Last update:2023,NOV,18

広がる世界・変わる世界

ドイツ三十年戦争

big5
「今回のテーマはドイツ三十年戦争です。単に三十年戦争とも呼びます。三十年戦争は「最後にして最大の宗教戦争」と表現されることもあり、時代の流れを大きく変える大事件でした。長期に渡る戦争でドイツは荒廃し、1800万人いた人口が700万人にまで減少した、と言われています。」
名もなきOL
「戦争が30年も続くなんて、それだけで悪夢なのに、人口も半分以下にまで減るなんて・・戦争は本当に恐ろしいですね。」
big5
「まったくその通りです。三十年戦争は旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の対決という宗教戦争だったのですが、後半は旧教国であるフランスがハプスブルク家を倒すことを優先して新教側で参戦し、宗教戦争から国家間の戦争へと変貌していきました。
長かった戦争は1648年のウェストファリア条約でようやく終結し、時代は大きく変化していくことになりました。

ドイツ三十年戦争の重要ポイントは以下になります。
・1618年から1648年まで、30年にも渡って主にドイツで繰り広げられた戦争で、ドイツは荒廃し、人口は1800万人から700万人に減少したと言われるほど。
・直接のきっかけは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝がプロテスタントを弾圧したことから始まった旧教 vs 新教の宗教戦争だった。
・新教徒側にデンマーク、次いでスウェーデンが加勢して戦争は長期化。スウェーデン王グスタフ・アドルフと傭兵隊長ヴァレンシュタインが激突。
・旧教国であるフランスが、ハプスブルク家の勢力削減を目標に新教側で参戦したことにより、純粋な宗教戦争ではなくなる。
・1648年に締結されたウェストファリア条約でようやく終結。ドイツは各地域・諸侯がほぼ独立することになり「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれる。

と、なります。まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

Hanging from The Miseries and Misfortunes of War by Jacques Callot
戦争の惨禍 制作者:Jacques Callot  制作年:1632~33年

年月 三十年戦争のイベント その他のイベント
1618年 ベーメン(ボヘミア)の反乱(ベーメン・ファルツ戦争 ~1623年) ドイツ三十年戦争 開戦
1620年 白山の戦い(ワイセンベルクの戦い)でベーメン反乱軍が敗北
1625年 デンマークのクリスチャン4世が新教側で参戦(デンマーク戦争 ~1629年) (英)チャールズ1世即位
1628年 (英)議会が権利の請願を提出
1630年 スウェーデン王 グスタフ・アドルフが新教側で参戦(スウェーデン戦争 ~1635年)
1632年 リュッツェンの戦い グスタフ・アドルフ戦死するもヴァレンシュタインは敗れスウェーデン軍勝利
1634年 ヴァレンシュタイン暗殺される
1635年 フランスが新教側で参戦(フランス・スウェーデン戦争 ~1648年)
1636年 (中)後金が国号を「清」と改める
1640年 ポルトガルで反乱勃発 スペインから独立
1642年 (英)ピューリタン革命 始まる
1643年 (仏)ルイ13世死去 ルイ14世即位
1648年 ウェストファリア条約 ドイツ三十年戦争 終結

三十年戦争の始まり

ベーメン・ファルツ戦争

big5
「さて、30年にわたるドイツ三十年戦争の話を始めましょう。まず、三十年戦争は開戦から終結までずっと一つの戦争を戦ってきたわけではなく、大別すると以下の4つの戦争で構成されています。
@ベーメン・ファルツ戦争(1618~1623年)
Aデンマーク戦争(1625~1629年)
Bスウェーデン戦争(1630~1635年)
Cフランス・スウェーデン(1635~1648年)
戦争の名称になっているのは、すべて新教側の勢力です。対する旧教側はハプスブルク家の神聖ローマ帝国とスペインです。」
名もなきOL
「なるほど。ハプスブルク家を相手に、新教徒が入れ替わり立ち代わり戦った、という流れなんですね。確かに、最後に出てくるフランスだけが旧教国なのが目立ちますね。」
big5
「まずは、三十年戦争の直接のきっかけとなったベーメン(ボヘミア)の反乱から話を始めましょう。ちなみに「ベーメン」はドイツ語の名前で、英語・ラテン語の名前は「ボヘミア」になります。ただ、現在ではこの地域に根付いたチェック人の国「チェコ」がありますので、ベーメンやボヘミアという名称は日本では世界史くらいでしか使われなくなってきた感がありますね。ここでは「ベーメン」で統一して表記します。中心都市はプラハ(チェコの首都)です。
さて、ルターの宗教改革後、歴代のベーメン王はハプスブルク家の人々でしたが、新教徒にも寛容な統治をしていましたので、比較的平穏に過ごしていました。風向きが急変したのは1617年、ハプスブルク家のフェルディナント2世がベーメン王に即位したことでした。フェルディナント2世はこれまでの寛容政策を打ち切りとし、ベーメンにカトリックを強制して新教徒の弾圧を開始。さらには、ドイツ語の強制まで始めました。」
名もなきOL
「このパターンは・・・反乱が起きる流れですね。」
big5
「その通りの展開になります。フェルディナント2世の強硬策に怒ったベーメンの貴族らは、1618年、プラハにやってきたフェルディナント2世の代官らをプラハ城の窓から外に放り投げる、という事件が発生しました。これを「プラハ窓外投げ出し事件と言います。」

