big5
「今回のテーマは大航海時代(Great Navigation)です。名前からしてロマンが感じられますよね。中世の後半、ヨーロッパの最西端、イベリア半島のこれまた西端に位置するポルトガルによって大航海時代が始まりました。未知のエリアを探検することは危険と隣り合わせですが、探検を進めたことによってアメリカ大陸が発見された他、アフリカ大陸をぐるっと回ってインドへ向かう航路も発見されることになったわけです。芸術や文化の面で、中世に終わりを告げたのがルネサンスだとするなら、大航海時代は新たな土地、新たな航路、そして新たな経済圏の確立で中世に終わりを告げた、と言ってよいでしょう。」
名もなきOL
「船の旅っていいですよね。落ち着いていて優雅なイメージがあります。でも、この時代の航海は命がけだったんですよね?」
big5
「はい、その通りです。当時の航海はまだまだ技術も知識も浅く、探検も兼ねていましたので、自然災害や病気などで命を失う人も大勢いました。大航海時代におけるポイントは以下になります。
・大航海時代に先鞭をつけたのはポルトガルのエンリケ航海王子によるアフリカ探検
・ポルトガルはアフリカの喜望峰を回ってインドへ向かうインド航路を開拓し、香辛料貿易で繁栄
・スペインはコロンブスによってアメリカ大陸を発見。その後、コルテスやピサロが先住民の文明を征服
・経済圏が変化し、商業革命、価格革命が発生
と、主だったものだけでも多岐にわたります。内容盛りだくさんの大航海時代ですが、まずは主要論点から見ていきますね。さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」
年月 | 大航海時代のイベント | その他のイベント |
1418年 | ポルトガルのエンリケ航海王子がサグレス城に研究所設置 | |
1441年 | ポルトガルがアフリカ西岸のブランコ岬に到達 この頃、ポルトガルによる黒人奴隷貿易開始 |
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1453年 | コンスタンティノープル陥落しビザンツ帝国滅亡 英仏百年戦争終結 |
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1482年 | ポルトガルが黄金海岸付近にエルミナ要塞建設 | |
1488年 | バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達 | |
1492年 | スペインがグラナダを攻略しレコンキスタ完了 コロンブスが西インド諸島に到達 |
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1493年 | コロンブスの発見をめぐって、教皇子午線が引かれる | |
1494年 | トルデシリャス条約でスペイン・ポルトガルの境界が定められる | |
1498年 | ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達 | |
1500年 | カブラルがブラジルに漂着 | |
1510年 | ポルトガルのアルブケルケがインドのゴアを占領し拠点とする | |
1513年 | バルボアがパナマ地峡を横断し太平洋岸に到達 | |
1517年 | ルターが宗教改革を開始 | |
1519年 | マゼランが世界周航へ出発 | |
1521年 | コルテスがアステカ帝国を征服 | |
1522年 | マゼランの部下が世界周航を達成 | |
1529年 | サラゴサ条約 | |
1531年 | ピサロがインカ帝国を征服 | |
big5
「さて、まずは大航海時代の先鞭をつけたポルトガルのエンリケ航海王子(1394~1460年)の話から始めましょう。」
big5
「エンリケ航海王子は、名前の最後に「王子」とあるように、ポルトガルの王子様でした。ただ、王位は兄とその子孫が継承したので、エンリケ航海王子は「王子」のままでした。
エンリケ航海王子は1418年、サグレス城に航海と探検の研究所を設置し、ここを拠点にアフリカ探検事業を進めていきました。ちなみに、サグレス城に設置された研究所は実在するのか?という疑問も提示されているのですが、ここでは本件は深堀しません。」
名もなきOL
「最初の目的は、インド航路の発見、ではなかったんですね。」
big5
「はい、当初の目的はアフリカ探検だったんです。なぜかというと
@アフリカ西岸には黄金が豊富にあった(参照 中世のアフリカ)
A伝説のキリスト教国・プレステ=ジョンの国
