Last update:2022,FEB,12

自由と革命の時代 詳細篇

カルボナリの活動

あらすじ

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「さて、今回は「自由と革命の時代」の「詳細篇」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!本編でいうと、「ウィーン体制とラテンアメリカ諸国の独立」の詳細篇、にあたるぜ。まだ本編を見ていない、っていう人はぜひ見てくれよな。」
big5
「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」

<目次>
1.カルボナリ(炭焼党)の活動
2.ナポリ革命 1820年〜1821年
3.ピエモンテ革命 1821年
4.中部イタリア革命 1831年


カルボナリ(炭焼党)の活動 1809年〜1831年頃


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「まずイタリア統一運動(リソルジメント)の詳細を見ていくうえで、欠かせないのが秘密結社・カルボナリ(carbonari)の結成だな。カルボナリを日本語に訳すと「炭焼き」になるので、「炭焼党」と書くこともあるが、ここでは「カルボナリ」と記載するぜ。
カルボナリが結成されたのは、1809年頃、南イタリアで結成された、と考えられている。名前の由来は、山の中にある炭焼き小屋に偽装した集会所に集まっていた、ところから来ているそうだ。この頃、イタリアはナポレオンの支配下に置かれていたので、カルボナリの当初の目的は「フランス支配への抵抗」だったようだな。」
big5
カルボナリは秘密結社なので、今でも不明なところは多いみたいですね。元々はフリーメーソンの一派だった、とも考えられているそうです。入社するのには儀式を行い、大親方、親方、徒弟といったランク付けもされていたそうですね。メンバーの多くは、弁護士、大商人、職人、ナポレオン戦争に従軍した元兵士などで構成されており、当初の目的は「イタリア統一」というよりも、外国支配からの脱却(民族的独立)と憲法の制定にありました。
small5
「最初から「イタリア統一」を考えて作られた組織ではなかった、というところがポイントだな。そして大事なのは特に「憲法を制定(立憲主義)」という部分だろう。ナポレオンが敗北し、ウィーン体制が敷かれると、イタリアはナポレオンによる征服の前の状態、つまり小国乱立の分裂状態に戻った。復活した国の多くは、ウィーン体制の原則どおりに「保守」なので、憲法制定と立憲主義なんてのはほとんど受付られない。このような状況の中で、秘密結社・カルボナリの目的は、革命を起こして立憲王政を樹立することになったわけだ。」
big5
「そんな中、カルボナリが最初に蜂起したのが1820年7月、ナポリでの蜂起ですね。本編では「自由と革命の時代 ウィーン体制とラテンアメリカ諸国の独立」で扱った話ですね。」
small5
「そうだな。詳細篇だから、もう少し詳細を見ていこう。」

ナポリ革命 1820年〜1821年

1820年1月のスペイン立憲革命に触発されたナポリのカルボナリが、同じ1820年7月にナポリで決起したのが最初の蜂起となった。ナポリ革命と呼ばれている事件だな。当時のナポリは王国で、国王はスペイン・ブルボン家のフェルディナンド1世(この年69歳)だ。この時、南イタリアは両シチリア王国が統治していた。両シチリア王国はシチリア王国とナポリ王国で構成されており、両方とも国王はこのフェルディナンドだ。ただ、王国としては、ナポリ王国、シチリア王国の2つで構成される両シチリア王国という、なんとも面倒な構成になっていた。そのため、フェルディナンド1世という名前は両シチリア国王としての名前で、ナポリ国王としての名前はフェルディナンド4世、シチリア国王としての名前はフェルディナンド3世という、一人で1世、3世、4世という名前を持っているんだ。混乱の元だよな。ここでは、両シチリア国王としての名前のフェルディナンド1世と表記するぜ。」

Ferdinand IV by San Gennaro
両シチリア王 フェルディナンド1世の肖像  制作者:Vincenzo Camuccini 制作年代:1818-1819

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「さて、話をナポリ革命に戻そう。ナポリ革命を担ったのはカルボナリだが、これに下級将校らも加わっていた。ナポリ革命は流血事件もなく成功し、フェルディナンド1世は彼らが要求する「憲法と自由」をそのまま認め、憲法も発布した。この憲法はスペイン立憲革命で認められたカディス憲法のイタリア語版だった。スペイン立憲革命を模範としていることがハッキリわかる話だよな。
この憲法に基づいて、ナポリ王国とシチリア王国でそれぞれ議会が設置され、議員は選挙で選ばれた。ナポリ議会は74人中、72人がブルジョワ階級出身者で残り2人が貴族、シチリア議会もほぼ同様でほとんどがブルジョワ階級出身者だった。」
big5
「ここまでは、ナポリ革命は成功していますね。」
small5
「そうだな。だが、このような革命は一切認めないのが、ウィーン体制であり、メッテルニヒの思想だ。10月のトロッパウで開かれた会議で、フェルディナンド1世は「憲法は自分の意思に反して、強制的に認めさせられたもの」と証言したうえでオーストリア軍の支援を要請し、メッテルニヒは軍事介入を決定。年が明けた1821年3月にオーストリア軍がナポリに侵攻した。ナポリ政府は戦ったのだが敗れ、ナポリ革命はオーストリアによって鎮圧されて失敗した。落ち延びたカルボナリらは、散り散りになってしまった、という経緯だな。」
big5
「ウィーン体制下における、保守派と自由主義派の争いの典型的な事例の一つですよね。」

