Last update:2022,JAN,14

世界大戦と平和への試み

ムッソリーニのファシスト政権

あらすじ

big5
「今回のテーマは第一次大戦後のイタリアです。第一次大戦後のイタリアの歴史で最も重要なのが、ムッソリーニが指導するファシスト政権が誕生したことですね。この時点で、第二次世界大戦への道筋が一つできたことになりましたので、たいへん重要な事件になります。」
名もなきOL
「ファシストって、名前はよく聞くんですけど、簡単にいうとどういう意味なんですか?」
big5
「ファシスト(facist)の考え方をファシズム(facism)と言います。これまでファシズムの定義について多くの学者が意見を提唱していますが、多岐にわたっているので一言で言うのが難しいです。簡単に特徴を言うと
「愛国的だが軍事と戦争で自国を繁栄させようとする帝国主義の一種。他の党派の考え方は認めず、国民を思想的に統一する。共産党は敵視。」
下線を引いた「軍事と戦争」、「国民の思想統一」、「共産党は敵」、というのがファシストの特徴ですね。
そもそも「ファシスト」の言葉の由来は、ムッソリーニが組織した「戦闘者ファッシ」の「ファッシ」です。「ファッシ」とは「集団、団結」という意味です。「イタリア戦闘者ファッシ」が改組されてイタリアファシスト党となりましたので、元々は党の名前だったわけですね。それが、ドイツや日本でも似たような考え方で第二次大戦が始まったので、これらのグループをまとめて「ファシスト」と呼ぶようになりました。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 イタリアのイベント それ以外のイベント
1918年 男性普通選挙 施行
1919年 3月 ムッソリーニが戦闘者ファッシを結成
9月 ダヌンツィオがフィウメを占領
11月 総選挙でイタリア社会党が第一党になる
ヴェルサイユ条約
1920年 北イタリア工業地帯で大規模なストライキ
1921年 イタリア共産党 成立
国家ファシスト党 成立
ワシントン会議始まる
1922年 ローマ進軍 ムッソリーニ内閣成立 ワシントン会議始まる
1924年 ファシスト政権成立
フィウメを併合
ドーズ案発表
1925年 事実上のムッソリーニ独裁体制 成立 ロカルノ条約 締結
1927年 アルバニアを実質保護国化 ドイツが国際連盟に加盟
1928年 パリ不戦条約 締結
1929年 2月 ラテラン条約でヴァチカン市国成立 10月24日 暗黒の木曜日 世界恐慌始まる

ムッソリーニの台頭

高まる社会不安

big5
「さて、第一次世界大戦で戦勝国となったイタリアですが、その結果にはかなりの不満を残しました。未回収のイタリアであるトリエステやチロルはオーストリアから奪還したものの、イギリスとの秘密条約で獲得を約束されていたフィウメ(現在のクロアチア領・リエカ)などが反故にされたため、イタリア世論は満足よりも不満でいっぱいだったそうです。」
名もなきOL
「約束を反故にされたんだから、怒るのも仕方ないですね。秘密条約とか、国際政治って本当に難しいですね。」
big5
「そのため、1919年にダヌンツィオ(この年56歳)という愛国思想の強い詩人が、武装勢力を率いてフィウメを実力で占領してしまう、という事件が起きました。これは、翌年にイタリア海軍によって鎮圧されるのですが、イタリア国民の多くはダヌンツィオを「英雄」とし、むしろ政府を非難しました。」
名もなきOL
「気持ちはわかりますけど、イタリア政府の対応は正しいと思います。」
big5
「国民の不満はそれだけではありません。戦時中に好景気だった反動で、戦後のイタリア経済は不況になりました。そんな中、ロシア革命の成功に触発されたイタリア社会党は、1920年に労働者らを扇動して北イタリア工業地帯を中心に大規模なストライキを始めました。農村では、農民が土地を占拠したりしました。実は当時のイタリアでは、イタリア社会党が第一党でした。1918年に男性普通選挙が制定され、1919年の選挙で新しく有権者となった労働者らの支持を得て、一気に第一党に躍り出たわけですね。結果として、革命には至りませんでしたが、1921年に沈静化するまでの足掛け2年間は赤い2年間とイタリアでは呼ばれています。」
名もなきOL
「革命に至らなかった理由は何だったのでしょうか?」
big5
「リーダーの不在や党内の意思決定ができなかったなど、要因はいろいろあります。その中でも重要な要因をあげるなら、1921年にロシアのように革命を目指すイタリア共産党がイタリア社会党から分離独立したことと、1919年にムッソリーニが立ち上げた新政党「戦闘者ファッシ」などによる労働者、農民の弾圧です。ムッソリーニは共産主義が大嫌いですので、社会主義革命などはもってのほかです。ただ、ムッソリーニが取った対抗策は「暴力で黙らせる」でした。第一次大戦の復員兵などを取り込んで組織の戦闘力を強化し、制服として黒いシャツを採用。「黒シャツ隊」とも呼ばれ、周囲から恐れられる存在になっていきました。」

