センター試験 世界史B 2013年

第1問 B

問4(通し番号:4)
「法とその制定について述べた文として誤っているものを選べ」

@スパルタのドラコンが、成文法を定めた。
A「権利の章典」は、議会の同意なしに王が法を停止することを違法とした。
Bグロティウスは、自然法思想に基づく国際法を構想した。
C大憲章(マグナ=カルタ)が、ジョン王によって認められた。


big5
「第1問Aに続いて、またしても法律関係の問題が来ましたね。誤りの選択肢を選ぶ問題でしたが、細かいところを考えていくと、けっこう難しく感じる問題だったと思います。」
高校生A
「Bのグロティウスは、国際法の父だということは知っていたのですが、「自然法思想」というのが正しいのかどうかわからなかったので、Bにしました。」
big5
「それは、問題作成者の罠にかかってしまいましたね。Bは正しいんです。「自然法思想」という、あまり馴染みのない言葉で惑わす、というのは選択肢を吟味する際によく使われる手段です。「自然法」というのは、法律用語で、簡単に言うと「永久普遍の法」、という意味です。(「永久不変」ではないので注意してください。「普遍」とは、場所を問わずにどこでも、という意味です。)一般的に法律というと、それぞれの国が独自に法律を作りますよね。なので法律は、国によって当然違いますし、同じ国でも時代が変わったら法律も変わります。「自然法」というのは、これらのように時代によって違うとか、国によって違うということがない、いつの時代でもどこの国でも通じる法律、というものなんです。なので、国際法ととても相性がいいんです。国際法はそもそも、国によって法律が違うという中で、どの国も守るべき、とされている法律なので、自然法的なものなんですね。
このように、Bの正誤を厳密に判定しようとすると、かなり深い知識が必要になりますが、この問題はもっと基礎的な知識で正解が出せます。」
高校生A
「Cは正しいと思います。あまり評判の良くないジョン王が、貴族に負けてマグナ=カルタを認めさせた、というのは確かだと思います。となると、@かAですよね。」
big5
「Cについてはそのとおりです。ジョン王時代の重要事件として、マグナ=カルタは基礎知識です。答えは、@になります。ドラコンはスパルタの人ではなく、アテネの人なんですね。なので、これが誤りになります。教科書の最初の方、古代ギリシャの最初のほうで、「ドラコン立法」というかんじで記載されているのを確認しておきましょう。<古代ギリシア>のページにもありますが、ドラコンはそれまで文章として明確になっていなかった習慣的な法律を、初めて文章にした(明文化した)人なんです。
Aの権利章典も、「議会の同意なしに王が法を停止することを違法とした」という部分が気になったかもしれませんが、これは正しいです。権利章典は、1688年の名誉革命の翌年に、イギリス議会が革命時に発表された「権利宣言」を法律化したもので、法の改廃や新たな税金の徴収などの重要事項について、国王が議会の承認無しで強行することを禁じたものになります。」

問5(通し番号:5)
「インドの民族運動弾圧をねらったローラット法が公布された時期を選べ」

(a)
1885年 インド国民議会の開催
(b)
1906年 国民会議派、カルカッタ大会を開催
(c)
1930年 第2次サティヤーグラハ(非暴力・不服従の抵抗運動)
(d)


big5
「ローラット法が公布された時期を選ぶ、というやや難しい問題です。この問題は、ローラット法がいつ頃できたのかを知らないと、4分の1の確率に賭けるしかなかったと思います。」
高校生A
「はい、私は4分の1だということでbのAを選びました。」
big5
「惜しい。正解はcのBです。これは知らないと解けないです。ローラット法が公布されたのは、1919年、第一次大戦が終結した時のことでした。第一次大戦中、イギリスの植民地だったインドは、イギリスの戦争に協力を惜しまない見返りとして、インドの自治さらには独立を望んでいました。戦後、インド各地で独立を志す民族運動がちらほらと生れていました。イギリスはこの動きを阻止するために、治安維持という名目の下でローラット法を公布し、インド人の独立運動を妨害しようとしたわけです。これに対抗したのが、かの有名なインド独立の父・ガンディーでした。ガンディーは非暴力・不服従運動という、これまで歴史上の各国でたびたび発生した武力による革命ではなく、まったく別の方法による革命運動を始めたんですね。問題文に『1930年 第2次サティヤーグラハ(非暴力・不服従の抵抗運動)』とありますが、1919年が第1次サティヤーグラハの始まりになります。」

