Last update:2023,AUG,12

広がる世界・変わる世界 人物篇

マルティン・ルター(Martin Luther)

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「今回は「広がる世界・変わる世界」の人物篇ということで、マルティン・ルターについて詳しく見ていくぜ!」
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「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。なお、本編「ルターの宗教改革」をまだ見ていない方は、先にこちらを読んでおくことをお勧めします。」

Lucas Cranach (I) workshop - Martin Luther (Uffizi)マルティン・ルター 制作者:Lucas Cranach the Elder 制作年:1529年

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「ルターは歴史、特にカトリック世界の歴史に途方もない影響を与えた人物だからな。その人となりを知っておくのは、大きな意味があると思うぜ。
さて、まずはルターの年表から見ていこうか。」

年月 ルターのイベント 世界のイベント
1483年 11月10日 ドイツ中北部のアイスレーベンにてルター誕生 父・ハンス(農民出身の鉱山夫)
1492年 コロンブスがサンサルバドル島に到達
1506年 (23歳)エルフルト大学で法学を学んだ後、アウグスティヌス会に入会
1507年 (24歳)司祭になる
1512年 (29歳)ヴィッテンベルク大学で神学を教える
1515年 (32歳)この頃、信仰義認説を意識する
1517年 (34歳)10月31日 95箇条の論題を掲示
1518年 (35歳)
3月 「免責についての説教」などを発表
4月 ドミニコ会がルター糾弾運動を開始
1519年 (36歳)6月~7月 神学者ヨハン・エックとライプツィヒで討論 カール5世即位
1520年 (37歳)12月 教皇がルターに破門を警告する文書を送るが、ルターはこれを焼却
1521年 (38歳)
1月 ルター破門が決定
4月 カール5世がヴォルムス帝国議会を開催してルターに自説撤回を求めるもルターは断固拒否
5月3日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世がルターをヴァルトブルク城にかくまう
1522年 (39歳)3月1日 ルター、フリードリヒ3世が引き留めるもヴィッテンベルクに帰って活動を再開 帝国騎士の乱 始まる
1525年 (42歳)
5月5日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世死去
6月13日 元修道女のカタリナ・フォン・ボラと結婚
ドイツ農民戦争 終結
1526年 (43歳)第一回シュパイエル帝国議会でルター派が容認される モハーチの戦いでオスマン帝国がハンガリーを征服
(印)ムガル帝国成立
1529年 (46歳)第二回シュパイエル帝国議会でルター派が禁止される
10月 マールブルクでルターとツウィングリが会談し、新教徒らが妥協しながらも団結
第一次ウィーン包囲
1530年 (47歳)メランヒトンが起草したアウグスブルク信仰告白が発表されるも棄却される
1531年 (48歳) ルター派がシュマルカルデン同盟を結成
10月11日 ツウィングリがカッペルの戦いで戦死
1533年 (50歳) ピサロがインカ帝国を征服
1534年 (51歳) ヘンリ8世が首長法制定しイギリス国教会成立
1541年 (58歳) カルヴァンがジュネーヴで宗教改革開始
1544年 (61歳) イタリア戦争 終結
1545年 (62歳) トリエント公会議 始まる
1546年 (63歳)2月18日 ルター、アイスレーベンにて死去

マルティン・ルター 95箇条の論題掲示前

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「さて、まずは95箇条の論題を発表する前のルターについて見ていこう。まず生まれだが1483年11月10日、場所は現在のドイツ中北部にあるアイスレーベンだ。父親のハンスは農民出身の鉱山夫。ルターはエルフルト大学で法学を学んだ後、1506年(23歳)にアウグスティヌス会に入会し、1507年(24歳)で司祭に、1512年(29歳)にはウィッテンベルク大学で神学を教えるようになった。ルターは何度か旅行をしているが、それ以外はずっと小都市ウィッテンベルクで生活したそうだ。1515年から1516年にかけて、ルターは信仰や教義など、神学上の論点を深く思索するようになり、その結果得た結論は「人は信仰にっよてのみ救われる」という信仰義認説だ。キリストの死と苦しみ、そして神の恵みを通じて人類は贖罪されるという教義を自身の神学理論の中心に据えたので、金を払って贖宥状を買いさえすれば罰は許される、などという話は言語道断の理論であるわけだな。」
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「ルターは大学で神学を教えるくらいですからね。その後の宗教改革の争乱における態度を見ても、まさに「ひたむきな宗教家」といった感じがしますよね。」
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「余談だが、ルターは1517年よりも前にローマを訪れたことがあったそうだ。当時のローマはルネサンス盛期であり、華やかな宗教絵画で溢れていた時代だったわけだ。ルターが目にしたローマはルネサンス時代の芸術の都で、美術の歴史から見れば貴重な史料だし、現代経済から考えても貴重な観光資源となるものだが、ルターにとっては「聖なる都」とは程遠い、腐敗と堕落の都だったのかもな。」

