Last update:2024,JAN,13

中世の始まり

イスラム勢力の誕生

導入

big5
「今回のテーマはイスラム勢力の誕生です。ヨーロッパ方面でゲルマン人の大移動が落ち着いた頃、中東方面で大きな変化が起こりました。イスラム教の誕生です。ムハンマド(昔はフランス語由来の「マホメット」と呼ばれていた。)によって開かれたイスラム教は、瞬く間にアラビア半島を席巻し、↓下図のような古代のアレクサンドロスの大帝国にも匹敵する巨大な勢力圏に成長しました。」



名もなきOL
「かなり広いですね!ローマ帝国の南半分と西半分に、インドの近くまで広がっていますね!こんなに広かったなんて、ちょっと意外です。」
big5
「キリスト教世界中心の西洋史をメインに据えると、イスラム圏やアジア・アフリカ圏の歴史から縁遠くなりがちなのですが、世界全体から見ればヨーロッパも一方面に過ぎません。今回はアラビア半島から始まったイスラム教を通して、イラン・中東・そしてアフリカ北岸の歴史を見ていきます。
というわけで、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」

年月 イスラム圏のイベント 他地方のイベント
570年頃 ムハンマド誕生
610年 ムハンマドが神の啓示を受け、預言者として活動開始
622年 ムハンマドがメッカからメディナへ移る(聖遷)
630年 ムハンマドがメッカを攻略
632年 ムハンマド死去 アブー・バクルがカリフとなる(正統カリフ時代)
637年 アラブ軍がイラクを征服
638年 アラブ軍がエルサレムを征服
640年 アラブ軍がシリアの大部分を征服
642年 ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破る
651年 ササン朝ペルシア滅亡
661年 ムアーウィヤがカリフとなる(ウマイヤ朝の始まり)
711年 イベリア半島に攻め込み、西ゴート王国を滅ぼす
726年 ビザンツ帝国:聖像禁止令
732年 トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗退
750年 アブー・アルアッバースがウマイヤ朝を打倒(アッバース朝の始まり)
751年 タラス河畔の戦いで唐の軍を破る
756年 イベリア半島に後ウマイヤ朝成立 フランク:ピピンの寄進
762年 アッバース朝が新都バグダード建設
786年 ハールーン・アッラシードがカリフとなり、全盛期を迎える

