アメリカ独立戦争の終結


武装中立同盟の結成 (League of Armed Neutrality) 1780年
1780年、ロシアの女帝エカチェリーナ2世(51歳)の提唱により、ロシアとスウェーデン間で武装中立同盟が結ばれました。これは、イギリスが中立国の船舶を捕獲、臨検したことに対抗し、中立国船舶の自由な航海と戦時禁制品以外の貿易が正常に行われることを主張したものです。武装中立同盟は、間接的にアメリカを支援することになり、1782年にはプロシア、オーストリアが参加、1783年にはポルトガルが参加しました。
武装中立の考え方は、交戦国が中立商業を妨害することに反対するものであり、後に海上中立法へと発展していくことになりました。

ヨークタウンの戦い (Battle of Yorktown) 1781年10月19日
1780年、米仏同盟に基づき、フランスはロシャンボー(55歳)をアメリカへの援軍司令官に任命しました。ロシャンボーは、オーストリア継承戦争、七年戦争にも従軍している歴戦の将軍です。一方、イギリス軍副司令官のチャールズ・コーンウォリス将軍(42歳)率いるイギリス軍は、サウスカロライナのカムデンでアメリカ軍を破ると、翌1781年にはバージニアに侵攻しました。1781年4月、コーンウォリス軍は低南部内陸地方から北進を始めましたが、これは無謀な作戦だったと言われています。また、奇妙なことに5月に総司令官であるクリントン将軍(43歳)が辞任してイギリス本国に帰国してしまう、という事件も起こりました。クリントン将軍がなぜ作戦途中で総司令官を辞任してしまったのかは不明ですが、おそらくこの時点でイギリス軍の敗北を予期していたのかもしれません(注:あくまで推測です)。クリントン将軍はその後1783年に、「1781年の戦況(Narrative of the Campaign of 1781 in North America)」という手記を発表しましたが、これに対し、副司令官だったコーンウォリス将軍から激しい非難を受けています。おそらく、自身の辞任を正当化する目的だったのでしょう。
さて、コーンウォリス将軍率いるイギリス軍は、バージニアに到着する前に、総勢5200のアメリカ軍の襲撃を受け、ヨークタウンに追いつめられてしまいました。さらにフランス艦隊がイギリス艦隊を追払ってヨークタウンを海上から封鎖。10月6日、ワシントン率いる9000のアメリカ軍と、6月からワシントン軍と合流していたロシャンボー将軍の率いる約7800のフランス軍との連合軍が約6000のイギリス軍を包囲攻撃し、10月19日、ついにコーンウォリスは降伏しました。
この戦いは、アメリカの独立戦争勝利を決定づけた戦いとして、高校世界史に名前が載っています。

パリ条約 (Treaties of Paris) 1783年9月3日
1783年9月3日、イギリスと北アメリカ諸邦との間でパリ条約が調印され、翌年批准されました。これにより、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認め、ミシシッピ川の東、五大湖の南、フロリダの北の全領土がアメリカ合衆国のものとなりました。さらに、イギリスはアメリカを支援したスペインにフロリダを返還します。こうして、アメリカ独立革命はアメリカの独立達成と、それを支援したフランス・スペインの勝利に終わり、イギリスが一人負けする形で幕を閉じました。

これにて、アメリカ独立革命の話は終わりになります。このような独立革命を経て、現代の大国・アメリカが独立した歴史を歩み始めたわけですね。最後に、アメリカ独立革命に登場した人物達のその後について、簡単に紹介して閉幕といたします。

主な登場人物のその後

植民地アメリカ側

ジョージ・ワシントン (George, Washington))
アメリカ軍総司令官を務めたワシントンは、アメリカ軍を率いてニューヨーク市に凱旋。しかしその後は軍務を退き、故郷であるバージニアのマウントノーバン農園に戻って4年間を所有地の管理に過ごしました。1782年には、ワシントンをアメリカの国王とする動きがありましたが、ワシントンはこれを断固拒否。彼が初代大統領に就任するのは1789年。1797年、大統領に三選されることを辞退して、故郷であるマウントバーノンに引退し、所有地の管理に専念。1799年12月14日、マウントバーノンにて悪性喉頭炎で死去。享年67歳。

サムエル・アダムズ (Samuel, Adams)
1894〜97年にかけてマサチューセッツ知事を務めました。1803年10月2日、ボストンにて没。81歳(ご長寿!)。

ジョン・アダムズ (John , Adams)
独立直後の困難な時期には外国との交渉と担当。1785年、アメリカ最初のロンドン駐在公使に任命されました。1789〜97年のワシントン大統領のもとで、副大統領を務め、1796年の大統領選挙でトーマス・ジェファーソンを破り、第2代大統領に就任(任期1797〜1801年)。1800年の大統領選挙に出馬して再選を図るも、ジェファーソンに敗退し、政治の表舞台から退いた。1826年7月4日、マサチューセツのクインシーにて没。91歳(ご長寿!)。