95箇条の論題

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「さて、次に1517年10月31日にルターが掲示した95箇条の論題の主な内容を見てみよう。」
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「普段の歴史の授業などでは、具体的な内容まではなかなか見る時間がないですからね。ちなみに、これに基づいて、10月31日はドイツの一部の州で祝日に指定されています。」

<95箇条の論題>
5.教皇は自らが課した罰か、または教会法の定めによって課した罰以外は、いかなる罰を赦免することもできないし、赦免しようとしてもならない。
21.したがって、教皇の贖宥(免罪)によって、人間はすべての罰から放免され、救われるとのべる贖宥説教者たちは、誤りをおかしている。
32.贖宥状によって自分たちの救いが得られたと信ずる者たちは、それをといた説教師とともに、永遠の罪を受けるであろう。

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「21番と32番で、贖宥状について明確に否定するばかりか、売る人も買う人も永遠の罪を受けるだろう、と宣言している。これでは、贖宥状を売っている聖職者の面目は丸つぶれだろうな。ルターはこの論題をドイツの首座司教であるマインツ大司教のもとにも送っている。マインツ大司教は、この論題をローマに送ると共に、ルターが自説を説教して流布させることを禁止するよう求めた。」
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「内容が明らかにカトリック教会を批判していますからね。このようなルターの疑問が各地に広まるのを防ごうとしたんでしょうね。」
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「しかし、この時既に95箇条の論題はラテン語からドイツ語に翻訳されており、当時既に誕生していた活版印刷術によってドイツ各地へ広まっていった。こうして、後に「宗教改革」と呼ばれる歴史上の大イベントに発展していったわけだな。」

メランヒトンとカトリックの反発

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「ルターの95箇条の論題に対し、カトリック側は当然のように反発した。」
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「まぁ、当然ですよね。」
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「しかし、ルターは一歩も引かなかった。年が明けて1518年3月、ルターは「免責についての説教」をはじめ、自分の考えを説明する様々な文書を発表し、聖書からも引用して95箇条の論題を援護した。教皇と教会の財務に関する問題に対するルターの批判はますます過激になっていった。4月になると、ルターに反撃する動きが出てくる。フランクフルト・アン・デル・オーデルで開かれた会議で、ドミニコ会の修道士であるヨハン・テッツェル(贖宥状販売者)がルターについての不満を述べたことがきっかけとなり、ドミニコ会はローマで団結してルター糾弾に立ちあがった。6月には、新しい教えを勝手に流布したこと、さらには異端の容疑でルターに対する裁判が始まる。教会も動き出した。10月12日から14日にかけて、ローマ教皇特使としてカジェンタ枢機卿がルターのもとに派遣された。カジェンタ枢機卿はルターに出頭するよう求めるが、ルターは自説を棄てることを断固拒否だ。」
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「ルターってよほど信念が強いんでしょうね。自分の意思を曲げようとは絶対にしませんね。」
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「並外れた意志の強さが無ければ、カトリック教会に正面から論争を仕掛けることはできないだろうな。
一方、ルターを支援する人物も現れた。ウィッテンベルク大学のギリシア語教授であるメランヒトン(Melanchthon 21歳)だ。本編では文化のページで人文主義者の一人として登場しているが、メランヒトンはルターの協力者として要所要所で活躍している。
余談だが、メランヒトンの本名は「Schwarzerd(黒い土)」なんだが、ギリシア語教授らしく、それをギリシア語化して「メランヒトン」と自称するようになった。それくらい、ギリシ語とギリシア文化を入れ込んでいたことがわかるな。また、大おじ(母方のおじ)にヘブライ語研究で有名なロイヒリンの薫陶を強く受けている。メランヒトンは、ルターに次ぐ指導者として活躍するようになる。ルターとメランヒトンの間に、意見の相違がまったく無かったわけではありませんが、二人の信頼関係は最後まで続いたそうだ。
1519年1月には、神学者のヨハン・エック(Johannes Meier von Eck:33歳)がルターに反論する多数の論争集を発表した。エックは博識で知られるドイツのカトリック神学者だ。ちなみに、エック本人はルターの宗教改革に徹底して反対する一方で、カトリック教会の弊害も厳しく批判している。それはさておき、ここまで来るとさすがのルターも疲れが見えたのか、同じく1月に教皇特使のカール・フォン・ミルティッツと、今後は双方共に意見を公的に発表しないことで合意に至りった(アルテンブルク協定という)。」
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「もしここで終わっていたら、宗教改革は後の時代に別の形で発生したことでしょうね。」