ムハンマドのイスラム教創始 570頃〜632年

big5
「さて、冒頭でも述べたようにムハンマドによってイスラム教が創始されたのですが、まずはその背景にあるものについて簡単に説明しておきます。」
名もなきOL
「何かポイントがあるんですね。よろしくお願いします。」
big5
「この頃、ビザンツ帝国(東ローマ帝国のこと。中世以降は、ビザンツ帝国と呼ばれるようになる)とササン朝ペルシアの抗争が激しくなっており、メソポタミア方面経由の貿易は滞りがちでした。その代わりとして、アラビア半島経由のルートがよくつかわれるようになって、貿易で繁栄していました。ムハンマドが生まれたメッカ(Mecca 最近はアラビア語の発音に近い「マッカ」と表記することもある)も、アラビア半島経由の貿易でたいへん賑わっていたそうです。
しかし、繁栄と同時に貧富の差が拡大し、かつての部族社会の習慣であった相互扶助の精神は廃れていきました。そんな中、570年頃にムハンマドがメッカで誕生しました。ムハンマドはメッカの街を支配するクライシュ族のうち、ハーシム家の出身でした。しかし、幼い頃に両親を失っており、若い頃は隊商貿易に自ら従事していたそうです。酒も賭博もやらなかったムハンマドは周囲から「正直者」と呼ばれていました。そんなムハンマドに転機が訪れます。25歳の時、富豪の未亡人であったハディージャ(40歳)と結婚し、裕福な生活を送るようになったんです。」
名もなきOL
「いわゆる逆玉ですね。でも、ここまでの話の流れだと、イスラム教を生み出すかんじがしないですね。」
big5
「610年、ムハンマド40歳くらいの頃、メッカに広がる道徳的退廃を憂いて山で瞑想していた時、神の啓示を受けたんです。ムハンマドは自らを「神の預言者」と考え、布教を始めました。」
名もなきOL
「けっこう唐突なかんじで宗教に目覚めたんですね。でも、貿易商人でお金持ち年上奥さんと一緒に裕福に過ごしていた人が突然宗教に目覚める、というのはけっこうおもしろい話ですね。」
big5
「そうですね。そういうムハンマド自身の経歴が、イスラム教の特徴に影響を与えているんです。これについては、また後で説明します。
布教を開始したムハンマドでしたが、なかなか広まりませんでした。当時、メッカで主流だったのは多神教で、様々な神々の像を作ってはそれを崇拝していました。イスラム教の特徴の一つは一神教で、偶像崇拝を徹底して否定することです。OLさんはイスラム教の神様の名前は知っていますか?」
名もなきOL
アッラーですよね?」
big5
「正解です。神はアッラーのみ、なんですね。さらに、偶像崇拝も否定していますので、神の像を作ってそれを拝む、なんてのは到底許されない行為でした。メッカの多神教は、ムハンマドが完全否定する宗教だったわけですね。」
名もなきOL
「そうだったんですね。でも、そうなるとムハンマドは厳しく弾圧されたんじゃないですか?」
big5
「はい、弾圧されました。なので、622年にメッカを捨てて、北方の街・メディナに移りました。これを聖遷、あるいはアラビア語の音訳でヒジュラと言います。ちなみに、イスラム教徒のカレンダーはイスラム暦ですが、この聖遷の622年がイスラム暦元年となっています。
その後、メッカとたびたび戦った結果、630年についにメッカを攻略。メッカの中心であるカーバ神殿に入って、多神教の神々を象った像を徹底的に破壊し、正しい一神教であるイスラム教による新たな国家の樹立を高らかに宣言しました。」
名もなきOL
「凄い劇的な変化ですね。610年に神の啓示を受けてから、紆余曲折を経て20年後に勝ってメッカを支配したんですね。」
big5
「ムハンマドの下で宗教的に統一された集団の勢いは強く、ムハンマドはアラビア半島の他の都市も攻略し、たちまちアラビア半島を統一してしまいました。それから間もない632年、ムハンマドは死去します。」

