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「今回の主題は第3回十字軍です。数回行われた十字軍の中でも有名な方で、高校世界史でも少しは触れられる歴史事件ですね。第3回十字軍が有名な理由の一つは、参加者に有名人が多いことだと思います。キリスト教徒側の主な参加者は、「バルバロッサ(「赤ひげ」という意味)」の異名を持つ神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、優れた軍事指揮官であり、「ロビン・フッド」で偉大な王として扱われるイングランド王リチャード1世(異名は「リチャード獅子心王」)、「尊厳王」の異名を持ち、歴代フランス王の中でもトップクラスの有能な王と評されるフランス王フィリップ2世と、中世西欧史の有名人がこぞって参加しています。イスラム教徒側では、中世イスラム世界の英雄とされるアイユーブ朝のサラディンが指導者となっています。各地の英雄が一堂に会して大規模な戦いを繰り広げるという、映画に例えるなら豪華キャストなわけですが、その実態はどうだったのか、見ていきましょう。
その一方で、キリスト教 vs イスラム教という、現代まで続く宗教対立という冷酷で悲惨な一面も持ち合わせています。本編では、その点にも触れていきたいと思います。
それでは、第3回十字軍に至るまでの前段として、ヴォルムス協約と第2回十字軍、フリードリヒ1世のイタリア政策から始めていきます。
| 年月 | 本編のイベント | 他地域のイベント |
| 1122年 | ヴォルムス協約 | |
| 1130年 | ノルマン人がシチリア王国を建国 | |
| 1144年 | セルジューク朝のザンギ―がエデッサ伯国を滅ぼす | |
| 1147年 | 第2回十字軍 出発 | |
| 1149年 | 第2回十字軍 解散 | |
| 1152年 | コンラート3世死去し、フリードリヒ1世が後継者となる | |
| 1155年 | フリードリヒ1世が神聖ローマ皇帝に即位 | |
| 1167年 | 北イタリア諸都市がロンバルディア同盟結成 | (日)平清盛が太政大臣になる |
| 1169年 | サラディンがアイユーブ朝を創始 | |
| 1176年 | レニャーノの戦いでロンバルディア同盟がフリードリヒ1世を破る | |
| 1187年 | サラディンがエルサレムを攻略 | |
| 1189年 | 第3回十字軍 出発 | |
| 1190年 | フリードリヒ1世 溺死 | |
| 1191年 | 十字軍がアッコン(アクレ)を奪還 | |
| 1192年 | 第3回十字軍 解散 | (日)源頼朝が征夷大将軍となる |
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「ヴォルムス協約は、1122年に南ドイツの街・ヴォルムス(Worms)で締結された、中世西ヨーロッパで長い間続いていた叙任権闘争(Investiture Controversy)に決着をつけた協定でした。ヴォルムス協約によって、聖職者を叙任するのは教皇(カトリック教会)側となり、皇帝は叙任式に立ち会うもの、とされました。ヴォルムス協約を結んだのは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世です。ハインリヒ5世は、カノッサの屈辱で有名なハインリヒ4世の息子です。
ヴォルムス協約が1122年、というのは
いい夫婦(1122)、ヴォルムスで和解
と覚えるのがおススメです。皇帝と教皇は夫婦ではありませんが、対立することが多かった両者が和解した(協約)というイメージで覚えやすいかと思います。
ただし、ドイツにおいては司教が治める領地の支配権については、引き続き皇帝が付与することとなっています。こうして、西ヨーロッパでは皇帝や国王のような世俗君主と宗教指導者の教皇が並び立つ体制が整い、十字軍運動などを通じて教皇の権力は全盛期を迎えることになりました。」
ドイツ南部の都市ヴォルムスの公式ウェブサイト
なお、ヴォルムスはルターの宗教改革の時、1521年に帝国議会が開かれてルターの追放が決議された場でもあります。(参考:広がる世界・変わる世界 ルターの宗教改革)
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「1144年、十字軍国家の一つであるエデッサ伯国が、セルジューク朝のシリア方面太守ザンギ―(1085〜1146年)によって滅ぼされるという事件が発生しました。」
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「これを受けて、西欧では2回目となる十字軍派遣の話が持ち上がりました。この時、十字軍参加をさかんに呼びかけた人々の一人がシトー会修道士のベルナール(1090〜1153年)です。この人は別名が多いです。「ベルナール」はフランス語読みで、英語読みだと「ベルナルド」、ラテン語読みで「ベルナルドゥス」になります。また、聖人に列せられているので「聖ベルナール」という具合に接頭辞「聖」がつくこともあります。ここでは「ベルナール」で表記統一します。
ベルナールの勧説(かんぜい)により、多くの人々が第2回十字軍に参加を決めました。主だった人物は、カペー朝フランス王ルイ7世(1120〜1180年)とその妃で広大なアキテーヌ地方の領主であるアリエノール・ダキテーヌ(1122〜1204年)、ドイツ王コンラート3世(1093〜1152年)です。また、イングランド方面からも貴族や騎士らが参加しています。」