ライプツィヒ討論とルター破門

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「1519年の6月27日から7月16日にかけて、ライプツィヒでルターとエックの神学論争が行われた。仲介者はザクセン公ゲオルク、審判はパリ大学、エルフルト大学の神学者だ。当初は、恩恵と自由意志についての議論が交わされたが、エックがルターを追及しはじめると、ルターの口からカトリック教会に攻撃の口実を与える格好の材料が出てきた。ルターは
1.教皇も公会議も、誤りを犯していること
2.教皇首位権は誤りであること
3.(異端として処刑された)ウィクリフやフスの説にも真理があること
などを認めた。これは、教皇側にとって容認できない考え方だ。教皇は教会のトップでなければならない。教皇も公会議も、決して誤ったことを決定したりしないし、異端とされた説に真理があるなど、教会にはとうてい認めらるものではない。教皇側は、ライプツィヒ討論におけるルターの発言をルター破門の材料としたわけだ。」
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「「破門」というカトリック教会の脅しに対しても、ルターは一歩も引きませんでした。12月10日、ルターはウィッテンブルクのエルスター門の前で大勢の観衆が見守る中、破門を告げる教皇の勅書を焼き捨て、さらに同じ火で教会法典を焼き払いました。これで、ルターの破門は決定的となりました。
翌1521年1月5日、正式にルター破門を通知する回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム」が発行され、ルターは「異端」と宣言されました。この時、ルターは38歳でした。」
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「しかしその一方で、メランヒトンのような人文主義者らにはルターを擁護する者も多く、ルターの説にも一定の支持者はいた。そこで、両者の調停に乗り出したのが時の神聖ローマ皇帝・カール5世(1521年で21歳)だ。4月17、18日に帝国自由都市の一つであるヴォルムスで開催された帝国議会にルターを呼び出した。カール5世はルターに自説の撤回を要求したが、ここでもルターはそれを断固拒否。結果、ルターに帝国追放令が出され、一切の法的権利が剥奪されることになったわけだ。」
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「カール5世の調停も失敗に終わったわけですね。ルターは強気ですが、こうなてしまっては、ルターはドイツ内で(神聖ローマ帝国内で)これまでのように生活することは期待できませんでしたし、いつ何どき命を狙われるか、わかったものではありません。」
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「ここで、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(1521年で58歳)の登場だ。」

Portrait of Frederick the Wise by Lucas Cranach the Elderザクセン選帝侯フリードリヒ3世 制作者:Lucas Cranach the Elder 制作年:1530〜1535年