正統カリフ時代 632〜661年

big5
「ムハンマドが死んだ後も、イスラム教勢力の勢いは全く衰えませんでした。ムハンマドの後継者はカリフと呼ばれます。最初にカリフに選ばれたのは、ムハンマドの義理の父、つまりムハンマドの妻の父であるアブー・バクルでした。アブー・バクルを初代とし、第4代カリフのアリーが死ぬまでの約30年間を正統カリフ時代と言います。正統カリフ時代、特に2代目のウマルの時に、イスラム教勢力は飛躍的に領土を広げ、中東方面の最強国家にのし上がっています。」
名もなきOL
「さっき「カリフに選ばれた」と言われましたけど、カリフは世襲ではなくて選挙で選ばれたんですか?」
big5
「はい、そのとおりです。ムハンマドには男の子がいなかったため、後継者となる男子がいなかったんですね。そこで、近親者や有力者が集まって議論を行い、結果的にアブー・バクルが選ばれました。第4代カリフのアリーまでの歴代カリフについて、簡単に紹介しておきましょう。
初代:アブー・バクル(632~634年)娘のアイーシャがムハンマドの妻の一人なので、ムハンマドの義父にあたる。 3代:ウスマーン(644~656年)ウマイヤ家出身。クルアーン(昔はコーランと呼ばれていた、イスラム教の経典)の朗読に長けていた。
4代:アリー(656~661年)ムハンマドの従兄弟かつムハンマドの娘・ファーティマの夫なので娘婿。カリフ継承の際に毎回候補者となっていたが、当選できたのは第4代になってからだった。
正統カリフ時代、特に第2代のウマルの時に、イスラム教国家は大幅に領土を拡大しました。637年にはイラクを征服し、638年にはエルサレムを征服。640年にはシリアの大部分を支配下におさめ、642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシア軍に勝利しています。この敗北の影響もあり、ササン朝ペルシアは651年に滅亡しました。」
名もなきOL
「本当にすごい勢いですね。しかも、ササン朝ペルシアとか、古くからある大国を破っているのが凄いですね。」
big5
「まさに、破竹の勢いの新興勢力だったのでしょう。しかし、領土拡大と共に内部対立も激しくなりました。小勢力の時は一致団結していても、大勢力になって人が増えると派閥ができて、派閥対立が始まる、というのは古今東西共通の原理だと思います。第3代ウスマーンはなんと不満分子に殺害される、という最期を遂げています。ウスマーンの死後、誰がカリフを継ぐのか揉めに揉め、ムハンマドの娘婿のアリーが選ばれたのですが、ウマイヤ家のシリア総督・ムアーウィヤは「自分こそがカリフに相応しい」と言って、すぐにアリーと争いを始めました。二人の争いは、661年にアリーが暗殺されたことで幕を閉じます。」
名もなきOL
「暗殺?ムアーウィヤの差し金ですか?」
big5
「いえ、ハワーリジュ派と呼ばれる一派です。ハワーリジュ派は、アリーを正統なカリフとみなし、ムアーウィヤは反逆者と考えていたのですが、アリーがムアーウィヤとの戦いの末に和睦したことに腹を立て、アリーもムアーウィヤも正統なカリフではない、として二人の暗殺を企てました。結果、アリーは暗殺されましたがムアーウィヤの暗殺には失敗。ムアーウィヤが単独のカリフとなったんです。
こうして、正統カリフの時代は終わり、以後はウマイヤ家がカリフを世襲していくウマイヤ朝と呼ばれるようになります。」
名もなきOL
「なんだか最後は凄い終わり方だったんですね。カリフ位をめぐって争いが起きたなら、信者たちも二分されて争うことになったんでしょうね。」
big5
「はい、そうなりました。スンナ派シーア派に分かれました。「スンナ」とは「預言者ムハンマドの言行」のことで、これに従う人々のことがスンナ派です。現代のイスラム教徒の約90%はスンナ派ですね。スンナ派は、「預言者ムハンマドの言行」こそ信条なので、カリフが誰であるかについては二の次の話になるようで、ムアーウィヤも正統なカリフであると認めていました。対するシーア派の「シーア」とは「シーア・アリー(アリーの党派)」の略で、正統なカリフはアリーとその子孫のみ、と考える人々です。ちなみに、現代のイランの国教はシーア派です。」
名もなきOL
「仏教やキリスト教に様々な宗派があるように、イスラム教にも様々な宗派があるんですね。同じイスラム教国なのに、イランだけ毛色が違うのはそういう背景があるからなんですね。」

ウマイヤ朝 661~750年

big5
ウマイヤ朝になりカリフが世襲されるようになったことで、これまで「宗教国家」だったイスラム教が、世俗国家のようになりました。ウマイヤ朝の歴史は約90年と短めですが、その間に二つの重要な歴史イベントが発生しています。
最初の重要イベントは、711年にイベリア半島に侵入して西ゴート王国を滅ぼしたこと、です。ウマイヤ朝の領土はアフリカ北岸を西に拡大していき、西の果ての現在のモロッコまで至り、さらにジブラルタル海峡を越えてイベリア半島にまで至りました。ゲルマン民族大移動の初期に動き始め、イベリア半島まで移動して建国した西ゴート族でしたが、約300年の歴史はイスラム教徒の軍勢によって滅ぼされたわけです。」
名もなきOL
「今でも、アルハンブラ宮殿とかのイスラム文化の名残がスペインに残っているのは、このためなんですね。」
big5
「そうなんです。この時から、レコンキスタが完了する1492年(参考:大航海時代)までのおよそ700年くらい、イベリア半島の大部分はイスラム教の勢力圏だったので、その影響が様々なところに残っています。アルハンブラ宮殿はその一つですね。
2番目に重要なのが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラム勢力がフランク王国のカール・マルテルに敗退したこと、です。このように覚えておきましょう。
<732年 トゥール・ポワティエ間の戦い>
波に(732)飲まれたイスラム軍 トゥール・ポワティエ間の戦いで敗退

