Last update:2023,JUL,29

広がる世界・変わる世界

ルターの宗教改革

big5
「今回のテーマは宗教改革です。腐敗が進むカトリック教会に対して、神学者であるルターが異議を唱えたことで始まりました。」
名もなきOL
「ルターの話は、高校時代に世界史の先生が熱く語っていたのを覚えています。確か、新教徒のことをプロテスタント(元の意味は「抗議する人」)、と呼ぶのもこの時期の事件がきっかけなんですよね。」
big5
「そのとおりです。これまでは異なった解釈は一切認めてこなかったカトリックでしたが、時の神聖ローマ皇帝・カール5世は、政治面・外交面を考慮して、ルター派を認めました。ところが、数年後に状況が良くなってくると、手のひらを返してルター派を禁止します。この手のひら返しに対し、ルター派は「そんなのはおかしい」と抗議したことから「プロテスタント」という呼び名がついて、それが宗教改革で誕生した新教徒全般を指す用語になりました。宗教改革は、ローマ帝国末期から中世の終わりまで、長い間続いたカトリック社会に新機軸を呼び込んだ重大事件なんです。
さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

年月 宗教改革のイベント 他地方のイベント
1517年 ルターが95箇条の論題を掲示
1518年 ツヴィングリがチューリヒで宗教改革を開始
1519年 ライプツィヒ討論 ルターがカトリックと決別
1520年 教皇レオ10世がルターを破門
1521年 ヴォルムス帝国議会 ルターが法律の保護外に
ザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれる
1522年 帝国騎士の乱 始まる(~1523年)
1524年 ミュンツァーが指導するドイツ農民戦争 始まる(~1525年)
1526年 第1回シュパイエル帝国議会 ルター派容認される モハーチの戦いでスレイマン大帝がハンガリーを破る
1529年 第2回シュパイエル帝国議会 ルター派が禁止される ルター派は抗議 「プロテスタント」の始まり 第一次ウィーン包囲
1531年 ルター派がシュマルカルデン同盟 結成
1544年 イタリア戦争 終結
1545年 トリエント公会議
1546年 シュマルカルデン戦争 始まる(~1547年)
1555年 アウグスブルクの宗教和議

マルティン・ルターと95箇条の論題

贖宥状(免罪符)を買えば罰は免れる?

big5
「さて、ルターの宗教改革の話を始める前に、当時のカトリックの仕組みについて復習しておきましょう。カトリックはローマを総本山とするピラミッド型組織です。教皇をトップとし、大司教→司教→司祭と聖職者の序列が続きます。聖職者は妻帯が認められていませんでしたので、すべての聖職者には公式な子供がいません。そこで、組織のトップである教皇は世襲はできないので、枢機卿と呼ばれる高位聖職者の互選(コンクラーベ)で選ばれていました。ルターの宗教改革の始まりの年である1517年時点の教皇はレオ10世という、メディチ家出身の教皇でした。」

Raffael 040 (crop)レオ10世 制作者:ラファエロ 制作年:1518年

名もなきOL
「この人がレオ10世ですね。そして、この絵を描いたのはルネサンスを代表するラファエロなんですね(ルネサンス期の文化 参照)!」
big5
「はい、ラファエロは教皇に気に入られてその庇護を受けながら、多くの作品を作って歴史に名を残しました。ルネサンスは、新時代の幕開けを告げる新しい風だったのですが、これは同時にカトリックの腐敗も促進することになりました。歴代の教皇は、教会の建物や装飾品を美しいルネサンス文化で彩ることに熱心でした。特に、メディチ家出身のレオ10世はその傾向が強かったそうです。バチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂を修築するために莫大なお金が必要です。建築費用に充てるために、カトリックがこれまでもたびたび行っていたのが贖宥状(しょくゆうじょう 別名:免罪符)の販売です。」
名もなきOL
「贖宥状って何ですか?別名の「免罪符」なら、読んで字のごとく罪を免れるためのお札、ということで理解できるのですが・・・」
big5
「贖宥状は、人間の犯した「罪」に対する「罰」を免れる、というものでした。許されるのは「罪」ではなく「罰」の方なので、言うなれば「免罪符」ではなく「免罰符」といったところですね。
カトリックの教義によれば、人間は「罪深い」存在であるが、イエス・キリストが人間たちの「罪」を背負って「罰」として磔となった、という話が基本になっています。「罪」は基本的には消えないんですね。ただ「罰」については、善行を積むことなどによって免れることができる、とされていました。それがさらに拡大解釈されて、「贖宥状を買えば、魂が救われる」という謳い文句で売り出すようになっていたんです。」
名もなきOL
「これは・・現代人の感覚からすると、悪徳商法みたいですね。壺とか水晶を信者に売りつけて「これであなたは救われる」って信じさせるような・・・」
big5
「そうですよね。私もそう思います。そして、神学者であるルターは、神学の観点から疑問を感じました。
贖宥状を買えば魂が救われる、という考え方はおかしい。
と。そしてルターは1517年、南ドイツのヴィッテンベルク城の教会の扉に、贖宥状の疑問点やカトリック教会のこれまでの説教内容に関する疑問点をまとめた95箇条の論題を掲示しました。これが、ルターによる宗教改革の始まり、とみなされています。」

