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「今回は「絶対主義国家と国王たちの戦い」の詳細篇ということで、近世のポルトガルの歴史、特にスペインから再独立した後のポルトガルの歴史を見ていくぜ!」
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「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
大航海時代でいち早くグローバル交易圏を築いて隆盛を誇ったポルトガル海上帝国でしたが、近世になると様々な要因で衰退し、この頃は既にヨーロッパの主要国家ではなくなってしまっています。なので、日本人にとっては馴染みが薄い時代です。ただ、ポルトガルも遅れを取り戻すべく、様々な改革を進めていきました。今回はその流れを見ていきたいと思います。」
| 年月 | ポルトガルのイベント | その他のイベント |
| 1640年 | ポルトガル再独立 ブラガンザ朝の始まり | |
| 1641年 | オランダがマラッカを奪取 | |
| 1642年 | 対英同盟条約 | |
| 1648年 | (独)ウェストファリア条約 ドイツ三十年戦争 終結 | |
| 1649年 | (英)イギリス共和政のはじまり | |
| 1654年 | ウェストミンスター条約 オランダがブラジルから撤退 |
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| 1656年 | ジョアン4世死去 アフォンソ6世 即位 | |
| 1660年 | (英)イギリス王政復古 チャールズ2世即位 | |
| 1661年 | 王姉・カタリナが英王チャールズ2世と結婚 ボンベイとタンジールを割譲 オランダと講和 |
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| 1665年 | モンテス・クラロスの戦いでスペイン軍を破る | |
| 1667年 | アフォンソ6世と妃・マリア・フランシスカ離婚 アフォンソ6世はアゾレス諸島へ追放され、マリアは弟のペドロと結婚。ペドロは摂政となる |
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| 1668年 | 2月13日 スペインから独立承認を獲得 | |
| 1683年 | アフォンソ6世死去 ペドロ2世即位 | (中欧)大トルコ戦争 開戦 第二次ウィーン包囲 |
| 1688年 | (英)名誉革命 | |
| 1693年 | ブラジルで金鉱が発見される | |
| 1701年 | (西欧)スペイン継承戦争 開戦 | |
| 1702年 | (日)赤穂浪士の討ち入り | |
| 1703年 | メシュエン条約締結 | |
| 1706年 | ペドロ2世死去 ジョアン5世即位 | |
| 1713年 | ユトレヒト条約でサクラメント(現ウルグアイ)獲得 | スペイン継承戦争 終結 |
| 1717年 | 教皇の依頼でオスマン帝国との戦争に参戦 | |
| 1740年 | オーストリア継承戦争 開戦 | |
| 1748年 | アーヘンの和約でオーストリア継承戦争 終結 | |
| 1750年 | ジョアン5世死去 ジョゼ1世即位 | |
| 1755年 | リスボン大地震 | |
| 1756年 | 七年戦争 開戦 | |
| 1758年 | ジョゼ1世暗殺未遂事件 大貴族らを大量に処刑 | |
| 1759年 | ジョゼ1世暗殺未遂事件に関与したという理由でイエズス会を追放、財産没収 | |
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「さて、クーデターによってポルトガル王位を奪還したジョアン4世だが、課題は山積みだ。ポルトガルが真の独立国となるには、周辺諸国から「ポルトガルは独立国です」と認めもらうことが必須だ。自分たちは独立した、と言っていても周辺国が「一時的に反乱してるだけでしょ?」という態度を取っていると、まともに取り合ってくれないからな。なので、スペインと戦って勝利し、独立を勝ち取ることがポルトガルの当面の目標となった。」
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「というわけで、ジョアン4世の課題は「独立国としての承認を取る」ことでした。ポルトガル独立承認に協力してくれそうな国として、スペインと激しく敵対していたフランスのルイ14世が候補にあげられました。ルイ14世の宰相・リシュリューは、ポルトガルを支援しました。ポルトガルがスペインと激しい独立戦争を繰り広げれば、フランスが優勢になると考えたわけですね。また、ポルトガルの最初の独立の時にも支援したイングランドからも支援を取り付けました。1654年には、当時共和政だったイングランドの護国卿・クロムウェルとウェストミンスター条約を結んでいます。」
