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「「絶対主義国家と国王たちの戦い」の人物篇へようこそだぜ!ここでは、バロック音楽時代を代表する音楽家の一人であるヘンデル(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル "George Frideric Handel")について紹介していくぜ!」
名もなきOL
「ヘンデルって聞いたことあるような・・・、そうだ、魔女が作ったお菓子の家の話に出てくるヘンゼルとグレーテルのヘンゼルですか?」
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「日本語では似ているが、まったく別だぜ。音楽家の「ヘンデル」は名字(Family name)で、「ヘンゼル」はドイツ人男子の名前(愛称)だ。音楽家・ヘンデルの肖像画がこれだ。」
ヘンデル 肖像画 作成者:Balthasar Denner 作成年代:1733年
名もなきOL
「う〜〜ん、見たことがあるような無いような・・・。」
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「音楽家だから、作曲した音楽を聴いてみよう。まず、ヘンデルの器楽曲でとくに有名なのは、この「水上の音楽(Water music)だな。」
https://youtu.be/uyGSc77LwNI
https://youtu.be/5NokjNCbCY4
名もなきOL
「この2つも有名ですね!1つ目は表彰式とかのBGMによく出てくるし、2つ目の「ハーレルヤ!」もよく聞きますね。」
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「こんな具合に、ヘンデル作曲の音楽は、現代日本でもしばしば耳にするくらい広がっているんだ。ここでは、このような名曲を作った音楽家・ヘンデルの人生について見ていくぜ。」
年 | ヘンデルのできごと | 世界のできごと |
1685年 2月23日 |
ドイツ東部の街・ハレで誕生 | |
1688年 | (3歳) | 名誉革命 勃発 |
1692年? | (7歳) 教会オルガニストのツァハウから鍵盤楽器・作曲を習い始める | |
1697年 | (12歳)父・ゲオルク死去 | |
1701年 | (16歳) | スペイン継承戦争 開戦 |
1702年 | (17歳)ハレ大学に入学 ハレのドーム教会オルガニストに仮採用される | 赤穂浪士の討ち入り |
1705年 | (20歳)最初のオペラ『アルミーラ』を上演 | |
1706年 | (21歳)イタリアに出発 | |
1709年 | (24歳)ヴェネツィアでオペラ『アグリッピーナ』を上演 | |
1710年 | (25歳)ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に任命される | |
1711年 | (26歳)ロンドンで最初のオペラ『リナルド』上演 | |
1713年 | (28歳)ハノーファー宮廷楽長を一時解雇される | ユトレヒト条約締結 スペイン継承戦争終結 |
1714年 | (29歳)アン女王死去し、ハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世としてイギリス王に即位 | |
1717年 | (32歳)『水上の音楽』演奏 | マリア・テレジア誕生 |
1719年 | (34歳)アカデミーの給与付きオーケストラ楽長となる。 | |
1723年 | (38歳)ブルック街に引っ越す。 | |
1727年 | (42歳)ジョージ1世死去 ジョージ2世即位 イギリスに帰化 |
|
1728年 | (43歳)アカデミー 閉幕 第2期アカデミー 開幕 |
|
1737年 | (52歳)脳卒中を発症して倒れる | |
1740年 | (55歳) | オーストリア継承戦争 開戦 |
1742年 | (57歳)『メサイア』初演 | |
1747年 | (62歳)『ユダス・マカベウス』初演 | |
1748年 | (63歳) | アーヘンの和約 オーストリア継承戦争 終結 |
1751年 | (66歳)左目の視力減退のため一時作曲中断 | |
1752年 | (67歳)ジョン・テイラーの眼科手術を受けるが失敗 | |
1756年 | (71歳) | 七年戦争 開戦 |
1759年 4月14日 |
(74歳)死去 | |
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「ヘンデルが生まれたのは、1685年。ドイツのハレという街で生まれた。父はゲオルクといい、外科医として貴族の宮廷に雇われていた。1622年生まれなので、ヘンデル誕生時には63歳。父というよりは、祖父に近い年齢差だな。母はドロテア(当時34歳)といい、ゲオルクの後妻となった女性だ。ちなみに、日本でも有名な音楽家のバッハも同じ1685年生まれだ。」
