Last update:2023,JUN,10

世界大戦と平和への試み

インド独立運動の始まり

big5
「今回のテーマは第一次大戦頃から始まったインド独立運動です。」
名もなきOL
「インド独立運動といえば、やっぱりガンジーさんですよね。」

Portrait Gandhi ガンジー 撮影年:1930代後半 撮影者:不明

big5
「そうですね。独立運動を指導した一人としてたいへん有名ですし、インド独立の父と称えられていますからね。ガンジーはもちろん重要なのですが、インドの独立運動はガンジーだけではなく、政治的な問題や宗教問題を抱えた、もっと複雑で難しい問題であった、ということも重要です。今回は、その難しい点にも着目して話を進めていきたいと思います。
それでは、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」

年月 インドのイベント 他地方のイベント
1905年 ベンガル分割令が発表される
1906年 全インド=ムスリム連盟が結成される
国民会議派はカルカッタ大会を開催
1911年 ベンガル分割令取り消し
1914年 ガンジーがイギリスへの協力声明を発表 第一次世界大戦 勃発
1915年 インド国防法
1916年 国民会議派が自治を要求 ラクナウ協定
1919年 ローラット法
アムリットサル事件
ガンジーが第一次非暴力・不服従運動開始
パリ講和会議
1925年 労働者農民党(インド共産党)成立
1929年 ラホール大会で完全独立(プールナ=スワラージ)を決議 世界恐慌 始まる
1930年 ガンジー、塩の行進 第二次非暴力・不服従運動 始まる

ベンガル分割令

big5
「1905年、イギリスから派遣されているインド総督が、インド東部のベンガル地方を東と西に分割する、と発表しました。これが、インド独立運動に火が付くきっかけになったんです。」
名もなきOL
「??ベンガル地方を東と西に分割することが、どうしてインドの独立運動にまで発展したんですか?」
big5
「ベンガル分割の表向きの理由は、人口が多くなってきたので、適切な数で分けて行政効率を上げる、ということでした。しかし、ベンガル分割令の真の狙いが、イスラム教徒が多く住む東ベンガルと、ヒンドゥー教徒が多く住む西ベンガルを分断して、反英闘争に亀裂を入れることにある、と考えられたからでした。古代ローマの教えにある「分割して統治せよ」の原則ですね。」
名もなきOL
「なるほど、「宗教の違い」を明確にすることで被支配階級であるインド人を団結させないようにしたんですね。さすがにイギリスは植民地支配に手慣れていますね。」
big5
「実際に、後の時代に東ベンガルはバングラデシュとして独立していますからね。宗教の違いが国の違いになる、という一つの法則を示していると思います。
しかしイギリスの目論見に反して、知識階級のインド人で構成される国民会議派はベンガル分割令に断固反対。反英闘争に火がついてしまいます。国民会議派の中でも、急進的な派閥は1906年にカルカッタで大会を開き、12月16日、以下の4つの綱領を採択しました。
@英貨排斥(ボイコット):外国製品、特にイギリス製綿布を買うのを止めること。インド農村の家内工業を破綻させた原因なので。
Aスワデージ:国産品を愛用すること。
Bスワラージ:スワは「自己」、ラージは「自治」。自治権獲得を要求。ただし、自治のあり方については後に穏健派と過激派が対立。
C民族教育:英語教育を否定し、インド固有の言語・文化・宗教(ヒンドゥー教)に基づく教育を求める。
4つの事項が求めていることは、一言でいえば自治権獲得の要求です。これまで、インドはイギリス製品の市場としての役割を課せられていましたが、そのような状況の打開を求めて動き始めたわけですね。」
名もなきOL
「分割統治を狙ったベンガル分割令は、かえってインド人の反英・自治権要求運動を焚きつけてしまったんですね。」
big5
「しかし、イギリスは手をこまねいていたわけではありません。国民会議派がカルカッタ大会を開いていた1906年12月、インド総督がムスリム(イスラム教徒)らに対して選挙を認める代わりに、イギリスへの協力を約束させた政治団体・全インド・ムスリム連盟を発足させました。」
名もなきOL
「宗教の違いをここでも利用したわけですね。」
big5
「こうして、ベンガル分割令発表を発端としてインドの自治権獲得運動が始まったものの、イギリスがムスリムを懐柔したことで運動の勢いは衰えていきました。ただ、ベンガル分割令も1911年に撤廃されました。インドの独立運動は次の段階を迎えます。」