という経済的な理由と宗教的・政治的な理由があったんです。@については言うまでもなく、黄金の獲得が動機になりましたし、Aについても、アフリカに勢力を持つイスラム教徒との戦いを有利に進めるために、アフリカ方面に存在するというキリスト教国家・プレステ=ジョンの国と連携する、という目的がありました。エンリケ航海王子時代のアフリカ探検は、この2つを目的にしていたわけですね。
ポルトガルの探検は年と共に進んでいきました。主な到達地点と年代をまとめると以下のようになります。
1431年 大西洋のアゾレス諸島に到達(現在もポルトガル領)
1434年 アフリカ西岸ボルハドル岬到達
1441年 アフリカ西岸ブランコ岬到達
1445年 アフリカ洗顔ヴェルデ岬到達
1456年 ギニア湾に到達
1430年代から、少しずつ少しずつ南に南に、と探検を進めていったんですね。この結果、1442年頃からポルトガルはアフリカ西岸に住む黒人を捕えて奴隷として売り払う黒人奴隷貿易を事業として開始しました。悪名高い黒人奴隷貿易の始まりですね。」
名もなきOL
「ヨーロッパ人が引き起こした人類の負の遺産ですね。」
big5
「まさにその通りです。弱肉強食が当たり前の時代だっとはいえ、たいへんな負の遺産を現代にまで残すことになりました。」
big5
「1460年にエンリケ航海王子が亡くなった後、ポルトガル王ジョアン2世によってエンリケ航海王子の事業は引き継がれました。1482年には黄金海岸の近く(源氏のガーナ)にエルミナ要塞が建築され、ポルトガルの貿易・探検の拠点となっています。
そして1488年、バルトロメウ・ディアスの探検隊が嵐の中で気づかないうちにアフリカ最南端の岬を回って東側に出ることに成功。ディアスはこの岬を「嵐の岬」と名付けてポルトガルに戻りましたが、ジョアン2世は喜望峰と名付けました。これで、アフリカ大陸をぐるっと回ってインドまで行くことが可能になるだろう、という目途がついたわけですね。
<年代暗記ゴロ合わせ>
いーよ、母(1488)も喜ぶ喜望峰発見
」
名もなきOL
「喜望峰発見で、インド航路開拓も時間の問題になりましたね。大航海時代の初期はポルトガルの独壇場だったんですね。」
big5
「はい。しかし、その水面下で歴史は大きく動こうとしていました。かの有名なコロンブス(1451~1506年 Columbus)の登場です。」
big5
「ポルトガルがアフリカを回ってインドに向かう航路を開拓している間、まったく別な航路を見つけようとしたのがコロンブスです。コロンブスはルネサンス期の学者・トスカネリの地球球体説を信じ、西に向かえばインドに出る、と考えたわけですね。」
big5
「コロンブスはスペインの支援を受けて出港したのですが、出航に至るまでにも劇的なストーリーがありました。ここでは、概要のみお伝えしますね。
コロンブスはディアスによる喜望峰発見よりも前から、地球球体説に基づく西回り航路でインドへ行く、という案をポルトガル王ジョアン2世やスペイン王フェルナンドとイサベルに持ち掛けていました。結果的にポルトガルのジョアン2世は喜望峰発見によってインド航路開拓の目途が立ったためにコロンブスの冒険的な案を却下。スペインも、コロンブスの提案は割に合わない(コロンブスが要求として出してきた条件が高かった)と考えて、却下される寸前でした。しかし、1492年にイベリア半島に残っていたイスラム勢力の最後の砦・グラナダがスペインの手に落ちたことにより、いわゆるレコンキスタが完了しました。財政的にも余裕ができたスペインは、コロンブスの提案を採用することを決定しました。」
名もなきOL
「へ〜、もしかしたらコロンブスの航海は実行されなかったのかもしれないんですね。そうなると、アメリカ大陸の発見はもっと後で、別の人だったかもしれませんね。」
big5
「そうですね。そして、1492年10月、コロンブス率いる3隻の探検隊は大西洋を横断し、サン・サルバドル島(聖なる救世主、の意味)を発見し上陸しました。現在での西インド諸島を構成する島の一つですね。
<年代暗記ゴロ合わせ>
意欲に(1492)燃えるコロンブス
余談ですが、よく「コロンブスは新大陸アメリカを発見した」と言われることが多いのですが、これはあまり正確な表現ではないと思いますね。コロンブスが発見したのは西インド諸島とその周辺の島々で、コロンブス自身も「発見した島々はインドの一部」と最後まで信じていました。巨大なアメリカ大陸の全貌が明らかになるのは、もっと後の時代になります。ただ、ヨーロッパ世界にアメリカ大陸発見のきっかけを作ったのはコロンブスであることは間違いないでしょう。」
big5