名もなきOL
「バッハさんは私でも知ってます。同い年なんですね。」
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「ヘンデルの経歴には不明な点が多いそうだ。ヘンデル研究の第一史料となっているのは1760年に出版された『故ジョージ・フリデリック・ハンデル回想録』(ジョン・マナリング著)なんだが、年については曖昧な部分が多いらしい。それによると、ヘンデルはハレの街に学校に通って、わりとハイレベルな教育を受けたのだが、音楽は正規の授業科目ではなかったそうだ。だが、ヘンデルはこの頃から既に音楽好きで、家で密かに楽器演奏の練習をしていたそうだ。」
名もなきOL
「なんで「密かに」練習してたんですか?」
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「父のゲオルクは、ヘンデルを法律家として育てたい、と考えて音楽は禁止していた、ということだそうだ。「父が音楽を禁止する」という部分は、プロイセンのフリードリヒ大王の少年時代と同じだな。
そんな環境にいたヘンデルが、正式に音楽を学ぶきっかけになったエピソードがある。ヘンデル少年は、宮廷に出勤する父に付いて行って宮廷を見たい、と思っていたのだが、父はそれを許さなかった。ある日、ヘンデル少年は宮廷に出勤する父の馬車を走って追い掛けた。これに父が根負けして、ヘンデルを伴って宮廷に行った。ヘンデル少年が宮廷に滞在していたある日、礼拝堂にあったオルガンを弾いていた。たまたま、これを聞いた父・ゲオルクの雇用主である公爵がヘンデルの音楽才能を感じ、父・ゲオルクにヘンデルに音楽を教えるように、と指示した。
という話だ。真偽のほどは定かではないが、ヘンデル少年はハレの街にある教会のオルガニスト(オルガン演奏者)であるツァハウから、オルガンの演奏や作曲を学ぶことになったんだ。ヘンデルの音楽修行の始まりなんだが、意外なことに、これがいつのことだったのかは不明となっている。上の年表では1692年、ヘンデル7歳の時としたが、他には9歳と11歳の2つの説があるぜ。」
名もなきOL
「歴史に名を残した音楽家が、いつから音楽を学び始めたのかハッキリわからない、って意外ですね。」
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「1697年に父・ゲオルクが死去し、1702年2月にハレ大学に入学。ただし、何学部かは不明だそうだ。音楽面では、大学入学の翌月3月13日に、ハレの街にあるドーム教会(カルヴァン派)のオルガニストとして仮採用されている。
当時、オルガンを演奏できる人の就職先の一つが「教会のオルガニスト」だった。教会の儀式では、オルガン演奏が必須だったんだ。今みたいに、CDやDVDと音響機器でBGMを流すことができないからな。音楽が必要なら、必ず演奏できる人と楽器が必要だった。」
名もなきOL
「ピアノじゃなくて、オルガンなんですね。今は、オルガンよりもピアノですよね。音楽家というと、ピアノを弾いて作曲するイメージがあります。」
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「この頃、まだピアノは普及していなかったんだぜ。教会の演奏と言えば、オルガンだったんだ。だが、ヘンデルのオルガニストとしての経歴は短かった。仮採用期間が終わると大学も止めて、当時ドイツで最もオペラが盛んだったハンブルクに引っ越したんだ。学生時代にブランデンブルクでオペラを見たり、友人となったテレマンという人物からオペラを学んだりして、オペラに強く惹かれたそうだ。ヘンデルは様々な曲を作っているが、特にオペラの作曲が多いんだ。オペラこそヘンデルの人生、と言っても過言ではないだろう。
ハンブルクに移ったヘンデルは、バイオリンやチェロの演奏者としてオペラに参加しながら、友人のマッテゾンからオペラを学んだ。そして、機会を得て1705年に自身で作った最初のオペラ『アルミーラ』を上演。これは20回も上演されるほどの好評を得たそうだ。」
名もなきOL
「これが、ヘンデルさんの成功の最初の一歩になったんですね。」
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「そうだな。ヘンデルの才能を感じたオペラ好きのイタリア貴族が、ヘンデルをイタリア修行に誘ったんだ。当時、オペラの本場といえばイタリアだったんだ。オペラを本格的に学ぶなら、イタリア行きは欠かせないプロセスだっただろう。ヘンデルはイタリア行きを決意した。」
