big5
「今回のテーマはルネサンス期の文化です。ルネサンス自体が、古代ギリシア・ローマ時代の文化の復興、という意味を含んでいますので、「ルネサンス期の文化」といっても、ルネサンス自体が文化じゃないか、と思うかもしれませんね。なので、ここではルネサンス文化の変遷を時系列順に見ていきます。」
名もなきOL
「考えてみると、ミケランジェロとか、レオナルド・ダ・ヴィンチとか、最後の晩餐とか、芸術家たちの名前とか作品名は断片的に知っているんですけど、いつの時代だったのか、とかはあんまりよくわからないですね。」
big5
「そういう人は多いと思います。ルネサンスといっても、始まりから終わりまでけっこう長いので、ここでは以下のように分けます。
1.黎明期(初期) 1300年代(14世紀)
2.中期 1400年代(15世紀)
3.盛期 1500年代前半(16世紀前半)
」
名もなきOL
「ルネサンスといっても、始まりから終わりまでだいたい200年くらいあるんですね!」
big5
「はい、けっこう長いんですよ。なので、ルネサンスをより深く知るためには、ルネサンス自体の始まりと発展について、年代と共に頭に入れることが大事ですね。
というわけで、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」
年月 | ルネサンスのイベント | 他地方のイベント |
1306年 | ジョットが「ユダの接吻」を完成させる | |
1321年 | ダンテが「神曲」を完成させる | |
1324年 | マリ王マンサ=ムーサのメッカ巡礼 | |
1333年 | 鎌倉幕府 滅亡 | |
1339年 | 百年戦争 開戦 | |
1348年 | ペスト大流行 | |
1353年 | ボッカチオが「デカメロン(十日物語)」を発表 | |
1391年頃 | チョーサーが「カンタベリー物語」を完成させる | |
1434年 | ヤン・ファン・エイクが「アルノルフィニ夫妻の肖像」を制作 | |
1452年 | ギベルティがサン・ジョバンニ洗礼堂の門扉を完成させる | |
1453年 | 百年戦争 終結 コンスタンティノープル陥落しビザンツ帝国滅亡 |
|
1455年頃 | グーテンベルクが活版印刷術を実用化 | |
1483年頃 | ボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」を完成させる | |
1494年 | フランスがイタリアに侵攻開始 メディチ家がフィレンツェを追放されサヴォナローラの神権政治が始まる | |
1498年 | レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を完成させる | |
1503年 | 教皇ユリウス2世の命でブラマンテがサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる | |
1510年 | ラファエロが「アテナイの学堂」を完成させる | |
1520年 | ラファエロ死去 | |
1541年頃 | ミケランジェロが「最後の審判」を完成させる | |
big5
「最初はルネサンス黎明期の画家・ジョット(1267頃〜1337年)の話から始めましょう。ちなみに、ルネサンスの始まりは、ダンテ(1265〜1321年)の神曲から始めることが多いのですが、ここでは見た目にわかりやすいジョットから始めます。ジョットの代表作は「ユダの接吻」です。これは教会の礼拝堂の壁画の一部です。」
名もなきOL
「けっこう写実的な絵ですね。物語の一場面みたいに、人の動きが感じられます。」
big5
「はい、その特徴が従来の中世の絵と大きく違うところになります。登場人物に表情をつけたり、より立体的で正確な人体描写を行うという、古代ギリシア・ローマ時代の特徴を取り入れたところが、この絵がルネサンスのはしりとみなされる理由になりました。美術の時代区分としては、「ユダの接吻」は後期ゴシックの絵に分類されることもありますが、高校世界史ではルネサンスのはしりと絵、と考えて十分です。」
big5
「次に、有名なダンテの「神曲」です。ルネサンスの幕開けとされる文学作品ですね。」
名もなきOL
「あれ、神曲って音楽じゃないんですか?」
big5
「それはよくある誤解ですね(笑)神曲は音楽ではなく、文学作品です。叙事詩に分類されます。ダンテは作曲家ではなく詩人です。余談ですが、ルネサンス期の文化の中心になっているのは「美術(絵画)」と「文学」で、「音楽」はありません。音楽も復興させよう、という動きはあったのですが、ほとんどできなかったようですね。さて、神曲の内容を簡単に紹介しておきます。