「さて、コロンブスはサン・サルバドル島を発見した後、周辺の探索を少し行ってから報告のためにヨーロッパに戻りました。そして、コロンブスが発見した島々はスペインのものか、それともポルトガルのものか?という揉め事になりました。」
名もなきOL
「え?それはスペインのもの、ということでほぼ決まりなんじゃないですか?コロンブスはスペインの支援で探検に行ったわけですし。ポルトガルが入る余地は無いと思います。」
big5
「かなり細かい話になるので詳細は割愛しますが、以前に大西洋のアゾレス諸島より西はポルトガル領とする、という取り決めがあったとか、コロンブスは探検にあたって領海侵犯をしているとか、いろいろとこじつけて交渉を有利に運びたい、というポルトガルの思惑があったのでしょう。
そこで、1493年に教皇・アレクサンデル6世が仲介して両国の境界を定めたのが教皇子午線です。大西洋のアゾレス諸島とヴェルデ諸島の間を境界とし、ここから東をポルトガル領、西をスペイン領とする、というものです。しかし、この裁定にポルトガルのジョアン2世は納得できませんでした。教皇・アレクサンデル6世はスペイン系貴族のボルジア家の出身で、教皇でありながら愛人を堂々と教皇庁の近くに住まわせるなど、世俗権力にまみれた人物として有名です。スペイン贔屓も甚だしかったのでしょう。ジョアン2世はスペインと直接交渉し、スペイン・ポルトガルの境界線はもっと西に移動させて、1494年にトルデシリャス条約が結ばれました。教皇子午線とトルデシリャス条約の境界線の違いを図示したのが↓の図(世界の歴史まっぷさん作成)になります。」
名もなきOL
「大西洋のあたりに線を引いて、ここから東がポルトガル領で西はスペイン領だ、なんて随分勝手な取り決めですね。これだと、日本はスペイン領なのかしら?それともポルトガル領?」
big5
「トルデシリャス条約は、スペインとポルトガルの2国間の取り決めです。実際、当時もフランスのフランソワ1世はトルデシリャス条約を批判していますし、イギリスはそんなことにお構いなくイタリアの探検家・カボットを支援して、北米大陸方面を探検させています。
<ポイント(重要度:低)>
イングランドのヘンリ7世に支援されたカボットの北米探検は、トルデシリャス条約締結から後の1498年頃。
カボットの北米探検が、その後のイギリスによる北米植民地化の一つのきっかけになるのですが、この時点ではカボットの探検のみで終わりでした。ヘンリ7世の跡を継いだヘンリ8世によって、イギリスは宗教改革(参照 イギリスの宗教改革)に突入しますので、スペインやポルトガルのような本格的な海外進出は、もっと後の時代になります。
そもそも、トルデシリャス条約締結時点ではアメリカ大陸の全貌は明らかになっておらず、コロンブスが発見したカリブ海の一部の島だけが知られていた状態です。そこまで考えて取り決められたものではありません。トルデシリャス条約は過度に捉える必要はなく、歴史の一つの通過点として考えておけば十分でしょう。なお、コロンブスによって発見された新大陸・アメリカの地域は、総称してインディアス(Indias)、そこに住んでいる先住民はインディオ(Indio)と呼ばれるようになりました。名前の由来は、もちろんインドです。コロンブスも、自分が発見した島々はインドの一部だ、と死ぬまで信じていましたし、そのように考える人は多かったわけですね。
さて、コロンブスの発見とトルデシリャス条約によって、ポルトガルは喜望峰を回ってインド航路を開拓し、スペインは大西洋を越えてアメリカ大陸方面へ進出する、という基本的な方針が定まりました。次章からは、その後のポルトガル、スペインの海外進出を見ていきましょう。」
big5
「さて、この章もいよいよ後半です。コロンブスの西インド諸島発見後のポルトガルの海外進出について見ていきましょう。重要ポイントは以下になります。
<ポイント(重要度:高)>
・ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達。インド航路が確立された。(1498年)
・カブラルがインドに向かう途中、ブラジルに漂着。これがきっかけとなり、ブラジルはポルトガルの植民地となった。(1500年)
・ポルトガルはインド西岸のゴアを拠点とし(1510年)、さらに東南アジア、中国、そして日本にまで交易の手を伸ばした。
それでは、まずはヴァスコ・ダ・ガマ(1469?~1524年)によるインド航路確立から見ていきましょう。」
big5
「1498年、時のポルトガル王・マヌエル1世の命により、ヴァスコ・ダ・ガマが艦隊を率いてインドへ向けて出発しました。ルートはもちろん、バルトロメウ・ディアスが発見した喜望峰を回っていくルートです。」
名もなきOL
