big5
「今回のテーマは題名のとおり1917年に勃発したロシア革命です。ロマノフ朝は1613年の創始から約300年もの間、ロシアの君主として君臨していました。しかし、第一次大戦でドイツとの戦いに劣勢となり、ロシア国内は深刻な物資不足で国民は食べるものにも不自由する始末。ついに革命が勃発してロマノフ朝は打倒され、ロシアの君主政国家としての歴史にピリオドが打たれることになったわけです。
しかも、ロシア革命はその7か月後にレーニンが社会主義革命を成功させ、世界史上初となる社会主義国家・ソヴィエト社会主義共和国連邦(通称:ソ連)が建国されました。1917年は、ロシアにとっても世界にとっても、大イベントの年と言えますね。」
名もなきOL
「1917年にロシアで革命が2回も起きたんですね。まさに動乱の年ですね。」
big5
「はい。ついでに用語を整理しておきましょう。少しややこしいのですが「ロシア革命」という用語は、おおよそ以下のように使われています。
1917年3月の革命(ロシア暦2月):三月革命(ロシア暦に合わせて二月革命、とも)
1917年11月の革命(ロシア暦10月):十一月革命(ロシア暦に合わせて十月革命、とも)
1917年に発生した2つの革命を総称して:ロシア革命
また、日露戦争後半に発生した1905年に発生した血の日曜日事件をきっかけとする革命輪騒ぎを「ロシア第一革命」ととらえて、1917年の革命は「ロシア第二革命」と分けて、2つを合わせて「ロシア革命」と呼ぶこともありますが、ここでは1917年の2回の革命を「ロシア革命」と呼ぶことにします。」
名もなきOL
「革命の名前がこんなに・・。覚えきる自信ないです。」
big5
「全部を覚えようとすると、まずこんがらかりますね。なので、ロシア革命については以下の2点を覚えましょう。
(1) 1917年のロシア革命でソ連が建国された。
(2) ロシア革命は3月と11月に2回革命が起きた。
それ以外のことは、後からおいおい覚えていく、という手順の方が頭に残りやすいと思います。」
名もなきOL
「なるほど、基本から一歩ずつ、ですね。」
big5
「まず最初に三月革命でロマノフ朝が打倒されました。この結果、ロシアは富裕層が政権を握る共和国になりました。しかし、これはあくまで一時的なものでした。その後、レーニン率いる社会主義者らが動乱を乗り越えて11月に2回目の革命を起こし、ロシアは史上初の社会主義国家・ソ連となりました。これがロシア革命の本筋ですね。社会主義国の誕生に驚いた資本主義諸国は、革命の余波が自国に及ぶことを恐れてソ連に軍事介入します。これは「干渉戦争」と呼ばれています。干渉戦争はソ連のあちこちが戦場となったのですが、その中でも一番東のウラジヴォストーク周辺での戦いが、日本史で「シベリア出兵」と呼ばれている事件ですね。これらの妨害があったものの、ソ連は主権を確立して強大な社会主義国家へと変貌していくことになりました。
三月革命⇒十一月革命⇒干渉戦争(シベリア出兵含む)⇒社会主義国家・ソ連として変貌
というのが、ロシア革命とソ連成立の筋道になります。
最初に起きたのは1917年3月(ロシア暦では2月)だったので、三月革命
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」
年月 | ロシアのイベント | 世界のイベント |
1916年12月 | 怪僧ラスプーチンが暗殺される | |
1917年3月 | 三月革命 勃発 | |
1917年4月 | レーニンが4月テーゼを発表 | |
1917年3月 | ロシア革命(三月革命)勃発 | |
1917年7月 | ケレンスキーが臨時政府の首相に就任 | |
1917年11月 | 十一月革命 勃発 | 連合国陣営がパリで会議 反革命派の支持とソ連を承認しないことで一致 |
1918年1月 | トロツキーが赤軍を創設 | |
1918年3月 | ブレスト=リトフスク条約でロシアがドイツと単独講和 | |
1918年4月 | 対ソ干渉戦争 開戦 | |
1918年8月 | シベリア出兵 始まる | |
1918年11月 | シベリア出兵 始まる | ドイツ帝国崩壊 ポーランド独立 |
1919年 | コミンテルン 結成 連合国軍がムルマンスク、アルハンゲリスクから徐々に撤退開始 |
パリ講和会議 ヴェルサイユ条約調印 |
1920年 | ソ連=ポーランド戦争 | |
1921年 | クロンシュタット反乱 リガ条約(ソ連=ポーランド戦争講和) |
|
1922年 | 対ソ干渉戦争 消滅 | |