著者であるダンテが主人公です。ダンテには、とても愛していたベアトリーチェという女性がいました。しかし、ベアトリーチェは亡くなってしまいます。そこに、古代ローマの著名な詩人・ウェルギリウス(参考:古代 古代ローマの文化)が登場して、ダンテを死後の世界である地獄、煉獄、そして天国へと導いてき、ついに天国でベアトリーチェと再会する、という内容です。」
名もなきOL
「なるほど。神曲がルネサンスの幕開け、とされているのはどうしてなんですか?その内容がルネサンスっぽいんですか?」
big5
「内容は、正直なところルネサンスっぽさはありません。中世のキリスト教世界のままです。ただ、中世の文学と決定的に違うのが、ダンテは神曲をラテン語ではなく、地元のトスカナ口語で書いた、ことにあります。中世では、書物はラテン語で書くのが常識でした。なので、一般庶民は読むことができません。そういう視点では、書物は一般庶民向けのものではなく、貴族や聖職者などラテン語が読めるごく一部の人のためのものだったんです。しかし、地元のトスカナ口語で書いたことにより、ラテン語はわからなくても読み書きができる人なら、神曲を読むことはできたんですね。
このように、従来は聖職者専用のものとされてきた書物が、一般大衆にも開放されるようになった、ということがルネサンス文学の特徴になります。」
big5
「ダンテが登場したので、その次に登場したルネサンス黎明期の詩人・ペトラルカ(1304〜1374年)の話をします。ペトラルカはよく人文主義(ヒューマニズム)の祖、と言われることが多いです。」
名もなきOL
「人文主義って何ですか?」
big5
「カトリックが教える「神と教会が支配する世界」ではなく、本来の人間らしさや神とは何のか?を追求する思想のことです。本来の人間や神のあり方を考える題材になったのが、まだカトリックが存在しなかった古代ギリシア・ローマ時代の文学作品になりました。つまり、文学の世界でも「古代ギリシア・ローマの復興」が進められたわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。ルネサンスって、本当に古代ギリシア・ローマ文化の復興なんですね。ようやく、意味が繋がって理解できてきました。」
big5
「ペトラルカは世代的にはダンテの子供世代になります。実際、ペトラルカの父はダンテと行動を共にしていたこともありました。ダンテはボローニャ大学で法律を学んだのですが、その時にウェルギリウスやセネカなど古代ローマの文学に触れてこれに熱中します。その後、ペトラルカは教会の書記になるのですが、古代ローマ文学の研究にのめり込んでいき、発見されたキケロの書簡集を取っ掛かりにして文学研究を進めていきました。ペトラルカが行った仕事により、後の時代に古代ローマ文化の研究がさらに進むことになるわけですね。」
名もなきOL
「ルネサンス発展の礎を築いたわけですね。地味ですが重要な仕事ですね。」
big5
「そんなペトラルカは生涯独身だったのですが、複数の女性と関係を持って子供は3人いるそうです。そんなペトラルカのペトラルカは詩人として名声を得ており、代表作は「叙情詩集(カンツォニエーレ)」という恋愛叙情詩です。これもトスカナ口語で書かれています。」
名もなきOL
「その辺りは、ある意味「人文主義」の祖らしく、人間臭さを自ら示しているかのようですね。」
big5
「続いてペトラルカと同世代の作家・ボッカチオ(1313〜1375年)です。ボッカチオの父はフィレンツェの商人で、父の仕事を手伝いながらラテン語を学び、古典文化に親しんでいました。そのため、上述のペトラルカとも趣味が合って交友があったそうです。1348年(この年ボッカチオ35歳)にペスト大流行を経験しました。この時の経験を基にして、名作として有名なデカメロン(十日物語)を1353年(この年ボッカチオ40歳)を発表しました。」
名もなきOL
「デカメロンって、十日物語、っていう訳なんですね。大きなメロンのことじゃないよな〜、とは思っていたんですけど・・・」
big5
「それもよくある誤解です(笑)デカメロンの「デカ」はラテン語で「10」を意味します。デカメロンの概要も紹介しておきますね。
ペスト流行から逃れるために、フィレンツェ郊外に避難してきた3人の男と7人の女の合計10人が、暇潰しと遊びで毎晩1人1話の話をする、という短編集のようになっています。10人いるので、1晩で10話、これを10日続けて全部で100話になります。ちなみに、デカメロンはフィレンツェ方言で書かれました。ラテン語ではありません。」
big5