「そういえば、インド航路を確立したのはディアスさんではないんですね。ディアスさんはどうしていたんですか?」
big5
「実は、バルトロメウ・ディアスもヴァスコ・ダ・ガマの艦隊に加わっていました。喜望峰までの案内役だったようです。ただ、ディアスは喜望峰まで着いたらその後ポルトガルに帰っています。
さて、ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊はアフリカ東海岸を進む、途中のマリンディでインドまでの水先案内人を雇い、そしてついにインド南西岸の町・カリカット(Calicut 現在の名称はコージコード、コーリコードなどと呼ばれている。参考)に到着しました。ヨーロッパ人が、船で始めてインドに到達した瞬間ですね。
ただ、ヴァスコ・ダ・ガマの来航はカリカットの人々にとっては災厄だったかもしれません。ヴァスコ・ダ・ガマは、インド現地の支配者やイスラム商人が自分達を排除しようとしていると考えました。敵に対するかのような警戒した態度で臨み、いくつもの揉め事を起こして、最後は現地のインド人数十人を人質として捕らえたまま、町を砲撃してポルトガルに帰っていったんです。
ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到達は、決して平和的で紳士的な来訪では無かった
わけですね。そして、これが今後のポルトガルによる海外進出の基本方針になります。つまり、武力を用いた恫喝で交易を行う、です。」
名もなきOL
「そうだったんですね・・・。なんだかなぁ、そんな話を聞くと悲しくなってきました。。」
big5
「ヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルに戻り、その成果を報告するとポルトガル王・マヌエル1世はたいへん喜びました。そして、香辛料貿易をポルトガルの事業としてより発展させるために、もっと強力な艦隊を編成してインドに送り込むことにしました。この艦隊を率いたのがカブラル(1467?~1520年)です。」
名もなきOL
「カブラルさんって、漂流してブラジルに漂着して、それがきっかけでブラジルはポルトガルの植民地になったんですよね?この時の航海で漂流しちゃったんですか?」
big5
「その通りです。カブラルは、ポルトガルの国益を背負い、13隻から成る艦隊を率いて出発しました。この中には、バルトロメウ・ディアスも副官として参加していました。そして、ブラジルに漂着したわけですね。教科書などでは、ここで話が終わることが多いので
「カブラルは失敗したけど運よくブラジルに漂着して、ポルトガル領を広げることができた。怪我の功名だ」
などと思われることが多いですね。確かにそれはそうなのですが、カブラルはその後出港してインドのカリカットに到着しています。そして、カリカットではイスラム商人の勢力と交戦しました。さらに、コーチンなどの領主に交渉して商館設置を認めてもらい、大量の香辛料を仕入れてポルトガルに帰還しました。このように、ポルトガルの香辛料貿易の下地を築く、という仕事もしたんですね。その手法はけっこう手荒ですが。。」
big5
「それでは、最後の3つ目のポイント「ポルトガルはインド西岸のゴアを拠点とし(1510年)、さらに東南アジア、中国、そして日本にまで交易の手を伸ばした。」について見ていきましょう。
ヴァスコ・ダ・ガマ、そしてカブラルによってポルトガルはインド航路を確立し、香辛料貿易を始めたわけです。これに立ちはだかるイスラム商人らは武力で排除していきました。そんなポルトガルの海外進出の重要拠点となったのが、インド西岸の港町・ゴアです。1510年、ポルトガルはゴアに攻め込んでこれを占領。その後、一時的に奪還されたりもしましたが、最後はポルトガル領として認めさせ、これを要塞化していきました。このゴアが拠点となって、ポルトガルは東南アジア、中国、そして日本へと足を延ばしていくことになります。」
名もなきOL
「日本の種子島に漂着したポルトガル人から、鉄砲が持ち込まれたんですよね。そっか、こうやって歴史が繋がっていくわけですね。」
big5
「そうですね。日本史における鉄砲伝来、キリスト教伝来、南蛮貿易などの戦国時代のイベントは、ヨーロッパの大航海時代の結果だったわけですね。大航海時代によって、これまで別々の地域で独自の歴史を歩んできた国家が、少しずつ繋がり始めていったわけです。
さて、ポルトガルの海外進出の話はここでいったん切り上げて、次は主にスペインによる新大陸・アメリカ進出の話を見ていきましょう。」
big5
「コロンブスの発見とトルデシリャス条約によって、さらに西側における権利を認められたスペインは、新大陸・アメリカに進出していくことになりました。ここでの要点は以下になります。