big5
「まず、教科書的には余談になりますが、有名な怪僧ラスプーチンの話から始めましょう。」
名もなきOL
「ラスプーチンって聞いたことあるような・・・いろいろ不思議な力を持っていて、病気を治したりして皇帝の信任を得た、とかでしたっけ?」
big5
「はい、その通りです。ラスプーチンはロマノフ朝末期に登場した謎が多い自称・祈祷僧です。いかにも怪しい風貌や、特に女性信者が多かったことからフィクションでよく取り上げられますね。」
名もなきOL
「あぁ、これは・・・いかにも、という感じの怪しさですね。」
big5
「ラスプーチンはシベリアの寒村で貧農の子として生まれましたが、いつの間にやら宗教家となり、そしてロシアの人々の病気を治す「神の人」として有名になり、ニコライ2世の息子で皇太子のアレクセイの血友病を治療した、ということで皇后アレクサンドラから絶大な信任を得ることになります。やがて、ラスプーチンはニコライ2世をはじめとした皇帝一家にも信任されるようになりました。特に女性信者が多かったので、ラスプーチンは周囲の人々からは「好色家」とか「ペテン師」と蔑まれていました。当然、政治家や他の皇族からは恨みを買います。」
名もなきOL
「なんか、いかにも怪しい感じですもんね。周囲に恨まれるのも当然でしょう。」
big5
「第一次世界大戦が始まり、ロシア軍はドイツ軍に敗れて苦戦。西部の領地は占領され、ロシア国民は物資不足で生活に困るようになります。その一方で、皇帝一家はラスプーチンのようなペテン師を信じて贅沢をしている、として批判を受けるようになりました。ラスプーチンは、腐敗したロマノフ朝の象徴のようにもなっていたわけですね。1916年12月、ラスプーチンに恨みを持つ皇族らによってラスプーチンは暗殺されるのですが、その最期は「青酸カリ入りの食べ物を食べたのに平然としていた」とか「ピストルで心臓と肺を撃ったのに、しばらくしたら息を吹き返した」など、常人とは思えない粘り強さを見せて死んだと伝えられたため、「怪僧・ラスプーチン」として世界的に有名になったわけですね。」
名もなきOL
「最期については、だいぶ話が盛られているんじゃないかな、って思いますけど、そういう話があっても不思議じゃないくらい、怪しい人物だった、ということですね。」
big5
「さらに、ラスプーチンが暗殺された数か月後に、ロシア革命が勃発してロマノフ朝が滅びることになりますので、ますます「ロマノフ朝の最後と怪僧・ラスプーチン」のイメージが強くなってしまうことになりました。ラスプーチンの話については、いろいろな話や謎も多いのですが、歴史の本筋ではないのでここでは省略します。次の話は、三月革命です。」
名もなきOL
「皇帝が退位したのでロシアは「帝国」じゃなくなったんですよね。どうなったんですか?」
big5
「まずは臨時政府が立ちあげられ、ロシアの富裕層から成る政権ができました。いわゆる「ブルジョワ政権」ですね。ブルジョワ政権である臨時政府は、三月革命の主役となった労働者らの要求とは異なって戦争継続を決めましたので、臨時政府に反対する人々も多かったんです。臨時政府に反対する労働者や農民らはソヴィエトという集まりを各地に作って、独自の政策を行うようになりました。この集まりをまとめたのが、後にソヴィエト連邦になるわけですね。ですが、この時点では臨時政府と各地のソヴィエトという、二重構造と呼ばれる状態になっていました。」
名もなきOL
「三月革命は新しい秩序を築いたわけではなく、混沌の始まりだったんですね。それなら、2回目の革命が起きるのも納得です。」
big5
「そんな中、ソ連の立役者であるレーニン(Lenin この年47歳)が動きます。この時、レーニンはスイスに亡命していたのですが、三月革命のことを聞いて急遽ロシアに帰国。自身が指導する社会主義革命政党であるボリシェヴィキの基本方針として四月テーゼを発表しました。ボリシェヴィキは「革命を起こして社会主義国家を建国する」という政党ですので、ブルジョワ政権の臨時政府など到底受け入れられるものではありません。レーニンは四月テーゼで
・臨時政府と対決すること
・世界大戦は即時停戦
・すべての権力はソヴィエトに集中すべき
と主張しました。特に最後のソヴィエトへの権力集中は「すべての権力をソヴィエトへ」という標語として有名になりました。レーニン率いるボリシェヴィキは、もう一度革命を起こして臨時政府を倒し、社会主義国家を建国しようとしたわけですね。しかし、この時点ではボリシェヴィキの勢力はまだまだ弱いものでした。