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「第2回十字軍は主に陸路でエルサレムに向かいましたが、ここでルーム・セルジュークの軍に襲われて敗北。その後も行軍は続けたのですが、エデッサ伯国領の奪還には向かわず、ザンギ―に戦いを挑むこともなく、聖地エルサレムに向かいました。エルサレムに到着すると、着いたことで十分達成感を感じて帰国したり帰国しようとする者も増えてくるという、なんともまとまらない状態になってしまいます。そこで、イスラム勢力の中でもダマスクスの地方政権が比較的弱いということで、十字軍国家の反対も無視して(ダマスクスは様々な事情があって、十字軍国家の友好国だった)攻撃したものの、士気が上がらず途中で諦めて各自帰国した、という結果でした。そのため「十字軍史上、もっとも成果が上がらなかった十字軍」と後世の歴史家に評されています。
こうして、第2回十字軍は終了しました。聖地奪還という大義名分を掲げ、それを達成した第1回とは異なり、なんとも締まらない第2回十字軍だったので、高校世界史の授業でも省略されることが多いです。」
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「さて、少し時間を巻き戻して第2回十字軍の前、ヴォルムス協約が結ばれた少し後の1137年に戻ります。この年、ドイツ王兼神聖ローマ皇帝だったロタール3世が死去し、その後継者を誰にするかで揉め事になりました。候補者は、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世(第2回十字軍に参加したコンラート3世です)と、ロタール3世の娘婿でドイツ国内で最強クラスの勢力を誇るヴェルフ家のハインリヒだったのです。諸侯らはヴェルフ家の強大化を恐れたので、コンラート3世がドイツ王となりました。これを恨んだヴェルフ家のハインリヒはコンラート3世らと対立するようになります。この対立が、後にイタリアを二分して壮大な派閥抗争となるゲルフとギベリンの対立の起源です。「ゲルフ」は教皇派を意味するようになりますが、その語源はヴェルフ家です。ヴェルフ家は、皇帝家となるホーエンシュタウフェン家と戦うために教皇と連携することが多かったので、ゲルフ=教皇派となりました。一方の「ギベリン」は皇帝派を意味しますが、この語源はホーエンシュタウフェン家の所領の一つヴァイブリンゲンに由来しているそうです。この時点では、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世とヴェルフ家のハインリヒの争いですが、これがしばらく後に北イタリアに飛び火して、ゲルフvsギベリンの抗争が本格化していきます。そのきっかけとなったのが、中世ドイツの英雄で「バルバロッサ(赤ひげ、の意味)」の異名を持つフリードリヒ1世(1122〜1190年)です。」
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「先代のコンラート3世は第2回十字軍から帰国して少し経った1152年に死去しました。そのコンラート3世が後継者に指名したのが、甥のフリードリヒ1世です。コンラート3世には息子がいたのですが、長男はこの時既に故人、次男はまだ幼いということで、フリードリヒ1世が指名されたそうです。フリードリヒ1世もホーエンシュタウフェン家ですが、母のユーディトはライバルのヴェルフ家の出身だったため、両家の争いの調停者として期待されることもありましたが、そうはなりませんでした。
1155年6月18日、フリードリヒ1世は神聖ローマ皇帝に即位。神聖ローマ皇帝となったからには、イタリアを支配下に置きたいということで、小勢力の乱立状態だったイタリアの自治都市に積極的に働きかけて、支配下に納めようとしました。この政策はイタリア政策と呼ばれます。当然、大人しく従うイタリア自治都市ではありません。北イタリアの大都市ミラノなどはフリードリヒ1世の要求を突っぱねて対抗し、フリードリヒ1世は軍隊を率いてイタリアにたびたび攻め込み、ミラノを占領して破壊するなどしました。
イタリアの自治都市はフリードリヒ1世に対抗するために連携。教皇の後援も得てロンバルディア同盟を結成しました。1176年には北イタリアのレニャーノの戦いで、フリードリヒ1世の軍とロンバルディア同盟軍が激突し、ロンバルディア同盟軍が勝利しました。この戦いで、フリードリヒ1世は一時行方不明となり、戦死したという話が信じられたのですが、数日後にフリードリヒ1世が帰還したため、臣下らは大歓声をあげてフリードリヒ1世を迎えた、というエピソードがあります。死んだと思った皇帝が生還したという事実は、後に語り継がれるバルバロッサ伝説の要素になります。
結果的に、フリードリヒ1世はイタリア自治都市を支配下に置くことに失敗したのですが、その後の神聖ローマ皇帝もイタリア政策を続けたため、「ゲルフとギベリンの争い」は、イタリアでしばらく継続されることになります。時間が経つにつれ、ゲルフとギベリンという2派閥による抗争は、教皇と皇帝にはあまり関係がないように思えるイタリア人同士の争いやイタリア自治都市間の争いも加わって複雑化していきました。余談ですが、中世イタリアで2派閥に分かれて争うという背景が、有名な「ロミオとジュリエット」の題材となった、と言われています。」
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「1187年、中世イスラム世界で一番の英雄と名高いサラディン(1137/38〜1193年)が、聖地エルサレムを攻略する、という大事件が発生しました。聖地は何としてでも取り返さなければならない、ということで教皇はじめカトリック教会は第3回十字軍への参加を呼びかけました。こうして招集された第3回十字軍の主な参加者は、前述の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、その勇猛果敢さで尊敬を集め「獅子心王(Richard the Lionheart)」の異名を持つリチャード1世(1157〜1199年)、そしてフランス史上トップクラスの有能さで英雄と称えられるフランス王フィリップ2世(1165〜1223年)と、中世西ヨーロッパでも指折りの英雄たちでした。」
