Last update:2023,FEB,18

世界大戦と平和への試み

トルコ革命とオスマン帝国の滅亡

あらすじ

big5
「今回のテーマは第一次大戦後のトルコです。オスマン帝国は第一次大戦後に同盟国側(ドイツ・オーストリア側)で参戦しましたが、結果として敗北。さらに、ギリシアにも攻め込まれて大ピンチになりました。そんな中、オスマン帝国の軍人で、「トルコ建国の父」とも讃えられているムスタファ・ケマル(以後、「ケマル」と記載)が頭角を現し、ギリシア軍を撃退。さらに、オスマン帝国も打倒してトルコ共和国を建国しました。この一連の流れはトルコ革命と言われています。」
名もなきOL
「オスマン帝国って、1800年代からいろいろ改革に取り組んでいましたけど、どれも不徹底で中途半端な印象でした。そのオスマン帝国が第一次大戦後についに打倒されたんですね。」
big5
「君主の専制政治国家が、戦争の影響で革命が勃発して倒れる、という点ではロシア革命と似ています。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 トルコのイベント それ以外のイベント
1918年 10月 スルタンのメフメト6世が降伏
1919年 ギリシアがスミルナに侵攻(ギリシア=トルコ戦争 開戦) ヴェルサイユ条約調印
1920年 4月 ムスタファ・ケマルがアンカラで大国民会議を開催(祖国解放戦争 開戦)
8月 セーヴル条約 締結
1921年 8月 ケマルの国民会議軍がサカリャ川の戦いでギリシア軍に大勝 ワシントン会議始まる
1922年 11月 トルコ革命 スルタン制が廃止されオスマン帝国滅亡 ムッソリーニがイタリア首相に就任
1923年 7月 セーヴル条約は破棄されローザンヌ条約締結される
10月 トルコ共和国 成立
ルール占領
1924年 トルコ共和国憲法発布され、カリフ制廃止される ドーズ案 成立
1925年 シェイフ・サイードの乱
ケマルの指導の下で近代化政策が進む


ギリシアの侵攻とムスタファ・ケマルの決起

big5
「さて、話は第一次世界大戦の頃に戻ります。オスマン帝国はドイツ・オーストリア側(同盟国陣営)で参戦しましたが、知っての通り同盟国陣営は敗北。1918年10月、オスマン帝国スルタンのメフメト6世(この年57歳)が降伏しました。」

VI Mehmet Vahidettinメフメト6世 制作年:1918年以前 制作者:不明

big5
「これを好機と見たのが、隣国のギリシアです。ギリシアは大昔の「古代ギリシア(参考「古代ギリシア 前編」)」だった時、ギリシア本土以外にもエーゲ海を挟んだ小アジア方面にも植民都市を持っていました。しかし、これらの都市はオスマン帝国の支配下にあります。これらの都市を奪還するという名目で1919年、第一次世界大戦が終わってすぐにエーゲ海沿岸の街・イズミルに攻め込みました。ギリシア=トルコ戦争の始まりです。
ちなみに、町の名前は「イズミル」というのがトルコでの名前。一方ギリシアでは「スミルナ」と呼ばれています。」
名もなきOL
「第一次世界大戦が終わったばかりだというのに、もう次の戦争が始まっていたんですね。。あれ?ということは、この時既に国際連盟は発足したばかりとはいえ、存在していたんですよね?」。
big5
「そうなんですが、イギリスのロイド=ジョージがギリシアを支援したこともあり、国際連盟は調停することができなかったんです。」
名もなきOL
「主要国が侵攻を支持してしまったら、国際連盟はもう有効打を打てない、という弱点が露呈していますね。」
big5
「ギリシア軍はイズミルを占拠し、占領地を広げるべくさらに侵攻していきました。そんな中、危機に瀕したトルコを救うべく立ち上がったのがムスタファ・ケマル(1920年で39歳 以後、「ケマル」)です。ケマルは「ケマル・パシャ」とも呼ばれ、オスマン帝国の軍人でした。第一次世界大戦においても、ガリポリの戦いでイギリス軍の上陸を撃退するなどの戦功を立てています。1920年4月、アンカラ(現在のトルコの首都)でトルコ大国民会議を発足させ、独自にトルコ国民軍を組織。ゲリラ戦でギリシア軍に対抗しはじめました。トルコではこの戦いを祖国解放戦争といいます。」

