Last update:2023,SEP,16

広がる世界・変わる世界

イギリスの宗教改革 詳細篇

small5
「今回は「広がる世界・変わる世界」の詳細篇ということで、イギリスの宗教改革について詳しく見ていくぜ!」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」

small5
「本編でも見てきたように、イギリスの宗教改革は宗教的な考え方の違いで生じたものではなく、極めて政治的・個人的な経緯で始まったわけだ。(イギリスの宗教改革 参照
さて、まずはいつもどおり年表から見ていこうか。」

年月 イギリス宗教改革のイベント 他地方のイベント
1517年 ルターが95箇条の論題を掲示
1519年頃 ツヴィングリがチューリヒでカトリック批判を開始
1521年 ヘンリ8世がルターを批判 教皇から「信仰の擁護者」の称号を受ける
1524年 ミュンツァーが指導するドイツ農民戦争 始まる(~1525年)
1526年 第1回シュパイエル帝国議会 ルター派容認される
モハーチの戦いでスレイマン大帝がハンガリーを破る
1527年 ヘンリ8世が王妃離婚問題で教皇クレメンス7世と対立
1529年 第2回シュパイエル帝国議会 ルター派が禁止される ルター派は抗議 「プロテスタント」の始まり
1534年 ヘンリ8世が首長法を発布 イギリス国教会成立
1536年 カルヴァンが『キリスト教綱要』を著す
1541年 カルヴァンがジュネーヴの実権を握り神政政治を開始
1549年 エドワード6世が一般祈祷書を制定
1555年 メアリ1世がカトリック復帰政策を推進 アウグスブルクの宗教和議
1559年 エリザベス1世が統一法を公布 イギリス国教会確立

ヘンリ8世

誕生と即位までの青少年期

Henry-VIII-kingofengland 1491-1547ヘンリ8世 制作者:ホルバイン 制作年:1537年頃

small5
「イギリスの宗教改革といえば、やはりこのヘンリ8世は欠かせないよな。」
big5
「そうですね。ヘンリ8世からイギリスの宗教改革が始まった、といっても過言ではありませんからね。
ヘンリ8世に関する基本情報は以下のようになります。
<ヘンリ8世 基本情報>
誕生日:1491年6月28日 グリニッジにて
父:ヘンリ7世 母:エリザベス・オブ・ヨーク(ヨーク朝エドワード4世の娘)
兄弟:兄・アーサー(1486~1502年)姉・マーガレット(1489〜1541年 後のステュアート朝ジェームズ1世の曾祖母)妹・メアリ(1496~1533年 ジェーン・グレイの祖母)
在位:1509年4月22日〜1547年1月28日
王妃:キャサリン・オブ・アラゴン(スペイン王女 1487~1536年)、その他後述
死亡日:1547年1月28日(この年56歳) ロンドンにて 死因:病死

ヘンリ8世の人生を考えるうえで最初にポイントになるのは、元々は次男だった、ということですね。後に離婚問題で揉めるキャサリンも、元々は兄・アーサーと結婚してイングランドまでやってきました。しかし、兄アーサーは婚儀の20週後に急死。しかし、ヘンリ7世はバラ戦争から間もないイングランド王家の安定のためにはスペインとの婚姻同盟は不可欠と考えたため、なんとキャサリンを弟のヘンリ8世と婚約させることで同盟を維持しようとしました。しかし、短期間とはいえキャサリンは既にアーサーと結婚した身。当時のカトリックでは、兄嫁との結婚は禁じられていたので、ヘンリ8世がキャサリンと結婚するのはアウトだったのですが、ヘンリ7世が無理をとおしてようやく教皇の許可を得た、という背景がありました。」
small5
「兄・アーサーが死んだ1502年時点で、ヘンリ8世は11歳になる年だ。結婚にはまだ早い年だよな。しかもその相手が政略結婚とはいえ元兄嫁なんだから、いきなり複雑な家庭環境に置かれたわけだな。ヘンリ8世は残酷無比な人物として知られるようになるが、その原因はこのような家庭環境にあったのかもしれないな。
1509年(この年ヘンリ8世18歳)に父・ヘンリ7世が死去するとイングランド王となり、元兄嫁のキャサリンと正式に結婚した。ここからヘンリ8世の統治が始まることになるぜ。」

