Last update:2020,Aug,16

18世紀欧州戦乱

ジェームズ2世と名誉革命(Glorious Revolution)

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「さて、今回のテーマは「大同盟戦争」です。前テーマの大トルコ戦争では、大トルコ戦争中に勃発した西ヨーロッパの戦争、と説明しましたが、ここではその詳細を見ていこうと思います。まず、大同盟戦争の背景としてとても重要なのが、イギリスで1688年に起きた名誉革命です。中学校の歴史にも登場するイベントなので、知名度はけっこう高いですね。」
名もなきOL
「はい、中学校で習いました。他の革命と違って、誰も死ななかったんですよね。」
big5
「確かに、名誉革命それ自体では、戦闘は発生しませんでした。でも、大人になってから改めてその内容を見てみると、「本当に「名誉」な革命」だったんだろうか?」と疑問を持つと思います。
それでは、まずは名誉革命で追放されてしまったイギリス王ジェームズ2世の即位から見ていきましょう。」
名もなきOL
「はーい、お願いします!」

James II of England.jpg
By ゴドフリー・ネラー - first published at the German Wikipedia project as de:Bild:James II of England.jpg, パブリック・ドメイン, Link


画:ゴドフリー・ネラー 1684年作
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「ジェームズ2世が国王に即位したのは1685年2月6日。兄、チャールズ2世が子どもがいないまま逝去したため、王位を継承しました。この時、ジェームズ2世51歳4か月です。」
名もなきOL
「え!?なんかもう、即位した時点でオジサンだったんですね。なんだかガッカリだなぁ。」
big5
「OLさん、王様に偏ったイメージ持ってません?王様はみんな若くてカッコイイ、というものじゃありませんよ。」
名もなきOL
「そうじゃなくて、王様になって年をとって、その後オジサン、それからお爺さんになるならわかるんですけど、即位した時点でもう50代ってのは、なんかイメージと違うな、って思ったんですよ。」
big5
「確かに、大トルコ戦争の回に登場したロシアのピョートル1世は子どもの時に即位してますし、OLさんが「筋肉マン」と呼んでいたポーランド王アウグスト2世も30代前半でしたからね。ただ、OLさんの感想を聞いて私も一つ気づきました。ジェームズ2世は、かなりの苦労と苦難の人生を歩んできてからイギリスの王になった、んですね。」
名もなきOL
「即位までに、どんな人生を歩んできたんですか?」
big5
「ジェームズ2世が産まれたのは1633年10月14日。父はイギリス王チャールズ1世、母はフランス王アンリ4世の娘のヘンリエッタ・マリア。3歳年上のお兄さんにチャールズ2世がいました。ジェームズ2世が7歳になる1640年、イギリスでピューリタン革命清教徒革命、とも)と呼ばれる内戦が勃発します。ピューリタン革命の詳細は別の機会に話しますが、一言で言うと、王政を支持する派閥と共和制を支持する派閥に分かれて争った内戦です。内戦は、共和制派が勝利し、イギリス王チャールズ1世とその家族は捕らえられてしまいます。その中にはジェームズ2世もいました。」
名もなきOL
「初っ端から、時代の大波に洗われてきたんですね。」
big5
「1648年、ジェームズ2世は、幽閉されていたセント・ジェームズ宮殿から女装して脱走し、外国へ亡命することに成功しました。しかし、父のチャールズ1世は翌年1649年に処刑され、イギリスは共和制国家となりました。」
名もなきOL
「子どもの頃に、母国から追い出されてしまったんですね。確かに波乱の人生だわ。」
big5
「母のヘンリエッタ、そして兄のチャールズ2世と共に、ジェームズ2世はフランスでルイ14世の庇護を受けながら亡命生活を送っていました。フランスでの亡命生活は約10年間続きました。10代後半〜20代後半の青年期を、フランスで過ごしたことになりますね。」
名もなきOL
「フランスでは何をして過ごしていたんですか?」
big5
「フランス軍の優れた将軍に随行して、軍人としての経験を積んでいました。また、ヨーロッパの貴族たちと連絡を取り、なんとかしてイギリスに王族として帰国できるように協力を求めたりしましたが、こちらはほとんど成果が得られなかったそうです。」
名もなきOL
「青年時代もたいへんだったんですね。」
big5
「そうですね。長かった亡命生活ですが、イギリスでクロムウェルが死んで共和政が崩壊すると、王政が復活。1660年兄のチャールズはイギリス王チャールズ2世として帰国することになり、ジェームズ2世も帰国することとなりました。この時、27歳ですね。チャールズ2世には、王妃が産んだ男の子がいなかったので、ジェームズ2世は国王の弟であり、次期王位継承者でした。しばらくの間は、比較的平穏な日々が過ぎていきました。ところが・・・」