ベンジャミン・フランクリン (Benjamin , Franklin)
パリ条約調印後も、フランとアメリカの通商条約の締結に尽力。1785〜88年はペンシルバニア議会の議長を務めました。この間、1787年の合衆国憲法会議に出席し、対立点の妥協に尽力。自叙伝「Autobiography」が有名。1790年4月17日、フィラデルフィアにて没。84歳(これまたご長寿!)。

トーマス・ジェファーソン (Thomas , Jefferson)
1783〜85年は大陸会議代表。1785〜89年にフランス駐在公使として、フランスとの友好維持に尽力。1790〜93年、ワシントン大統領のもとで初代国務長官、1797〜1801年、アダムズ大統領のもとで副大統領を務め、1801〜09年、第3代大統領に就任。ナポレオン戦争でヨーロッパが戦乱の嵐にあったときに、中立を維持する一方で、チャンスを逃さずにフランスからルイジアナ州を購入し、アメリカの領土を2倍に拡大したのが有名です。大統領2期目の任期終了とともに、バージニア州モンティセロのプランテーションに引退。1826年7月4日、バージニアのモンティセロにて没。83歳(これまたご長寿!)。

ジョン・バリー (John, Barry)
あまり目立たない存在でしたが、アメリカ海軍を指揮したジョン・バリーは一度退役した後、1794年(49歳)にふたたび「ユナイテッド・ステーツ」の艦長を命じられました。1798〜1800年の対仏紛争では、西インド艦隊を指揮。晩年はS・ディケーター、R・サマーズらの後進を育成し、「海軍の父」と呼ばれる存在になりました。1803年9月13日、フィラデルフィアにて没。58歳。

アーテムズ・ウォード (Artems, Ward)
大陸会議代表、連邦下院議員(1791-95年)を歴任。1800年10月28日没。享年73歳。

コシチューシコ (Kosciuszko)
ロシア、プロイセンなどの外国勢力から、母国であるポーランドの独立を目指して戦いましたが、力及ばず敗北し、ロシア軍に捕えられました。ポーランド消滅後も、独立を目指して亡命勢力と接するなどの活動を続けました。1817年10月5日、スイスのゾロトゥルンにて没。享年71歳。

ラファイエット (La Fayette)
戦後、フランスに帰国して陸軍少将に昇進。1789年のフランス革命では、革命派に属して活躍したものの、革命後の権力闘争に敗れ、アメリカへの亡命を図るも、オーストリアに捕えられて5年間、獄中での生活を強いられました。ナポレオン帝政時には引退生活を送るも、1830年の七月革命で国民衛兵司令官となり、政権の樹立に尽力。1834年5月20日、パリにて没。享年77歳。

ブシュロッド・ワシントン (Bushrod, Washington)
戦後、バージニアのアレクサンドリアで弁護士として活躍。1790年にリッチモンドに移住し、1798年、ジョン・アダムズ大統領によって最高裁判所判事補に任命され、1829年まで勤務。ジョージ・ワシントンの遺産管理人となり、J・マーシャルの「ワシントン伝」刊行を指導。1829年11月26日、フィラデルフィアにて没。享年67歳。

ホラティオ(発音不明?)・ゲーツ (Horatio, Gates)
戦後、ニューヨーク州議会議員となり、所有していた奴隷を解放しています。1806年4月10日、ニューヨークにて没。享年78?歳。

ロシャンボー (Rochambeau)
フランス革命では、革命派につき、フランス北部の軍を指揮。1803年に陸軍元帥に昇進。恐怖政治の際、死刑を宣告されるも、ナポレオンによって救われています。1807年5月10日、バンドームにて没。享年82歳。

イギリス側

トーマス・ゲージ (Thomas, Gage)
1787年4月2日没。享年66歳。

ウィリアム・ハウ (William, Howe, 5th Viscount Howe)
1814年7月12日、デボンシャーのプリマスにて没。享年85歳。

ジョン・バーゴイン (John, Burgoyne)
敗北、降伏した将軍として有名になってしまいましたが、戦後は劇作に専念し、1786年に発表した喜劇「女相続人(The Heirness)」が代表作となっています。1792年8月4日、ロンドンにて没。享年70歳。

チャールズ・コーンウォリス (Charles, Cornwallis)
1786年、インド総督に任命され、1790〜92年の第3次マイソール戦争を指揮。行政面では南インドの植民地化を大きく進展させました。1792年に侯爵となり、1793年帰国。1798〜1801年はアイルランド総督として、アイルランド反乱を鎮圧するなど、独立戦争後にかなりの活躍をしています。1805年に再びインド総督に任命されましたが、1805年10月5日、任地のインドのガージーブルにて没。享年67歳。

ヘンリー・クリントン (Sir Henry, Clinton)
1794年、ジブラルタル総督に任命されました。1795年12月23日、任地のジブラルタルにて没。享年57歳。

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