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第4代カリフ アリーと混乱の時代

1.第4代カリフ アリー

big5
「さて、前ページでウスマーンがイスラム教徒の不満分子らに殺害されるという、衝撃的な事件が起こった後、間もなく第4代カリフに就任したのがアリーです。本コーナーでは、1.預言者ムハンマドのページから登場しており、当初はムハンマドの従兄弟であり娘婿でもある将来有望な青年でしたが、ウスマーンの死後にカリフに就任した時は56歳前後になっていました。」
日本史好きおじさん
「ようやく期待の新星が指導者となったわけですな。周囲の期待もかなりのものだったのでしょうな。」
big5
「ところが、アリーのカリフ就任早々、イスラム世界は内乱状態になってしまいます。アリーがカリフになったこの時点で、イスラム世界は大別すると3つの派閥に分かれていました。一つは、アリーとその支持者のグループ。もう一つは、ムハンマドの最年少の妻で、初代カリフのアブー・バクルの娘であるアーイシャ(42歳前後)の派閥。そして最後の一つはシリア総督の地位にあったウマイヤ家のムアーウィヤ(54歳前後)です。」
名もなきOL
「アーイシャって、確かウスマーンの時にも少し登場しましたよね?ウスマーンの政策を批判したって・・」
big5
「はい、そのとおりです。ムハンマドの死後、アーイシャが表舞台に立つことはしばらくなかったのですが、ウスマーンがカリフになってからは、しばしば政治に口を出すようになっていました。さらに、アーイシャはアリーとも犬猿の仲だったそうです。そもそも、二人の関係はかなり微妙な関係でした。アリーの妻・ファーティマはムハンマドの娘であり、アリー自身はムハンマドの従兄弟にあたりますので、れっきとしたムハンマドの血縁者です。アーイシャは、ムハンマドの最初の妻・ハディージャが亡くなった後に、アブー・バクルの勧めで嫁いだ後妻です。現代の感覚でも、なかなか難しい関係であることは想像がつくと思います。
アリーとアーイシャの関係が悪化するきっかけとなった有名なエピソードがあります。627年、ムハンマドがメッカを降伏させる前の時の話です。アーイシャがムハンマドに従って遠征に同行していた時、ムハンマドから贈られたネックレスをなくしてしまう、という大失態をしてしまいました。預言者であり、夫であるムハンマドからのプレゼントを無くしてはたいへん、と焦って探し回っているうちに、ムハンマド一行とはぐれてしまいました。砂漠に一人取り残されてしまったわけです。そこに、イスラム軍の兵士が偶然通りかかり、アーイシャを助けてメディナまで送り届けました。これが、大きな問題を呼び起こします。というのも、当時の習慣では、人妻が砂漠で夫以外の男と一夜を過ごしたら離縁。また、女性の姦通は死刑(死ぬまで石を投げつけられる)だったからです。ムハンマドは、アーイシャは密通したわけではないと主張しました。また、アーイシャはムハンマドの右腕ともいえるアブー・バクルの娘だったので、習慣に従って問題を処理しようと言い出す人はいなかったのですが、ただ一人アリーだけが習慣に従ってアーイシャを処分しよう、と主張したそうです。このため、アーイシャはもちろん、父親のアブー・バクルからもアリーは敵視されるようになりました。」
名もなきOL
「なんか女性だけに厳しい習慣なんじゃないかな、と思いますけど、そんなことがあったのなら、二人の仲が悪いというのもわかります。」
big5
「アリーvsアーイシャの話はまだあります。ムハンマドの死後、アリーの妻でありムハンマドの娘であったファーティマが、ムハンマドの遺産相続を希望したところ、ムハンマドの後継者となったアーイシャの父、アブー・バクルはファーティマが遺産相続することを認めませんでした。ムハンマドの遺産はかなりの額だったと思いますので、アリー・ファーティマ夫妻には痛い話だったと思います。そして、その報復として、アーイシャがムハンマドの葬儀に出席することを拒否したそうです。アーイシャは夫の葬儀に出られない、という辛酸を舐めさせられたわけですね。」
名もなきOL
「なんだか、もうドロドロですね。」
big5
「イスラム世界は、これから内乱の時代に突入していきます。それにあたり、一つ重要なことがあります。ウスマーンが殺された後、カリフとなったアリーは、ウスマーン殺害に関わった人々を処罰せず、保護することで自分の配下に組み込みました。つまり、アリーの軍にはウスマーン殺害関連者が含まれているわけですね。」
日本史好きおじさん
「そんな人達をなぜ味方にしたんでしょうか?かなり批判されるような気がします。」
big5
「おそらく、味方を確保したかったのでしょう。ウスマーン殺害関連者は、当然ウマイヤ家から命を狙われるはずです。ウマイヤ家の人間、例えばムアーウィヤがカリフになったら、イスラム世界で生きていくことはできないでしょう。そうなると、自分達を受け入れてくれる人に味方して、ウマイヤ家を倒して、はじめて安住の地を得られる、と考えるのではないでしょうか。アリーもそんな風に考えて、将来起こるであろうムアーウィヤとの戦いに彼らの力を使える、と思ったのかもしれません。そして最初に起こった事件がらくだの戦いです。」