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「1706年、21歳になるヘンデルは本場のオペラを学ぶためにイタリアに向かった。イタリアでのヘンデルの足跡は不明点も多いのだが、主にローマにいて4人のパトロンの保護を受けながら、作曲活動に励んでいた。」
名もなきOL
「パトロンの保護って、具体的にどんなものだったんですか?生活費を支給してもらった、とか?」
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「パトロンの一人であるルスポリ侯爵の家の家計簿によると、ヘンデルへの「給料」という支払いが無いかわりに、ヘンデルの食費という名目でお金の支出が記録されているそうだ。このことから、住む部屋と食事代を支給してもらう、いわゆる「食客」のような位置づけだったのではないか、と考えられているぜ。」
名もなきOL
「21歳っていったら、まだ大学生の年頃ですもんね。貴族の屋敷で寝泊りできるなら、かなり恵まれていた方なのかしらね。」
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「そうだな。いわゆる苦学生とは程遠い、かなり恵まれた環境だったのではないか、と思うぜ。で、ヘンデルはイタリアで本場のオペラを学び、自ら作曲もした。その集大成ともいえる作品が、オペラ『アグリッピーナ』だ。これがかなりの好評を博し、ドイツ人(外国人)でありながらイタリア・オペラを作って好評を得る、という名声を手に入れたんだ。現代日本で例えるなら、外国人が日本にやってきて、J-POP作ってものすごく売れた、というかんじかな。」
名もなきOL
「それは、なかなか難しいことですよね。ヘンデルさんには才能があったんですね。」
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「『アグリッピーナ』を上演した翌年の1710年、25歳になるヘンデルはイタリア修行を終え、次の就職先を探した。そして、巡り合ったのがドイツ北西部の貴族、ハノーファー選帝侯の宮廷楽長の職だ。年収として1000ターレル(おおよそ2000万円〜2500万円くらい。かなりの高給!)が支給されので、「食客」ではなくれっきとした「就職」だ。当時、音楽家が音楽で生計を立てていくには、街の教会のオルガニストとして採用されたり、ヘンデルのように貴族が抱えている音楽団の一員として雇われる、というのが一般的なキャリアプランだったんだが、ヘンデルは25歳にして既に宮廷の楽長になっている。就職活動でも大成功した、と言えるだろう。」
名もなきOL
「なんか、すごいなぁ。。海外留学して、帰国子女待遇で大手企業の管理職として採用される、ってかんじでしょうか。はぁ、羨ましくてため息出ちゃいますわ。。きっと、ハノーファー選帝侯のところでオペラを作って、売れっ子になったんでしょうね。」
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「うんにゃ、そうはならなかったんだ。ハノーファーの宮廷楽長に就職して間もなく、ヘンデルはデュッセルドルフに拠ってからイギリスのロンドンに行くんだ。それに、この時のハノーファー選帝侯の宮廷では、オペラはやっていなかったんだ。」
名もなきOL
「え?オペラで名声を得たヘンデルが、オペラをやらない宮廷に就職したんですか?それは何か変ですね。普通に考えたら、オペラを熱心にやっている宮廷に就職しますよね。しかも、ロンドンに行くなんてどうして
・・・?」
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「これには、おそらくヘンデルの長期キャリアプランと、ハノーファー選帝侯の利害が一致したことにあるんじゃないか、と『作曲家・人と作品シリーズ ヘンデル』の著者・三澤氏(参考文献参照)は考えているぜ。実はこの時、ハノーファー選帝侯は近い将来にイギリス王に即位することが予定されていた。当時のイギリス王は、ステュアート朝のアン女王(1710年で45歳)だったんだが、彼女には成人した子がおらず、他にイギリス国内にステュアート家の血を引く適格者がいなかったので、祖先にステュアート朝出身の母を持つハノーファー選帝侯が、アン女王の後継者となることがほぼ確定していたんだ。このため、ハノーファー選帝侯にとって、イギリス王室に関する内部情報はかなり有用なものだっただろう。また、ヘンデルにとっても、イギリスは魅力的なオペラ市場だった。当時のイギリスでは、イタリア・オペラは上演されていたものの、イギリスはシェークスピアに代表される演劇文化が盛んだったので、まったく主流ではなかった。ヘンデルは、イギリスで上質なイタリア・オペラを上演すれば、イギリス国内でオペラの第一人者になれる、と考えたのではないか、というわけだな。」
名もなきOL
「なるほど。でも、ヘンデルさんはイギリスに行って、王室の情報を入手することはできるんでしょうか?」