名もなきOL
「何が起きたんですか?」
big5
「ジェームズ2世は、いつの頃からかカトリックに傾倒し始め、ついにカトリックに改宗してしまったんです。」
名もなきOL
「え??それって、そんなにたいへんなことなんですか??」
big5
「当時のイギリスで、王族の人間がイギリス国教会ではなく、カトリック信者になるなんて、あってはならない大問題なんです。この頃の約150年前、イギリスではヘンリ8世が宗教改革を行い、イギリスの宗教はカトリックではなくイギリス国教になりました。その後、『審査法』という法律が制定され、「イギリスの公職に就く者は、イギリス国教会の信徒でなくてはならない」という法律も作られていました。それくらい、イギリスではカトリック信者が差別されていたんです。」
名もなきOL
「あぁ〜、そんな状況で国王の弟かつ次期国王がカトリック信者だ、なんてバレたら確かに大ごとでしょうね。」
big5
「ジェームズ2世のカトリック信仰が公になったのは、1673年、ジェームズ2世40歳の時でした。この年、審査法が改正され、公職に就く文官・武官は就任にあたって、自分が国教徒であることを宣誓することが儀式とされました。海軍総司令官を務めるジェームズ2世にも宣誓が求められたのですが、ジェームズ2世は拒否して海軍総司令官を辞任してしまったんです。それ以来、ジェームズ2世は非難されるようになり、暗殺計画が発覚するなど、身辺は穏やかではなくなってきました。心配した兄のチャールズ2世は、ジェームズ2世を一時外国に住まわせるなどして、ほとぼりが冷めるのを待たせたりしてたんです。」
名もなきOL
「お兄さんも大変ですね。それにしても、同じキリスト教徒でも、派閥が違うとこんなに揉めたりするんですね。」
big5
「そうですね。宗教の違いは、ヨーロッパ史ではたいへん重要です。さて、時は流れて1685年。兄のチャールズ2世が、後継者の資格を持つ男子が産まれないまま亡くなり、ジェームズ2世がイギリス王に即位します。この時、ジェームズ2世52歳。」
名もなきOL
「即位する時に、事件が起きたりしなかったんですか?」
big5
「起こりました。チャールズ2世の妾の子であるモンマス公ジェームズ・スコットが王位継承権を主張して反乱を起こしたんです。この事件は「モンマスの反乱"Monmouth Rebellion"」と呼ばれています。」
名もなきOL
「あぁ、やっぱり。。それで、国が二分されるような大反乱になっちゃったんですね。」
big5
「それが、この反乱は1か月もかからずにあっさり鎮圧されてしまいました。モンマス公は捕らえられ、7月15日に斬首刑とされました。反乱勃発が6月21日なので、本当にあっさり片付いた感じですね。意外に思いますが、当時はまだジェームズ2世が国王であることに、そこまで議会は反対していなかったんですね。法律上、王位継承権の無いモンマス公を国王にするよりも、カトリック教徒でも正当な王位継承権を持つジェームズ2世の方を議会が支持した結果、と言えると思います。
しかし、だからといってジェームズ2世が議会に受け入れられたわけではありません。ジェームズ2世がカトリックの待遇をこれまでよりも上げようとしたりすると、議会は大反対。ジェームズ2世も、議会の反対を押し切ってカトリック信徒を高位公職に採用したりと、両者の溝はたちまち深まります。そんな中、1688年、ジェームズ2世と王妃の間に男子が誕生しました。そして、これが名誉革命の引き金となり、ジェームズ2世は国を追放されることになったんです。」
名もなきOL
「え?王子の誕生が、そんな大事件になるんですか?」
big5
「つまり、こういうことです。ジェームズ2世も、兄のチャールズ2世と同様に、王妃が産んだ男子は成人しませんでした。また、ジェームズ2世は既に50代半ば。当時の平均寿命は今より短いので、そう遠くない将来に亡くなるだろう、ということは議会もわかっていました。なので、ジェームズ2世がカトリックで、議会としてはいろいろ問題ある国王だったとしても、数年間に限られた話だ、と考えられていたんです。ところが、ジェームズ2世に次期国王となる男子が産まれたとなると、話は変わります。カトリックの国王は、ジェームズ2世で終わりにはならないんです。
名もなきOL
「なるほど、そういうことなんですね。」
big5
「この後、話は速いテンポで進みます。議会の一部がオランダに特使を送り、ジェームズ2世の娘でプロテスタントであるメアリーと、その夫でオランダ総督であるウィレム3世に、イギリス国王に迎えたい、と伝えます。オランダ総督ウィレム3世はこれを了承。直ちに軍を集め、イギリス侵攻の準備を始めました。」
名もなきOL
「たいへん、また王位を争う戦争になるんですね。」
big5
「いえ、それが戦闘はほとんど起きなかったんです。ジェームズ2世は、当初はウィレム3世の軍を迎撃しようとしましたが、貴族たちはこぞってウィレム3世に付いてしまい、頼りにしていたジョン・チャーチルまでもがウィレム3世に付いたことがわかると、戦意を喪失。フランスに亡命します。」

