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第二次世界大戦

第二次世界大戦 前半

導入

big5
「今回のテーマは第二次世界大戦 前半と題しまして、その名の通り、第二次世界大戦がはじまる直前の世界の動きを説明していこうと思います。」
名もなきOL
「戦争の話は好きじゃないですけど、戦争を繰り返さないためにも、第二次世界大戦が始まる前の歴史を知っておくことは大切ですよね。」
big5
「その通りです。歴史を学ぶことの重要な意義の一つは、同じ過ちを繰り返さないこと、だと思います。さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょうか。」

年月 ヨーロッパのイベント 他地方のイベント
1939年 3月 ヒトラーがチェコスロヴァキアを解体
4月 イタリアがアルバニアを併合
5月 独伊軍事同盟
8月 独ソ不可侵条約締結
9月1日 ドイツがポーランドに侵攻 第二次世界大戦 開戦
9月3日 英仏がドイツに宣戦布告
9月28日 ドイツとソ連がポーランドを分割
11月30日 ソ連がフィンランドに侵攻(冬戦争(第一次ソ連=フィンランド戦争))
12月10日 国際連盟がソ連を除名
5月 日本が重慶爆撃を開始
5月 ノモンハン事件
9月15日 日本とソ連が休戦協定
1940年 3月 ソ連とフィンランドが講和
4月 ドイツがデンマークとノルウェーに侵攻して占領
5月 ドイツがオランダ・ベルギーに侵攻
6月 ソ連がバルト三国に侵攻し、ソ連に加盟させる
6月 ドイツがフランスのパリを攻略 フランス降伏
9月27日 日独伊三国同盟 成立
9月 日本が北部仏領インドシナに侵攻
1941年 3月 アメリカが武器貸与法を制定
4月 ドイツがバルカン半島侵攻 ソ連との対立鮮明に
4月13日 日ソ中立条約
6月 独ソ戦 開戦
7月22日 英ソ軍事同盟
8月 米英が大西洋憲章を発表
4月 日米交渉開始
7月 日本が南部仏領インドシナに侵攻
8月 アメリカが日本への石油輸出全面禁止
12月8日 日本が真珠湾を攻撃 太平洋戦争 開戦

ポーランド侵攻 1939年9月1日 

big5
「独ソ不可侵条約が締結されてから8日後の1939年9月1日、準備万端整えられたドイツ軍がポーランドに侵攻しました。これが第二次世界大戦の始まりとされています。これに対し、9月3日に英仏がドイツに宣戦布告したのですが、両軍ともに積極的にポーランドを助けることはありませんでした。そのため、ドイツ軍と比べて質・量共に圧倒的に劣るポーランド軍は単独でドイツ軍に対抗しなければなりませんでした。」
名もなきOL
「ポーランド、かわいそう。味方に助けてもらえなかったんですね。やっぱり、いざとなったら頼れるのは自国だけなんでしょうか・・・」
big5
「ドイツ軍だけでもたいへんなところに、ソ連も東側からポーランドに侵攻開始しました。 こうして、ポーランドはドイツとソ連によって分割されてしまいました。これを「第四次ポーランド分割」と呼んだりします。しかし、脱出に成功した一部のポーランド人らは、亡命政府を設立。生き残ったポーランド海軍の艦艇の一部は、イギリス海軍と共にドイツ海軍との戦いを継続しています。
ポーランドが消滅した後、西欧側はしばらく小康状態が続きましたが、東ではソ連が動き出しました。」