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リチャード1世 制作者:Merry-Joseph Blondel (1781?1853) 制作年:1841年
19世紀に描かれた肖像画 たぶんに想像が入っているので参考程度。
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フィリップ2世 制作者:Louis-Felix Amiel (1802?1864) 制作年:1837年
コチラも19世紀に描かれた、想像たっぷりの肖像画。参考程度。
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「第3回十字軍のほとんどは海路でエルサレムを目指しました。リチャード1世は、この海の旅でもその武勇を遺憾なく発揮しているのですが、その話は今回は割愛します。しかし、十字軍を不吉な事件が襲いました。1190年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が小アジアのサレフ川で溺死した、というのです。カリスマ王の突然の死去の報に接し、十字軍参加者らには動揺が走りました。ドイツ兵の一部は、戦意を失って帰国する者も現れました。しかし、リチャード1世とフィリップ2世は遠征を継続し、1191年7月に占領されていたアッコン(英名:アクレ Acre)を奪還しました。しかし、アッコンの勝利は第3回十字軍の残虐性も歴史に残すことになりました。十字軍は占領したアッコンでイスラム教徒の民衆を多数殺害しています。アミン・マアルーフが著した『アラブの見た十字軍』によると、守備兵2700と約3000の婦女子が虐殺された、と書いています。別の資料でも、十字軍兵士がイスラム教の民衆を多数殺害していることが記録されています。これは、サラディンが十字軍の捕虜は身代金を受け取れれば解放していたことと比べると、実に対照的です。
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「なお、アッコンはエルサレムを失ったエルサレム王国の首都となりました。聖地エルサレムを領有していないのに、エルサレム王国を名乗るのは妙ですが、神聖ローマ帝国がローマを領有していないのと同じですね。
アッコン奪還に湧く十字軍でしたが、ここでリチャード1世とフィリップ2世が、今後の方針をめぐって激論となり、怒ったフィリップ2世がフランスに帰国してしまう、という事件が発生しました。国王レベルの指導者はリチャード1世のみとなりましたが、リチャード1世は当初の目的であるエルサレム奪還を目指して、サラディンとの戦いを継続しました。リチャード1世とサラディンは激しい戦いを繰り広げましたが、そのうちの一つアルスーフの戦いについて、こちらで解説されています。」
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「両雄の激突は、最終的には引き分けとなり、1192年9月、リチャード1世とサラディンの間で休戦協定が結ばれました。第3回十字軍はアッコンの奪還など、サラディンらに奪われた街をいくつか取り返したものの、一番の目的であった聖地エルサレムの奪還はできなかったわけです。目標に届かなかった、という意味では失敗でした。なお、サラディンは非武装のキリスト教徒がエルサレムを巡礼に訪れるのは認めました。リチャード1世も、サラディンからエルサレム巡礼を勧められたのですが、拒否して帰国の途についています。
こうして、第3回十字軍は部分的な成功、という結果に留まって終わりました。十字軍を指導した教皇らの発言力も陰りが見え始めます。これを一気に挽回すべく、10年後の1202年に第4回十字軍が始まるのですが、その話は次回にしたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。」
ヴォルムス協約について直接問う問題は、今のところ出題されていません。その理由として、皇帝と教皇の争いという面では、カノッサの屈辱などの方がより有名で劇的な歴史イベントであること、ヴォルムス協約の概要は簡単でも、詳細を詰めるとかなり専門的で大学入試問題を作る題材としては扱いにくいから、かと思われます。
第2回十字軍についての出題もありません。
第3回十字軍については、たびたび出題されています。
・令和5年(2023年度)世界史B再試験
問題14:「フランスでの絶対王政(絶対主義)」の体制下で即位した国王たちの治世で起こった出来事のうち、正しいものを選べ。
選択肢2:フランス王が、第3回十字軍に参加した。 〇か×か?
解答:× フィリップ2世が十字軍に参加していますが、フィリップ2世は中世フランスの国王であり、絶対主義体制の王ではありません。
・平成30年(2018年度)世界史B本試験
問題25 選択肢2
リューベックは、ロンバルディア同盟の盟主であった。 〇か×か?
解答:× 北ドイツのリューベックはハンザ同盟の盟主でした。ロンバルディア同盟は北イタリアの都市を中心として結成されているので違います。
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