The arrival of King-Stadholder Willem III (1650- 1702) in the Oranjepolder on 31 January 1691.jpg
Ludolf Bakhuizen - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

big5
「こうして、ジェームズ2世は国を追われ、代わりにウィレム3世とメアリーが、それぞれイギリス王ウィリアム3世とメアリー2世として即位することで決着しました。この事件で、大きな戦闘は起きず死傷者もかなり少なかったため、名誉革命 "Glorious Revolution"と名付けられています。
こうして見ると、「名誉革命」は後の時代に起こったフランス革命とかと比べると、だいぶ違う印象を受けませんか?」
名もなきOL
「そうですね。革命っていうと、虐げられていた市民たちが立ち上がるっていうイメージですけど、この話には市民が出てきませんね。革命というよりは、クーデターのような気がします。」
big5
「私もそう思います。さて、名誉革命の話はこれで終わりですが、ついでに学校の歴史の勉強でも出てくる、2つの重要ポイントも見てみましょう。まず1つめが名誉革命騒動が落ちついた1689年12月に成立した権利章典 "Bill of Rights"です。」
名もなきOL
「はい、覚えさせられました。」
big5
「権利章典は、今でも有効性を保っています。イギリスの議会政治の歴史を伝える、重要な資料なんです。学校で覚えさせられるのも、そういう理由があるからなんです。重要な部分の内容として
(1)国王は、議会の承認無しで勝手に法律を停止したりできない。
(2)国王は、議会の承認無しで勝手に税金を徴収できない。
(3)国王は、お願い事をする臣民を勝手に拘束し処罰できない。

(なお、原文の日本語訳はこちらのページで読めます。ぜひ一読してみてください。)

というかんじで、一言でいうと「国王は議会を無視して政治を行ってはならない。」ということですね。この時のフランスは、太陽王ルイ14世に絶対王政です。「我は国家なり」という「王様がルール」でした。こういう絶対王政と比べると、イギリスでは国王よりも議会が強い力を持っていることが、重要な違いですね。」
名もなきOL
「なるほど、こうやって違いを比べてみると、面白いですね。」
big5
「そして、教科書にはあまり取り上げられないのですが、権利章典にはもう一つ重要なことが明記されています。それは、
・カトリック信者、カトリック信者と結婚した者、それから教皇に従う者は、国王になれない。
です。この部分が、名誉革命の引き金と結末をしっかり表現している部分だと個人的には思います。
もう一つ、教科書でも重要ポイントになっているのが、ジョン・ロックの「統治二論 "Two Treatises of Government"」ですね。」
↓ジョン・ロックの肖像画