ソ連=フィンランド戦争(冬戦争) 1939年11月〜1940年3月

big5
「ポーランド西部、さらにバルト三国に進軍して支配下に置くことに成功したソ連のスターリンは、1939年11月、スカンジナビア半島のフィンランドに攻め込みました。この戦争は第一次ソ連=フィンランド戦争と呼ばれますが、冬戦争(英語:Winter War)という名称がよく使われますね。「冬戦争」の方が短くて実態を表しているので、ここでは「冬戦争」で統一します。
スターリンはヒトラーとポーランドを分割した後、領土拡大の野心を剥き出しにしてフィンランドに領土割譲などの要求を突きつけます。ちなみに、この時点でソ連とフィンランドは相互不可侵条約を結んでいました。」
名もなきOL
「ヒトラーだけじゃなく、スターリンも相当悪い人ですね。」
big5
「しかし、フィンランドはこれを拒否。それならば力づくで、ということで1939年11月30日、スターリンは宣戦布告することもなく相互不可侵条約を一方的に反故にしてフィンランドに攻め込みました。国際連盟は、加盟国であるフィンランドへの攻撃を非難しましたが、スターリンは少しも気にしません。12月10日にソ連は除名となりましたが、そんなことで戦争を止めるスターリンではありませんでした。」
名もなきOL
「第二次大戦で国際連盟をやめた国って、日本とドイツ、イタリアのイメージがありますけど、実はソ連は除名されていたんですね。」
big5
「フィンランドは小国です。ソ連のような大国から攻撃されたら、ひとたまりもなく敗北するだろう、と思われていましたし、スターリンもあっという間に片付けるつもりだったようですが、意外にもフィンランドはマンネルヘイム将軍の指揮で頑強に抵抗します。
結果として、1940年3月にフィンランドはカレリア地方などをソ連に割譲することで和平を締結し、約4か月にわたった冬戦争は幕を閉じました。
冬戦争におけるフィンランド軍の死者は約25,000名にもなりましたが、ソ連の死者・行方不明者は約125,000名とフィンランドの5倍近い人的損失を出しています。冬戦争はソ連の勝利にはなりましたが、余りにも犠牲が多い勝利だったと言えますね。
また、フィンランドとソ連の戦争はこれで終わりではありません。約2年後の1941年に独ソ戦が始まると、フィンランドはソ連に反撃を開始し、両国は再び戦争(継続戦争)になります。」
名もなきOL
「ソ連とフィンランド、まさに仇敵の間柄なんですね。」
big5
「さて、ここからは余談になりますが、冬戦争の時に「白き死の神」とソ連兵から恐れられた伝説のフィンランド狙撃兵・シモ・ヘイヘを簡単に紹介しましょう。」

Simo hayha honorary rifle
シモ・ヘイヘ 撮影日:1940年2月17日

名もなきOL
「伝説のスナイパーって凄い異名ですね。そんなに凄い人だったんですか?」
big5
「凄腕のスナイパーです。訓練課程の成績として、150m離れた的に1分間で16発命中させ(3回の給弾操作含む)、実戦でも確認戦果だけで542人を狙撃で倒しています。この記録は、冬戦争開戦から終戦直前に撃たれて負傷し、戦線離脱する時までの約100日間の記録であり、現在でも最多戦果となっているそうです。」
名もなきOL
「本当に凄い人だったんですね。そういえば、名前はちょっと聞き覚えがあるかも。。」
big5
「シモ・ヘイヘは元々猟師で、普段から銃を使って狩をする人でした。冬戦争が始まった時、上官はシモ・ヘイヘの超人的な狙撃能力を活用するために、通常の小隊に配属させるのではなく、遊撃的なポジションの狙撃兵としたそうです。適材適所ですね。シモ・ヘイヘはかなり超人的な例ですが、冬戦争のフィンランドでは、ソ連の侵攻から国を守ろう、というフィンランド人達が立ち上がって抵抗した、まさに国民の防衛戦争でした。スターリン独裁体制のソ連が苦戦した理由の一つは、そこにあったんじゃないか、と私は思いますね。」