Ataturk Kemalムスタファ・ケマル

名もなきOL
「スルタンであるメフメト6世は何をしていたんですか?」
big5
「勝手に会議を発足させて戦い始めたケマルを認めず、それどころか反逆罪で死刑を宣告しました。反乱鎮圧のために鎮圧軍も送っています。ただ、ケマルの軍を鎮圧することはできませんでした。1920年8月には、第一次世界大戦の講和条約としてセーヴル条約に調印し、スルタン制をなんとか存続させようとしました。」
名もなきOL
「自己保身優先のスルタンと、国を救おうとしているケマルでは器の大きさが違い過ぎますね。これは、先が見えてきました。」
big5
「そうですね。1921年8月、国民会議の軍はサカリャ川の戦いでギリシア軍に大勝し、戦争当初に占領されていたイズミルも奪還しました。この時、トルコ軍がギリシア人市民約3万人を虐殺した、という話が残っており、現代でもトルコ−ギリシア間で歴史問題として残っています。
ともあれ、ケマルは侵攻してきたギリシア軍を撃退し、スルタンが送った鎮圧軍も撃退したことにとって、多くのトルコ人から救国の英雄として尊敬を集めることになったわけです。」

トルコ革命とトルコ共和国の成立

big5
1922年11月、トルコ大国民会議はスルタン制の廃止を決定しました。メフメト6世は廃位され、イギリス軍艦に乗ってマルタ島に亡命していきました。こうして、オスマン1世の建国以来、約600年の歴史を持つオスマン帝国はついに滅亡しました。」
名もなきOL
「600年って、かなり長い歴史ですよね。中世の後半くらいから登場して、ここまで存続していたんですね。」
big5
「そうですね。一時はヨーロッパ諸国を脅かす強大なイスラム教国として君臨していましたが、近世以降は衰退の一途をたどりました。盛者必衰は古今東西共通の原理とはいえ、諸国の興亡が激しい欧州方面の中ではかなりの長命国家であったことは間違いないですね。
なお、誤解されがちなのですが、この時点で廃止されたのはスルタンであって、メフメト6世はカリフの地位を保持していました。カリフ制の廃止も既に検討されていたそうなのですが、イスラム世界に与える影響を考慮して、この時点ではスルタンの廃止に留めることにしたそうです。カリフ制が廃止されるのは、もう少しだけ後になります。第一次世界大戦の敗北から、オスマン帝国滅亡に至るまでの過程をトルコ革命といいます。」
名もなきOL
「この時点では、スルタンはいないけどカリフはいる、という複雑な状況だったんですね。スルタンがいなくなったトルコは、共和国になったんですか?」
big5
「はい。ただその前に、1923年7月のローザンヌ条約について見ていきましょう。メフメト6世が廃位され、ギリシア=トルコ戦争はトルコの勝利で終わったことを考慮して、セーヴル条約の内容を見直したのがローザンヌ条約です。ローザンヌ条約で、トルコはイスタンブルとその周辺のヨーロッパ側領土を回復しました。また、オスマン帝国が諸外国に認めていたカピチュレーション(外国商人の優遇特権)も廃止されました。
ローザンヌ条約で特徴的なのが、ギリシア・トルコ間の住民交換協定です。」
名もなきOL
「住民交換って、本当にギリシアとトルコが住民を交換したんですか?」
big5
「はい、トルコ領内に住むキリスト教徒ギリシア人らが国外追放され、代わりにギリシア領内に住むイスラム教徒トルコ人らがトルコに引っ越してきました。人数は、追放されるギリシア人が入って来たトルコ人よりも2倍くらい多かったそうです。これは、トルコが「トルコ人の国」として歩んでいくために取られた必要な措置、ということだったのですが、追放されるギリシア人の多くは家財を失って難民となったので、ギリシア・トルコの関係を悪化させる一因となりました。
また、民族問題として新たにクルド人問題が注目されるようになりました。クルド人は中東方面の山岳地帯に古くから住んでいる歴史ある民族です。セーヴル条約ではクルド人の国を建国することが決められていたのですが、ローザンヌ条約ではこれが白紙撤回されました。そのため、納得できないクルド人はそれぞれの居住地域で独立を求める運動を行い、一部は武装勢力となって各国の治安問題に発展しています。」
名もなきOL
「国家と国民の問題って、単純なようで難しいですね。特に人の出入りが頻繁な大陸の国は複雑ですね。」
big5
「そのとおりですね。ローザンヌ条約を結び、国際的にも承認されたので、1923年10月24日、トルコ大国民会議がトルコ共和国の成立を宣言。初代大統領にはケマルが就任(この年42歳)しました。そのため、ケマルは「トルコ建国の父」と呼ばれることもありますね。」