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「しかし、ジョアン4世の治世では決着はつかなかった。1656年、ジョアン4世が56歳で死去すると、息子のアフォンソ6世(1643〜1683年 この年13歳)が即位した。実はアフォンソ6世は幼い時に小児麻痺に罹ってしまい、左半身が麻痺していたんだ。そのため精神不安定で政治にも興味がなく、政治は完全に摂政らにお任せだったんだ。」
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「当初・摂政を務めた母のルイサは、イギリスとの同盟を重視した。アフォンソ6世の姉のカタリナを、イングランド王チャールズ2世と結婚させたのだが、高額の持参金に加えてインドのボンベイとモロッコのタンジールを割譲している。」
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「この政策が一部の貴族の反発を買ってしまいました。彼らはルイサを引退させ、代わりにカステロ・メリョーサ伯(1636〜1720年)が実権を握りました。」
「その後、スペインとの戦争は好転しはじめた。1665年にはモンテス・クラロスの戦いでスペイン軍を破ったんだ。これがきっかけとなり、フランスのルイ14世は方針を親スペインから親ポルトガルに変更。その証としてでサヴォイア家のマリア・フランシスカがアフォンソ6世と結婚したんだ。ところが、アフォンソ6世は左半身麻痺で精神も不安定、という状態。子供に恵まれる可能性も著しく低かったそうだ。マリアが失望したのは言うまでもない。」
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「マリアの凄いところは、アフォンソ6世の性的不能を理由に離婚(結婚の無効)を請求したこと、ですね。これには、アフォンソ6世の弟のペドロが協力していたと思われます。というのも、離婚が認められるとすぐにペドロと結婚したからです。アフォンソ6世はアゾレス諸島に追放され、本当に名目だけの王となり、実権はペドロが摂政となって握りました。
その翌年の1668年2月13日、スペインがついにポルトガルの独立を承認。約30年に及んだポルトガルの独立戦争はようやく終結したわけですね。」
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「さて、こうしてポルトガルはスペインから独立の承認を取り付け、真の独立を達成したわけだが、その道はかなり険しいものだったな。それでも、ポルトガルが独立を達成できた要因はなんだったのだろう?これについて、金七紀男氏は著書『図説ポルトガルの歴史』で以下のように分析しているぜ。」
ポルトガルが独立を成しえたのは植民地ブラジルの経済的支援が大きい。当時、ブラジルは砂糖生産の最盛期を迎えていた。イエズス会のアントニオ・ヴィエイラ神父(1608〜1697年)はジョアン4世をいち早く支持し、オランダに亡命していた新キリスト教徒を説得。新設の「ブラジル総合会社」に出資させるなど、戦費調達に貢献した。アヴィス朝は胡椒貿易の衰微で消滅したが、ブラガンサ朝はブラジルの佐藤産業で再独立を果たした。
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「さて、ペドロ2世の時代になると、これまでポルトガル経済を支えてきたブラジルの砂糖産業は少しずつ衰退していってしまった。というのも、1654年までブラジルの砂糖生産地を支配していたオランダが、そこで得たノウハウを使ってカリブ海の島々で砂糖産業を興していったんだ。さらに、イギリスやフランスも植民地で砂糖生産を始めて事業に参入してきたため、競争相手が増えてしまったわけだな。」
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「さらに、ポルトガル本国の製塩業もあまり儲からなくなってしまい、ポルトガル財政はますます厳しくなっていました。そんな状況にも関わらず、ポルトガルの富裕層はイギリスの毛織物やフランス・イタリアの高級品を買って優雅な生活を送ることで満足していました。これでは、ポルトガルは一大消費センターとなってしまい、自国の経済発展など望むべくもありません。」
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「そんな状況を憂いて、工業化政策に取り組んだのがエリセイラ伯のルイス・デ・メネーゼス(1632〜1690年 英:Luis de Meneses, 3rd Count of Ericeira 以下、「メネーゼス」と)だ。」
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「メネーゼスは多才な人なんだ。数か国語に通じ、本も書いている。その種類は伝記、歴史、詩、戯曲と幅が広い。かなり優秀な貴族だったと言えるだろう。そんな彼は、ペドロ2世の統治下で財務大臣に就任し、フランスのコルベール流の重商主義改革を実行していったんだ。具体的には
@外国産の毛織物には高関税を課す。
A内陸部のコヴィリャン、フンダン、エストレモスで、毛織物業を家内制手工業から工場制手工業(マニュファクチュア)に再編。外国人技術者も招聘。