第一次世界大戦

big5
「ベンガル分割令から始まった騒動の後、1914年から第一次世界大戦が始まりました。多くのインド人が徴兵に応じて戦争へ参加することになりました。この時はまだあまり有名ではありませんでしたが、のちにインド独立の父と称えられるガンジーも、戦争への協力を表明しています。」
名もなきOL
「インド自体は直接関係ないのに、イギリスの戦争に参加しなければならなかったんですね。外国に支配されることの、厳しい現実を示す話だと思います。」
big5
「当然、インド人の士気はあまり上がりませんでした。しかも、イスラム教国であるオスマン帝国が同盟国側で参戦しイギリスと戦うことになると、親英的組織だった全インド・ムスリム連盟も態度を変えます。全インド・ムスリム連盟のリーダー格だったジンナーは1916年に国民会議派と提携してイギリスに自治権要求運動を始めました。(ラクナウ協定)」
名もなきOL
「第一次世界大戦が、再びインドの自治権要求運動に火をつけることになったんですね。」
big5
「これに対し、インド担当相のモンタギューは1917年に、戦後の自治を約束し、さらには独立も認める、と取れる宣言を出しました。ただ、これはあくまで「そうとも取れる」曖昧さを残した表現で、決して明確に独立を約束したものではありませんでした。しかし、多くのインド人はモンタギューの宣言を「イギリスが戦後のインド独立を約束した」と受け取り、第一次世界大戦に協力するようにりました。」
名もなきOL
「曖昧な表現で相手をその気にさせる、って悪者がよく使う謀略みたいな印象があります。国際政治って本当に弱肉強食ですね。」

1919年 ガンジーの第一次非暴力・不服従運動

big5
「パリ講和会議が始まり第一次世界大戦が終結に向かっていた頃、1919年3月にインドではローラット法と呼ばれる新たな治安維持法を施行されました。ローラット法は、インド総督に対して逮捕状無しでも逮捕できる権限、裁判なしで投獄できる権限を与える、という内容です。これはつまり、イギリスに対して反抗的なインド人は、インド総督の一存で逮捕⇒刑務所という強硬手段が合法化される、というものでした。」
名もなきOL
「ついこないだまで、戦後の自治を約束すると言っておきながら、それに逆行する法律を堂々と成立させるなんて、ヒドイです。インド人はきっと怒り心頭だったんでしょうね。」
big5
「はい、多くのインド人がローラット法に反対し、抗議集会も頻繁に開催されるようになりました。ここでインド独立運動の主役・ガンジー(マハトマ・ガンジー)の登場です。
1919年4月6日(この年ガンジー50歳)、ガンジーはインド全国にボイコット(休業)を呼びかけ、断食など非暴力的な行動で抗議するように提唱しました。これが有名なガンジーの非暴力・不服従運動の始まりです。特に、1919年に始まった最初の運動は第一次非暴力・不服従運動と呼ぶこともあります。
とは言ってももちろん、多種多様なインド人がガンジーの元で一枚岩になっていたわけではありません。中には教会を襲撃するなどの暴動に至るものもあり、緊張は一気に高まりました。そんな中、4月13日にインド北西部のパンジャーブ地方にあるアムリットサルという都市でローラット法に反対する集会が開かれました。この集会は決して暴力的なものではなく、女性や子供も参加していた集会だったそうです。しかし、イギリス軍が集会参加者に発砲し、逃げる人々にも容赦なく追い打ちをかけたことで1500人近い人命が失われる、という大惨事となりました。この事件はアムリットサル事件と呼ばれています。」

Detail of Mural Depicting 1919 Amritsar Massacre - Jallianwala Bagh - Amritsar - Punjab - India (12675536215)アムリットサル事件を描いた絵

名もなきOL
「平和的な集会を武力で鎮圧するなんて、本当にやっていることが古代とか中世の暴君と同じですね。ひどすぎます。」
big5
「アムリットサル事件によって、インド人のイギリスに対する信頼感は大きく削がれたことは間違いありません。反英運動はますます盛んになっていきます。これに対してイギリスが取った手段は、抑圧と懐柔の両面作戦でした。まず抑圧側の方ですが、ガンジーなどの指導者らを何かしらの理由を見つけて逮捕して刑務所に入れたりしています。懐柔の方は、1919年12月に新しいインド統治法を発表しました。インドの政治は「中央政府」と「州政庁」に分けられ、どちらにもインド人の議員が参加することができるというものです。しかし、中央政府ではインド総督が強い権限を持っていたために「自治」は認められず、「州政庁」で行われる地方政治のみに「自治」が認められる、という内容でした。
簡単に言うと、地方政治だけ自治を認めるにとどめ、インドは引き続きイギリスの支配下に置かれる、というものですね。このようなイギリスの対策の結果、1922年にはアムリットサル事件の引き金となったローラット法も廃止となり、1920年代はなんとか平穏を保つことができました。」

ネルーの独立運動とガンジーの第二次非暴力・不服従運動(塩の行進)

big5
「再び事態が動き始めたのは1929年、世界恐慌の年ですね。この年の暮れに、国民会議派の議長であったネルー(Nehru この年40歳)がインドのプールナ・スワラージ(完全独立)を求めました。」