トルコ共和国の近代化・世俗化政策

big5
「共和国としての歴史を歩み始めたトルコは、ケマルの指導の下で近代化政策を進めていきました。この「近代化」というのは、トルコにとってはイスラム教を政治から分離するという意味であり、「世俗化」と表現されることもありますね。
その第一歩となったのが、1924年のトルコ共和国憲法発布とカリフ制の廃止です。オスマン帝国では「スルタン=カリフ」であり、政治指導者と宗教指導者は同一人物でした。そうすることで国をまとめていたのですが、近代的な共和国となったトルコはこれにケリをつけ、政教分離の第一歩としました。」
名もなきOL
「中世とか近世だったら、宗教の力が国をまとめるのにとても重大だったんでしょうけど、自由主義とか国民国家の概念が広まった近代・現代では、宗教の力は必ずしも必要なくなりましたからね。」
big5
「カリフ制の廃止を皮切りに、その後も次々と近代化政策を実行していきました。主なものは以下になります。
文字革命:アラビア文字を廃止して、ローマ字(ラテン文字)を採用。トルコ語を国語とする。
・学校の設置
・女性解放:イスラム伝統の一夫多妻制を廃止。女性の諸権利を男性と同等化。
・イスラム暦を廃して太陽暦を採用
などです。
文字革命については、ケマルも自ら教鞭をとっている下の写真が有名です。」

Ataturk-September 20, 1928自らラテン文字を教えるケマル

名もなきOL
「かなり積極的に改革を進めたんですね。でも、女性の権利向上も図られているし、とてもいい改革だと思います。」
big5
「そうですね。現代の共和政国家として必要な要素はだいぶ整ったと考えていいと思います。
その一方で、ケマルの政治には強権的な面もありました。その一例がクルド人問題です。クルド人には敬虔なイスラム教徒も多いので、彼らにとっては世俗化政策は賛成できるものではありませんでした。中でも、クルディスタンの独立を求めて勃発した1925年の「シェイフ・サイードの乱」は大規模な反乱になっています。他にもクルド人の反乱が続発したのですが、トルコはこれらを武力で鎮圧し、さらにクルド語の使用も禁止するなど、力で抑圧する方法を取っています。」
名もなきOL
「それが、今でもトルコ人とクルド人の対立が続いている原因の一つなんですね。」
big5
「そうですね。現代でも、トルコは周辺諸国・民族の問題はいくつも抱えています。それらは、オスマン帝国という強大な多民族国家の歴史が源となって、今にまで続いているわけですね。民族対立や周辺諸国との平和構築がトルコの今後の課題と言えるでしょう。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問


big5
「今回のテーマは、大学入試共通テストでもたまに出題されます。勉強時間が取れる受験生は、試験前に復習しておくのがオススメです。」

令和3年度 世界史B 問題11
・トルコ紙幣の多くには「父なるトルコ人」や「トルコ人の父」と呼ばれている(キ)の肖像が印刷されてきました。
(キ)の人物の事績として間違っている文はどれか?
@トルコ大国民会議を組織した。
Aギリシア軍を撃退した。
Bカリフ制を廃止した。
Cトルコ語の表記にアラビア文字を使用した。

(答)C。アラビア文字ではなくローマ字(ラテン文字)が正しいです。(キ)の人物がケマルであることは基本知識なので知っておくべき。ケマルの事績(トルコ革命と近代化政策)も重要なので、セットで覚えておきましょう。




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