名もなきOL
「トゥール・ポワティエ間の戦い、って名前がけっこう長くて変わってますよね。どんな戦いだったんですか?」
big5
「トゥールもポワティエも、フランスの街の名前ですね。戦闘がちょうどトゥールとポワティエの間で起こったので、こんな名前になっています。ちなみに英語では"Battle of Tours"と、トゥールのみが名称に使われています。」

Bataille de Poitiers
19世紀に描かれたトゥール・ポワティエ間の戦い 制作者:Charles de Steuben

big5
「イベリア半島を勢力下に置いたイスラム勢力は、さらに進んで現在のフランス方面にまで侵攻しました。これに対し、フランク王国の宮宰であるカール・マルテルが軍勢を率いて迎撃し、破ったのがトゥール・ポワティエ間の戦いです。キリスト教圏にとって、トゥール・ポワティエ間の戦いの勝利は、「異教徒の侵攻からキリスト教圏を守った偉大な勝利」、と評価されることが多いです。実際、拡大し続けていたイスラム勢力のヨーロッパ侵攻はここで止まったので、そんなに過大な評価とも言えないですね。一方、イスラム勢力側にとっては数ある敗戦の一つ、くらいにしか評価されていません。」
名もなきOL
立場によって見え方は変わる、ということですね。」
big5
「この他にも、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都・コンスタンティノープルまで遠征して2回包囲戦を行うものの失敗に終わっているなど、ウマイヤ朝時代の軍事イベントはあるのですが、本編では省略します。
それよりも重要なのは、ウマイヤ朝時代のイスラム勢力の性質を表す用語であるアラブ帝国についての理解です。
<重要歴史用語>
アラブ帝国:一言でいえば「アラブ人第一主義」。アラブ人戦士らは免税特権が与えられた一方で、被征服民はイスラム教に改宗しても人頭税(ジズヤ)を課せられ続けた。

上述のように、イスラム教は急激に領土を拡大することに成功しました。古代のローマのように、イスラム教徒も重要拠点には軍営都市(ミスル)を作ってアラブ人戦士を入植させ、土地などを与えてそこを拠点としました。入植したアラブ人戦士らには免税特権も与えられていました。一方で、被征服民はイスラム教への改宗が推奨されます。改宗した人はマワーリーと呼ばれ、改宗しなかった人はズィンミーと呼ばれました。」
名もなきOL
「改宗したら何かメリットがあったんですか?」
big5
「それが、あまり無かったんです。改宗してマワーリーとなっても、ズィンミーと同じく人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を支払う義務が課せられました。ウマイヤ朝はアラブ人による国家であり、被征服民はイスラム教に改宗しても被差別階級のままだったんですね。当然、このような不公平な仕組みは反発を生むことになり、ウマイヤ朝が短命で終わる一因になっています。」
名もなきOL
「なるほど。それは当然ですね。でも、イスラム国家をここまで強大にしたのはアラブ人達ですから、彼らをないがしろにするわけにもいかないですよね。難しいな・・・」
big5
「もう一つ、ウマイヤ朝時代のポイントとして重要なのが「アラビア語の公用化と貨幣経済の発展」です。まず、ウマイヤ朝第5代カリフのアブド・アルマリク(在位685~705年)の治世で、アラビア語が公用語化されました。というのも、イスラム教の経典であるクルアーン(昔は英語由来の「コーラン」という用語が使われていた)は、アラビア語のまま理解すべきで他の言語に翻訳するべきではない、という方針をとっていたため、アラビア語がわからないとクルアーンを自分で読むことができなかったんです。」
名もなきOL
「それってけっこう厳しいハンディですよね。私だったら絶対無理だろうな・・・」
big5
「また、貨幣経済の導入も、他の地域に比べてかなり早く、イスラム勢力の特徴になっています。ディーナール金貨とディルハム銀貨という、金貨と銀貨の2つを発行し、広く流通していました。アラブ人戦士には俸給(アタ―)が支払われたのですが、これは貨幣で支払われていたんです。現代人から見れば当たり前ですが、当時としてはかなり先進的なシステムでした。」