男子が生まれなかったヘンリ8世とキャサリン

big5
「さて、上記のような経緯で結婚したヘンリ8世とキャサリンには6人の子供ができました。ただ、当時の医療レベルは低かったので、このうち成人したのは1516年に生まれたメアリ(後のメアリ1世)のみでした。これは、イングランド王家にとってはかなりピンチです。というのも、テューダー朝の直系の男子はヘンリ8世のみになってしまい、他は女子だけです。イギリス王位は女子でも継承は可能でしたが、王位継承の争乱を回避するためには男子の後継者が望ましい、とヘンリ8世は考えていました。」
small5
「このあたりの事情は、現代日本の皇室でも似たような問題を抱えているから、焦る気持ちは理解できるよな。ヘンリ8世のことを「好色なために6回も王妃を変えた」という人は多いが、それはあまり正しい評価ではない。王妃を変えたのは、正当な王位継承権を持つ男子を得るためが一番の理由だ。ちなみに、ヘンリ8世の愛人の一人であるエリザベス・ブラントは男子(ヘンリ・フィッツロイ)を産んでおり、ヘンリ8世も認知している。つまり、王位継承権は持たない庶子(私生児)だな。他にも愛人は多数いたようだが、認知された私生児はヘンリ・フィッツロイ一人だけだったようだ。」
big5
「そして時は流れ1527年(この年ヘンリ8世36歳、キャサリン40歳)。もうキャサリンとの間に子供は期待できないヘンリ8世は、キャサリンと離婚して若い王妃を迎えることを選びました。その相手は、キャサリンの侍女であるアン・ブーリン(Anne Boleyn 1527年で26歳)です。」

Anne boleynアン・ブーリン 制作者:不明 制作年:1584~1603年の間

small5
「この時点でアン・ブーリンは既にヘンリ8世の愛人となっていました。アン・ブーリンはイングランド貴族の娘なので、家柄は悪くありません。アン・ブーリンはこの時の状況を利用し、ヘンリ8世の愛人という地位でとどまるのではなく、王妃として迎えるようにヘンリ8世に伝えた、と言われている。事の真偽は俺にはわからないが、ありそうな話ではあるな。もちろん、これはアン・ブーリンの一存ではなく、ブーリン家がアンを利用して政治的に権力を伸ばそうとしていたことも当然あっただろう。」
big5
「ただ、ヘンリ8世とアン・ブーリンの策はすんなりとは進みませんでした。まず、現王妃のキャサリンはイングランド国民にけっこう人気があった。男子を産まなかった、という理由だけで離婚して追放する、というのはイングランド国民にとっては歓迎できる話ではなかったそうです。また、時の教皇クレメンス7世も、キッパリと拒否しています。元々、兄嫁と結婚するという特例を認められて結婚したのに、今度は男子の世継ぎを得るために離婚して若い女と結婚する、なんてのは手前勝手過ぎる話ですからね。さらに、時の神聖ローマ皇帝・カール5世はスペイン王も兼ねており、キャサリンはカール5世の母方の叔母にあたります。男子を産まなかったという理由で離婚・追放という厳しい仕打ちをしようとしているヘンリ8世の思い通りにはさせない、と教皇に働きかけました。」
small5
「この難しい外交交渉と担当したのが、ヘンリ8世の側近として重用されていたウルジー(1473年頃〜1530年)だ。」
big5
「ウルジーは1473年頃にイプスウィッチで肉屋の子として生まれたそうです。その後、ウルジーは聖職者となり、1507年(34歳?)にヘンリ7世の宮廷に入ったことで政治の世界に足を踏み入れました。ヘンリ8世の治世になってから、ウルジーの手腕が認められ1511年に枢密顧問官、1514年にヨーク大司教、1515年に枢機卿・大法官に任命されました。特に大法官に就任したことにより、ウルジーは王が公式の命令を出すすべての部門を掌握するようになり、ヘンリ8世の片腕として権力を集めて外交を行い、イングランドの国際的地位を高めることに成功しました。また、イングランド王の居住したハンプトン・コートや現代イギリスの政治の中心街であるホワイトホール(日本で言う霞が関)を造営したのはウルジーです。
ヘンリ8世はウルジ―に対して教皇を説得して、離婚を認めさせるように指示しましたが、さすがのウルジーも説得に失敗。理不尽なことに、反逆罪に問われて逮捕され、1530年11月29日、ヨークからロンドンに向かう途中、レスターにて病死しました(享年57?歳)。」
small5
「ここは、ヘンリ8世の残忍性が現れている部分だよな。ヘンリ8世が恐れられている理由の一つが、自分の期待に応えられなかった臣下(王妃含む)を反逆罪として処刑することだ。ヘンリ8世に反逆罪を問われて死去した人物は、これからも出てくるぜ。
ともあれ、ヘンリ8世は教皇に離婚を認めさせることはできなかった。それであれば仕方ない、ということで、イギリス教会をカトリックから独立させる、という思い切った手段にでることになったわけだな。」