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「それが、できたんだな。これが、ヘンデルが歴史に名を残すことができた、大きな運命の分かれ目だったのではないか、と思う。というわけで、次節ではイギリスでの話だぜ。」
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「1711年、26歳になるヘンデルは、ロンドンに渡って間もなく、イタリア・オペラを作曲する機会を得た。作成期間わずか2週間という短期間でオペラ『リナルド』を作曲し、これがヘンデルのイギリスデビュー作となった。」
名もなきOL
「2週間でオペラ作っちゃうって、かなり早いんでしょうね。やっぱりデキル男は仕事が早いのね。」
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「早くできた理由の一つは、既存の曲の一部をそのまま流用する「借用」が多いせいだ、と言われている。『リナルド』も、ヘンデルがイタリア時代に作曲した曲の一部をそのまま使っているそうだ。まぁ、完全新作ではないにしても、2週間でオペラ1曲作れるのは、実力が無いとできないことなんじゃないか、と思うぜ。
こうして作られた『リナルド』は成功し、イギリス貴族らに「オペラのヘンデル」の名を植え付けることに成功した。ヘンデルは一度ハノーファーに戻ったが、すぐにイギリスに戻った。そして、アン女王の誕生日を祝う曲を作って、女王の前で演奏したりして、うまい具合にイギリス王室と接点を持つことに成功したんだ。」
名もなきOL
「雇い主のハノーファー選帝侯の期待にも応えたわけですね。」
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「ところが、ヘンデルは1713年にハノーファー宮廷楽長を解雇されている。一説では、スペイン継承戦争の講和条約に納得できなかったハノーファー選帝侯がヘンデルに帰国命令を再三に渡って出したにも関わらず、ヘンデルが無視して帰国しなかったため、と言われているぜ。そして翌1714年、アン女王が脳出血で死去し、ハノーファー選帝侯がジョージ1世としてイギリス王に即位。イギリス・ハノーファー朝の始まりだぜ。」
名もなきOL
「あらら、ヘンデルさん、大変なんじゃないですか?ハノーファー選帝侯を怒らせて、その選帝侯がイギリス王としてやってきたわけですよね?帰国命令を無視したから処罰されるんじゃないかしら?」
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「そうだよな。そこで、ヘンデルがジョージ1世の機嫌を取るために作曲した、とこれまで言われていたのが、器楽曲『水上の音楽(英語名:Water Music)』だぜ。」
19世紀に「ご機嫌取り」エピソードに基づいて描かれた絵 作者:Edouard Jean Conrad Hamman
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「ただ、最近の研究では「ご機嫌取り」エピソードは実話ではない、という説が有力になっているぜ。というのも、水上の音楽が演奏される前に、ジョージ1世が『リナルド』を見に行っている、という記録や、アン女王からヘンデルに与えられた毎年200ポンドの年金もそのまま認められたとか、ハノーファー宮廷楽長時代の未払い給料がヘンデルに支払われた、などの記録に加え、ヘンデルに期待された役割、つまりイギリス王室の内部事情を調べる、ということも考えれば、ジョージ1世がヘンデルに対して「不興」を持つはずがない、というのが根拠になっている。
まぁ、いずれにせよ、『水上の音楽』は、1717年にジョージ1世の舟遊びの際に演奏されたことは間違いない記録として残っているので、ジョージ1世のために作られた器楽曲である、ということに間違いはないぜ。そして『水上の音楽』は、オペラではない、器楽曲としてヘンデルの代表作となって現在でも様々な場面で使われているな。」
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「さて、水上の音楽が上演された1717年から1720年までの約3年間、劇場が閉鎖されたことや、ジョージ1世による王位継承に関する政争などの影響もあり、ロンドンではイタリア・オペラは上演されなかった。これではいけない、ということでイギリス貴族らが出資して会社組織である『ロイヤルアカデミー・オブ・ミュージック(英語名:Royal Academy of music)』が設立された。『ロイヤル』とついているのは、ジョージ1世が毎年1000ポンドの助成金を与えることを約束するなど、国王の支援が入っていることに敬意を表して『Royal』の名前がつけられたそうだ。ヘンデルは、この『アカデミー』の「給与付きオーケストラ楽長」という役職に任命された。給料は年に約800ポンド、と推定されている。こうして、ヘンデルは『アカデミー』が上演するオペラを手掛けていくことになったんだ。」