<ポイント(重要度:高)>
・アメリゴ・ヴェスプッチが南アメリカを探検。新大陸を「アメリカ」と名付けられるきっかけとなる。
・バルボアがパナマ地峡を横断して太平洋岸に到達(1513年)
・モルッカ諸島への西回り航路を求めて、マゼランが出航。マゼランの部下が太平洋を横断してスペインに帰り、世界周航を達成(1522年)
・アジア方面のスペイン・ポルトガル勢力圏を決めたサラゴサ条約(1529年)
これ以外にも、アステカ帝国、インカ帝国を滅ぼすという大事件も発生していますが、これらは別ページで説明します。まずは、大陸の名前にもなったアメリゴ・ヴェスプッチ(1454~1512年)の話から始めましょう。」
big5
「「アメリカ」大陸の名前の由来になったアメリゴ・ヴェスプッチは、イタリアウのフィレンツェ出身です。1497年からスペイン王が企画したアメリカ方面探検に参加して航海に出ました。アメリゴ・ヴェスプッチが探検したエリアは主に南アメリカの北岸のあたりです。1503年、アメリゴ・ヴェスプッチは『新世界』を刊行し、南米大陸はこれまでの知られていたどの大陸にも属さない「新大陸」だと唱えました。
この本がヨーロッパで知名度を増していき、ドイツの地理学者・ヴァルトゼーミュラーが1507年に刊行した本の中で、新大陸を「アメリカ」と名付けたことで「アメリカ大陸」という名前が定着しました。」
名もなきOL
「アメリカ大陸って、こういう経緯で名前が決められたんですね。私たちの感覚では、アメリカが大陸だなんて当たり前のことですけど、当時のヨーロッパの人々から見れば謎だらけの巨大なエリア、ということだったんですね。」
big5
「続いて2番目の重要ポイント、バルボアのパナマ地峡横断と太平洋到達の話をしましょう。
アメリゴ・ヴェスプッチの探検とヴァルトゼーミュラーによって、アメリカが大陸であるということはほぼ知られたのですが、この時彼らが呼んでいた「アメリカ大陸」とは南米大陸のことで、北米大陸と地続きになっていることはまだ知られていませんでした。それを明らかにしたのが、スペインのバルボアです。バルボアは先住民の案内人を得てパナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて太平洋岸に到達しました。これによって、南北アメリカ大陸が地続きの大陸であることが明らかとなりました。」
名もなきOL
「なるほど、どんどんとアメリカ大陸の形が知られていったわけですね。バルボアさんは探検家だったんですか?」
big5
「探検家というよりは、征服者(コンキスタドール)と言った方が正しいでしょう。バルボアはスペインの貧乏貴族の子弟でしたが、その才覚を使って新大陸であるアメリカ大陸を探検し、伝説と噂をもとに大量の黄金を探し求めると同時に、現地人を奴隷として酷使する植民地建設に尽力していました。ただ、バルボアはスペイン人から見ても略奪・暴行・虐殺などの残虐行為が多すぎるとして問題視され、1519年、後にインカ帝国を征服するピサロによって捕らえられ処刑されています。
この辺りから、スペインによるアメリカ大陸征服が本格化していくことになります。」
big5
「上記のように、ポルトガルはインド、アジアへ貿易の手を伸ばし、スペインは新大陸アメリカの探検と植民地化を進める、と両国は住み分けするかのように海外進出を進めていったのですが、ポルトガルが東南アジアでモルッカ諸島に到達し、新たな香辛料貿易のルートを発見したことで、両国に摩擦が生じました。」
名もなきOL
「どうして摩擦が生じたんですか?一見、キレイに住み分けできてそうですが・・・」
big5
「1494年に締結したトルデシリャス条約は、大西洋にスペイン、ポルトガルの勢力圏を分ける線を引きましたが、地球の裏側にあたる東南アジア方面については当然ながら言及されていません。そこで、トルデシリャス条約の境界線を地球の裏側まで引っ張れば、モルッカ諸島はスペインの勢力圏になるのではないか、とスペインが考えたわけです。」
名もなきOL
「なるほど、確かにそれは一応理屈は通っていますね。」
big5
「そんな中、ポルトガル人船乗りでモルッカ諸島方面で仕事をしていたマゼラン(1480~1521年)が、様々な理由で1519年、母国・ポルトガルではなくスペインの支援を受けて、西回りで、つまりアメリカ大陸をぐるっと回って太平洋を突っ切ってモルッカ諸島に行く、という航路確立のために出航しました。結果的に、西回りでモルッカ諸島に到達し、マゼラン自身は先住民との戦いで戦死したものの、残った部下たちはインド洋を渡ってアフリカ大陸を回って1522年にスペインに帰りました。いわゆるマゼランの世界周航が達成されました。」