ドイツの北欧・オランダ・ベルギー侵攻 1940年4月〜6月

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「冬戦争が終わった後、ヒトラー率いるナチス・ドイツも新たな侵略の魔の手を伸ばしました。1940年4月には不意打ちのような形でデンマーク、ノルウェーに侵攻を開始。デンマークはその日のうちに降伏しましたが、ノルウェーは抗戦しました。海戦では、イギリス海軍がノルウェー海軍に加わってドイツ海軍と交戦したため、ドイツ海軍は少なくない損害を受けます。しかし、準備不足だったノルウェーに継戦能力はなく降伏。国王はイギリスに亡命しました。なお、ドイツとデンマークは10年間の相互不可侵条約を結んでいましたが、ナチス・ドイツは一方的にこれを破棄しています。
なお、イギリスのネヴィル・チェンバレン内閣はこの敗北の責任を取って退陣しました。代わりに、チャーチルが首相に就任し、ここから第二次大戦下のイギリスを指導することになります。」
名もなきOL
戦争の時代になったら、相互不可侵条約とかの約束事は当てにできないんですね。」
big5
「さらにナチス・ドイツは5月10日に、これまた宣戦布告なしでオランダとベルギーに侵攻しました。ベルギーは以前から、オランダは1939年に中立を宣言していたのですが、ヒトラーにとっては関係なかったのでしょう。オランダはウィルヘルミナ女王がロンドンに亡命し、14日に降伏。ベルギーはレオポルド3世が総司令官となって抗戦しましたが、18日に敗北して捕虜となり、両国はナチス・ドイツの占領下に置かれることとなりました。」

ドイツのフランス侵攻 1940年6月

big5
「さて、上述のようにオランダ。ベルギーもドイツに占領されてしまいました。この2国がドイツ領に落ちたことには、大きな意味があります。OLさん、それは何だと思いますか?」
名もなきOL
「え・・何だろう・・経済的に豊かな土地を領土にして、戦争に耐えられる経済力を手に入れたこと、でしょうか?」
big5
「それもありますが、もっと直接的に影響することです。答えは、オランダ・ベルギー方面からフランスに侵攻できること、です。第一次大戦後、フランスはドイツからの侵攻に備えて、国境にマジノ線と呼ばれる長大な防衛要塞を構築していました。例えドイツ軍が強大だったとしても、マジノ線に籠って守ればドイツ軍恐れるに足らず、と期待されていたんです。ところが、オランダ・ベルギーがドイツの手に落ちたことで、ドイツは北回りでフランスに攻め込むことが可能となったわけです。」
名もなきOL
「なるほど、軍事上の目的があったわけですね。」
big5
「ベルギーとフランスの間には、アルデンヌの森と呼ばれる深い森林地帯が広がっていたため、戦車などの重装兵器は通過できない、と考えられていたのですが、ドイツの新型戦車はアルデンヌの森を通過してフランスに攻め込んでいきました。結果として、マジノ線はまったく役に立たなかったわけですね。」
名もなきOL
「要塞の守りは固いですけど、動かすことができないですからね。運用は意外と難しいんですね。」
big5
「オランダ、ベルギーを落とした後、ほとんど間を置かずにヒトラーはフランスへの侵攻をを開始しました。フランス・ベルギー国境付近にはフランス軍のみならず、イギリス軍も駐留していたのですが、ドイツ軍の猛攻を防ぐことができず、イギリス軍は海沿いの町・ダンケルクからやむを得ず撤退します(ダンケルク撤退)。
イタリアのムッソリーニは、これまでヒトラーの動きを様子見しており、特に大国であるフランスとの戦争には消極的だったのですが、ドイツ軍快進撃の報を聞いて6月10日にイタリアがフランスに宣戦布告。南側からフランスに攻め込みました。6月14日にはドイツ軍がパリを占領。フランス第三共和政は、ヒトラーによって解体させられました。将軍のド・ゴールはロンドンに亡命して自由フランス政府を立てて抵抗を続けましたが、将軍・ペタンはヒトラーに協力し、傀儡国家であるヴィシー政府の首班となりました。ヴィシーというのは南仏の都市の名前です。ここを首都としたので、ヴィシー政府と呼ばれています。
こうしてヨーロッパ列強の一角であったフランスがあっさりとドイツに敗北してしまい、ヨーロッパでドイツに対抗しうる国はイギリスのみ、という状況になりました。ヒトラーはイギリスを攻撃しますが、チャーチル率いるイギリスも防戦に努め、戦況は一進一退を繰り返しました。」
名もなきOL
「ここまでヒトラーは快進撃ですね。スターリンは冬戦争で手間取っていますが、着実に占領地を増やしていますし。イタリアのムッソリーニは出遅れているかんじですね。」
big5
「このように、1940年6月が終わった段階では、戦争の趨勢は明らかにドイツ・ソ連が優勢でした。さて、次はアジア方面と我らが日本を見てみましょうか。」


