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広がる世界・変わる世界

ルイ13世とリシュリュー フランス絶対王政への道

big5
「今回のテーマはルイ13世とリシュリュー フランス絶対王政への道と題しまして、ユグノー戦争終結後、アンリ4世の後継者となったルイ13世の治世と、フランスが絶対王政国家へと変貌していく過程を見ていきたいと思います。」
名もなきOL
「ルイ13世ってどんな人でしたっけ・・・14世と16世は有名なので覚えているんですけど・・・」
big5
「ルイ13世は比較的知名度が低いので、それも仕方ないと思います。ですが、ルイ13世の宰相であるリシュリューなら、知っている人もけっこういるのではないでしょうか?」
名もなきOL
「リシュリュー・・聞き覚えがあります。なんだっけ??・・・・あ、三銃士で出てきた敵のボスの名前がリシュリュー?」
big5
「その通りです。三銃士の敵役としてリシュリューが登城することが多いですね。この時代のフランスは、アニメや映画にもなった「三銃士」の時代なんですよ。リシュリューはどういうわけか悪役扱いですが、世界史の世界ではルイ13世の宰相としてフランスの政治を支え、王権を強化して絶対王政国家へと導いたリーダーとして有名ですね。
ルイ13世とリシュリューの時代のフランス史の重要ポイントは以下になります。
・宰相としてリシュリューを登用し、王権を強化。
・カトリックでありながら、ドイツ三十年戦争には新教側で参戦。ハプスブルク家の弱体化を優先した。

と、なります。まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

Richelieu, por Philippe de Champaigne (detalle)リシュリュー 制作者:Philippe de Champaigne 制作年:1637年

年月 フランスのイベント その他のイベント
1598年 アンリ4世がナントの勅令を発し、ユグノー戦争終結
1600年 (日)関ヶ原の戦い
1610年 アンリ4世暗殺され、ルイ13世即位
1614年 三部会招集 その後停止
1618年 (独)ドイツ三十年戦争 開戦
1624年 リシュリューが宰相となる
1635年 フランス学士院(アカデミー・フランセーズ)設立 三十年戦争に新教側で参戦
1642年 リシュリュー死去 代わりにマザランが宰相となる
1643年 ルイ13世死去 ルイ14世即位

リシュリュー登用以前

三部会の招集と停止

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「さて、まずは今回の主役であるリシュリューが登場する少し前の話しから始めましょう。1610年、アンリ4世(この年57歳)がカトリック狂信者に暗殺された後、息子のルイ13世がフランス王位を継承しました。しかし、この時点でルイ13世はまだ9歳。とても政治ができる年ではありません。そこで、母親であるマリー・ド・メディシスが摂政として政治を見ることになりました。」
名もなきOL
「あれ?この話って前も聞いたような・・・?」
big5
「子供がフランス王となって、母親が摂政を務める、というのは前回(ユグノー戦争とブルボン朝の始まり)、シャルル9世とカトリーヌ・ド・メディシスの話と同じですね。この頃のフランスは、子供が国王に即位するケースが多かったんですよ。
マリー・ド・メディシスは、カトリーヌ・ド・メディシスと同じくイタリアのメディチ家の出身です。そのため、フランス宮廷にはイタリア人の派閥がけっこうな力を持つようになりました。また、フランス貴族らは国王が幼いことをいいことに、自らの特権を拡大させようとしていました。そんな中、1614年にフランスの議会である三部会が招集されました。貴族らは議会の力を使って、自分たちの要求を通そうとしたのですが、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民、どの部もそれぞれの利権を主張して対立するばかりで、結局ほとんど何も決まらないまま終わってしまいました。」
名もなきOL
「よくありそうな話ですね。」
big5
「そうですね。大事なのは
これ以降、フランス革命勃発の1789年まで三部会は招集されなかった
という点ですね。イギリスと違い、フランスでは議会がしばらく開催されなかったことが特徴で、これがフランスが絶対王政国家となった一つの要因となります。」
名もなきOL
「そっか。イギリスでは国王が何かしようとしても議会が妨害することがありますが、フランスでは議会自体が開催されないから、国王が自分のやりたいことを通しやすいんですね。なるほどです。」

母后マリー・ド・メディシスとの対立

Louis XIII (de Champaigne)ルイ13世 制作者:Philippe de Champaigne  制作年:1635年

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「それから時は流れ、ルイ13世も成人しました。そうなると、母・マリー・ド・メディシスの摂政としての役割は終わりです。しかし、マリー・ド・メディシスと取り巻きの側近らは権力をなかなか渡そうとしません。詳細は省略しますが、一時は、国王派と母后派に分かれて軍事衝突も起きたくらいです。」
名もなきOL
「父と息子の戦い、なら日本の戦国時代でもまぁまぁある話ですけど、母と息子の戦い、というのはかなりレアなんじゃないか、と思います。息子と戦うことになったマリーさんって、どんな人でどんな思いだったんでしょうね。」
big5
「その点はたいへん興味深いですね。ですが、ここではそのようなテストに出そうにない話は省略します。機会があったら詳細篇などで扱いたいですね。
さて、そんな母子の争いを調停したのがリシュリューです。リシュリューは下級貴族の生まれでしたが、父や兄弟はフランス王直属の軍人として仕えており、その関係もあって1606年(この年リシュリュー21歳)にリュソン司教に就任。先の三部会では巧みな演説能力が評価され、母后マリー・ド・メディシスの部下として起用されました。上述の母子争いの中で、一時失脚したこともありましたが、母子の争いを調停することに成功しました。
その後も、マリー・ド・メディシスはたびたびルイ13世の政治に口をはさんではいましたが、すでに求心力を失っていました。以後、フランスは国王が強大な権力を持つ絶対王政国家へと変貌していきます。」