Gold dinar of Abd al-Malik 697-98
ヒジュラ暦78年(西暦697/8年)にダマスカスで鋳造されたディーナール金貨

名もなきOL
「現代の私たちから見ると、イスラム教って古い習慣とかが多くて時代遅れな印象がありますが、当時はかなり革新的な面もあったんですね。」
big5
「そうですね。キリスト教や仏教とはだいぶ違うところが多いですね。大きな違いの一つに、「商業を蔑視しなかった」という点があります。キリスト教では商業や商人は蔑視の対象でした。利益追求の卑しい行為とみなされていたわけです。」
名もなきOL
「日本でも、江戸時代の士農工商とかで、一番下に置かれていましたね。」
big5
「しかし、イスラム教ではそのような思想はありません。元々、教祖であるムハンマドは商人ですし、メッカは交易で栄えた街ですし、商業を否定するような教義を残すことはしなかった、というのが理由の一つです。先に述べた貨幣制度が早くから浸透したのも、そういう背景があったからだ、と考えられています。
また、イスラム教が広い地域に広まった理由の一つとして、イスラム教徒商人(ムスリム)の活躍が挙げられます。陸路ではラクダを使い(ラクダは200kgの荷物でも運搬可能な力強い動物!)、砂漠を超えるためには部隊を組んで(「隊商」という)、隊商が休憩・宿泊できる施設・キャラバンサライが整備されました。海路ではダウ船という小さな帆船を使ってアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国南部まで足を延ばしました。早い時代から広い範囲で活動していたのがムスリム商人の特徴の一つですね。」

Boutre indien
ダウ船

アッバース朝 750~1258年

big5
「さて、本編最後となるのは、750年にウマイヤ朝に取って代わったアッバース朝です。アッバース朝を樹立したのはアブー・アルアッバース(在位750~754年)です。彼がウマイヤ朝を倒してアッバース朝を樹立した一番の要因は、ウマイヤ朝のところで述べたとおり「アラブ帝国」体質でした。」
名もなきOL
「アラブ人第一主義で、被征服民はイスラム教に改宗しても(マワーリーになっても)、人頭税(ジズヤ)とハラージュを課せられ続けた、という不平等な取り扱いですよね。彼らの不満を利用したんですね。」
big5
「はい、それに加えてシーア派の力も利用しました。アブー・アルアッバースは預言者ムハンマドの親戚にあたるアッバース家の出身で名門なのですが、このような不満分子の力を結集してウマイヤ朝を打倒しました。クーデターといってもいいです。そのため、この王朝交代はアッバース革命とも呼ばれます。」
名もなきOL
「革命は成功したわけですね。アッバース朝になってからは、「アラブ帝国」体質は改善されたんですか?」
big5
「はい、改善されました。イスラム教徒(ムスリム)になれば、税金面での扱いは平等になりました。人頭税(ジズヤ)を払うのは改宗しないズィンミーだけとなり、地租(ハラージュ)は土地持ち全員に課せられました。この支配体制は「アラブ帝国」に対比して「イスラム帝国」と呼ばれます。」

<重要歴史用語>
イスラム帝国:基本的にムスリムであれば扱いは平等。イスラム教に改宗しないズィンミーにだけ、人頭税(ジズヤ)を課せられた。」

big5
「また、カリフの扱いも変わりました。これまでは「預言者ムハンマドの代理人」という扱いだったのですが「神の代理人」と考えられるようになりました。「カリフの神格化」とも言われています。このように、アッバース朝以降、カリフは政治的にも宗教的にもイスラム世界のトップに君臨するようになったんです。ヨーロッパ世界では、政治的なトップである王と宗教的なトップである教皇が別人であったこととは大きく異なる部分ですね。」
名もなきOL
「そういえば、確かにそうですね。そっか、こういうところも違うんだ。」
big5
「ただ、ウマイヤ朝は完全に滅んだわけではありません。756年、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーンがイベリア半島で独立して別国家となりました。この国は後ウマイヤ朝と呼ばれます。後ウマイヤ朝も後にカリフを名乗ったため、イスラム世界には2人のカリフが併存することになりました。そういう観点から、後ウマイヤ朝を「西カリフ国」、アッバース朝を「東カリフ国」と呼ぶ言い方もあります。」