Mussolini biografiaムッソリーニ 撮影年:不明

名もなきOL
「そんな危険な集団を、政府は取り締まらなかったんですか?」
big5
「はい、取り締まりませんでした。おそらく「毒を以て毒を制す」の考え方で、ムッソリーニらに社会主義者を弾圧させればちょうどよい、と思ったのでしょう。しかし、そうはなりませんでした。」


ファシスト党の成立とローマ進軍

big5
「1921年、ムッソリーニは戦闘者ファッシを国家ファシスト党という政党に改組します。議会で議席も獲得し、政党として活動を始めました。そして1922年、黒シャツ隊を集めて首都・ローマに向けて進軍を開始させます。黒シャツ隊は何事もなくローマに入り、政府を威嚇しました。これがローマ進軍です。」
<年号暗記語呂合わせ>
ニニ(22)っと満足ムッソリーニ 1922年
※19が無い、と突っ込まれるかもしれませんが、ムッソリーニなのでそれはわかる、という前提です。

Milite Ignoto 1922 - Marcia su Romaローマに入城したファシスト党員たち

big5
「黒シャツ隊の威嚇に対し、時のイタリア国王・ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(この年53歳)はムッソリーニに対して組閣を命じました。脅しに屈してしまったわけですね。」
名もなきOL
「黒シャツ隊が恐れられていたからなんでしょうけど、でも政府が軍を使って対抗すれば十分勝てたんじゃないでしょうか?」
big5
「そうですね。なぜ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニに屈してしまったのか、歴史学者がいろいろ研究していますが、その気になれば政府は黒シャツ隊のクーデターを潰すことはできたはずだ、と考えています。しかし、事実は違いますから謎ですね。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の自伝によると、内戦を避けるために致し方なかった、と書いてあるそうですが、実際のところはどうだったんでしょうか。
ともあれ、こうしてムッソリーニは国王から任命されるという形式でイタリア首相に就任しました。この年、ムッソリーニ39歳です。」

Vittorio Emanuele III (c. 1924-1934)ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 撮影年:1924〜1934年の間

big5
「首相となったムッソリーニは、意外なことにファシスト党から閣僚に入れたのは3人だけ。他は自由主義派やカトリック系、軍出身者などを入れており、顔ぶれだけ見るとファシスト政権には見えません。おそらく、批判をかわすための人事だったのではないかと思います。」
名もなきOL
「この時点で、いきなりファシスト党で固めたら、反対勢力も多いと思ったんでしょうね。」
big5
「しかし、これはあくまで一時的な姿です。1924年、統一社会党の議員・マッテオッティがファシスト党の過激派に拉致されて殺される、という事件が起きました。これにはムッソリーニの関与が疑われ、大騒ぎになります。それに対し、ムッソリーニは1925年1月3日、国会で演説を行いました。内容は
「私を告発するのは自由だが、ファシズムに罪があると言うなら、それは私の責任だ。そうなった場合ファシスト党襲撃隊がどういう行動に出るかわからない。」
と再び脅しをかけます。この脅しで国王も議会も沈黙してしまい、ムッソリーニは事実上のファシスト独裁体制を完成させました。その後、残った反対派議員は無理やり辞任させたりして追い出し、ついには野党の結成を禁止資する法案を成立させて、ムッソリーニ独裁体制を完璧にしました。
こうして、世界全体的には「国際協調が進んだ」と言われている1920年代に、イタリアだけはムッソリーニによるファシスト政権が成立してしまったわけですね。」
名もなきOL
「日本は軍部が力で政治を乗っ取ってしまいましたが、イタリアではムッソリーニが力で独裁体制を築いたわけですね。暴力でなんでも解決しようとするファシストは怖いです。」