Lucas Cranach (I) workshop - Martin Luther (Uffizi)マルティン・ルター 制作者:Lucas Cranach the Elder 制作年:1529年

名もなきOL
「ルターさんの感じた疑問は共感できますけど、これって政治的にはかなりマズイことなんじゃ・・・」
big5
「はい、大問題になりました。何しろ贖宥状の販売は教会の建築・修築資金を集める一大事業ですからね。それを批判するなんて、教皇とカトリック教会を敵に回すようなものです。1519年にはライプツィヒでルターとカトリック教会から派遣された神学者・エックが神学議論を交わした(ライプツィヒ討論、などと名付けられています)のですが、両者ともに譲らず、ルターとカトリック教会の決別は確実なものとなりました。ここで、カトリック教会とルター派の教義の違いについて、主要なものをまとめた表を見てみましょう。」

項目 カトリック ルター派
魂の救済方法 人は善行によって救済される 人は信仰によってのみ救済される
(信仰義認説)
職業観 聖職者は尊いが世俗職業は軽んじる。特に商業や金融業を蔑視 世俗職業も聖職者も等しく尊い
教皇と聖書 教皇はキリストの代理人
教皇の決定は絶対に正しい
(教皇至上主義・教皇無謬説)
カトリックが言うほどの権威は教皇には無い
拠るべきところは聖書のみ
聖職者の結婚 禁止(表向きは) OK

名もなきOL
「こうして見ると、カトリックとルター派は同じキリスト教でも、考え方はだいぶ違いますね。」
big5
「そうなんですよ、まったく違います。日本語でも、カトリックの聖職者は神父と呼びますが、ルター派などのプロテスタントは牧師といいます。だいぶ違いがあるわけですね。ルターの主張は、これまで溜まりにたまっていたカトリック教会への不平不満が表面化するきっかけになり、ルターを指示する人々も増えてきました。そんな中、カトリックとルターの論争を仲介しようとしたのが、1519年に神聖ローマ皇帝に即位したカール5世です。」
Jakob Seisenegger 001カール5世 制作者:Jakob Seisenegger 制作年:1532年

ヴォルムス帝国議会

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「カール5世は、この時代のヨーロッパ史を考える上では必要不可欠な存在です。というのも、カール5世は名門中の名門であるハプスブルク家の皇帝であるだけでなく、スペイン王位も兼ねていた(スペイン王としてはカルロス1世)ためです。これは、ドイツとスペインの2国を支配する強大な君主が現れたことを意味しており、ドイツとスペインに挟まれる形になるフランスにとっては、たいへんな脅威でした。
1520年(この年、ルター37歳 カール5世20歳)、即位して間もないカール5世は、ドイツの君主としてカトリックとルターの論争を調停すべく、帝国自由都市の一つ、ヴォルムス(Worms)に会議を招集し、既に教皇と決別していたルターも呼びました。しかし、ルターはカール5世の勧告に従わずに自説を棄てなかったため、カール5世はルターを「法の保護外に置く(簡単に言うと「追放」)」という処置を下しました。これがヴォルムス帝国議会です。
しかし、ザクセン選帝侯フリードリヒは追放されたルターを保護。ヴァルトブルク城にかくまいました。」
名もなきOL
「ルターさんに味方が現れたんですね。だから、この後もルターは布教活動を続けてドイツ国内にルター派が広まっていったんですね。」
big5
「はい。ザクセン選帝侯フリードリヒの保護を受けたルターは、ここで聖書のドイツ語訳を完成させます。これまで、聖書はラテン語で書かれていました。なので、聖書を読めるのはラテン語を勉強した聖職者や貴族の一部だけでした。ルター派、カトリック教会の説教師が言うことではなく、信仰の拠り所は聖書であるべき、と考えていたので、読み書きできるドイツ民衆でも聖書が読めるようにしたわけですね。」