7月になると、社会革命党(通称「エスエル」)のケレンスキーが臨時政府の首相となりました。ケレンスキーは、ロシア軍を立て直してドイツ軍に対する一斉反撃作戦を始めようとしたため、戦争継続に反対するボリシェヴィキや民衆は強く反発。首都・ペトログラードで反対デモを起こします。しかしケレンスキーはこれを軍隊で鎮圧しました。レーニンもフィンランドへ逃亡しました。」
名もなきOL
「この時点では、レーニンの勢力はまだ弱かったんですね。」
big5
「レーニンとボリシェヴィキを追い散らしたケレンスキーは、新たなロシア軍を戦線へ送りますが、この作戦は大失敗に終わり、多くの犠牲者を出してしまいます。さらに9月には、司令官のコルニーロフが臨時政府に対して叛旗を翻し、ケレンスキーと臨時政府は早くもピンチとなりました。
その間、レーニンは密かにペトログラードに戻って再起を図りました。特筆すべきなのはレーニンの部下であるトロツキー(Trotsky この年38歳)です。」
名もなきOL
「トロッキーってなんだか面白い名前。トリッキーみたい。」
big5
「ああ、間違いやすいのですが、「トロッキー」ではなく「トロツキー」です。日本人ではなくロシア人の名前をカタカナ表記しているだけなので、トロツキー本人から見ればどちらも正しくないのでしょうが、日本語表記では彼の名前は「トロツキー」です。ただ、昔の文献では「トロッキー」と書かれているものもあります。
トロツキーはボリシェヴィキの幹部の一人で、特に軍事面での才能を発揮しました。トロツキーは密かに革命のための戦力を養成しました。これが後に赤軍と呼ばれるソ連軍の基となりました。
11月に入ると、臨時政府がボリシェヴィキ派の新聞発行を禁止したことをきっかけに、十一月革命が始まりました。今度は赤軍が政府軍を倒し、ペトログラードを占領。ケレンスキーは女装してなんとか逃げ延びましたが、臨時政府は事実上滅びました。ついに、レーニンとボリシェヴィキは革命を成功させました。レーニンは全ロシア・ソヴィエト会議を開催して全世界にソヴィエト政権の樹立を宣言します。そして「平和についての布告」を発表しました。これについては、第一次世界大戦 後編でも紹介したとおりです。さらに、身分制度の廃止や司法制度の改革、銀行の国有化、結婚の自由に男女同権など、ボリシェヴィキが理想として掲げていた政策を断行していきました。」
名もなきOL
「その話を聞いていると、レーニンの社会主義国は近代的で良さそうな感じがしますね。」
big5
「一方で、レーニンは社会主義以外の考え方は一切排除しました。「チェカ」という、秘密警察のような組織を編成し、反革命派に対してはテロをも辞さない過激な行動で弾圧を進めました。チェカは1922年に「ゲーペーウー」に改組され、政府批判を厳しく取り締まる公安組織として恐れられることになります。」
名もなきOL
「前言撤回。やっぱり怖いです。」
big5
「こうして、レーニンによる革命は成功し、社会主義国家としての基礎固めが進んでいきました。しかし、第一次世界大戦 後編でも説明したように、ソ連が戦争から離脱することは、ドイツにとっては大歓迎ですが、英米仏ら連合国陣営にとっては痛手です。しかも、ソ連は上記のような社会主義国家ですから自国への影響も心配です。ソ連の成功に触発されて、自国の社会主義者らが革命を起こしたらたいへんですからね。そこで、連合国陣営は11月29日にパリで対策会議を開きました。この時点では、英米仏の意見はまとまらなかったのですが、ソ連を承認せず、反革命派を支持するという点では一致しました。」
big5
「年が明けて1918年3月。ブレスト=リトフスク条約が締結され、ソ連はドイツと単独講和を結び、第一次席大戦から離脱しました。これを受けて、英米仏を始めとする連合国陣営は、第一次世界大戦がまだ決着していないうちからソ連に軍隊を送って反革命派を支援していきます。4月には英仏軍が北極海に面したムルマンスクに上陸して占領しました。対ソ干渉戦争(単に「干渉戦争」とも呼びます)の始まりです。7月にはアルハンゲリスクも占領しました。また、東側らも圧力が必要ということで日本も対ソ干渉戦争に参戦することになり、8月にソ連の東の拠点であるウラジヴォストークに軍が上陸して占領します。これが日本でシベリア出兵と呼ばれている事件です。」
名もなきOL
「シベリア出兵って、対ソ干渉戦争の一環として行われたんですね。昔の日本が悪い事の一つ、というイメージを持ってました。」
big5
そもそも、戦争を善悪で語るというのは単純でわかりやすいく、事実を曲げたり隠したりするのに便利ですからね。シベリア出兵にはもう一つ、大きな目的がありました。それはチェコ軍団の救出です。」