ムッソリーニの政治

フィウメ併合とアルバニア保護国化

big5
「さて、次にムッソリーニの政治を見ていきましょう。まず、イタリア国民の不満の種の一つであったフィウメ問題について。フィウメはダヌンツィオの占領の後、フィウメ自由市として形式上は独立していたのですが、その立場は非常に不安定なものでした。そのため、治安維持の名目でムッソリーニから軍人が派遣されるなどしていたんです。1924年、ムッソリーニはフィウメを公式に併合します。」
名もなきOL
「ダヌンツィオさんが喜びそうな結果になったんですね。」
big5
「また、アドリア海を挟んで向かいにある新興国家であるアルバニアにも手を出しました。アルバニアは1914年にアルバニア公国となっていたのですが、第一次大戦で肝心の公爵が国外逃亡してしまい、君主不在になるという不安定な時期を経て、1925年にオスマン帝国の地方総督を務めていた家系出身のゾグが大統領となってアルバニア共和国となっていました。ゾグは遅れていたアルバニアの近代化に取り組むとともに、対外的にムッソリーニの支援を受けることになったので、これでアルバニアを事実上の保護国化した、とみなされています。
ちなみに、誤解しやすいのですが、この時点ではあくまで「事実上の保護国化」です。アルバニアがイタリアに占領されるのは、第二次大戦が始まってすぐの1939年のことです。」


ラテラン条約とヴァチカン市国成立

big5
「本編の最後は1929年のラテラン条約ですね。この条約は、現在まで続くヴァチカン市国を誕生させた条約です。イタリア王国成立の時に教皇領が没収されて以降、イタリア王国と教皇の対立が続いていました。ムッソリーニは、ヴァチカン市国を教皇領として認め、さらに補償金も支払うことで和解します。さらに、イタリア国内におけるカトリックの布教も公式に認めました。」
名もなきOL
「ムッソリーニってカトリック信者だったんですか?」
big5
「いえ、そんなことはありません。宗教的には無神論者に近かったみたいですね。ムッソリーニの狙いは、決してカトリックへの信仰から生まれたわけではなく、カトリック勢力の支持を得ることにあったと思われます。
こうして、イタリアはムッソリーニ独裁のファシスト国家に変貌し、やがて第二次世界大戦に参戦することになります。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問


big5
「このテーマは、大学入試共通テストでもたまに出題されます。勉強時間が取れる受験生は、試験前に復習しておくのがオススメです。」

令和2年度 世界史B 問題1 選択肢4
・ミラノ勅令によって、ヴァチカン市国(ヴァティカン市国)の独立が認められた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ヴァチカン市国の独立が認められたのはラテラン条約です。ミラノ勅令は、帝政ローマのコンスタンティヌスがキリスト教を公認した勅令です。また、ナポレオンが大陸封鎖令を補完するために出したミラノ勅令もあります。いずれにしても、ヴァチカン市国の独立を認めたのはラテラン条約です。

令和2年度 世界史B 問題11 選択肢3
・オーストリアが、ユーゴスラヴィアからフィウメを獲得した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、フィウメを獲得したのはイタリアです。オーストリアではありません。




世界大戦と平和への試み 目次へ戻る

この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。



参考文献・Web site