「デカメロンの話の主人公は、当然ながら人間です。それも、カトリックが求めるような、神の教えに従う敬虔な人々ではなく、現実にいる人間臭い人々でした。テーマは様々ですが、陰謀、裏切り、猥談など様々です。そのため、デカメロンは人文主義の作品であると同時に、近代小説のはしり、とも言われることもあります。短編集とはいっても、文庫本で3冊、約1,500ページくらいにもなります。興味がある人は是非読んでみてください。」
名もなきOL
「こうして見てみると、ルネサンスの始まりはやっぱり滅んだローマ帝国の中心地であるイタリアからだったんですね。」
big5
「そうですね。ローマ時代の遺跡や古い文献も豊富に残っていたことも、ルネサンスが始まった原因の一つと言えるでしょう。そして大事なことは、ルネサンスはイタリアから始まりヨーロッパ各地に広まっていった、ということです。次は、イタリア以外で始まったルネサンスを見ていきましょう。」
big5
「ボッカチオのデカメロンが周囲に与えた影響はかなり大きかったようです。特に有名なのは、イギリスのチョーサー(Chaucer 1340頃〜1400年)が1391年頃に完成させたカンタベリー物語です。」
名もなきOL
「カンタベリー物語は、私も名前を聞いたことがあります。名前だけですが・・・」
big5
「カンタベリーは、イギリスがあるブリテン島の南東端、ケント地方にある町です。カンタベリー大聖堂があることでも有名で、キリスト教の聖地の一つでもあります。チョーサーのカンタベリー物語は、そのカンタベリーに巡礼に来た人々が、それぞれ話をしていく、という形式になっています。」
名もなきOL
「それはデカメロンと同じ形式ですね。」
big5
「そうですね。違う所も多いので、デカメロンの真似をしたとは言えませんが、影響を強く受けているのは間違いないでしょう。チョーサーは謎が多い人物なのですが、イングランド王室の役人として仕えており、仕事でフランスやイタリアを訪問していました。その時に、ボッカチオのデカメロンを読んだのではないか、と考えられています。
そして、カンタベリー物語の重要なところは、やはり使った言語です。ラテン語でもフランス語でもなく、ロンドン方言(中英語(中世の英語)、とも言う)で書かれたことも重要です。こういった要因もあって、カンタベリー物語は大人気となり、写本も数多く作られました。イギリスでは、カンタベリー物語以前から中英語で本が書かれることがありましたが、カンタベリー物語の大人気によってこの流れは大幅に加速され、英文学発展の基礎となった、と言われています。」
big5
「イタリアで始まったルネサンスの影響は、イタリアよりも北の地域に影響を与えました。この「イタリアよりも北の地域で進んだルネサンスの動き」を全部ひっくるめて北方ルネサンスと呼んだりします。なので、北方ルネサンスを細かく見ていくといろいろあるのですが、ここでは一つだけ取り上げます。油絵を用いたフランドル画派を創始したファン・エイク兄弟です。兄はフーベルト・ファン・エイク(1366頃〜1426年)、弟はヤン・ファン・エイク(1380頃〜1441年)と言います。」
名もなきOL
「油絵って、西洋美術で使われる絵の描き方ですよね。北方ルネサンスの頃に登場したんですね。」
big5
「油絵という技法自体は以前からあったようなのですが、透明の油に顔料を混ぜて描く絵画の技法として確立したのがファン・エイク兄弟、と考えられているそうです。油絵の特徴の一つは、何重にも重ね塗りができることでした。これによって、写実的な表現が可能になり、それまで主流だったテンペラ(卵を溶いて顔料を混ぜて絵具にする技法。重ね塗り可能だがカビや湿気に弱い、という欠点がある。)から徐々に主役の座を交代することになりました。
兄弟の中でも、特に弟のヤン・ファン・エイクはブルゴーニュ公の宮廷画家となって画家としての地位を確固たるものとしました。ヤン・ファン・エイクの代表作が、1434年に制作した↓のアルノルフィニ夫妻の肖像です。」
名もなきOL
「この絵、見たことあります。けっこう有名な絵ですよね。そして、最初に見たジョットのユダの接吻よりも、もっと写実的ですね。シャンデリアとか窓枠なんか写真見たいです。」
big5
「アルノルフィニ夫妻の肖像は、ヤン・ファン・エイクの作品の中でも最高傑作と評されるほどの作品です。元々、商工業で発展したフランドル地方は、ヤン・ファン・エイクをはじめとした画家の活動拠点ともなったので、このグループをフランドル画派と呼んだりします。
写実的で細部まで描くヤン・ファン・エイクをはじめとしたフランドル画派の絵は、ルネサンス発祥のイタリアにも影響を与えました。ルネサンスと言うとどうしてもイタリア中心になりがちなのですが、美術の面ではフランドル画派とイタリアでお互いに影響を与え合い、ルネサンスはどんどん発展していった、と捉える方が正確です。そういう意味でも、ファン・エイク兄弟の影響はとても大きかったと言えるでしょう。」