リシュリューの政策

王権の強化

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「1624年、リシュリューは宰相となると、その手腕を発揮します。リシュリューは国王が強い権力を持ち、国王が国全体をコントロールする体制を目指しました。まず、貴族たちへの対策として「決闘の禁止」を徹底させました。」
名もなきOL
「決闘の禁止?どうしてそれが貴族への対策になるんですか?」
big5
「当時、貴族たちには中世から続く習慣として「決闘」で物事を解決する権利を持っていました。これは、揉め事が起きた時、国王が裁くのではなく当事者同士が実力で勝負することで決着をつける、という方法です。ルイ13世の父であるアンリ4世も決闘禁止令を出していたのですが、ほとんど守られませんでした。リシュリューとルイ13世は、あらためて決闘禁止令を出し、それを徹底させたんです。実際、決闘禁止令の違反者として処刑された貴族もいます。」
名もなきOL
「現代では揉め事を裁くのは裁判所ですよね。当事者同士が決闘するなんて聞いたことありません。これで、また一歩現代の仕組みに近づいたんですね。」
big5
「また、国王に反抗的なユグノーは徹底的に厳しく処断していきました。フランスの一都市であるラ・ロシェルはユグノーによる独立共和国の様相を呈していたのですが、ルイ13世とリシュリューはこれに対して軍を送り、包囲戦の後に陥落させました。
このようにして、リシュリューは国王が強大な権力を持つ絶対王政国家の基礎を少しずつ固めていったわけですね。」

1635年 フランス学士院の設立

big5
「リシュリュー時代の実績の一つに、フランス学士院(アカデミー・フランセーズ)の設立があります。」
名もなきOL
「フランス学士院って、大学みたいなものですか?」
big5
「いえ、大学よりも上です。トップクラスの知識人で構成される学術団体ですね。フランス革命の時に一時的に廃絶されましたが、その後復活して現在に至ります。
創設当時は、標準的なフランス語を「国語」としてまとめることが目的でした。当時のフランスを詳細に分析すると、各地に民族の違い、宗教の違い、文化の違いなどで様々な文化圏が存在し、言語もいくつかの系統に分かれていました。簡単に言うと、各地に方言がいっぱいあったので、何が「標準的なフランス語なのか」をきちんと整理したわけですね。」
名もなきOL
「なるほど、日本でも田舎の高齢者の方言ってわからなかったりしますもんね。同じフランス人なのに「あいつ何言ってるかあんまりよくわからない」ってなると、国家としてまとめるのにいろいろ不便ですもんね。」
big5
「こういうところも、王権を国の隅々にまで行き渡らせるために必要な政策なんです。こうして、フランスは絶対王政国家としてまた一歩進んでいくことになりました。」

1635年 三十年戦争への介入

big5
「フランス学士院が設立された1635年には、もうひとつ重大な決定が行われました。2つめの重要ポイントである「ドイツ三十年戦争へ介入」です。三十年戦争の詳細は別で行うので、ここでは簡単に説明します。ドイツ三十年戦争は、新教徒と旧教徒(カトリック)の対立から始まった宗教戦争の代表例で、特に規模も大きく30年と長期化したので「最大にして最後の宗教戦争」と呼ばれることもあります。フランスは旧教国ですので・・・」
名もなきOL
「当然、旧教徒側で参戦したんですよね?」
big5
「いえ、フランスは新教徒側で参戦しました。リシュリューは、三十年戦争を新教 vs 旧教という宗教対立だけではなく、神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家の勢力を削ぐ絶好の機会、と考えたんです。旧教国であるフランスが新教側で参戦したことは、時代の流れを変える一つのきっかけとなりました。
中世から近世にかけて、ヨーロッパ世界に大きな影響を与えたのはカトリックでした。宗教の違いは対立を生む重要な要素でした。しかし、三十年戦争以降、宗教の影響力は少しずつ薄れていき、代わりに「国王が支配する国家」が大きな影響力を持つようになっていきます。」
名もなきOL
「時代が変わるきっかけになったんですね。三十年戦争の結果、フランスはどうなったんですか?」
big5
「1648年、三十年戦争の講和条約であるウェストフェリア条約で、アルザス、ライン川左岸のメッツ、トゥール、ヴェルダンなどの諸都市を獲得し、領土を拡大させました。
ただ、リシュリューもルイ13世もこの結果を見ることはありませんでした。戦争中の1642年にリシュリューが死去。また、ルイ13世も後を追うかのように1643年に死去しています。フランス王は有名なルイ14世が継承し、絶対王政国家として発展していくことになります。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

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「大学入試共通テストでは、ルイ13世とリシュリューの時代のネタはたまに出題されます。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

・平成30年度 世界史B 問題30 選択肢@
・エカチェリーナ2世はリシュリューを宰相とした。〇か×か?
(答)×。上記の通り、リシュリューを宰相としたのはエカチェリーナ2世ではなくルイ13世です。

・令和2年度追試 世界史B 問題28 選択肢B
・フランス第三共和政の時期に、アカデミー・フランセーズ(アカデミー、フランス学士院)が創設された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、フランス学士院が設立されたのはルイ13世の治世であり、第三共和政ではありません。





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