパ豪商の事業参入は認めたり、公債を交わせて資金調達もしている。
なお、後の時代には王室独占の弊害も出てくるんだが、それについては後で述べよう。」
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「交易を統括する担当省としてインド商務院がリスボンに設置された。インド商務院は海外からの商品すべてを取り扱いました。そのために、貿易船はすべてリスボンに入港させ、積荷をチェックしていたそうです。1518〜19年における海外収入は国家収入の63%を占めたそうです。」
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「さて、次に世界周航のマゼランにモルッカ諸島、そして1529年のサラゴサ条約について見ていこう。本編でも概要には触れらているので、ここでは本編で割愛した分を補足しよう。
まず、マゼランは知っての通りアメリカ大陸の南端をぐるっと回って太平洋に出て、フィリピンまでたどり着いたのが、彼がそんな冒険に挑戦したのは、上述のとおりポルトガルのセランが1512年にモルッカ諸島を発見したからだ。マゼランはそれを知り、ならば逆側から(東側から)でもモルッカ諸島に行けるはず、とふんで出発したんだ。マゼラン本人はフィリピン住民との戦闘で戦死してしまったのだが、マゼラン艦隊は部下の一人であるエルカーノが引き継いで航海を続けた。その結果、1521年にモルッカ諸島の一つであるティドーレ島に到達した。そして、エルカーノらはここをスペイン領だと主張した。当然、ポルトガルは自分たちが先に発見した、といって領有権を主張してもめるわけだ。ここで再登場するのがトルデシリャス条約だ。トルデシリャス条約は大西洋に境界線を引いて東をポルトガル、西をスペインとしたわけだが、その線を地球の反対側である太平洋方面に引いた場合どうなるのか、ということも学者たちが集まって調査したんだ。」
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「ただ、結果は政治的に決着しました。ポルトガル、スペイン共に本件で揉めるのは割に合わないと考え、ポルトガルが35万ドゥカートをスペインに支払うことで、モルッカ諸島はポルトガル領とする、というサラゴサ条約が1529年に締結されました。」
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「これで、地球規模でスペイン領とポルトガル領が2国間では境界線がしっかりと引かれたわけだな。スペインはアメリカ大陸の植民地化、それからフィリピンの植民地化を進め、ポルトガルはインド、東南アジアとの香料貿易、さらに足を延ばして中国の明や日本とも貿易することで、全盛期を築いていったわけだぜ。」
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「さて、ここまでポルトガル海上帝国の貿易面の歴史を見てきたが、この章では国内政治を見ていくぞ。大航海時代のポルトガルは、イギリスやフランスに先駆けて中央集権化が進み、国王の影響力が強くなっていた、と分析されているんだ。具体的には、大航海時代を切り開いたジョアン1世の頃から絶対王政化が始まり、インド航路が確立した時のマヌエル1世とその後継者であるジョアン3世の治世が、ポルトガル絶対王政の時期と考えられているぜ。まずは、マヌエル1世の治世から見ていこうか。」
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「まずはマヌエル1世(Manuel I 1469〜1521年)だ。マヌエル1世のあだ名は「幸運王」だ。なんで「幸運」なのかというと、先代のジョアン2世から見ると、マヌエル1世は従兄弟でしかも六男だったんだ。たいていは、王になることはなく王族としての人生を歩むはずだったんだが、ジョアン2世の嫡出子が早世し、5人いた兄もみなマヌエル1世の即位前に亡くなっていたため、後継者に指名された、というわけだ。
もう一つの幸運は、インド航路が開拓されて香料貿易で国が栄える黄金期に国王だったことだな。」
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「1495年(この年マヌエル1世26歳)に即位したマヌエル1世には野望がありました。それは、カスティーリャの王位継承権を持つ王女と結婚し、イベリア半島を統一することです。そんなマヌエル1世が結婚相手として選んだのが、カスティーリャの王女・イサベル(1470〜1498年)でした。実はイサベルは、ジョアン2世の嗣子であったアフォンソと結婚していたのですが、アフォンソは結婚後まなく死去してしまい、イサベルは若くして未亡人となってしまいました。マヌエル1世は、そのイサベルと結婚し、生まれてくる息子にポルトガルとカスティーリャ両国の継承権を持たせようと考えたわけです。