big5
「1400年代(15世紀)になると、イタリアの都市・フィレンツェでルネサンス文化が花開くことになりました。これに大きく貢献したのが、フィレンツェの実質的な支配者であった大富豪のメディチ家(House of Medici)です。」
名もなきOL
「フィレンツェは海外旅行で行ったことあります。とても綺麗な街でよかったですよ。」
big5
「現代でもフィレンツェはイタリアを代表する美しい都市ですが、フィレンツェが著しく発展したのがこの頃です。メディチ家は銀行業を開設して成功し、ヨーロッパでもトップクラスの大富豪になりました。フィレンツェは公的には共和制都市国家だったのですが、実質的にはメディチ家の独裁政治となっていました。いわゆる「僭主政治」ですね。ただ、今回はルネサンス文化の話なので、政治の話はこれで終わりにしましょう。
このように、実質的なフィレンツェの独裁者となったメディチ家は、フィレンツェを美しく彩るルネサンス文化をおおいに振興し、ルネサンス建築が発展したんです。
ということで、ルネサンス建築の見ていきましょう。まずはフィレンツェの顔ともいえるサンタ・マリア大聖堂の大円蓋(ドーム)を作った建築家・ブルネレスキ(1377〜1446年)です。↓の写真の中央にある大きな建物の、球形のドームがそれですね。」
名もなきOL
「この門も見ました。でも、今の扉はレプリカで、本物は別の博物館に保管されているそうですよ。」
big5
「これらの建築はまさにフィレンツェ繁栄の象徴ともいえるものでした。
それからしばらく後、メディチ家によるルネサンス振興の申し子ともいえる画家が登場します。ボッティチェリ(1444〜1510年)です。代表作は「春」と「ヴィーナスの誕生」です。あまりにも有名な絵なので、OLさんも見たことがあるはずです。ここでは、ヴィーナスの誕生を載せておきますね。」
名もなきOL
「この絵は何度も見たことがあります。ボッティチェリさんが描いたんですね。」
big5
「「ヴィーナスの誕生」には、評価すべき点が山のようにあるのですが、ルネサンス美術の発展という観点で重要なのは、
1.異教(ギリシア神話)を題材にしていること。
2.中世では禁忌であった裸体表現を入れていること。
です。例えば、黎明期のジョットの「ユダの接吻」は、絵の描き方は写実的でルネサンス的なのですが、絵の題材はあくまでキリスト教の教えでした。一神教であるカトリックの世界の中で、古代ギリシア神話という異教のテーマはを題材にした、というのはそれだけで革新的なものでした。また、女神であるヴィーナスを書くにあたって、裸体表現を使ったことも革新的です。頭の固いカトリックの聖職者が見たら、「なんという不謹慎な絵だ!」と猛烈に批判しそうですが、ボッティチェリはメディチ家の支援の下でこの絵を完成させた、というのも世の中が変わりつつあった、ということを示していますね。」
名もなきOL
「この絵には、そんな重要な意味があったんですね。これまでは、なんとなく「きれいな絵」くらいにしか感じてなかったんですけど、時代背景とかもわかると、絵を見るのが面白く感じてきますね。」
big5
「美術史も勉強すると、とても楽しいですよ。ただ、深い理解のためには、政治や宗教に関する基礎的で重要な話も知る必要があるので、一緒に勉強していきましょう。
こうして、メディチ家の保護のもと、フィレンツェを中心としてルネサンス文化は発展していったのですが、1494年にフランスがイタリアに侵攻を開始。これがきっかけとなってメディチ家はフィレンツェから一時追放されてしまいます。代わって、極端な思想を持つ聖職者のサヴォナローラが実権を握り、「ヴィーナスの誕生」などの非キリスト教的な文化はことごとく禁止されてしまいました。ルネサンスの保護者は、メディチ家からなんとローマ教皇に移り、ルネサンスは最後の盛り上がりを見せることになります。」
big5
「さて、ルネサンス文化もいよいろ後半です。後半のスタートは、教皇のお膝元であるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とその建築主任となったブラマンテ(1444~1514年)から始めましょう。ブラマンテはルネサンス盛期に活躍した建築家でした。既にイタリアのあちこちでルネサンス建築家としての実績を上げている人物でした。1503年、時の教皇・ユリウス2世が現在のバチカンの顔ともいえるサン・ピエトロ大聖堂の建築設計をブラマンテに任命しました。ブラマンテ自身は1514年に完成を見ることなく死去したのですが、その壮大で盛大な聖堂建築には長い年月と莫大なお金がかかりました。さて、ここで問題です。サン・ピエトロ大聖堂の建築費を得るために、教皇が取った政策は何でしょうか?」