パブリック・ドメイン, リンク
名もなきOL
「チェコ軍団?シベリアなのになんでチェコ?どういう繋がりですか?」
big5
「これは説明が必要ですね。まず、第一次世界大戦中、チェコはオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下にあったので、オーストリア軍として従軍していました。チェコ軍団は東部戦線でロシア軍と戦ったのですが、彼らはオーストリア人に支配されてやむなく従軍しているだけなので戦意は低いです。やがてロシアに投降して捕虜となり、シベリアに移送されました。この頃から「捕虜はシベリア送り」というパターンがあったわけですね。チェコ軍団は戦闘力が高かったので、戦争で劣勢になったロシアはチェコ軍団をロシア軍に編入してドイツ・オーストリア軍との戦線に送る準備をしました。しかし、レーニンらのロシア革命でロシアは崩壊し、ブレスト=リトフスク条約で単独講和したためにチェコ軍団は行き場を失いました。これに目を付けたのがソ連の反革命派です。結果として、チェコ軍団と赤軍がシベリア方面で戦闘となりました。」
名もなきOL
「シベリア方面で戦闘となると、チェコ軍団は孤立無援だったわけですね。」
big5
「そうです。なので、アメリカのウィルソン大統領はチェコ軍団救出のためにシベリア方面への出兵を日本に持ちかけました。シベリア方面に一番近く、第一次世界大戦にもちょっとしか参戦していない日本なら適役といったところでしょう。日本でもこれにどう対応するかは議論になったのですが、結果として大軍をシベリアに送り込むことになったんです。この対応を見た英米仏は、「日本がこの機に領土拡大を目論んでいる」と考えて警戒することになりました。
big5
「一方、レーニン率いるソ連は連合国軍を追い払おうとします。この非常事態にあたり、レーニンは「すべてを戦線に」という標語を掲げて、一部の富裕層が蓄えている食料などを強制的に挑発して前線へ送りました。さらに、食料は配給制としたうえに「食料は配給するから貨幣はいらない」という理屈で貨幣も廃止するという、共産主義政策を徹底させました。危機を上手く利用したわけですね。言うことを聞かない者は、チェカが捕まえてシベリア送りにしました。この政策は戦時共産主義と呼ばれています。
<覚え方のポイント>
戦時共産主義の内容は
・食料の強制挑発 ・個人間取引の禁止 ・配給制
戦時共産主義によって、成立間もないソ連は前線の戦力を少しずつ整えていき、やがて干渉戦争の自然終結に繋がることになりました。」
名もなきOL
「諸外国からの攻撃を、自分の理想とする改革に利用する手腕はさすがですね。でも、貨幣まで廃止にするなんて、やっぱり極端だな。。」
big5
「結果として、1919年には対ソ干渉戦争は下火になっていきました。1919年4月にオデッサのフランス軍艦で暴動が起こり、6月にはヴェルサイユ条約が調印されて終戦ムードが高まると、ムルマンスク、アルハンゲリスクを占領していた連合軍は徐々に撤退を開始。秋には、対ソ干渉戦争はシベリア方面のみとなりました。
一方で、戦時共産主義は問題ももたらしています。一連の強引な共産主義政策によって農民・労働者の生産意欲は著しく低下し、国民には不満がたまっていきました。そして1921年に徴兵された水平らの反乱・クロンシュタットの反乱の原因となりました。」
big5
「1919年はヴェルサイユ条約が結ばれた年としてたいへん重要ですが、社会主義の点でもたいへん重要な年でした。レーニンがコミンテルン(Comintern Communist Internationalの略)を結成し、世界革命論の理念を打ち立てた年だからです。」
名もなきOL
「世界革命論って何ですか?なんだか物騒な名前ですが・・・」
big5
「名前のとおり、世界中で社会主義革命を起こすべき、という考え方ですね。簡単に説明すると、マルクス主義の考え方では、ロシアのように資本主義があまり発展していない地域では社会主義の維持は難しいということで、他の国家にも社会主義革命を輸出する、というものです。
コミンテルンは第3インターナショナルという別名もありますが、ここではコミンテルンで通します。コミンテルンの第1回大会の出席者は、ほとんどがソ連関係者ばかりで、「世界革命」など夢のまた夢、という状態でしたが、主要国へはしっかりと影響を及ぼしました。フランス、イタリア、日本ではそれぞれ社会党から共産党が分派してコミンテルンに加盟し、各国の共産党はコミンテルンの支部として、少なからず政治に影響を与えました。1921年には中国で陳独秀が中国共産党を結成しました。中国共産党は、紆余曲折を経て後に中華人民共和国を建国することになりますので、コミンテルンが世界に与えた影響は無視できません。