名もなきOL
「『アカデミー』のオペラは盛況だったんですか?」
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「売れたものもあれば、売れなかったものもある。ヘンデルといえども、作った作品すべてがヒットする、ということは無かったぜ。ただ、ヘンデル個人はどんどん裕福になって、1723年にはロンドンのブルック街へ引っ越している。日本で例えるなら、代官山とか世田谷に引っ越した、といったところだろうか。首都の一等地に住めるくらいの金は稼ぐようになっていたみたいだな。」
名もなきOL
「売れなかったオペラもあるとはいえ、人生順風満帆ってかんじですね。そういえば、結婚は?」
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「ヘンデルは結婚していない。生涯独身だった。恋人だった、という女性は何人か確認されているし、これだけ有名な音楽家になってブルック街に住んでいるから、女性にモテない、ということは無かったと思うんだが、結婚はしなかったぜ。
そして、順風満帆だった『アカデミー』だったが、1728年に『アカデミー』の財政状況が悪くなって、ついに破綻してしまった。」
名もなきOL
「あらら、何が原因だったんですか?」
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「原因はいくつかあるが、一つは甘すぎる経営管理と高すぎる人件費だ。『アカデミー』の予算は、すべての上演が満席で埋まる、という前提で作らていたそうだ。実際、毎回毎回満席になるほど現実は甘くないので、売れない作品が続くとたちまち資金繰りに困ったそうだ。それに拍車をかけたのが、オペラに出演するスター歌手の給料だな。『アカデミー』のオペラはイタリア・オペラだ。なので、歌はすべてイタリア語で歌われる。そのため、アカデミーは有名なイタリア人歌手を高額の給料で引き抜いてきたんだ。看板歌手の年収は1500ポンドと推定されており、なんとオーケストラ楽長のヘンデルの2倍弱もある。アカデミーは、看板歌手を3人雇っていたので、人件費はかなりのものだろう。ちなみに、コンサート・マスターは100ポンド、平団員が60ポンド、第3ヴァイオリン(ヴィオラ)が30ポンドということなので、看板歌手がいかに高収入なのか、よくわかるだろう。
そして、アカデミーの序列もほぼ給与順だったそうだ。つまり、ヘンデルよりも看板歌手の方が発言力が強いんだ。ヘンデルが作った曲も、看板歌手が気に入らなければ、曲の変更を要求したりしたそうだ。」
名もなきOL
「超人気俳優なら、監督に脚本の変更を要求できる、というのに似てますね。」
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「そうだな。そして、ヘンデルはそういう看板歌手が嫌いだったらしい。さらに、3人の看板歌手のうち、2人は女性なのだが、この2人の仲が極めて悪かった。扱いに差をつけると、不利に扱われたほうが不平不満を言うため、ヘンデルはこの2人の女性の役柄や出番に偏りが出ないように、作曲の際に気を使わなければならなかったそうだ。」
名もなきOL
「自分が作りたい曲を作ればいい、ではないんですね。ヘンデルさんもたいへんだ。」
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「まさにそうだな。しかし、そんなヘンデルや周囲の努力もむなしく、ついに2人の看板歌手は王族が見ているオペラの本番、舞台上で大喧嘩を始めたりと、アカデミーの人間関係も重大な問題が発生し、ついに1728年にアカデミーは閉幕となった。看板歌手はイタリアに帰り、オペラの上演はしばしお休みとなった。」
名もなきOL
「ヘンデルさんにも、そんな挫折があったんですね。」
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「そうなんだ。だが、これでヘンデルは終わらなかった。その年に開催されたアカデミーの取締役会で、ヘンデルとハイデッガーを中心に、新たに人員を組織してオペラの上演を再開することが決まった。ヘンデルは、歌手を探してヨーロッパ大陸に渡って、オペラ開催の準備を始めたんだ。研究者は、この新体制のアカデミーを「第二期アカデミー」と呼んで、最初のアカデミーと区別している。」
名もなきOL
「第2期アカデミーはどうだったんですか?」