問6(通し番号:6)
「ベンガルの地域の位置は下図のaとbのどちらか?また、ベンガルにおけるイギリスの植民地拡大について述べた文として、正しい組み合わせを選べ。」



ア)プラッシーの戦いで勝利し、イギリス領インドの基礎を築いた。
イ)シク教徒の勢力を破り、支配地域を拡大した。

@a−ア Aa−イ Bb−ア Cb−イ

big5
「ベンガルの場所と、ベンガルで起こった歴史事件の組み合わせを選ぶという、実質2択×2問の問題ですが、これまでの問題に比べると、易しい問題だったと思います。さて、まずはベンガルの場所ですが、どちらかわかりましたか?」
高校生A
「確か、沿岸部だという記憶があったので、海に面していないアではなく、面しているイを選びました。」
big5
「おぉ、そういう考え方もできますね。この問題ならその知識でも解けますね。確かに、アフリカにしろインドにしろ、植民地化の流れは「沿岸部→内陸部」という順番なので、そのイメージを持つのはいいと思います。ただ、ベンガルはインドの中でも重要エリアなので、これを機会におおよその位置を覚えておきましょう。ベンガルはインド北東部、ガンジス川の下流域のあたりの名前です。続いて、ベンガルで起きた歴史事件は、(ア)のプラッシーの戦いと(イ)のシク教徒との戦い、どちらでしょうか?」
高校生A
「シク教徒、っていうのがよくわからないです。プラッシーの戦いは、学校の先生も話していたインドの歴史の中に出てきた覚えがあるので、プラッシーの戦いにしました。」
big5
「知識としてはあやふやですが、なんとか正解にこぎつけましたね。そのとおりです。なので、正解はBになります。プラッシーの戦いは、比較的よく出る重要事件なので、この機に重要ポイントを押さえておきましょう。プラッシーの戦いは1757年、インド人のベンガル太守とイギリス東インド会社のクライブの戦いです。ベンガル太守にはフランスの支援がつき、イギリス東インド会社には、ベンガル太守と仲が悪いインド人有力者が味方しました。この戦いに勝利したイギリス東インド会社はベンガルの支配権を確立し、その後のイギリス植民地拡大の拠点となった、というのがポイントです。もう1点重要なのは、プラッシーの戦い(1757年)は七年戦争(1756年〜1763年)の一環でもある、ということです。プラッシーの戦いが行われた1757年は、ヨーロッパで七年戦争が勃発した次の年でした。七年戦争の当事者はオーストリア vs プロイセンでしたが、オーストリアにはフランスが味方し、プロイセンにはイギリスが味方したために、植民地競争をしていたアメリカやインドの地で、イギリスとフランスの戦いが起きたんですね。そのため、プラッシーの戦いは七年戦争の局地戦、とも言えるというわけです。
なお、ハズレの選択肢のシク教ですが、これも押さえておきましょう。シク教はイスラム教とヒンドゥー教が融合してできた宗教で、インド北西部のパンジャブ地方で盛んでした。パンジャブ地方は、上図のaの地域にあたります。もともと、イスラム教はアラビア方面からインドに入って来たので、インド北西部で盛んだった、という事実は覚えやすいと思います。後に、イギリスはシク教徒とも戦って勝利し、パンジャブ地方を制圧していますので、a−イという選択肢は、歴史的には正しい内容の組み合わせなんです。」

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