しかし、カスティーリャもただでは認めません。カスティーリャ女王・イサベルは「娘と結婚したければユダヤ人を追い払え」と要求。マヌエル1世はこの条件を飲んでユダヤ人の追放と強制的に改宗させました。」
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「これはポルトガル経済にとってはかなり痛手となる政策だった。というのも、当時のユダヤ人は商業の担い手であり、これから本格化する香料貿易で重要な役割を果たすであろう存在だったんだ。ところが、マヌエル1世は彼らを国外追放したり強制的に改宗させて「新キリスト教徒」という新たな身分を作って差別したりと、かなり迫害してしまったわけだ。」
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「こうしてマヌエル1世はイサベルと結婚して男子が生まれるのですが、イサベルは産褥死してしまいます。そして生まれた男子も2年後に早逝するという不幸に見舞われてしまいました。幸運王にも不幸はあったわけですね。」
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「その一方で、政治面ではそれなりの実績を上げているのも事実だ。まず、即位と同時に就任したキリスト騎士団の団長に就任し、騎士団の海外領土を王家のものとした。香料貿易を王室独占としたのもマヌエル1世だ。こうして権力を支える財力を確保したマヌエル1世は、地方貴族を官僚として取り込んで宮廷貴族とし、国王への中央集権体制を強化したんだ。議会(コルテス)も3回しか開催していないことはその証左とされている。さらに、1521年にはマヌエル法典を発布して、法の一元化も進めたんだ。完全には一元化できなかったそうだが、中央集権体制を進める重要な役割を果たしたんだぜ。」
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「マヌエル1世の跡を継いだのは、息子のジョアン3世(1502年6月7日〜1557年6月11日)だ。母親はスペイン女王イサベラの三女・マリアだ。」
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「ジョアン3世の治績の一つが、ポルトガル最初の国勢調査でした。その結果、世帯数は約28万、人口は約140万人で、リスボンの人口は約6万5000人でした。リスボンの人口は1550年には約10万人となり、イベリア半島で最大の都市に発展しました。ポルトガルの国力が増加していることが想定できますね。」
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「その一方で、問題も生じている。ジョアン3世のあだ名は「敬虔王」だ。つまり、キリスト教の信仰が篤かった。これは良い点でもあるが、悪い点でもあった。1536年、異端審問所を設置することで、非キリスト教徒への弾圧を強めたんだ。特にマヌエル1世の時と同様に、国際的商業の担い手であった「新キリスト教徒」とされたユダヤ人が狙われた。この結果、ポルトガルはますます異教徒にとって厳しい国となり、国外流出が増加。主に商売敵であるオランダのアムステルダムへ移住し、そこで海外貿易に貢献するようになったんだ。これは、ポルトガル経済力にとってはマイナス効果だ。」
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「そうですね。その異端審問所は1547年に禁書目録を作成し、書物の面でも統制と弾圧を強化しました。この頃、ヨーロッパでは人文主義と宗教改革が流行し、近代的な哲学・科学も発展し始めた頃なのですが、それらの新知識がポルトガルに入ってくることが多いの阻害されています。これは、技術発展の面ではマイナス効果ですね。」
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「研究者によっては、この頃からポルトガルの衰退が始まり、ポルトガルの後進性の基礎が形造られた、と見ている人もいるそうだ。確かに、異端審問所の設置などは、キリスト教全盛期の中世ならわかるが、既に宗教改革が始まっている近世に設置するのは、時代に逆行している、と見ることもできるよな。」
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