Defenestration-prague-1618
プラハ窓外放出事件 制作者:Matthaus Merian 制作年:1635年?

名もなきOL
「事件名がそのまんまですね。でも、こんなことをしたらフェルディナント2世も黙っていないでしょうね。」
big5
「ベーメンはフェルディナント2世をベーメン王とは認めず、代わりにカルヴァン派だったファルツ選帝侯フリードリヒをベーメン王としました。さらに、周囲の新教徒と連合を結成し、フェルディナント2世に対抗する構えを見せます。これに対し、フェルディナント2世もカトリック連合を結成し、戦争が始まりました。このように、ベーメン王に新教側はカルヴァン派のファルツ選帝侯を迎えようとしたため、最初の戦争をベーメン・ファルツ戦争(1618~1623年)と呼びます。
1620年、フェルディナント2世はスペイン・ハプスブルク家の援軍を加えてベーメンに侵攻。白山の戦いでベーメン軍に大勝。反乱の首謀者27名は処刑され、残った新教徒達は各地に離散。新教徒らから奪い取った土地は、功があったカトリックらに分配されてベーメン・ファルツ戦争は終わりました。この時、ベーメンで領地を得た人物の中に、後にハプスブルク皇帝軍(以下、略して皇帝軍)の指揮官として名を上げるヴァレンシュタインがいましたが、この時はまだ無名の存在でした。」

デンマーク戦争(1625~1629年)

big5
「ベーメン・ファルツ戦争はカトリックの勝利で終わり、これで騒乱は終結するかに見えました。しかし、ドイツの新教徒らが弾圧されている状況を憂いて、この戦争に介入する人物が登場しました。デンマーク王のクリスチャン4世(1625年で48歳)です。」
名もなきOL
「あら、デンマーク。久々の登場ですよね?中世史以来じゃないのかしら?」
big5
「そうですね、高校世界史ではカルマル同盟などの後はほとんど省略されてしまっていますからね。
クリスチャン4世はドイツが三十年戦争で混乱している状況を利用し、デンマークの勢力を広げるべく手を打ってきました。さらに、新教国オランダから資金援助を受け、ライバルである同じ新教国のスウェーデンを出し抜いてデンマークが新教国のリーダーになるという野望を秘めて、新教徒保護の大義名分と共に新教側で三十年戦争に介入しました。」
名もなきOL
「デンマークも、純粋に宗教的な理由だけで参戦したわけじゃないんですね。でもそれが国際政治の常識なんでしょうね。」
big5
「単純な理屈だけでは割り切れないのが国際政治、というは古今東西共通の原理だと私は思います。
さて、こうして参戦した三十年戦争でしたが、優勢だったのは序盤だけで、戦争が本格化するとたちまち敗北が続いて劣勢に追い込まれました。この時、指揮官として活躍したのが悪名高い傭兵隊長・ヴァレンシュタインでした。」

Albrecht von Wallenstein
ヴァレンシュタイン 制作者:不明 制作年:1629年

名もなきOL
「傭兵隊長?ということは、正規軍ではない、ということですか?」
big5
「はい、そのとおりです。当時の戦争では国家が常に抱えている正規軍よりも、戦争があった時に臨時で雇う傭兵の方が主力となっていました。傭兵になるのは、貧しい農村の次男坊・三男坊などが、生活のために戦争に行く、という事例が多かったんです。ウァレンシュタインは、フェルディナント2世の依頼で傭兵を集め、自ら傭兵を指揮してデンマーク軍と戦う、という立場だったんです。なので「傭兵隊長」と呼ばれます。
クリスチャン4世率いるデンマーク軍は、ウァレンシュタイン率いる皇帝軍傭兵隊らとの戦いに敗れ、デンマーク戦争はデンマークの敗北となりました。」