大東亜共栄圏と日独伊三国同盟の成立 1940年

big5
「ヨーロッパで戦争が激しくなっていった1940年は、アジア方面でも大きな動きがありました。1937年に始まった日中戦争は長期化していましたが、中国側の内紛に日本が乗じる形で状況が動きます。中国側のリーダーは蒋介石でしたが、ナンバー2のポジションにいた汪兆銘(おうちょうめい 1883年5月4日〜1944年11月10日 1940年で57歳)が蒋介石と激しく対立し始めたんです。」
名もなきOL
「二人はなんで対立したんですか?」
big5
「これまで何度も二人は対立し、仲直りをしてきたりと経緯は複雑なので一概には言えませんが、今回の対立の一番の要因は蒋介石の焦土作戦に汪兆銘が明確に反対したことでした。ロシアや中国のように、領土が広大な国では焦土作戦が敵軍を損耗させるのに有効であることは、有名どころではナポレオンのロシア遠征失敗大北方戦争でのスウェーデン王カール12世の敗北などの実例があります。しかし代償として自国領土を荒廃させてしまう、という問題点があります。共産党と結託し、焦土戦術で日本と戦おうとする蒋介石とは決定的に方針が違っていました。
紆余曲折を経て、1940年3月、汪兆銘は日本の支援を受けて蒋介石と決別し、南京に新政府を樹立しました。この政府は日本では首都にちなんで「南京国民政府」と呼ばれることが多いですが、汪兆銘政権と呼ばれることも多いです。戦時中の激動期に生じた政権なので、当サイトでは「汪兆銘政権」と呼ぶことにします。」
名もなきOL
「日中戦争で日本は中国に酷いことをした、とよく言われていますが、状況はかなり複雑だったんですね。」
big5
「その通りです。歴史はそんなに単純なものではありません。詳細に見ていけばいくほど、複雑要因が絡み合っていることがわかります。
さて、中国に親日の汪兆銘政権も誕生し、ヨーロッパでは友好国であるドイツ・イタリアが快進撃wを続けている状況を見て、日本では大東亜共栄圏構想が打ち出されました。」
名もなきOL
「大東亜共栄圏!学校で先生が「身の程知らずのたわごと」と言っていたのを覚えています。」
big5
「それは随分偏った見方ですね。大東亜共栄圏が「身の程知らず」なら、ヒトラーが唱えた生存圏もそうですし、汎ゲルマン主義や汎スラヴ主義も身勝手な話になります。大東亜共栄圏という構想自体は、帝国主義時代の列強国には共通した考え方でした。時刻を中心とした地域ブロックをグループ化して、他の列強に対抗しようという国策の一つですね。あえて言えば、これまで列強に蹂躙され植民地化される一方だったアジアの中で、日本がリーダーとなってヨーロッパ諸国に対抗しよう、という発想が従来とは異なる構造だった、ということでしょうか。
こうして、アジアの戦争とヨーロッパの戦争が結びつくようになります。まず、ヨーロッパではドイツがイギリスと戦っていました。そして、アジアでは大東亜共栄圏を唱える日本が覇権を握るべく、中国に汪兆銘政権を立てて南進する姿勢を明確にしました。東南アジアを植民地支配していた主な国はイギリス(あとオランダ、フランスもありましたが既にドイツに降伏しています)です。ドイツと日本は、イギリスを共通の敵としていたわけですね。こうして、1940年9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟が結ばれました。この同盟により、日本はイギリスにも宣戦布告し戦争状態となります。ちなみに、現在では左派の朝日新聞は、翌日の9月28日の新聞で日独伊三国同盟を絶賛しています。」
名もなきOL
「イタリアも加わっているのに、影が薄いのがちょっと可哀想・・」
big5
「実際のところ、第二次世界大戦でイタリアは影が薄いんです。途中からドイツのお荷物のような存在になってしまいましたし。。ともあれ、これでいわゆる枢軸国側の主役は揃いました。10月にはドイツがルーマニアに侵攻開始。11月にはルーマニアを下し、これにハンガリー、スロヴァキアを加えて傀儡の同盟国としました。さらに年を越した1941年3月1日にはブルガリアにも攻め込み、これを下してブルガリアも同盟国に加えました。これで、枢軸国側の国は勢ぞろいです。一方の連合国側は、まだそろっていません。どの国が参戦していないか、OLさんは気が付きましたか?」
名もなきOL
「アメリカですね。第一次世界大戦の時と同じで、アメリカは途中から参戦してきた(参考:世界大戦と平和への試み 第一次世界大戦 (World War I) 後編)んですね。」
big5
「そうなんです。アメリカは第二次世界大戦が始まった時でも「ヨーロッパの争いに巻き込まれたくない」という考え方が根強かったんです。現代では風向きが変わってきましたが、冷戦後しばらくはアメリカが「世界の警察」としてあちこちに干渉するようになりましたが、当時はそんな機運はありませんでした。それを表している、アメリカで成立した法律が武器貸与法です。」