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「ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は「賢公」の異名を持っている。なので、ここでは「賢公フリードリヒ」と記載することにするぞ。5月3日、ルターはウィッテンブルクに帰る途中で何者かによって拉致された、ように見せかけて賢公フリードリヒに保護された。当時、賢公フリードリヒは神聖ローマ帝国内の諸侯の中でも最有力者と考えられていた大貴族で、皇帝であるカール5世や教皇からも一目置かれる存在だった。ルネサンス的教養に溢れており、自領に多くの芸術家を招く他、1502年にウィッテンベルク大学を設置し、1508年にルターを神学の教授に迎えていた。また、カール5世の神聖ローマ皇帝即位にも協力している実績があり、ルターにとっては、たいへん頼りになる庇護者だった。フリードリヒはルターに「ユンカー・イェルク(騎士ゲオルグ)」という偽名を与えて自領のヴァルトブルク城にかくまった。ルターはそこで新約聖書をラテン語からドイツ語へ翻訳するという、これまでになかった活動をしたわけだな。5月8日にヴォルムス勅令が出され、ルターとそれに追随する者は「帝国の無法者」だ、と宣言されましたが、賢公フリードリヒとルターにはあまり影響はなかったようだな。ルターは、カトリックが定める様々な制度(例えば、告解や赦罪、聖職者の独身禁欲主義など)を批判を続け、これらの批判は少しずつ諸侯や民衆に浸透していった。
1522年3月1日、ルターは賢公フリードリヒが引きとめるのを固辞し、ウィッテンブルクに戻った。そして、ウィッテンブルクの人々に暴力・武力を行使する改革を否定する「神の言葉の説教」を行い、説教や著述活動を継続していった。」
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武力行使による改革は否定、というところがルターの思想の重要ポイントですね。ルターはあくまでキリスト教の正しい姿を追求していただけで、現在の社会構造や問題点を解決しようとしたわけではありませんでした。そのため、ルターの宗教改革が口火となった帝国騎士の乱やドイツ農民戦争にはキッパリと否定しています。」
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「ドイツ農民戦争を主導したミュンツァーとも、後半は喧嘩別れしているからな。「現世の主権は神の摂理であり、これに刃向かうのは涜神行為である」といって、社会構造の変革などもってのほか、という見解だ。そういう点からも、ルターはあくまでキリスト教のあるべき姿、具体的には聖書に基づくキリスト教を主張しただけで、革命家や社会活動家とは違った存在だった、というわけだな。」

1525年 ルターの結婚

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「ドイツ農民戦争が終わって間もない1525年6月13日、ルター(1525年で42歳)は元修道女のカタリナ・フォン・ボラと結婚した。それまで、ルターは独身でいたのだが、聖書には「聖職者は独身でなければならない」というルールは書いていない。なので、ルター派では聖職者が結婚してもOKになっているのが特徴の一つだな。」
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「妻帯が禁じられているのが常識の世界で、自ら結婚するというのは、日本の鎌倉時代の親鸞と似ていますね。」
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「こういう「原典には書いていないけど、いつの間にか常識になっているルール」というのは、どこの社会にもありそうな話だよな。いろいろな形があるが、いわゆる「○○の伝統」ということで、元々の由来や本来の目的が何だったかは曖昧でも伝統だから続ける、というものだ。調べてみると、このようないわゆる「伝統」は短かったりするんだけどな。
こういうことに疑問を持って、原点に立ち返る、というのは宗教に限らず、いろんな点で重要だと思うぜ。」
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「そうですね。ちなみに、ルターは晩婚でしたがカタリナとの間に6人の子(3男3女)が生まれました。」

1529年 マールブルク会談

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「さて、時は1529年。第二回シュパイエル帝国議会で、カール5世が手のひらを返してルター派を禁止とし、それに対してルター派が抗議して「プロテスタント」と呼ばれるようになった後、カトリック教会に対抗するため、ルター派をはじめとした新教徒は団結力を高める必要に迫られた。」
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「ルター派が提携相手として考えたのが、スイスで宗教改革を進めていたツウィングリでした。」