名もなきOL
「これが最初の世界一周なんですね。未知の海を進んで、3年かけてスペインまで帰るなんて、ものすごい大冒険ですよね。」
big5
「はい、まさに命がけの世界周航だと言えるでしょう。
さて、マゼランの世界周航の当初目的であるモルッカ諸島の領有権の話ですが、1529年にサラゴサ条約が結ばれて決定されました。結果は
・モルッカ諸島をポルトガル領とする代わりに、ポルトガルはスペインに35万ドゥカーデを支払う。
・アジア方面における両国の境界線はモルッカ諸島の東297.5レグアの子午線(東経133度付近)
となりました。スペインは南米大陸をぐるっと回ってモルッカ諸島に行く分には、東風の貿易風を利用することで可能であるものの、その逆は不可能だったので、片道切符になってしまう、という問題点があったわけですね。そこで、モルッカ諸島の領有は諦めることになりました。
しかし、マゼランが途中で発見したフィリピンについては、偏西風を利用して太平洋を東に進んでメキシコに至る航路が発見されたこともあり、スペインによるフィリピンの植民地支配が進められることになりました。スペインによるフィリピンの植民地支配は、近代になって1898年の米西戦争(参考 しのぎを削る列強 拡大するアメリカ)でアメリカがスペインを破って奪い取るまで、およそ300年にわたって続きます。」
名もなきOL
「ヨーロッパ人による植民地支配の始まりですね。。これまで、世界の歴史から隔絶された環境で過ごしてきた東南アジア諸島の人々にとっては、大航海時代は迷惑極まりない時代だったでしょうね。」
big5
「まさしくその通りでしょう。大航海時代によって、世界各地が物理的に結ばれるようになりました。人やモノの交流が盛んになったのは間違いないのですが、軍事技術が進んでいたヨーロッパ人によって奴隷貿易や植民地支配が行われるなど、大航海時代は実力主義である国際社会の縮図のような時代だった、と私は思いますね。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、大航海時代のネタはわりと出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」
平成30年度 世界史B 問題3 選択肢B
・リスボンは、インド航路の開拓により、香辛料貿易で繁栄した。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、ポルトガルの首都であるリスボンは、インド航路開拓による香辛料貿易で繁栄しました。
平成31年度 世界史B 問題35 選択肢C
・オランダとの間で、トルデシリャス条約が結ばれた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、トルデシリャス条約はポルトガルとスペインの間で結ばれた条約です。オランダは関係ありません。
令和2年度 世界史B 問題13 選択肢A
・スペインとポルトガルが、アジアやアメリカ大陸への進出を競った。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、大航海時代はスペインとポルトガルが進出を競っていました。
令和2年度 世界史B 問題35 選択肢B
・バルトロメウ=ディアスは、アフリカ南端の喜望峰に到達した。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。
令和2年度追試 世界史B 問題32
・カブラルがブラジルに漂着した時期として正しいのはどれか?
@1415年 ポルトガルがセウタを攻略 より前
A1415年〜1522年 マゼランの部下がスペインに帰還の間
B1522年〜1621年 オランダが西インド会社を設立
C1621年以後
(答)A。カブラルのブラジル漂着は1500年です。これを覚えていなくても、マゼランの世界周航が大航海時代のほぼ最後のイベントであることを覚えていれば、Aが一番可能性が高いと推察できます。
令和4年度再試 世界史B 問題7 選択肢B
ブラジルの宗主国の歴史として、
・エンリケ航海王子が、アフリカ探検を進めた。〇か×か?
(答)〇。ブラジルの宗主国はポルトガルであることは基本ですので、ポルトガルの歴史として正しいものを選ぶことになります。エンリケ航海王子がポルトガルの王子でありアフリカ探検を進めたことは大航海時代の基本ですので、正答してほしい問題です。
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