アン・ブーリン

small5
「ヘンリ8世は教皇を説得するのではなく、イギリスの教会をカトリックから独立させることで、アン・ブーリンを正式に王妃として迎えることにしたわけだ。それが本編でも説明している1534年の国王至上法(首長法)だな。これにより、イギリスの全ての教会は教皇ではなく員ギリス国王をトップとすることに定めたわけだ。なお、首長法成立の前にアン・ブーリンに子供ができたため、ヘンリ8世は少し前の1533年に秘密裏にアン・ブーリンと結婚式を挙げ、の9月7日にアン・ブーリンは女の子を出産した。この女の子が、後のエリザベス1世となるわけだな。
big5
「この結果に対し、ヘンリ8世は落胆。その後、アン・ブーリンは妊娠するものの流産したりして男子を産むことはできませんでした。それに加え、アン・ブーリンは贅沢好きで浪費癖があったようで、次第にヘンリ8世の寵愛を失っていきました。その後、姦通罪などに問われて1536年5月19日にロンドン塔で処刑されました。ヘンリ8世との結婚から約2年後の悲しい結末となりました。」

修道院取り潰し

big5
「こうして、カトリックから離脱したイングランドのキリスト教は「アングリカン・チャーチ(Anglican Church 日本語訳は「イギリス国教会」)」と呼ばれ、独自の道を歩むことになりました。
ヘンリ8世の宗教改革は、単に教会組織のトップを教皇から国王に代えただけではありません。もっと実効性のある政策を強行しました。それが修道院の廃止と土地没収です。1536年、まずは小規模修道院解散法を制定し、年収200ポンド以下の小修道院は強引に解散させてその所領を没収しました。1539年には大修道院解散法を制定し、202の大修道院をこれまた強引に解散させ所領を没収しています。これらの政策はトマス・クロムウェル(後のピューリタン革命で活躍するクロムウェルの遠い親戚)が推進者となり、カトリック勢力を潰すと同時に、王室財政を改善することが目的とされたそうです。没収された修道院領の大部分は、新興勢力のジェントリ階級に売却され、これが後のイギリス富農経営の基礎となりました。」
small5
「これは内容的には土地の再配分だな。革命とかで実施される類の政策だ。教会が保有していた広大なと土地と収入源を回収して、それを国王自身や新興勢力に払い下げる、というのは通常ではまず実施できない政策だな。結果的に、修道院廃止と土地没収により、イギリスは中世の枠組みの一部を壊すことに成功し、近世・近代という新し時代へと発展するきっかけになった、と考えていいだろうな。」

エドワード6世とジェーン・グレイ

少年王と一般祈祷書

small5
「1547年1月28日、ヘンリ8世が56歳で病死した後、後継者となったのはヘンリ8世と3番目の王妃ジェーン・シーモアの間に生まれたエドワード6世だ。エドワード6世が生まれたのは1537年10月12日、ハンプトン宮殿にて。なので、1547年時点で満9歳だ。現代日本なら小学校3年生だな。」

Edward VI Scrots c1550エドワード6世 制作者:William Scrots 制作年:1550年

big5
「エドワード6世はまだ少年なので、当然自分で政治は行えません。そこで、母であるジェーン・シーモアの兄であるサマセット公が摂政として、ヘンリ8世の宗教改革路線を継承しました。治世の業績としては1549年に一般祈祷書を制定して、成立したばかりのイギリス国教会の教義や式典を決定しました。教義にはルターやカルヴァンなどが唱えたプロテスタントの教義も盛り込まれています。
ただ、エドワード6世は病弱だったため、1553年7月5日、グリニッジにて病死してしまいました。16歳になる年でした。」

後継者争いとジェーン・グレイの悲劇

small5
「若死にしたエドワード6世に子供はいなかったので、誰が王位を継ぐのかが問題になった。古今東西よくあるお家騒動だな。血筋から考えれば、ヘンリ8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの間に生まれたメアリ(エドワード6世の異母姉)が後継者なのだが、大きな問題があった。それは、メアリは熱心なカトリックだったことだ。また、ヘンリ8世の強引な離婚などを経験しているため、当然のようにメアリは父・ヘンリ8世は嫌いだった。そして、母と自分を日陰者にしたイギリス宗教改革なんてクソくらえだと思っていた。そんなメアリを王位につけたらたいへんなことになる、ということでエドワード6世の親戚にあたるジェーン・グレイ(1553年で16歳くらい)が女王に担ぎ上げられたんだ。」