アッバース朝の繁栄

big5
「アッバース朝は1258年にモンゴル帝国に滅ぼされ間で、約500年も続いたご長寿国家です。後半は、分裂状態でなんとか生き延びている、というかんじですが、前半は大いに繁栄しています。アッバース朝の繁栄を示す歴史イベントが3つありますので、これを押さえておきましょう。まず最初は751年のタラス河畔の戦いで唐の軍に勝利し、製紙法が伝わったことです。」
名もなきOL
「タラス河畔ってどの辺ですか?それと、なんでタラス河畔の戦いに勝って製紙法が伝わったんですか?」
big5
「タラス川は、中央アジアに流れている川の一つで、現在のカザフスタンの川です。一については、中央アジアの辺りだ、とだいたい覚えておけばOKです。当時、中国は唐が繁栄していた時期で、中央アジア方面まで領土を伸ばしていました。中東のアッバース朝と、唐は中央アジアで国境を接していたんです。タラス河畔の戦いは、中央アジア方面における両者の覇権争いの戦いでした。この戦いはアッバース朝の勝利に終わり、多数の唐の兵士が捕虜になりました。その中に、紙すき職人がいたんですね。その捕虜が製紙法を伝えたことで、サマルカンドに紙工場が作られ、そこから西方にも紙が広まっていきました。」
名もなきOL
「捕虜から技術が伝わる、ということもあるんですね。」
big5
「2番目は新都・バグダードの建設です。アッバース朝第2代カリフとなったマンスールが762年からティグリス川沿いに新しい都を作りました。766年に完成したバグダードは、直径3.2kmの円形の街で、外堀と二重の城壁で囲まれた堅固な都市でした。円城の中に住めるのは一部の特権階級だけで、一般民衆は外側に住んでいたのですが、9世紀には人口150万人という現代の感覚でも大都市となり、イスラム世界の中心として繁栄しました。」

Baghdad 150 to 300 AH
アッバース朝時代のバグダード地図

font color="orange">名もなきOL
「この時代に人口150万人って凄いですね!現代日本でも150万人を超えているのは東京23区に横浜、大阪、名古屋、札幌、福岡とかになりますから、相当な規模ですよね。」
big5
「そして、アッバース朝最盛期のカリフと言われているのが第5代のハールーン・アッラシード(在位786~809年)です。アラブ文学の代表作でもある千夜一夜物語にも登場しており、当時の繁栄ぶりをしのばせています。
ただ、ここが全盛期ということは、この後勢いは衰えていくことになります。アッバース朝は西カリフ国としてイスラム教徒の頂点に立っていたものの、地方に分権国家が続出し、政治面での力は下降していく一方でした。イスラム教国家は、新たな局面を迎えることになるのですが、その話はまた次回にしましょう。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、イスラム勢力誕生のネタはしばしば出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

平成30年度 世界史B 問題14 選択肢A
・イスラーム世界で、隊商宿(キャラヴァンサライ、キャラバンサライ)が整備された。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、隊商の活動は設備面でも充実していました。

令和2年度追試 世界史B 問題5 選択肢@
・イスラーム世界で、キャラヴァンサライ(隊商宿)が整備された。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、隊商の活動は設備面でも充実していました。

令和2年度追試 世界史B 問題25 選択肢C
・ササン朝は、ニハーヴァンドの戦いで勝利した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ニハーヴァンドの戦いでササン朝はイスラム勢力に敗北しています。

令和4年度 世界史B 問題6 選択肢C
(問題)(前略)アッバース朝の下で起こった出来事の影響として、適当なものを選べ。
・アラブ人の特権が廃止され、イスラーム教徒平等の原則が確立された。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、アッバース朝でムスリムは基本的に平等に扱われ「イスラム帝国」となりました。

令和5年度 世界史B 問題11 選択肢@
・預言者ムハンマドが死去すると、アブー=バクルが初代カリフとなった。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、初代カリフはアブー・バクルです。




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参考文献・Web site