B絹織物、陶磁器、ガラス、皮革、造船などのマニュファクチュアも新設。
C数度にわたって奢侈禁止令、贅沢品の輸入禁止令を出す。
といったところだな。」
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「これらの改革は一定の成果をあげたそうですが、メネーゼスは晩年はうつ病にかかってしまい、1690年(この年メネーゼス58歳)最期は自宅の窓から身を投げて自殺しています。また、メネーゼスの改革も、1690年代に入ると様々な要因で上手くいかなくなり、工業化政策は頓挫してしまいました」
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「1703年、ポルトガルはイギリスと貿易に関する取り決めであるメシュエン条約を締結した。メシュエン条約の骨子は以下のようになる。
@ポルトガルはイギリス産毛織物の輸入を認めること。
Aイギリスはポルトガル産ワインをフランス産よりも1/3安い関税で輸入する。
メシュエン条約は、従来はポルトガルの工業化を遅らせた元凶として考えられていたんだ。ただ、最近ではメシュエン条約は現状の追認に過ぎず、工業化遅れの真因はブラジルの金ではないか、という見解が主流になっているそうだ。」
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「メシュエン条約締結の背景を説明しましょう。前章で見たように、エリセイラ伯メネーゼスの改革により、外国の毛織物には高関税がかかり、贅沢品は禁止されました。これに打撃を受けたのは、もちろんイギリスなのですが、他にもポルトガルワイン産業の代表格であるオダヴァル公爵、アレグレッテ侯爵も同様でした。なぜポルトガル貴族も打撃を受けたのかというと、当時は↓のような商流があったからです。
・イギリス商人は、工業製品をポルトガルに持ち込み、帰りにワインを積んで戻った。つまり、行きと帰りの両方で商売をして得をしていた。
・当時、ポルトガルのワイン輸出量は大幅増加していた。1680年における輸出量は1,000ピッパ(1ピッパ=550?)だったのが、1710年には8,000ピッパと8倍に増加。
このような商売が既に出来上がっていたので、イギリス産毛織物は高関税だの贅沢品禁止だの言っていたエリセイラ伯メネーゼスの改革は、彼らにとっては迷惑以外の何ものでもなかったわけですね。メネーゼスも死去していましたし、この商売をきちんと条約として定めたものがメシュエン条約、と言われています。」
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「冒頭で「工業化遅れの元凶と見られていた時期があった」と書いたが、確かに一時期はそのように思われていたそうだ。だが、最近の研究では現状の追認、という意味合いだったのではないか、と見られているぜ。ちなみに、工業化遅れの最大の要因は、ブラジルの金と考えられているんだ。というわけで、次はブラジルの金の話をしよう。」
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「ブラジルの砂糖産業が衰微していく中、植民地ブラジルでは新たな産業が求められていた。どこかに貴重な資源があるのではないか、ということで沿岸部から内陸への進出が進められたんだ。サンパウロで「バンデイラ」と呼ばれる奥地探検隊が組織され、貴金属探索が進められた。この過程で、インディオの集落を襲撃し、奴隷として捕まえていったことは忘れてはならないな。1693年、サンフランシスコ川上流と、その支流ヴェリャス川に挟まれた一帯で、オーロ、プレット、サバラーなどの金鉱が次々と発見された。金の採掘事業は、香料貿易の時のように王室独占にはならず、一定条件を満たした民間事業者にも開放されたんだ。そのため、金を目当てにポルトガル本国からも移住者が増え、いわゆるゴールドラッシュだな。1720年には金の生産量が増え始め、1729年にはダイヤモンドも発見され、貴金属採掘はさらに拍車がかかった。ミナス、ジェライスにおける金採掘の採掘量は1735〜1754年が最盛期となり、年間平均で約15,000kg採掘されたそうだ。ただ、1780年以降は採掘量は減少し始めたぜ。」
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「ポルトガル政府は、採掘された金に対して「キントン税」という税金をかけました。これは5分の1税と呼ばれるもので、中世から存在していた税制だったそうです。採掘された金はすべて鋳造所に納められ、5分の1を差し引いたあと、王室の刻印が押された延べ棒になって持ち主に返される、という仕組みでした。」
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「ブラジル内陸部におけるゴールドラッシュで、これまで沿岸部のみだった入植活動は内陸部に広がり、大航海時代に定めたトルデシリャス条約の境界線も超えてしまうくらいだった。居住人口が増えた結果、食料品など生活用品が取引される物流ネットワークが形成されるようになり、後に「ブラジル」として独立するための下地になったんだぜ。」
