ドラコンの法とソロンの改革

数あるポリスの中で、ギリシア世界を牽引するリーダーはアテネでした。なので、世界史ではアテネの歴史がよく注目されています。というよりも、アテネの歴史しか史料が残っていないのが現状です。古代ギリシアの偉大な哲学者の一人アリストテレスは、158にもなるギリシアのポリスの政治形態、歴史について体系的にまとめましたが、たいへん残念なことに、それら史料はアテネに関するもの以外は現存していません。もし、失われてしまったこれら史料を発見することができたら、古代ギリシア史の分野では一大センセーションを引き起こすことができると思います。
さて、アテネは「民主主義のゆりかご」と表現されることもありますが、最初から民主主義でやってきたわけではありません。当初は王政、その次は貴族政でした。まずは、貴族政の時代のアテネから見ていきます。

都市国家アテネの最高意思決定機関は「アレオパゴス会議」と呼ばれる組織でした。アレオパゴス(Areios Pagos)という名前は、アテネのアクロポリス北西の丘「アレイオス(日本語表記は「アレス」とも)の丘」という意味であるそうです。貴族政時代、アレオパゴス会議は貴族のみで構成されていました。前683年に任期1年のアルコン(日本語訳は「執政官」。指導者、支配者という意味)の制度が始まると、アルコンを経験した貴族は審査を経るものの、ほぼ自動的にアレオパゴス会議の終身会員となり、国の政治を担っていました。そういう意味では、アレオパゴス会議は貴族政の牙城だったともいえます。

アルクメオン家とキュロンの反乱
紀元前632年、キュロンという人物がアテネの僭主になろうとして蜂起するという事件が起りました。キュロンの妻の父・テアゲネスは有力ポリスの一つであるメガラの僭主でした。メガラはアテネの西方およそ20kmの地点に位置しており、しばしばアテネと抗争も起こしていたポリスでした。キュロンはテアゲネスの支援を背景にアテネの僭主となろうとして蜂起し、アクロポリスを占領しましたが、失敗して逃亡。この時、キュロンの仲間達の一部がアテネの守護神である女神・アテナの神殿に逃げ込みました。アテナ神殿に逃げ込んだ理由は、おそらく神殿内での殺生は禁止されていたことでしょう。しかし、当時のアテネのアルコンであった大貴族であるアルクメオン家のメガクレスは、アテナ神殿に逃げ込んだ者達を殺害してしまいます。そのため、メガクレスは涜神罪に問われ、アテネを追放されてしまいました。この罪は、メガクレス個人だけではなく、アルクメオン家に終生まとわりつく、とされました。しかし、大貴族としてのアルクメオン家の地位はこの事件の後も存続し、後の時代に重要な役割を果たした政治家を輩出しています。例えば、クレイステネスはアルクメオン家の出身ですし、アテネ黄金時代を築いたペリクレスの母がアルクメオン家の出身でした。

ドラコンの法
その一方で、海外植民の発展や商工業の発展により、ごく普通の市民もそれなりに経済力をつけるようになってきました。力をつけた市民らは、政治を独占している貴族らと対立するようになります。貴族 vs 市民という階級間闘争の構図ができあがり、アテネ内に不穏な空気が漂い始めた頃、一人の特徴的な人物が現れました。ドラコン(Drakon, 生没年不詳)です。前620年頃、ドラコンはアテネの慣習を初めて成文化(文章にして明示)した人物と言われています。ドラコンが明文化した法律は、現代日本、その他多くの先進国の法律にも共通している要素がありました。それは、
「私的復讐を止め、公的裁判で処理する」
ということです。これを別の言葉に言いかえると「仇討は認めない。代わりに国家が犯罪者を処罰する。」ということです。「司法」という考え方が紀元前620年頃に、アテネで樹立されたことはとても特徴的なことだと思います。時代が下って中世騎士の時代になると、逆に国家による司法権の遂行力は弱くなり、そもそも「法による統治」という考え方自体が衰退してしまっています。
そしてもう1つ、特徴的な点があります。ドラコンが明文化した法律は「血で書かれた」と表現されるくらい苛烈なもので、些細な罪でも死刑が科せられるというものでした。殺人罪の条項については、前409 or 408年碑文として記録され、演説でも言及されています。

<管理人 メモ>
ドラコンの法はあまりに厳しいということですが、どれくらい厳格に実行されたのでしょうか?私の予想では、最初はそのとおりに運用しても、あまりの厳しさに多くの人が嫌悪感を感じて、そのうちほとんど実行されなくなったのではないか、と思います。情報を持っていらっしゃる方は、教えていただければ嬉しいです。
管理人メールアドレス:big5history*yahoo.co.jp (*は@に変換してください。)