Jnehruネルー 撮影日:1947年

名もなきOL
「そういえば、ネルーさんもわりと有名ですよね。学生時代はガンジーと寝る(ネルー)で覚えろ、って歴史の先生が言っていましたね。」
big5
「それはインド独立の指導者を覚えるゴロ合わせですね。上手いゴロ合わせだと思います。
世界中で有名なガンジーに比べると、ネルーは知名度で劣っていますが、独立したインドの初代首相に就任したのはネルーです。ネルーの娘のインディラ・ガンジーもインド首相を経験していますので、ネルーもたいへん重要人物ですね。ネルーが提唱したプールナ・スワラージ(完全独立)は大きな波紋を投げかけました。国民会議派の中でも、急進派はネルーの提唱に賛同しましたが、穏健派の目標はあくまで「自治」に留まり、独立ではなかったんです。また、ムスリム(イスラム教徒)はヒンドゥー教徒が多い国民会議派の主導で物事が進められることを嫌い、独立するならムスリムを分離する体制を目標としていました。このように、被支配者側であるインド民衆も目標の違いで分裂していたわけですね。」
名もなきOL
フランス革命の時も、穏健派と急進派、あと王党派とかがいて、すごい争いになっていた(フランス革命 前編)ことを思い出しますね。」
big5
「ここでガンジーが再登場します。ガンジーが目指したのは、ヒンドゥー教徒もイスラム教徒も共に手を携えてイギリスから独立することでした。1930年(この年ガンジー61歳)、ガンジーは行動に出ます。当時、インドでは生活必需品である塩はイギリスの専売となっており、インド人が勝手に塩を作ることは違法行為となっていました。もちろん、イギリスが販売する塩には税金がかかっています。つまり、インド人は塩を買うことで自分たちを支配するイギリスに多大な献金をする、という仕組みになっていたわけですね。ガンジーはこれに着目し、イギリスが売る塩を買うのではなく、自分で作るということを考えます。当然、イギリスからは弾圧されますが、これに対して絶対に反撃しない、という姿勢を徹底します。そして、世界各国の新聞記者に自分たちの行動を取材・報道させる、という作戦を考えました。反撃しないことは「非暴力」、そして法を犯して自分たちで塩を作るのは「不服従」です。これを合わせたのが有名な「非暴力・不服従運動」ですね。」
名もなきOL
「なるほど、イギリスの言うことは聞かないけど、武力革命も起こさない、ということですね。」
big5
「はい、そしてガンジーは厳選された弟子たちと新聞記者らを率いて、塩を作るために海岸まで歩いていきました。これが有名な塩の行進です。ガンジーらが行く道には、かの有名なガンジーを一目見ようと多くの人々が集まりました。海岸に着いたガンジー一行は禁止されている製塩作業を開始し、実際に塩を作りました。これを機に、インドの海岸の至る所で塩を作り、さらにそれを販売する人々が続出しました。一部では、イギリスの官憲たちによって棍棒で殴られ、死傷者も出たにもかかわらず、一切反撃しない「非暴力」を徹底。この構図は、貧しいインド人らをイギリスの官憲らが棍棒で叩きのめす、という「極悪非道のイギリス支配」ということで新聞記者らは世界中に報道しました。このわかりやすい、イギリスの非情な統治の実態は国際社会から非難を浴びることになり、イギリスはガンジーらに譲歩せざるを得なくなりました。」

Marche sel塩の行進中のガンジー(中央) 撮影日:1930年

名もなきOL
「なるほど、正面からイギリスと武力衝突するのではなく、イギリスの不法と非道徳ぶりを世界に示す、という作戦だったんですね。これまでの歴史にはあまり出てこない、静かでも力強くて辛い一種の革命みたいですね。」
big5
「その通りですね。これは、民主政治が広まり、報道機関が発展して「国際世論」というものが登場したからこそ、効果を上げた独立運動だったと言えるでしょう。古代や中世で同じことをやっても、周囲に与える影響はかなり小さかったと思います。
ともあれ、ガンジーは塩の行進によってイギリスから譲歩を引き出すことに成功し、両者の間では話し合いが行われることになりました。しかし、この後1930年代の世界は国際協調から第二次世界大戦へと流れていき、インドの独立は第二次大戦後まで待つことになりました。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、インドの独立運動のネタはたまに出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

令和3年度 世界史B 問題27 選択肢Z
・ムスリムと仏教徒を対立させるため、ベンガル分割令を発布した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ベンガル分割令はムスリム(イスラム教徒)とヒンドゥー教徒を対立させる狙いでした。仏教徒はほぼ関係ありません。




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