武器貸与法 1941年3月

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「1941年3月、まだ第二次世界大戦に参戦していないアメリカで、武器貸与法が可決されました。武器貸与法は、アメリカがヨーロッパ戦線でドイツと戦っているイギリスを支援するために、武器を貸す、という法律です。この法案はルーズベルト大統領が議会に提出し、大激論の末にようやく2年間の時限法案という条件で承認されました。この武器貸与法制定には2つの大きな意味合いがあります。
@「ヨーロッパの戦争に巻き込まれたくない」派も多く、援軍を送ることはできなかった。
A武器は使用後に返還する or 賃貸料を払えばいいので、借りるイギリスの負担が少ない。
ということです。」
名もなきOL
「@はわかるんですけど、Aはよくわからないですね。なんでイギリスの負担が少ないんですか?」
big5
「従来の支援方法は、お金を貸すことでした。要するに借金ですね。なので、戦後イギリスはアメリカに借金を返済する必要があるのですが、これは国家財政に大きな負担となります。しかし、武器貸与は「武器の貸し借り」なので、戦後に武器を返還すればお金はかからないんです。返さなかった(返せなかった)場合でも、その分の賃貸料を払えばOK、というものだったので、イギリスの負担は少なくより効果的に支援ができる、というものでした。」
名もなきOL
「なるほど、そういう意味なんですね。」
big5
「当初はイギリスに対して行っていましたが、1941年から独ソ戦が始まると、なんとソ連も支援の対象となったのが特徴です。共産主義国家であるソ連まで武器貸与法の対象とするのは、アメリカ国内でも反対の声が多かったそうですが、実行されています。
また、武器貸与法がもたらした効果として、アメリカ国内失業者数の減少が挙げられます。1940年時点では約800万人いた失業者が、1942年には266万人(失業率4.7%)に減少し、1943-44年には失業率は1%台まで減少しました。」