Streathamladyjayneジェーン・グレイ 制作者:不明 制作年:1590年代

big5
「ジェーン・グレイが女王に即位したのは1553年7月10日でしたが、メアリ派が反撃に転じて状況は一変。7月19日にはメアリが「メアリ1世」として即位を宣言し、ジェーン・グレイとその支持者らは捕えられてしまいました。その後、ジェーン・グレイはロンドン塔に幽閉され、大逆罪で1554年2月12日に斬首刑にされてしまいました。
担ぎ上げられただけのジェーン・グレイが処刑に至った理由はいろいろあるようですが、担ぎ上げられた以上、失敗したらタダでは済まされないでしょう。実際、ジェーン・グレイが処刑された1554年2月には、スペイン嫌いの貴族・トマス・ワイアット(Sir Thomas Wyatt 1521~1554年)が反乱を起こしています(トマス・ワイアットの乱)。ジェーン・グレイは権力闘争の悲しい犠牲者の一人と言えますね。」

メアリ1世のカトリック反動政策

メアリ1世の治世

small5
「即位したメアリ1世は、トマス・ワイアットの乱を鎮圧すると、早速カトリック復帰政策を進めていくことになった。」

Maria Tudor1メアリ1世 制作者:Antonis Mor  制作年:1554年

big5
「メアリ1世は1553年時点で37歳独身。ヘンリ8世によって母のキャサリン・オブ・アラゴンは離婚・追放され、メアリ1世も厳しい環境に置かれていました。今こそ母の名誉を回復し、プロテスタントに反撃の鉄槌をくらわせる時だ、と考えたことでしょう。
そんなメアリ1世が最初に進めたカトリック復帰政策が1554年のスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世当時27歳)との結婚でした。スペインは狂信的とも言っていいほどのカトリック大国で、フェリペ2世自身も強烈な信仰心を持ち、プロテスタントに対して尋常ではない敵意を持ち続けた人物です。メアリ1世にとっては、うってつけの相手と言えるでしょう。メアリ1世は議会の反対を押し切ってフェリペとの結婚を決定しました。
スペインからの支援の道をつけた後、メアリー1世はR・ポール枢機卿を登用し、カトリック聖職者の復帰と修道院の再建を図りました。これらの政策には反対者が多かったのですが、さらに異端処罰法を復活させて、高名な聖職者を含めた300名ほどの人々を火刑に処すなどしたため、"Bloody Mary(日本語訳は「血のメアリー」「血みどろメアリー」)"と呼ばれ恐れられました。
しかし、メアリー1世の治世は間もなく終わりを告げます。フェリペと結婚したことにより、イングランドはスペインの(ハプスブルク家の)ライバルであるフランス王家と敵対することになりましたが、フランスとの戦争に敗北。大陸最後の拠点であったカレーを失い、1558年11月17日、ロンドンにて失意のうちに死去し、4年ほどの治世に幕を閉じました。」

エリザベス1世の統一法

統一法

Elizabeth1Englandエリザベス1世  制作年:1585年頃?

small5
「1558年にメアリ1世の死後、後継者となったのが有名なエリザベス1世(Elizabeth 1538~1603年 1558年時点で20歳)だ。エリザベス1世は生涯結婚せず独身を貫いたので「バージンクイーン(処女王)」というあだ名も有名だ。」
big5
「即位したエリザベス1世は、基本的に父であるヘンリ8世の方針を受け継ぐことを発表し、宗教面では再びイギリス国教会の整備を進めていきました。年が明けて1559年、統一法を制定。国王をイギリス国教会の「唯一最高の首長」から「唯一最高の統治者」という表現に変え、メアリー1世が廃止した信仰統一法を再制定しました。これにより、イギリス国教会は体制を確立し、イングランドの宗教改革はここでいったん閉幕となります。
なお、イギリスの歴史の中で重要なことは、これら宗教に関する法律が議会の承認を経て成立したことです。「議会の立法権はどの範囲にまで及ぶのか」という政治体制上の問題に、一つの答えを示す結果となりました。イギリスは、早い時期から議会の権力が他国よりも強いという特徴がありましたが、一連の宗教改革騒動の中で、その影響力をさらに高めた、と評価されています。そのため、この出来事はイギリス議会史において、現在でも重要な出来事の一つと考えられているそうです。

なお、エリザベス1世の治世はまだまだ続き、むしろこれからが彼女の治世の本番なのですが、それはまた別の機会に。」

広がる世界・変わる世界 目次へ戻る

この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。



参考文献・Web site