争乱の始まり

帝国騎士の乱(騎士戦争)とドイツ農民戦争

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「ヴォルムス帝国議会により、ルターは追放処分となりましたが、これで終わりにはなりません。ルター以前から、聖職者やカトリック教会の腐敗はたびたび批判されており、カトリック教会、ひいては当時の社会に不平不満を持っていた人々が武装蜂起しました。最初に勃発したのは1522年の帝国騎士の乱(騎士戦争、とも)です。」
名もなきOL
「帝国騎士の乱、って名前はなんかカッコイイですね。」

Huttenフッテン 制作者:Erhard Schon 制作年:1522年

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「帝国騎士というのは、神聖ローマ皇帝直属の騎士のことです。帝国騎士であるフッテン(Hutten 1522年時点で34 歳)は詩作に優れた文化的教養の高い人物でしたが、腐敗が進むカトリック教会を日ごろから厳しく批判していたそうです。また、当時は時代の変化と共に騎士階級の没落が始まっており、経済的にも苦しい騎士たちが大勢いました。ルターの行動に刺激を受けたフッテンらの騎士たちが、腐敗著しいカトリック教会を駆逐せんとして反乱を起こしました。ただ、この反乱は翌年の1523年にあっさりと鎮圧されています。」
名もなきOL
「あらら、名前がカッコよかったけど、すぐに終わってしまったんですね。」
big5
「それよりも大事なのは、1524年に勃発したドイツ農民戦争です。ドイツ農民戦争を指導したのは、ルターの弟子でもあったミュンツァー(Muntzer 1524年で35歳)です。ミュンツァーはルターを支持していたのですが、その考えはかなり急進的で革命的でした。ミュンツァーの思想は神学上の議論に留まらず、農奴制度の廃止や経済的平等の実現、領主裁判の公正化など、既存の社会を大きく改革すべき、という社会運動にまで発展しました。そのため、既存の社会構造をひっくり返すような争乱は求めていないルターとは激しく論争になった後にケンカ別れしています。」

Thomas Muentzerミュンツァー 

名もなきOL
「ミュンツァーの考え方は、後のフランス革命時代の思想に似ていますね。」
big5
「そうですね。革命的な思想という点では、時代を先取りしていたと言えるでしょう。さて、短期間であっさり終わった帝国騎士の乱と比べ、ミュンツァーが指導したドイツ農民戦争は南ドイツから始まったものがやがて全ドイツに波及していく、という大反乱になりました。この時、神聖ローマ皇帝であるカール5世(1524年時点で24歳)はフランス王フランソワ1世がイタリアに攻め込んでいたため、軍を率いてイタリアにいて不在だったんです。」
名もなきOL
「なるほど、鬼のいぬ間に反乱、ということだったんですね。」
big5
「しかし、年が明けて1525年になると、フランソワ1世を撃退したカール5世らがドイツに帰国。農民軍は蹴散らされ、ミュンツァーは捕らえられて斬首され、ドイツ農民戦争は鎮圧されました。反乱に加担した者は厳しく処罰され、その数は10万人にもなったそうです。」