ゴルテュン法典 "Gortyn law"
古代ギリシアの法として、もう一つ有名なのがゴルテュン法典(ゴルテュン法、とも)です。ゴルテュンとは、エーゲ海の南部にある大きな島・クレタ島の南部に栄えたポリスでした。ゴルテュン法典は、ゴルテュンにて紀元前5世紀に定められたと考えられています。また、このうちの一部は紀元前7世紀から採用されていました。ゴルテュン法典は、誰が定めたのかは不明ですが、石板に刻まれて完全な形で保存されているのが特徴です。現存する古代ギリシアの法の中では最古のものに属するため、法制史はもちろん、社会経済史でも重要な史料として貴重な存在となっています。ゴルテュン法典が定めているのは、奴隷の取り扱いに関する法(奴隷の地位が比較的高い)、財産と取引に関する法、家族と相続に関する法、性犯罪法から成りますが、実質的には家族と家族財産、妻と娘に関する規定が大部分を占めているそうです。ゴルテュン法は、氏族政から家父長的家族制へ、母系制から父系制へ、無私有財産制から私有財産制へ、無階級制から奴隷的階級制への過渡期の方ではないか、と考えられています。

ソロンの改革
前6世紀(紀元前500年代)に入ると、アテネには新たな社会問題が起きていました。それは「格差社会」です。現代でも、日本などで「格差」言いかえれば「貧富の差」が問題視されていますが、この頃のアテネの「格差」はとても深刻なものでした。アテネでは商工業の発展と共に貿易も盛んになっていましたが、その裏側では「儲ける人」と「儲けられない人」の格差がどんどん拡大していったようです。その結果、一般的なポリスの市民らが、借金を払い切れないために、自分自身を「奴隷」として差し出す、という現象が多発するようになりました。このように、借金が原因となった奴隷を「債務奴隷」と呼んだりします。債務奴隷は、借金の貸主の農園で働いたり、あるいは外国に奴隷として売り払われたりしました。債務奴隷の増加は、市民が支えるポリスにとっては、軍事力の減少という死活問題に直結していました。自前で武器防具を準備して、戦場に立つのは市民達です。その市民達が奴隷となってしまい、その役割を果たせなくなることは、ポリス社会にとっては大きな問題です。
そんな時、登場したのがソロン (Solon)でした。前594年(46歳?)、アルコンに選出されたソロンは改革に乗り出しました。ソロンは、ドラコンと同じように「法が国家を支配する」という考えの持ち主で、法の影響力をより広範囲に広げることを考えました。格差社会の原因の一つは、権力者らに資産が集中しやすい構造にあります。資産を持っている者達は、その資産を使ってさらに富を得ていくわけです。ごく少人数による富の独占を防ぐために、土地の最高所有額が設定されました。これにより、一人が所有できる土地の数が制限されました。また、債務奴隷らの借金を帳消しとし、以前所有していた土地を返還してやることで、市民達の自活力立て直しを図り、債務奴隷の増加を防ぎました。また、経済発展で大きな役割を担っていた貿易にも、法による制限を加えました。オリーブ以外の農作物を外国に売ることを禁止したのです。それ以前は、農作物を外国に売ることにより、国内の農作物の数が減るため、食糧の価格は高くなっていたわけです。資産家は生活できますが、あまり余裕のない人々にとっては、毎日の食糧を確保することさえ難しい状況だったようです。
もう一点、特徴的な改革のポイントは、財産所有額に基づいた市民のランク分けです。ソロンは、貴族階級が政治を独占する体制に問題があると考えました。家柄ではなく、所有する財産の量(経済力)が多い者が、国家に対する貢献率が高いとみなし、市民を4等級に分けました。そして、各階級に応じて参政権を与えました。各階級と参政権は以下の表のようになります。

500石級アルコンor財務官になる資格
騎士級400人評議会の議員になる資格 戦場では騎兵
農民級400人評議会の議員になる資格 戦場では重装歩兵
労働者級民会、裁判に出席できる

この制度に変わっても、貴族たちが500石級、騎士級の大半を占めることとなりましたが、家柄が問われなくなったことは大きな変化です。個人の才覚で経済力をつけることができれば、貴族の家出身でなくとも、アルコンになれる可能性が生れたわけです。また、400人評議会の設置も大きなポイントです。400人評議会は、4部族から100名ずつを上位3階級から選出して構成しました。そのため、農民級であっても400人評議会の議員になることができたわけです。
これら一連の改革により、凋落著しかった市民階級は復活を遂げることができました。そのため、ソロンは古代ギリシアの七賢人の一人に数えられています。しかしソロンの改革は、当時はたいへん批判されました。貴族にとっては、既得権益の数々を失う改悪であり、市民らにとっては、貴族の政治独占を解消しきれていない、という評価がなされました。そのため、ソロンは改革を終えた後、アテネを離れて商売と見物を兼ねて、エジプトやキプロス島に旅行しました。その後の消息ははっきりしませんが、プルタルコスの「ソロン伝」によると、アテネに帰国した後、ペイシストラトスによる僭主政治樹立を阻止しようとして失敗し、前560年頃に死去。遺体は火葬されてその灰はサラミスにまかれた、となっています。


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