2.らくだの戦い  656年12月

高校生A
「らくだの戦いの「らくだ」って、動物のらくだのことですか?」
big5
「はい、みなさんよくご存じの「らくだ」ですよ。」

写真提供元:Photolibrary

高校生A
「なぜ「らくだの戦い」という名前なのですか?」
big5
「そうですよね、かなり珍しい名前の付け方ですよね。歴史上の戦いの名称はたいてい地名が使われるのですが、その中で動物の普通名詞を用いる、というのはかなり珍しいです。らくだの戦いの名前の由来は、アーイシャが自ららくだに乗って戦場で指揮を執ったから、と言われています。

さて、話の続きを。まず最初にアリーに叛旗を翻したのがアーイシャと彼女に従う古参のイスラム教徒達でした。アーイシャらは
アリーがウスマーン殺害関連者を配下にしている。アリーがウスマーン殺害の黒幕に違いない
と主張し、イラク南部のミスル(軍営都市)であるバスラに移動して、軍を集め始めました。
アリーもこれに対抗して軍を集めるために、アリー支持派が多い同じくイラクのミスルであるクーファに拠点を移して、兵を集め始めました。
656年12月、両軍はバスラ近郊で対峙しました。この戦いは、これまでのような領土拡大のためのイスラム教vs非イスラム教徒という戦いではなく、イスラム教徒同士の内部抗争でした。戦端が開かれる前に、和平を視野に入れた交渉が行われましたが、失敗に終わります。」
名もなきOL
「元々仲が悪い二人だったから、話の折り合いがつかなかったんでしょうね。」
big5
「それもあると思いますが、交渉決裂の決め手になったのは、アリー配下のウスマーン殺害関連者らが、夜間にアーイシャ軍の一部に攻撃を始めてしまったから、だそうです。ウスマーン殺害関連者は、自分達の処罰を要求しているアーイシャらとアリーが和睦したら、自分達が処罰されると恐れたんでしょうね。
こうして史上初となるイスラム教徒同士の戦争が始まりました。戦闘は、アリー軍が優勢で進んだそうです。劣勢を挽回するため、アーイシャはみずから愛馬ならぬ「愛ラクダ」に乗って前線に進み、味方の士気を鼓舞しました。これが「らくだの戦い」の名前の由来です。
アーイシャが前線に出たことで、敵の大将を捕えようとするアリー軍と、自軍の大将を守ろうとするアーイシャ軍の兵士らが集まり、激戦区になりました。結果、アーイシャは捕らえられて捕虜となり、アーイシャを支持した古参のイスラム教徒らは、戦死したり逃亡して四散しました。らくだの戦いは、アリーの勝利で終わりました。」
日本史好きおじさん
「アーイシャはどうなったのですか?」
big5
「アーイシャはアリーから厳しく叱責を受けましたが、命は助けられました。その後アーイシャは政治の表舞台に立つことはありませんでした。ムハンマドの元妻、「信者の母」として、イスラム教徒達の尊敬を受けながら、678年に亡くなるまで、メディナで静かな余生を過ごしたそうです。」