スウェーデン王グスタフ・アドルフの参戦 スウェーデン戦争(1630~1635年)

big5
「デンマークの敗北がほぼ確実となったところで、戦争はようやく終結すると思われましたが、ここで新たな人物が登場します。三十年戦争を戦った英雄として名高いスウェーデン王グスタフ・アドルフ(グスタフ2世アドルフ、とも。1630年時点で36歳)です。」

Attributed to Jacob Hoefnagel - Gustavus Adolphus, King of Sweden 1611-1632 - Google Art Project
グスタフ・アドルフ 制作者:Jacob Hoefnagel 制作年:1624年

big5
「グスタフ・アドルフが参戦した時、新教徒側はほぼ虫の息でした。しかし、グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍が参戦したことにより、形勢は一気に逆転します。グスタフ・アドルフは当時の最新の技術と知識でスウェーデン軍を精鋭として鍛え上げており、さらにグスタフ・アドルフ自身も指揮官として優秀でした。そんなグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍は各地で皇帝軍を打ち破って進撃。皇帝軍の指優れた指揮官として有名だったティリーを敗死させる軍功を立てて、フェルディナント2世を震え上がらせました。」
名もなきOL
「強かったんですね、グスタフ・アドルフさん。そういえば、悪名高い傭兵隊長・ウァレンシュタインは何をしていたんですか?」
big5
「この頃、ウァレンシュタインは周囲から恐れられて戦線から離れていました。そのへんの傭兵隊長よなど相手にならないほどの実力者だったウァレンシュタインは、「傭兵隊長」に過ぎないのに皇帝軍の総司令官かのような権力を持ち始め、フェルディナント2世も恐れを感じるほどの存在だったそうです。なので、デンマーク戦争で勝利が見えたところで、危険なウァレンシュタインにこれ以上手柄を立てさせないために、前線から外していたんです。」
名もなきOL
「なるほど、優秀過ぎるのも困りもの、というわけですね。フェルディナント2世、黒いな〜。」
big5
「しかし、スウェーデン王グスタフ・アドルフの参戦で状況は一変。このままでは、グスタフ・アドルフのためにこれまで築いた勝利をすべて打ち砕かれそうになったフェルディナント2世は、ウァレンシュタインを呼び戻してスウェーデン軍の撃破を命じました。こうして、スウェーデン王グスタフ・アドルフ vs傭兵隊長ウァレンシュタインという、17世紀を代表する指揮官の戦いが始まりました。両者は1632年、リュッツェンの戦いで激突します。リュッツェンの戦いの勝者となったのはスウェーデン軍でしたが、この戦闘中にグスタフ・アドルフは戦死(この年38歳)という結果でした。 」
名もなきOL
「戦闘中に国王が戦死するなんて、かなりの激戦だったんでしょうね。でも、国王が戦死したにも関わらず、スウェーデン軍が勝つなんて、当時のスウェーデン軍はかなり訓練されていて強かったんでしょうね。そうなると、ウァレンシュタインはどうなったんですか?」
big5
「それからしばらくたった1634年、突然暗殺されてあっけない最期を遂げました(この年ウァレンシュタイン51歳)。ウァレンシュタイン暗殺の黒幕はハッキリしていないのですが、ウァレンシュタインが謀反を企んでいるという嫌疑をかけられてフェルディナント2世の命で暗殺された、という説がよく知られていますね。
その後も戦争は続きましたが、国王を失ったスウェーデン軍にかつての勢いはなくなっていました。これで、皇帝の勝利で戦争は終結するかと思われたのですが・・・」
名もなきOL
「ここでようやくフランスが登場するんですね。」