Bild Zwingli Asperツウィングリ 制作者:Hans Asper 制作年:1549年

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「両者はマールブルクで会談することとなった。ドイツ側の主な出席者はルター、メランヒトン、スイス側からはツウィングリらが、これに新教を支持する諸侯や帝国自由都市の代表など約60名が集まった。実は、これよりも前にルターとツウィングリは自分たちの信仰について打ち合わせをしたことがあったんだ。2人の考え方はほぼ同じだったのだが、一つ違うのが聖餐におけるパンと葡萄酒の扱いだった。ルターは、カトリックと同様に聖餐におけるパンと葡萄酒はキリストの血と肉である、としたのに対し、ツウィングリはそれらは単なる象徴に過ぎない、と考えていたため、両者の考え方は一致することはなかったんだ。」
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「私から見ると、そんなのは大した違いじゃないんじゃないか、と思ってしまいます。私がキリスト教徒じゃないからそう思うのかもしれませんが・・・」
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「ルターのように理論立てて信仰を体系化している人には、少しのズレも許しがたいんだろうな。1529年のマールブルク会談でも、両者のこの違いが埋まることはなかったんだ。しかし、今回は2人に言い争う余裕はなかった。カトリックは皇帝が中心になって新教徒を潰しにかかろうとしているんだ。そこで、ルターもツウィングリもそれぞれ譲歩することで両者は協定書を作成し、これを新教徒らの信仰表明という形でまとめたんだ。言うなれば、ルター派とツウィングリ派は、不完全ながらもほぼ提携した、というところだな。」
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「この話にも、ルターの性格がしっかりと表れていますね。ルターの考えとツウィングリの考えはほぼほぼ同じであるものの、パンと葡萄酒の扱いの違いのために完全な提携はできなかったわけですからね。ただ、これ以降の宗教改革は、思想家・宗教家であるルターの活動よりも、新教 vs 旧教という新しい対立軸を加えた世俗勢力の抗争で進められていくことになります。このあたりで、歴史の教科書ではルターは退場することが多いですね。」
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「それでは、ここまでで登場した当時の著名人たちの思想の違いをまとめみよう。だいたい以下のようになるな。」

人物 考え方
エラスムス 『愚神礼賛』などでカトリック教会の腐敗を批判。でも、ルターのように新宗派を作るのは行き過ぎ。カトリックの腐敗を正せばよい。
ルター 聖書至上主義。教皇をはじめとしたカトリック教会が勝手に決めたルールは根拠無し。人は信仰によってのみ救われるので、自分も自分の信念に従って信仰を続ける。(=ルター派という新宗派の形成)
ただ、既存の社会構造は神の摂理によるものであり、武力革命などは認められない。
ミュンツァー カトリック教会の教えはまやかし。カトリックが支配する世の中は間違っている。実力行使で世の中の不正を正し、世の中を正しい姿にする。⇒ドイツ農民戦争

1546年 ルターの死

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「マールブルク会談から17年経った1546年、この年63歳になるルターは、故郷であるアイスレーベンで静かに息を引き取った。宗教改革の引き金を引いた張本人にしては、平和的で静かな死を迎えたのはちょっと意外に感じる人も多いだろう。」
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「これは私の私見ですが、ルターはわりと単純で、ひたすら「自分が信じる正しいキリスト教」を追い求めた人だと思います。ただ、カトリックではない新しい宗派を作ることは、既存の社会をひっくり返すほどのエネルギーを持った重大な大イベントです。実際、ミュンツァーは社会革命を志してドイツ農民戦争を戦いましたし、ツウィングリはチューリヒを新教の都市に作り変えました。キリスト教の新宗派を作るって、これくらいの影響力を持っている一大事業なんですよね。ところが、ルターはそのような一大事業には縁遠く、旧教vs新教の争いからは常に一歩引いて個人の宗教活動に終始していました。」
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「そうだな。そして、ルターは自分自身の信念に正直というか、簡単に言うとかなりの頑固者だったとも思う。現代人にもわかりやすいエピソードとしては、コペルニクス地動説についても
「聖書にはそんなことは書いていない。太陽は東から昇って西に沈んでいるのは明白なのに、なぜ動いているのは太陽ではなく地球になるのだ」
という趣旨の発言をしてコペルニクスを愚か者扱いしている。こういう話に関しては、当時の一般的な知識人とあまり変わらないようだな。」
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「ただ、そこまで愚直に聖書至上主義を唱えられたからこそ、一般の人にも受け入れやすい新宗派であるルター派が根付き、ルターの死後1555年にアウグスブルクの宗教和議で、ルター派は一応受け入れられた、という結果になったんじゃないか、と思いますね。」


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参考文献・Web site