ピエモンテ革命 1821年

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「それと、本編では省略されてるのがピエモンテ革命だな。詳細篇なので、これも経緯を見ていこう。
北イタリアのピエモンテ地方は時サルデーニャ王国の領土だったが、中心都市のトリノでカルボナリとこれに加担した一部の軍人らが蜂起した。革命勢力の勢いは凄まじく、時のサルデーニャ国王・ヴィットーリオ=エマヌエーレ1世は退位させられ、代わりに弟のカルロ・フェリーチェがサルデーニャ国王に即位した。」

Carlos Felix de Cerdena, por Jean Baptiste Isabey
カルロ・フェリーチェ  制作者:Jean-Baptiste Isabey 制作年代:1821年

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「国王が交替させられる事態にまで発展しているところを見ると、ナポリ革命よりも急進的だったみたいですね、ピエモンテ革命は。」
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「そうだな。実際、ピエモンテ革命政府はイタリア王国を名乗って、オーストリアに対して宣戦布告までしている。ピエモンテ革命は、ナポリ革命のように立憲君主制を樹立すれば目的達成ではなく、もっと大きな目標を持っていたわけだな。しかし、新国王のカルロ・フェリーチェは、このような革命政府をまったく受け付けない保守派だった。また、革命勃発時にカルロ・フェリーチェはモデナにいて不在だった。カルロ・フェリーチェにとっては、自分が留守中に勝手に革命が起きて、勝手に国王に即位させられた、というところだっただろう。そのため、カルロ・フェリーチェはオーストリアに軍隊派遣を要請。4月にはオーストリア軍がピエモンテに侵入し、王党派の反乱も起こって革命政府は崩壊。ピエモンテ革命は短期間で鎮圧されてしまった。イタリア統一運動の中では重要な事件だが、高校世界史の範囲からは外されることが多いのも、短期間で鎮圧されてしまったことが原因だろうな。」
big5
「まさにそのとおりですね。この頃は、ウィーン体制が始まってまだ間もない頃で、メッテルニヒもオーストリアもまだまだ健在だった時期ですからね。」

中部イタリア革命 1831年

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「そうだな。なので、カルボナリはウィーン体制の秩序を乱す危険分子とみなされて、厳しく取り締まりが行われた。逮捕され、処刑される者も続出したが、それでもカルボナリの活動は続いていた。約10年の月日が流れた1830年、フランスで一大事件が発生する。七月革命だ。七月革命により、保守派だったフランス王・シャルル10世は国外追放され、代わりにルイ・フィリップが即位した事件だ。七月革命は、かつてのフランス革命ほど急進的なものではなかったが、これが引き金になってベルギーが独立し、ポーランドで11月蜂起が起こった。この流れを受けてイタリアでは1831年2月、モデナ公フランチェスコ4世が自身の野望のためにカルボナリを利用しようとしたことから、再び革命が起こった。中部イタリア革命(中部イタリアの反乱、とも呼ぶ)だ。」

Francesco IV Malatesta
モデナ公フランチェスコ4世  制作者:Adeodato Malatesta 制作年代:1831年

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「モデナ公フランチェスコ4世(1831年で52歳)は野心家だった。フランチェスコ4世の妻はサルデーニャ国王・ヴィットーリオ=エマヌエーレ1世の娘だったので、うまいこと世渡りしてサルデーニャ王の地位を狙っていたそうだ。フランチェスコ4世は、これまで弾圧してきたカルボナリを味方につけることで、自分が北イタリアの王となってオーストリアから独立する、というシナリオを描いた。」
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「フランチェスコ4世が作る王国が立憲君主制であれば、カルボナリの要求もおおよそ満たしていることになりますね。」
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「そうだな。なので、フランチェスコ4世とカルボナリの指導者の一人・メノッティは連携することになった。弾圧していた者と、弾圧されていた者が共通の目的を持って同盟する、という珍しい連携になったわけだ。こうして、フランチェスコ4世とカルボナリの蜂起の準備が進んだのだが、この連携はあっけなく崩壊する。フランチェスコ4世の野心はメッテルニヒに気づかれており、メッテルニヒはフランチェスコ4世に警告を出した。これを受け取ったフランチェスコ4世はすっかり怯えてしまい、メノッティらを裏切って情報を漏らし、その結果メノッティらは1821年2月3日に逮捕された。しかし、フランチェスコ4世の裏切りはメノッティらに予測されており、蜂起はもう始まっていた。ボローニャ、パルマ、フォルリ、フェラーラといったイタリア中部の都市で次々とカルボナリらが武装蜂起し、イタリア中部は大騒ぎになった。カルボナリらは、七月革命が起きたフランスの支援を受けられると期待していたのだが、ルイ・フィリップは協力しなかった。メッテルニヒは、再びオーストリア軍を侵入させ、各地の反乱勢力はあっさりと鎮圧されてしまった。カルボナリの蜂起はまたしても失敗してしまったわけだ。」
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「中部イタリア革命の失敗は、カルボナリの活動の限界を象徴しているかのようですね。結局、最後はオーストリアの軍事力で潰されてしまっていますね。結果として、カルボナリの活動は失敗に終わったわけですが、カルボナリの活動はイタリア人に「イタリア人」という民族意識を植え付けることには大きな役割を果たしたのではないか、と思います。そして、もう一つの重大な役割は・・・」
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「そう、マッツィーニによる青年イタリア(Young Italy)結成に繋がったことだな。マッツィーニはカルボナリ党員として参加していたのだが、秘密結社型のカルボナリでは限界がある、と考えて脱退。1831年12月に、亡命先のフランスはマルセイユで「青年イタリア」を結成した。これにより、イタリア統一運動の主役はカルボナリから青年イタリアへ、と移っていくわけだな。」

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