コミンテルンは第二次世界大戦中の1943年にスターリンによって廃止されるまで、共産主義思想を世界に広め続ける装置として機能し続けました。」
big5
「年が明けて1920年4月。積年の恨みを晴らすかのように、独立を回復したポーランドはソ連へ攻め込みました。ソ連=ポーランド戦争です。この戦争の経緯を考えると、対ソ干渉戦争とは異なる性質のものですが、時期的に同じなので、ここでは対ソ干渉戦争の一部として説明します。」
名もなきOL
「ポーランド分割とか、ポーランドにとってソ連(ロシア)は宿敵でしたもんね。」
big5
「1918年11月にドイツ帝国が倒れると、ポーランドはポーランド共和国として独立を回復しました。ポーランドの元首となったのは、ポーランド独立運動の英雄であるピウスツキ(1920年で53歳)です。ピウスツキはソ連に侵攻し、ウクライナのキーウを占領します。しかし、ソ連はトロツキーが赤軍を率いて反撃に転じ、逆にポーランドの首都・ワルシャワ付近まで侵攻しました。ソ連は、ポーランドの社会主義者や労働者らがソ連の理念に同調してソ連軍に協力する、と期待していたのですが、ポーランド民衆はソ連には味方しませんでした。8月12日、ワルシャワ近郊のヴィスワ川付近で決戦が始まり、ポーランドが勝利。赤軍は大損害を受けて敗走しました。
1921年3月、両国間の間でリガ条約が結ばれてソ連=ポーランド戦争は終結。ポーランドは西ウクライナと白ロシアの一部を獲得しました。」
名もなきOL
「ポーランドがロシア(ソ連)との戦争に勝利するなんて、かなり久しぶりのことですよね。」
big5
「そうですね。なので、ピウスツキはポーランドの英雄として讃えられます。ただ、そのためにポーランドの独裁者となってしまうのですが、その話はまた別の機会に。
もう一つ、この戦争の敗北にはソ連にとって大きな意味がありました。それは、世界革命論の失敗です。ソ連=ポーランド戦争は、ソ連にとっては最初は防衛戦争だったのですが、逆転すると今度はポーランドを社会主義国に変革させる絶好の機会になりました。ところが、赤軍は防衛には力を発揮したものの、攻撃については士気が上がらず、手痛い敗北を喫してしまったわけですね。
ソ連=ポーランド戦争におけるソ連の敗北は、世界革命論のつまずきを意味していたわけですね。ソ連指導部の中では、トロツキーらは世界革命論を追求し続けますが、そうではない派閥は「世界革命論は現実的ではない」として一国社会主義論を唱えるようになりました。これが、レーニン死後の後継者争いの一因になります。」
big5
「ソ連=ポーランド戦争も終結すると、対ソ干渉戦争の目的は弱くなってきました。既に反革命派は力を失っており、レーニンらボリシェヴィキによるソ連は国家としての基盤を完成させつつありました。米英仏といった連合国の主力は既に手を引いていたものの、日本はまだシベリア方面を占領し続けていました。こうなると、国際社会の批判は日本に向きます。1922年に開催されたワシントン会議で日本のシベリア撤退が要求されたことで、日本もシベリアから撤退。対ソ干渉戦争はこれで消滅となりました。」
名もなきOL
「「消滅した」、というのは「終結した」とは違うんですか?」
big5
「だいたい同じなのですが、対ソ干渉戦争は通常の戦争と異なり、講和条約が結ばれていないんです。なので、ここでは「消滅」としました。ちなみに、日本は対ソ干渉戦争中に北樺太も占領していましたが、こちらの占領は1925年まで続きました。
こうして、レーニンらはロシア革命を成功させて、人類史上初となる社会主義国家を建国しました。その後の干渉戦争もなんとか乗り切り、新国家・ソ連としての歴史を歩んでいくことになります。また、第一次世界大戦を終えた国際社会は、平和と共存への道を歩んでいくことになるのですが・・・・
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回は、第一次大戦後の新しい国際秩序・ヴェルサイユ体制についてです。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
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