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「ブラジルのゴールドラッシュによって、ポルトガルは再び活況を取り戻すことができた。ちょうどこの頃にポルトガル王だったのがジョアン5世(1689〜1750年)だ。」
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「ジョアン5世が即位したのは1706年、17歳になる年のことでした。父のペドロ2世はスペイン継承戦争で同盟国軍側で参戦していたので、ジョアン5世も継続して同盟国側で参戦しています。戦後、1713年にユトレヒト条約が締結された際に、ラテンアメリカのラプラタ川左岸の一帯・サクラメント(現在のウルグアイ)とアマゾン川流域の領土を獲得し、植民地ブラジルを拡大させることに成功していますね。」
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「さらに、1717年には教皇の依頼でオスマン帝国との戦いにも参戦している。その見返りとして、リスボン大司教に総大司教座を創設するなど、カトリックの権威を強化する政策を取ったんだ。これができた背景にあるのが、ブラジルの金だな。この流れは、かつて香料貿易で繁栄していた頃にジョアン3世がカトリックの異端審問や禁書目録を制定してカトリック強化政策を進めたのとよく似ているな。」
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「ブラジルの金で十分財政が潤っていたので、かつてエリセイラ伯メネーゼスが進めた工業化政策などは、すっかり棚上げとなってしまったそうです。ただ、金がもたらす莫大な富を背景に、ジョアン5世はフランスのルイ14世のような絶対王政体制を強化していきました。ただし、宗教に関しては国王といえども口出しがしにくい状況だったそうです。」
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「1750年、ジョアン5世が死去(この年61歳)し、息子のジョゼ1世(この年36歳)が跡を継いだ。」
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「しかし、ジョゼ1世は政治にあまり興味がなかったようで、オペラや狩り、教会に夢中になりがちだった。なので、政治はセバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ(ポンバル侯爵 長いので以下「ポンバル」と表記)にお任せしていたんだ。ポンバルは小貴族の出身だが、知識人の一人だ。イギリスやオーストリアに大使として赴任していた経験もある。特にオーストリアでは、マリア・テレジアの影響を強く受けた、と見られているぜ。なので、その思想は啓蒙思想だ。そして、1755年リスボン大地震の後、復興にあたった手腕が高く評価されている有能な政治家の一人だ。」
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「この頃、西欧諸国では啓蒙思想が流行していましたが、ポルトガルはこれまでの歴史とジョアン5世の政策によってカトリック一強でした。そんな中、一部の知識人はポルトガルにも啓蒙思想を伝え、改革を説いた人もいます。例えば、外交官として活躍したルイス・ダ・クーニャ(1662〜1749年)やルイス・アントニオ=ヴェルネイ(1713〜1792年)などですね。彼らは異端審問所やイエズス会の教育がポルトガル後進の元凶だ、として近代化改革の必要性を説いています。ポンバルによる「上からの改革」はこれらを背景に進められました。」
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「ポンバルの改革は時代の流れに沿ったものではあるが、そのやり方はかなり強引なものだった。まず、1758年、国王ジョゼ1世の暗殺未遂事件が発生すると、ポンバルは犯人と関連者として1000人近くの貴族らを逮捕した。逮捕された貴族は拷問され、自白を強要されたらしい。ポルトガル第一の貴族であったアヴェイロ侯爵は四肢切断されたうえで火刑、タヴォラ侯爵は車裂きの刑でそれぞれ公開処刑されたんだ。その他の捕まった貴族らも、死刑、追放など厳しく処分された。こうして、王権に従わない権力者を力で排除したわけだな。
翌年の1759年には、イエズス会も事件に関与していたとして、聖職者らを追放し、イエズス会の財産はすべて没収。聖職者教育機関であったエヴォラ大学も閉鎖に追い込まれた。」
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「こうして抵抗勢力を排除したポンバルは、次々と近代化改革を実行していきます。異端審問所は廃止こそされませんでしたが、国王の裁判機関の一つに組み込まれて、事実上の活動停止となりました。書物の検閲についても、教会が行うのではなく新設された王立検閲局の担当されました。教会が握っていた権力が、国王に取り戻されたわけですね。」
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