名もなきOL
「この話の流れ、前に聞いたような・・・。わかった、免罪符(贖宥状)の販売です。」
big5
「その通りです。「これを買えば人は罰を免除される」という宣伝文句でヨーロッパ各地で売りさばいたのですが、皮肉なことにこれがルターの宗教改革を起こすことになります。この話は、また別の機会に譲るとして、ここではルネサンス文化の話を続けましょう。」
画像提供元:Photo by Futta.NET(無料壁紙配布サイト)
big5
「次に登場するのが、おそらくルネサンスの文化人の中で一番有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)です。レオナルドの代表作は、最後の晩餐やモナ・リザという絵画なので、画家として有名なのですが、それ以外にも彫刻家や技術者という側面も持っているので「万能の天才」とも呼ばれていますね。↓は代表作の「最後の晩餐」です。」
名もなきOL
「これも有名な絵ですよね。映画「ダヴィンチ コード」で取り上げられたこともありましたよね。」
big5
「はい、あの話は面白いですが完全に創作なので真に受けてはいけません。ただ、最後の晩餐が注目されたことは間違いないですね。ただ、この絵は他の絵と比べて随分劣化してるように見えませんか?実は、劣化しているんです。劣化は最近始まったことではなく、完成からしばらくして問題になり、何度も修復が行われています。ただ、その修復のレベルが低かったこともあってうまく行かず、なんと絵の一部を切り取って通気口にする(中央下部、テーブルの下に突然現れる灰色の四角形)、といった措置も行われました。また、これまで登場した画家のほとんどは、時々の有力者をパトロンとして絵を描いていました。言い換えれば、発注された絵を描くことが仕事でした。しかしレオナルドの場合、発注された絵を仕上げるのに彼が納得するまで描き続けるという傾向が強く、納期内に完成できない、というじれが続出。発注者から裁判を起こされたりもしています。レオナルドが天才的な才能の持ち主だったことは間違いないのですが、最後の晩餐における保存の失敗に見られるように、ルネサンス文化の中でも「我が道をゆく」という、かなり特殊な立ち位置にいました。ルネサンス期の芸術家というよりも、現代のアーティストに近い存在だったと私は考えています。レオナルドの詳しい話については、詳細篇を作っているのでこちらをご覧ください。」
名もなきOL
「レオナルドさんって、やっぱりだいぶ変わった人だったんですね。だからこそ、天才的な才能を持っていたんでしょうが・・・」
big5
「ルネサンスの一番の巨匠と呼ばれているのが、次の紹介するミケランジェロ(1475~1564年)です。ミケランジェロは非常に多作なのですが、中でも代表作として有名なのは1541年ごろに完成させた最後の審判です。」
big5
「最後の審判はバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画です。サイズは1370cm×1200cmということで、かなり大きな絵です。その迫力には圧倒されますね。絵の題材はキリスト教なのですが、登場人物は皆筋肉マッチョで写実的というよりは劇的な印象になっています。この頃になると、絵のタッチも変わり始めているのがよくわかりますね。ミケランジェロは当時としては珍しい89歳というご長寿だったこともあり、作品数はたいへん多いです。ルネサンスの最後を飾る画家として相応しいと思います。」
名もなきOL
「レオナルドを個性派芸術家とするなら、ミケランジェロは仕事人画家、というかんじなんですね。ただ、私個人はミケランジェロの絵よりもレオナルドの絵の方が好きですね。」
big5
「さて、ルネサンス最後の芸術家として登場するのがラファエロ(1483~1520年)です。代表作は1510年に完成させた↓のアテナイの学堂です。」
アテナイの学堂
名もなきOL
「この絵もよく見ますね。ラファエロさんの作品なんですね。」
big5
「ラファエロは幼少時に両親を亡くし、生活のために画家工房に弟子入りしました。そこで才能を発揮し、1508年(この年ラファエロ25歳)にはサン・ピエトロ大聖堂の建築主任であった上述のブラマンテによって教皇・ユリウス2世に気に入られ、「教皇庁の芸術家」という地位を与えられました。若くして立身出世を成し遂げたわけです。↑の「アテナイの学堂」は、ヴァチカン宮殿の「署名の間」という部屋に描かれたものです。」
名もなきOL
「納期を守らずに「我が道を行く」レオナルドさんとは、だいぶ違う印象ですね。」