フランス・スウェーデン戦争(1635~1648年)

big5
「デンマークが敗れ、スウェーデンが勢いを失い、新教側はこれで敗北かと思われましたが、意外な国が新教側で参戦します。カトリック国であるフランスです。『広がる世界・変わる世界 ルイ13世とリシュリュー フランス絶対王政への道』でも説明したように、フランス宰相リシュリューが恐れたのは、ドイツ(神聖ローマ帝国)とスペインを治めるハプスブルク家の強大化でした。そこで、宗教の違いではなく、国家の利益を優先して新教側で参戦する、という決断を下しました。これが、三十年戦争が「最後の宗教戦争」と言われる所以の一つですね。三十年戦争以後、宗教の違いはもちろん存在していますしその影響力は大きいのですが、中世や近世のように宗教だけで国の方針を決められる要素ではなくなってきたんです。」
名もなきOL
「なるほど、価値観が変わってきたんですね。」
big5
「フランスはスウェーデンなどと連携し、ハプスブルク家相手の戦争を始めました。1640年にスペインに併合されていたポルトガルで反乱が起こり、その勢いでポルトガルが独立したことを機に、フランスはドイツ・とスペインでハプスブルク家と戦いました。この戦争はフランス参戦から数えても13年という長期に渡り、参戦国に戦争疲弊がたまったところで、ようやく講和交渉が始まりました。」

ウェストファリア条約 神聖ローマ帝国の死亡証明書 1648年

big5
「長かった三十年戦争ですが、1648年に締結されたウェストファリア条約でようやく終結しました。ウェストファリア条約の主な内容は以下の通りです。
@フランスはアルザス、ライン左岸のメッツ、トゥール、ヴェルダンの都市を獲得。
Aスウェーデンは西ポンメルン、ブレーメン司教領を獲得。
Bブランデンブルク(後のプロイセン)は、東ポンメルン、マクデブルク司教領などを獲得。
Cスイス、オランダの独立を正式に承認。
Dドイツ諸侯は領邦君主権(外交権含む)を得て、ほぼ完全に独立
Eドイツの新旧両教徒(カルヴァン派含む)は、同一の権利が認められる。」
名もなきOL
「@からBは領土の変更ですね。フランス、スウェーデンは長い戦争の結果領土を増やしたんですね。Cは、既にスイスもオランダも実質的に独立していましたけど、ハプスブルク家は両国とも正式に独立することを承認したわけですね。Dが、big5さんも言っていた「神聖ローマ帝国の死亡証明書」の部分かしら。Eは、ようやく平和になりそうな内容ですね。
こうして見てみると、結果はハプスブルク家の敗北なんでしょうね。」
big5
「そうですね。領土を奪われ、スイスやオランダは独立で確定し、しかもこれまで名目上は神聖ローマ皇帝の家臣だったドイツ諸侯らに領邦君主権が与えられたことで、ドイツは約300の領邦国家に分裂し、神聖ローマ皇帝の地位は本当に飾りになってしまった、という点は、まさにハプスブルク家の敗北を意味していますね。余談ですが、神聖ローマ帝国を名目上でも消滅させたのはナポレオンなので、これから約150年間、名目上は神聖ローマ帝国は存続しています。
しかし、敗れたとはいえハプスブルク家が本拠地・オーストリアとスペインを引き続き領有していますし、ヨーロッパ最大の名門であることに変わりはありません。時代は近世後半を迎え、ヨーロッパ各国は互いの勢力拡大のために再び争うことになります。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、ドイツ三十年戦争のネタはたまに出題されます。試験前に復習しておくのがおススメです。」

・平成31年度 世界史B 問題10 選択肢B
・スウェーデン王グスタフ=アドルフが、ファルツ継承戦争(ファルツ戦争、プファルツ継承戦争)に参戦した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、グスタフ・アドルフが参戦したのは三十年戦争であり、ファルツ継承戦争ではありません。

・令和5年度 世界史B 問題14 選択肢A
(ウ)の国の歴史について述べた文として最も適当なものを選べ。
・三十年戦争の結果、北ドイツ沿岸に領土を得て、バルト海の大国となった。〇か×か?
(答)×。まず、(ウ)の国は地図上の位置と「1939年にドイツが占領した地域」というヒントからポーランドであることがわかります(これがわからないと、この問題はヤマ勘勝負になるでしょう)。三十年戦争で北ドイツ沿岸に領土を得たのはスウェーデンです。なお、「バルト海の大国となった」という表現は、解釈の仕方にもよりますが、スウェーデンの没落は18世紀の大北方戦争の敗北から始まる、と評価されることが多いので、この時点で「バルト海の大国」としても、そこまで誇張した表現とも言えないでしょう。

・令和5年度追試 世界史B 問題14 選択肢B
・(フランス絶対王政下で即位した国王たちの治世に起こった出来事として)フランスが、三十年戦争に介入した。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、フランスは三十年戦争の後期からハプスブルク家の勢力削減のために新教徒側で参戦しています。ルイ13世は、フランス絶対王政期の国王なので、問題文の条件も満たしています。



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