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「売れたり売れなかったり、という状況だったんだが、1733年にライバルが現れる。ヘンデルに対抗すべく、イギリス貴族らが王太子フレデリックを旗頭として新企業「貴族オペラ」を立ち上げた。貴族オペラは、上質なイタリア・オペラを上演するために、かつてはヘンデルのオペラで歌っていた人気歌手らを引き抜いたり、イタリアから有名歌手を引き抜いたりしたんだ。
その翌年の1734年、ヘンデルは相棒だったハイデッガーと別れ、自分自身で劇場を借り、自分が興行主としてオペラを上演していった。ちょうど、ヘンデルが劇場にはフランス人のマリー・サレが率いるバレエ団や、小規模ながらも合唱団がいたので、ヘンデルはバレエや合唱を取り入れて新たなオペラを作ったんだ。新風味を取り入れたオペラはなかなか好評だったようだぜ。」
名もなきOL
「ライバル登場には、新しい要素を取り入れて対抗したんですね。さすがヘンデルさん。」
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「だが、バレエや合唱の取入れが好評だったのは、最初だけだった。観客が慣れてくると、新鮮味を失ってしまったのか、客足は遠のいてしまった。これは、ヘンデルのオペラだけでなく、ライバルの貴族オペラも同様で、1737年の興行成績は、ヘンデルも貴族オペラもおおよそ1万ポンドの赤字となってしまったそうだ。1737年9月1日、ヘンデルはイングランド銀行から150ポンドを引き出しているのだが、その後の残高は50ポンドにまで下がっていた。ヘンデル個人の財政状況もピンチだったことがわかる。しかも、その年の4月13日には、脳卒中で倒れてしまい、健康状況も良くなかった。ヘンデルにとって、かなり辛い時期だったと思われる。」
名もなきOL
「本当に、悪い事は重なって起きるんですね。。ヘンデルさん、どうなってしまうのかしら・・・」
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「低迷していたヘンデルを救うのに、大きな役割を果たしたのが、冒頭でも紹介したハレルヤで有名な「メサイア」と表彰式の「ユダス・マカベウス」だった。先に世に出たのは「メサイア」だ。1741年から、ヘンデルは「メサイア」の作曲に取り掛かる。今となってはヘンデルの代表作だが、当時はかなり挑戦的な内容だった。というのも、メサイアは聖書を題材とし、聖書に出てくる言葉もそのまま引用した作品だった。当時のオペラで、聖書に出てくる話を題材に取ることは珍しくはないが、聖書の言葉をそのまま引用する、というのは珍しかった。そのため、「メサイア」はかなり宗教的な要素が強いオペラなわけだ。」
名もなきOL
「オペラの内容が宗教的だと、何か問題があるんですか?」
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「一部の観客の反感を買うことが問題だな。当時のイギリスでは、産業革命が進行していて、オペラの観客には中産階級の市民が多かった。彼らの多くはピューリタンで、教会では華やかさよりも素朴な讃美歌を好む人たちだった。彼らは、ヘンデルのオペラが持つ倫理感や宗教的教化における効果は認めていたものの、オペラはあくまで娯楽であり、娯楽の中に素朴であるべき聖書の言葉がそのまま使われることは、聖書を冒涜する行為だ、と感じる、ということらしいぜ。」
名もなきOL
「う〜〜ん、なかなか難しい問題ですね。現代でも、表現の自由と差別表現の議論がされますけど、それに似たかんじで、娯楽と宗教の境界線の問題があったわけですね。」
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「そのため、ヘンデルは「メサイア」の上演にはかなり慎重だった。最初に上演されたのは1742年4月13日、ロンドンではなく演奏会を開催したアイルランドのダブリンだった。ダブリンではかなり好評だったので、その1年後の1743年にロンドンでも上演。しかし、ロンドンではかなり不評で終わってしまった。しかも、4月に2度目の脳卒中で倒れてしまい、ヘンデルの苦労がうかがえるぜ。
だが、「メサイア」の魅力は少しずつロンドンの聴衆にも受け入れられていき、約7年後の1750年以降は、ヘンデルオペラの定番作品の一つとなって、人気作品になったんだ。」
名もなきOL
「「メサイア」には、そんなたいへんな産みの苦労があったとは、驚きです。」
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「もう1曲、重要なのが1747年に上演された「ユダス・マカベウス」だ。これは、1740年から始まったオーストリア継承戦争の最中に、ステュアート朝の血を引くチャールズ・エドワードが、フランスの支援を受けてスコットランドに上陸し、手薄だったイングランドを強襲したのを、国王ジョージ2世の三男であるカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスが撃退した。ヘンデルが、このカンバーランド公爵のために作ったオペラが「ユダス・マカベウス」だ。