big5
「ただ、ラファエロは天寿には恵まれず、1520年にほぼ満37歳で死去しました。ラファエロは、後世の画家らの評価がたいへん高かったこともあり、中には「ラファエロの死によりルネサンスは終わった」という意見を言う人も多いそうです。」
名もなきOL
「どうして後世の画家の間でラファエロさんの評価は高かったんですか?」
big5
「理由はいろいろあるようなのですが、『教養として知っておきたい名画BEST100』では、このような説を紹介しています。
ラファエロは自分の作品の「版画」を大量に作らせてヨーロッパじゅうに流布させた。ラファエロは、精巧な贋作版画の作者として有名なマルカントニオを雇い、自身の作品の複製版画を制作させた。これによってラファエロの作品の版画は容易に入手できるようになり、後世の画家はラファエロの作品を手本として絵を学んだ。
という話です。」
名もなきOL
「もしこの話が本当なら、ラファエロさんはそういう意味でもやり手だった、ということですね。せっかく素晴らしい作品を残しているのに、そういう俗っぽいところがあると私はガッカリしてしまいますね。」
big5
「最後に、ルネサンス期の絵画につて、美術評論家の山田五郎氏がYou tubeで解説動画を上げていますので、紹介します。大学入試センター試験の範囲は超えていますが、たいへん面白く、わかりやすく説明されているので、オススメです。」
big5
「ルネサンス文化とは言えないのですが、ルネサンス期にヨーロッパでは重要な発明品があったので、最後にグーテンベルク(1394?〜1468年)の活版印刷術の話をしておきます。グーテンベルクはドイツの人で1455年頃に「グーテンベルク聖書」という、活版印刷術で制作された聖書を出版した、と考えられています。そして、活版印刷術を発明したのがグーテンベルクだ、と言われています。ただ、本当にグーテンベルクが発明者なのかというと、そこまでは明らかにされておらず、謎は多いままです。また、印刷という手法はグーテンベルクが世界初というわけではなく、現時点で最古の印刷物と確認されているのは、奈良の法隆寺にある「百万塔陀羅尼」という書物です。そういう話もあって、「グーテンベルクの活版印刷術」については、その歴史的価値は問われています。
ただ、この頃からヨーロッパにおいて印刷術が普及し始めたのは事実であり、それに伴って本の価格も従来の20分の1ほどに抑えられたました。これにより、従来よりもより多くの人々に「本」が届くようになり、情報の共有度は大きく向上した、という点はとても重要です。」
名もなきOL
「今では本屋さんで本は気軽に変えますし、それにインターネットも発達して世界中のニュースがほぼリアルタイムで見ることができますし、勉強だってだきますからね。情報が広まる、というのはとても重要なことですよね。」
big5
「そのとおりです。こういった背景の中で、時代は「宗教改革」を迎えることになるわけですね。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、ルネサンス文化のネタはたまに出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」
平成30年度 世界史B 問題3 選択肢@
・フィレンツェは、綿織物工業で栄え、ルネサンスの中心となった。〇か×か?
(答)×。「ルネサンスの中心となった」のは正しいですが、栄えた要因は「綿織物工業」ではなくメディチ家などのが手掛けた「金融業」や、毛織物工業です。
令和3年度 世界史B 問題12
・「デカメロン」の作者の名は?また、この時代の文化の特徴として正しいのはどちらか?
(作者名)あ:ペトラルカ い:ボッカチオ う:エラスムス
(文化の特徴)S:ダーウィンの進化論の影響を受けている。 T:人文主義の思想が基調となっている。
(答)ボッカチオと「人文主義の思想が基調となっている」。上記の通りです。
令和3年度 世界史B 問題13
・(問題12の続き)「時は主の御生誕1348年のことでございました。イタリアのいかなる年に比べてもこよなく高貴な都市国家フィレンツェにあの(ア)が発生いたしました。(後略)」(ア)に当てはまる病気は何か?
(病の名称)え:コレラ お:ペスト(黒死病)
(答)ペスト(黒死病)。上記の通りです。デカメロンの内容を知っていれば簡単。そうでなければ、1348年という年代から推測することになる。選択肢は2つなので、ペストだと気づきやすいとは思う。
広がる世界・変わる世界 目次へ戻る
この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。