John Locke.jpg
ゴドフリー・ネラー - 1. 不明 2. derivate work of File:Godfrey Kneller - Portrait of John Locke (Hermitage).jpg (from arthermitage.org), パブリック・ドメイン, リンクによる

名もなきOL
「これ、私が習ったときは「市民政府二論」っていう名前だったような・・」
big5
「そうなんです。ジョン・ロックのこの本、日本語訳が複数あるのが歴史嫌いの一因になってるんだと思います。日本語訳の別名は「統治論二篇」、「市民政府二論」、「市民政府論」がありますが、個人的には「統治二論」が一番良い訳なんじゃないかな、と思います。ちなみに「二論」というのは、内容が多いので本2冊に分けられて出版されたから、です。」
名もなきOL
(二論ってそういう意味だったのね・・・)
big5
「「統治二論」が重要視されているのは、これが近代国家の政治学の走りとなったから、です。OLさん、国家とは何か?とか、国家とは何のために存在するのか?とか考えたことあります?」
名もなきOL
「え〜、そんな難しいことわかりません。でも、何のために存在するか、については「国民を幸せにするため」なんじゃないかな。」
big5
「そうですよね。ジョン・ロックは、そういう部分をとことん考えていったんですよ。そして、「統治論二篇」で彼は自分の考えをこうまとめました。
国家は個人の集まりで、個人は自身の権利の一部を政府に委託している

したがって、国家は個人の生命・財産・自由(自然権、とジョン・ロックは名付けた)を守ることが目的であり、主権はそもそも個人にある。

個人の自然権を侵害するような政府があった時は、個人は政府を倒す権利を持っている(革命権とか抵抗権とか呼ばれる)。

というかんじですね。特に、革命権(抵抗権)については、後に起こるアメリカ独立やフランス革命にも繋がっていくわけです。」
名もなきOL
「それならわかる気がします。国民を虐げる政府なんて、おかしいですもんね。」
big5
「現代日本ではわりと当然のように思えますよね。しかし、当時はまだまだ王様の力が強かったので、自分たちの意にそぐわない王様を追放することは、本当に正しいことなのだろうか?という根本的な疑問は、イギリス国民の中にはまだまだ根強く残っていたのかと思います。ジョン・ロックは、名誉革命から間もない1690年に「統治論二篇」を出し、このような疑問を払拭して、名誉革命で成立した新体制が正しいものである、と理論的に擁護したわけですね。
そして、「個人を虐げる政府は、倒してしまう権利がある」という部分は、のちの哲学者や政治学者に大きな影響を与えました。名誉革命からおよそ100年後に起きたアメリカ独立革命やフランス革命に大きな影響を与えたモンテスキューは、ジョン・ロックの理論を色濃く受け継いでいます。なので、ジョン・ロックの「統治二論」は重要なんですね。」
名もなきOL
「なるほど、国家とは何か、か〜。これまではそんな難しいこと気にもしなかったけど、でも、なんか少しわかった気がします。」
big5
「近世、近代のヨーロッパ史は登場人物も多く、事件も多くて暗記事項が増えてくるので、嫌いな人も多いと思います。でも、大人になった今なら、学生だった頃よりも面白く感じますよ。
さて、名誉革命の話はここで終わりとします。イギリスから追放されたジェームズ2世ですが、彼はこれで終わりではありませんでした。フランスに亡命し、ルイ14世のサポートを受けて、王位回復を求めて戦争に乗り出します。ただ、そんなジェームズ2世のリターンマッチも、歴史の大きなうねりのほんの一部に過ぎませんでした。次の主役は、名誉革命で新体制となった立憲君主制イギリスと、ルイ14世率いる絶対王政フランス、両雄が激突する「大同盟戦争」になります。乞うご期待!」





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