3.スィッフッィーンの戦い  657年

big5
「らくだの戦いを制したアリーでしたが、休息できたのも束の間。すぐに、より大きな問題に対処しなければなりませんでした。シリア総督のムアーウィヤです。ウスマーン亡き後、ウマイヤ家を代表するムアーウィヤは、アリーのカリフ就任を認めないばかりか、ウスマーン殺害の真犯人はアリーだと非難していました。」
日本史好きおじさん
「やはり。アリーがウスマーン殺害関連者を配下に組み込んでいる以上、そのように言われるのも仕方ありますまい。」
big5
「ムアーウィヤは、エジプト遠征を成し遂げたアムルを味方に付けていましたので、その勢力範囲はシリアからエジプトにかけての広大な範囲に及んでいました。2人の対決は避けられなかったことでしょう。
らくだの戦いから約半年が過ぎた657年5月、アリーは9万の兵を率いて拠点としていたクーファを出陣。シリアへ向けて西に向かいました。対するムアーウィヤは、アムルを副将とし、12万の兵を率いて出陣。アリー軍迎撃に向かいました。両軍はアレッポの東のスィッフィーンで対峙しました。」
高校生A
「どちらが勝ったのですか?」
big5
「まぁ、その話に行く前に、両者の特徴を示す話に触れておきましょう。
スィッフィーンの戦いに先立って、両軍の間で水場の争奪戦がありました。先に水場を押さえたのはムアーウィヤ軍でした。水場が敵に押さえられていることを知ったアリーは、使者を出して「敵味方とはいえ、同じイスラム教徒同士。水場は共同で使おうではないか。」と声をかけましたが、ムアーウィヤはあっさり拒否。困ったアリーは、軍を出してムアーウィヤ軍を追い払い、水場を占領しました。さて、今度はムアーウィヤが困ります。先程、アリーの頼みを断っているのですが、背に腹は変えられません。使者を出して、水場を使わせてほしいと頼みました。」
名もなきOL
「カッコ悪いですね。」
日本史好きおじさん
「そうですよ。こんな話、断ってしまって結構結構。」
big5
「そう思いますよね。アリーの側近達もそう思いました。ところがアリーは、側近達の反対を押し切って、水場の共同利用を認めたんです。」
日本史好きおじさん
「信じられない!何の見返りもなしに、敵に譲歩するとは・・」
big5
「うがった見方をすれば、ムアーウィヤとの器量の違いをイスラム教徒達に見せたかった、と考えることもできます。その後しばらくの間、戦いは休止状態になりました。両軍の間で使者のやり取りがありましたが、両者共に譲らず、最後はアリーがムアーウィヤに一騎討ちでの決着を申込みましたが、ムアーウィヤはこれを拒否。遂に戦いが始まりました。
戦いは3日間に渡って激戦となったそうです。開戦から中盤戦までは一進一退でしたが、後半戦からはアリー軍優勢となりました。劣勢となったムアーウィヤは、一計を案じます。兵士の槍の穂先にクルアーンの紙を結んで掲げさせ、和平を呼びかけました。」
日本史好きおじさん
「何だか不思議な作戦ですね。それにはどういう意味があるのですか?」
big5
「私もわかりません。そして、アリーにもわからなかったそうです。ただ、アリー軍の一部の兵士らがこれを見て動揺し、勝手に戦いを止めてしまいました。アリーは、これは敵の策略だと言って戦闘開始を命令したのですが、一部の兵士らは命令に従わないばかりか、むしろアリーに詰め寄って停戦を要求し始めました。これに対して、別の部下はアリーを守ろうとして、この兵士らを排除しようとしたため、アリー軍はあわや仲間割れ、という状態になりました。」
日本史好きおじさん
「何だかよくわかりませんが、ムアーウィヤの「槍の穂先にクルアーン作戦」は、一部の兵士らには有効だったのですな。 」
big5
「そうです。それでアリーは、部下を使者に出して「槍の穂先にクルアーン作戦」の意図を尋ねさせました。ムアーウィヤは、これ幸い、とばかりに使者を丸め込んで、アリーの同意を得ることなく、停戦の約束をしてしまいます。そして、両者の揉め事は後日協議して問題を解決する、ということになり、スィッフィーンの戦いは幕を閉じました。」
名もなきOL
「何だかよくわからない終わり方ですね。結局、決着がつかなかったので話し合い、ということになったんですね。それなら最初からそうすれば、無駄な戦争をして人々が死ぬこともなかったのに。」
big5
「それは人類の永遠の課題かもしれません。さて、こうしてスィッフィーンの戦いは引き分けで終わりました。一般には、スィッフィーンの戦いが引き分けで終わったことにより、アリーの没落が始まり、ムアーウィヤの興隆、さらにはウマイヤ朝と呼ばれる、ウマイヤ家による世襲のイスラム王朝の誕生のきっかけとなった、とされています。
一つだけ、大事な話を追加します。スィッフィーンの戦いの後、この結果に納得できないアリーの一部の配下が、アリーから独立し、アリーともムアーウィヤとも対決する新派閥を作りました。この新派閥は後にハワーリジュ派(ハワーリジュとは、「離脱した者」という意味)と呼ばれ、歴史上最初のイスラム教の分派勢力となりました。」
名もなきOL
「なぜハワーリジュ派は、アリーもムアーウィヤも認めなかったのですか?」
big5
「ハワーリジュ派は、イスラム世界の中の揉め事は、人間が裁定を下すのではなく、神が下すべきである、と考えていたそうです。ハワーリジュ派にとって、アリーとムアーウィヤがカリフの地位をめぐって、二人の妥協で決定するという考え方じたいが、受け入れられないみたいです。」
高校生A
「神が決めるといっても、どうやって決めたらいいんでしょうね?預言者ムハンマドはもういませんし。」
big5
「そこを補うのがクルアーンやハディースなんですけどね。その辺のつながりは、私もまだ調査が進んでいないので、わかりましたら後日追記しておきます。」