シュパイエル帝国議会とプロテスタントの誕生

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「ドイツ農民戦争が鎮圧されて年が明けた1526年。カール5世(この年26歳)は帝国自由都市の一つであるシュパイエルにて会議を開きました(第1回シュパイエル帝国議会)。この時、東からは強大なイスラム教国家であるオスマン帝国が迫ってきていました。しかも、この時のオスマン帝国のスルタンは、名君として有名なスレイマン1世(スレイマン大帝、とも)です。スレイマン1世はこの年、モハーチの戦いでハンガリーを破り、ハンガリーの大部分を支配下に置きました。ハンガリーといえば、ハプスブルク家の本拠であるオーストリアの東隣です。オスマン帝国の脅威はすぐそこまで来ていました。」
名もなきOL
「カール5世って、ドイツとスペインの2国を支配下に置いていてかなり強いイメージであるんですけど、次から次へと脅威が迫って来てたいへんそうですね。」
big5
「かなり大変だったと思いますよ。そんなカール5世がオスマン帝国に対抗するためには、ドイツ諸侯の協力を取り付けることが必須でした。そこで、カール5世はシュパイエル帝国議会を開き、ルター派を容認することを認めます。その代わりに、対オスマン帝国のために協力してくれ、というわけです。こうして、ルター派は正式に認められることになりました。」
名もなきOL
「へ〜、けっこう早く結果が出たんですね。1517年から数えたら9年後には認められたわけですね。」
big5
「しかし、そうは問屋が卸しませんでした。1529年、オスマン帝国の脅威も小さくなったと見たカール5世は、再びシュパイエルで帝国議会を開催(第2回シュパイエル帝国議会)。その席で、手のひらを返してルター派を禁止する、と発表しました。」
名もなきOL
「え!?こないだ認めるって言ったのに?これではルター派は納得しないでしょう。」
big5
「はい、ルター派はそれはおかしい、と次々に抗議します。このように、カール5世の手のひら返しに抗議した、ということが由来となってプロテスタント(protestant(protest:抗議する)人々、の意)という用語が誕生しました。ルター派を始めとする、カトリック教会から分離独立したキリスト教の別派をまとめて「プロテスタント」と呼ぶようになったんです。」
名もなきOL
「へ〜、そういう経緯でプロテスタントが誕生したんですね。面白いですね。」

決着

シュマルカルデン戦争とアウグスブルクの宗教和議

big5
「しかし、ルター派は納得できません。この後、オスマン帝国のスレイマン1世が自ら軍を率いて、カール5世の本拠であるウィーンを包囲したり(第一次ウィーン包囲)、フランスのフランソワ1世との抗争が再開されたりして、カール5世は再び忙殺されます。そんな中、ルター派は1531年にシュマルカルデン同盟を結成しました。これでカール5世らカトリックに対抗する、という構えですね。」
名もなきOL
「こうなったら、また戦争は避けられなかったんでしょうね。」
big5
「はい。1544年にイタリア戦争が集結し、1545年にはカトリックがトリエント公会議を開催し、教皇の無謬性(教皇は間違えない、という考え方)などを確認して団結すると、1546年からルター派のシュマルカルデン同盟との戦争が始まりました。これがシュマルカルデン戦争です。
シュマルカルデン戦争自体は、翌年の1547年にカール5世の勝利で幕を閉じるのですが、この戦争の際にカール5世がスペイン軍を大量に動員したことがドイツ人諸侯に問題視されるようになりました。カール5世が強くなりすぎると、ドイツにおけるスペインの力が強くなってしまって面白くないわけですね。そのため、カール5世は勝利したものの、反対勢力を従わせることはなかなかできず、ついにルター派に対して譲歩することになりました。これが1555年のアウグスブルクの宗教和議です。」
名もなきOL
「ようやく争いに決着がついたんですね。どうなったんですか?」
big5
「キリスト教については、カトリックとルター派のどちらを信仰するかは領主が決めるということになりました。一般庶民は、領主が選んだ方を信仰することになります。つまり、領主層には選択の自由を認めたものの、庶民の信仰選択の自由は認めなかったんですね。ただ、ルター派は社会的に認められたので、これは大きな変化です。」
名もなきOL
「これまで認められなかったんですから、それから考えれば大きな変化ですけど、信仰する宗教を選べるのは領主層だけ、というのは私から見ればまだまだですね。」
big5
「信教の自由が認められるのはまだまだ先の話ですね。
さて、こうしてルターが引き起こした神学上の論争は、既存の社会構造を大きく揺るがす争乱に繋がり、最終的にルター派は認めらるという、キリスト教の歴史に重要な1ページを追加することになりました。この動きはドイツだけのものではなく、ヨーロッパ各国で「プロテスタント」が登場し、時代は新たな局面を迎えることになります。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、ドイツの宗教改革のネタはたまに出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。。」

令和2年度 世界史B 問題21 選択肢C
・ルターは、『新約聖書』を英語に翻訳した。〇か×か?
(答)×。ルターはドイツ人なので、英語ではなくドイツ語です。

令和5年度 世界史B 問題8 選択肢A
・ドイツ農民戦争が、ツヴィングリの指導の下で起こった。〇か×か?
(答)×。ツヴィングリではなくミュンツァーです。


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参考文献・Web site