ドイツのバルカン侵攻 1941年3〜6月

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「さて、話をドイツに戻します。1941年3月、ドイツはブルガリアに侵攻してこれを下し、ブルガリアを枢軸国側に加えました。ヒトラーが次に狙ったのはバルカン半島です。バルカン半島諸国の中で最初に狙ったのはユーゴスラヴィアでした。ユーゴスラヴィアは第一次世界大戦後にこのあたりのスラヴ民族をひとまとめにして形成されたスラヴ系民族国家なのです。ですが、スラヴ系という括りでは同じでもその内訳は、スロベニア、セルビア、クロアチアなど別物。そんなユーゴスラヴィアなので、中には人ら0に与する派閥もそれなりの勢力を持っていました。ヒトラーは親ナチス派を利用してユーゴスラヴィアを支配しようとしましたが、反対派がクーデターを起こして反ナチスを明らかにしました。それならば、とヒトラーは1941年4月nユーゴスラヴィア侵攻を開始。さらに、イタリアのムッソリーニからの支援要請に応えてギリシアにも侵攻。守っていたギリシア軍、イギリス軍を破り、ギリシアは降伏。バルカン半島のほぼ全域を支配しました。」
名もなきOL
「なんか、ナチスの勢いが凄いですね。。」
big5
「この頃、ドイツとまともに戦える力を持っているのはイギリスだけですしね。アメリカは武器貸与法で支援をようやく始めた程度で参戦していません。
なお、イギリスはバルカン半島から撤退してクレタ島に後退しましたが、ドイツはクレタ島も攻撃して攻略。さらに、地中海を挟んで反対側のエジプトまで進出してイギリス軍との戦いを継続しました。この頃のドイツ軍は、まさにかつてのローマ帝国領を回復しそうな勢いで領土を広げていきました。」

日ソ中立条約 1941年4月13日

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「ナチスドイツがバルカン方面へ進出している一方、アジアでも大きな動きがありました。日ソ中立条約です。名前の通り、日本とソ連が中立を保つことを約束した条約です。先に言っておきますと、大戦末期にソ連はこの中立条約を破棄して日本に攻め込み、北方領土を占領する、という結果に終わりました。」
名もなきOL
「ここに出てきた話だけでも、ポーランド、フィンランドとの相互不可侵条約を破棄していますし・・ソ連は一方的な条約破棄の常習犯ですよね。当時の日本はそんなこと知らずに、ソ連を信じてしまったんでしょうか?」
big5
「知っていたと思いますよ。ただ、それ以外の状況を考慮して、約束だけでもしておきたかったんでしょうね。実際、この時の日本―ドイツ−ソ連の関係は非常に微妙なものでした。日本とドイツは同盟していますが、日本もドイツもソ連とは中立です。しかし、この時すでにバルカン侵攻作戦でドイツとソ連の関係は悪化しており、ソ連はドイツとの戦いに備える必要を感じていました。
一方、日本は南進して東南アジアに進出するためには、ソ連と同盟して北からの脅威を取り除きたいところです。本当は枢軸国側にソ連を引き入れたかったのでしょうが、ドイツが反対したため同盟は結べず、中立条約にせざるを得なかった、という理由もあります。」
名もなきOL
「そっか・・・国際情勢は複雑ですね。」
big5
「その結果が、日ソ中立条約というわけですね。
と、ここまで第二次世界大戦の前半は以上になります。日本人が持つ第二次世界大戦のイメージは、原爆投下や空襲、沖縄戦などを思い浮かべる人が多いです。ただ、これらの話は大戦末期の話であって、第二次大戦の一部分に着目した話なんです。実際には、前半戦はナチスドイツが破竹の勢いで占領地を広げ、ドイツと戦っているのはイギリスのみ。ソ連は中立ですし、アメリカは武器貸与法でイギリスを支援するに留まっていました。戦争の流れが変わるのは、後半からです。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

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参考文献・Web site