4.アリーの最期  661年

big5
「スィッフィーンの戦いの後、アリーは離反したハワーリジュ派とも戦わなくてはなり、その勢いは日増しに衰えていきました。そして、その結末は意外にも早く訪れます。スィッフィーンの戦いから4年が過ぎた661年、アリーはハワーリジュ派が送った刺客の凶刃に倒れ、帰らぬ人となりました(享年61歳前後)」

名もなきOL
「アリーも暗殺されたんですか。ということは、4人の正統カリフのうち、3人が暗殺されているんですね。」

big5
「そうなんです。イスラム教は短期間のうちに広大なアラブ帝国を築き上げましたが、内部抗争も激しかったというか、カリフという位はかなり不安定だったわけですね。
アリーの死により、アラブ帝国の事実上の支配者はムアーウィヤただ一人となりました。その後、ムアーウィヤはカリフの位をウマイヤ家が世襲する体制を整えました。なので、この国はウマイヤ朝と呼ばれることになります。
ウマイヤ朝は、これまでの歴代カリフが本拠地を置いたメディナではなく、自分の支配地シリアの中心地である首都をダマスカスに置きました。これは時代の変化を示す象徴的な変化と言えるでしょう。ちなみに、ダマスカスは不毛なアラブの砂漠地帯と肥沃な三日月地帯の境界に位置する町でした。アラブの砂漠からダマスクスに来た人は、その発展ぶりに目を見張ったことでしょう。また、当時のダマスカスにはキリスト教徒も多く、ムアーウィヤの妻も侍医もキリスト教徒だったそうです。イスラム教のカリフの妻がキリスト教徒、というのも、これまでのカリフとはまったく違うことを印象付けていると思います。
さて、本コーナーも次で最終章です。」

イスラムの分裂 略年表        
656年

アリーが第4代カリフに選ばれる
656年12月

らくだの戦い
657年

スィッフィーンの戦い
661年

アリーがハワーリジュ派の刺客に暗殺される

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