これは、つい最近起こった戦争の勝利を聴衆に連想させ、なかなかの成功を収めた。こうして、「メサイア」、「ユダス・マカベウス」、それからもう一つ人気作品となった「サムソン」の3作品が、ヘンデル・オペラの人気定番作品となり、1750年以降のオペラシーズンで必ず上演される定番作品になったんだぜ。」
名もなきOL
「なるほど。曲が作られた背景とかも知ると、曲自体もより味わい深いものになりますね。」
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「あともう一つ、小さなことだが「ユダス・マカベウス」が初演された1747年は、ヘンデル・オペラにもう一つ変化があった。それは、オペラのチケットをすべて当日券のみのチケット販売に変えた、ということだ。それまでは、開催前にチケットを先に売る予約制販売だったが、予約制販売は経済的に余裕のある貴族や一部の金持ちしか買えず、彼らへの依存度が高い方法だった。この販売方法の切り替えも、ヘンデル・オペラの復活に一役買ったようだぜ。
そしてもう一つ、重要なことも紹介しておこう。一時はピンチだったヘンデルだったが、その後の復活してヘンデル・オペラは繁盛した。経済的にもかなり恵まれていたのだが、そんなヘンデルが1750年から死ぬ年までの約9年間、オペラのシーズン終了後に孤児院で慈善演奏会を開いて「メサイア」を上演し、収益金は孤児院に寄付していた、ということも重要なのでここで紹介しておこう。」
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「1751年、ヘンデル66歳になる年、新オペラ「イェフタ」を作曲中に左眼がまったく見えなくなってしまった。2月13日のことだ。これは、ヘンデルの自筆楽譜に手書きで記載されているそうだ。ヘンデルは、以前からリウマチが持病で、オフシーズンには温泉療養もしていたのだが、これまでの疲れが出たのか、視力も少しずつ弱っていき、翌1752年には右眼もほぼ見えなくなったそうだ。この年の11月3日に、王太子付の外科医・ウィリアム・ブロム・フィールドの手術を受け、さらに当時一流の外科医ともてはやされていたジョン・テイラーの手術も受けたが、いずれも失敗している。ちなみに、ジョン・テイラーは1750年に、かの有名なバッハの眼の手術もしているが、失敗している。今ではジョン・テイラーは実は薮医者、と考えられているぜ。」
名もなきOL
「ほんと、奇遇ですね。同年のバッハとヘンデルは、二人とも目を病んで、しかも同一人物の手術を受けて失敗する、っていう共通点まであったなんて。。」
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「完全に失明した後も、ヘンデルは助手のスミスらの助けを得ながら、新曲を作曲したり、そしてオペラの興行を続けた。もっとも、さすがに失明していては指揮を執ることはできないので、指揮は助手のスミスや他の人物に任せ、ヘンデル自身は近くで聞いていたそうだ。盲目となった音楽家の姿を見た観客の中には、涙ぐむ者もいた、と言われている。その一方で、大金持ちとなったヘンデルを批判する人々もいた。特徴的なのは、下の風刺画だな。豚がオルガンを弾いている、というヘンデル批判の絵だ。
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「がんばっていたヘンデルだったが、1759年4月6日、オペラ・シーズン閉幕の日に自宅で倒れた。そのまま寝込んでしまい、4月14日に死去。74歳になる年だった。
ヘンデルはドイツ人だったが、イギリスに帰化し、その後もイギリスで活動を続けて成功した。ヘンデルは彼自身の希望通り、ウェストミンスター寺院に葬られた。ウェストミンスター寺院に葬られるのは、イギリス王族以外では科学者のニュートンなど、特別な貢献をしたと認められた人物なんだが、ヘンデルもそれに値する人物みなされたわけだ。」
名もなきOL
「自分自身の音楽の才能を、存分に発揮した人生、というかんじでしたね。会社勤めの私には、まぶしく見えました。」
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「ヘンデルの死後、音楽史の歴史区分は「バロック時代」から「古典派時代」へと変わっていく。産業革命で勃興していった中産階級にも、オペラという形で広めていったヘンデルの功績は大きいだろうな。」
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参考文献・Web site
ヘンデル シリーズ作曲家・人と作品 著:三澤 寿喜 249ページ