Last update:2024,JAN,27

しのぎを削る列強

分割されたアフリカ

あらすじ

big5
「さて、今回のテーマは「アフリカ分割」です。イギリス・フランス・ドイツ・イタリアを始めとしたヨーロッパ列強によるアフリカ侵略の話です。ヨーロッパ人がアフリカに進出し始めたのは大航海時代です。当時、ヨーロッパにとってアフリカは黒人奴隷や象牙などの供給源でした。取引と航海の安全確保のために沿岸部に拠点を作ることはしましたが、内陸部まで侵入して領土を拡大する、という動きはほとんど見られませんでした。しかし、1800年代後半になると、アフリカは自国の製品を売りさばく巨大な市場としての役割が意識されはじめ、それまで未知の世界であったアフリカ奥地の探検が行われ、最終的にはヨーロッパ列強は先を争ってアフリカ内部に侵攻し、自国の領土拡大を図るようになっていったんです。
高校世界史の教科書や資料集などによく載っている、当時のイギリスのケープ植民地首相のセシル・ローズの下の挿絵がそれを象徴していますね。」

Punch Rhodes Colossus.png
By Link

カイロからケープタウンまで アフリカの土地を支配下に置こうとするセシル・ローズの風刺画
制作者:Edward Linley Sambourne  制作年代:1892年

名もなきOL
「銃を背負ってアフリカにまたがる巨人、という絵ですね。「銃」は軍事力を意味しているので、これはまさに力による征服を示しているわけですね。また、征服の歴史が始まっちゃうんですね・・・」
big5
「残念ながら、この辺りから世界大戦まで、強国が弱国を虐げる弱肉強食の時代が始まります。いつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。」

年月 アフリカ分割のイベント 世界のイベント
1859年 フランス人実業家レセップスによってスエズ運河開削工事が始まる
1865年 リヴィングストンがナイル川水源探索の旅に出発
1869年 スエズ運河完成
1871年 スタンリーがナイル水源探索で行方不明になったリヴィングストンを発見
1875年 イギリス首相ディズレーリがスエス運河を買収
1881年 エジプトでウラービーの革命運動始まる(アラービー=パシャの乱)
1882年 イギリスがエジプトを占領
1884年 アフリカ分割に関するベルリン会議 開催
1885年 コンゴ自由国(ベルギー王私領) 成立
1890年 セシル・ローズがケープ植民地相に就任 3C政策始まる ビスマルク辞職 ヴィルヘルム2世の親政始まる
1896年 アドワの戦い イタリアがエチオピアに大敗
1898年 ファショダ事件
1899年 南アフリカ戦争(南ア戦争) 開戦
ドイツがバグダード鉄道敷設権獲得 3B政策始まる
1902年 南アフリカ戦争(南ア戦争) 終結

スエス運河買収とエジプト占領

big5
「最初の話は有名なスエズ運河の話ですね。地中海と紅海を繋ぎ、ヨーロッパとインド・アジアを結ぶ航路を大幅に短縮できるスエズ運河ができたらとても便利だ、という話は、少なくともナポレオンの時代からありました。しかし、当時の技術では不可能と判断されて棚上げになっていたんですね。それから時が経ち、技術も進歩したことで運河開削は可能だ、と信じたフランス人のレセップスが、ムハンマド=アリーの後継者であるサイードから許可を受けて、1859年から工事を始めました。」
名もなきOL
「スエズ運河ができれば、船の移動時間が大幅に短縮できますよね。スエズ運河を抑えて、通行料とか取れば大儲けできそうですよね。」
big5
「そうですよね。そういう目論見でスタートしました。10年に渡る難工事を経て、1869年にようやく開通。フランス皇帝ナポレオン3世と皇后のウジェーヌも出席して盛大な開通式典が執り行われました。これで、エジプトの国家財政は大いにうるおい、運河を管理する株式会社の株を持つフランス財政も大いに潤うだろう、そう思われました。」
名もなきOL
「ということは・・・そうはならなかったんですね?」
big5
「はい。確かにスエズ運河はエジプト財政に貢献したのですが、エジプト国家全体で考えると、欧州列強に結ばされた関税自主権がない不平等条約のせいで、むしろ財政は厳しくなってしまったそうです。困ったエジプトは、ついにドル箱であるスエズ運河の株式を売却してお金を工面しようとしました。これが1875年のことです。」
名もなきOL
「なんか、話が突然現代の企業みたいになりましたね。業績不振で苦しむ会社が、儲かる事業を売却して当座をしのごうとする、っていう・・」
big5
「この情報を仕入れた当時のイギリス首相・ディズレーリ(この年71歳)は、議会の承認を得ないまま株式の購入を決定しました。これにより、スエズ運河の管理権は約半分をイギリスが握ることになり、イギリスによる帝国主義政策の基盤としての役割を果たすことになったわけです。
ちなみにこの時、ディズレーリに株式購入資金を貸し出したのが、有名なユダヤ人財閥のロスチャイルド家です。国際的で巨大な金融機関として力を持ち、世界史の裏側で大きな影響力を持っていた、と言われていますね。
ともあれ、こうしてスエズ運河の管理とそこから上がる利益はイギリスとフランスのものとなり、エジプトは自国にの土地でありながらほとんど利益を得られない、という状況になりました。それだけでなく、エジプト政府の財政は外国からの借金に依存しなければならないほど苦しくなり、債権者となったイギリスやフランスの顧問を政府に入れざるを得ないなど、次第に苦しくなってきます。」
名もなきOL
「やっぱりドル箱事業を売ってしまうと、その時はお金がいっぱいで潤っても、その後は厳しくなるんでしょうね。」
big5
「この状況に異議を唱え、反対運動を展開した人物がいました。エジプト政府の軍人・ウラービーです。当初、ウラービーはムハンマド=アリー朝がトルコ系軍人ばかりを優遇し、アラブ系軍人はほとんど昇進できないという軍組織内の差別に対して抵抗して革命を起こしたのですが、やがてこれがイギリスやフランスの支配を排除しようとするエジプト民族運動にまで発展しました。この事件は、以前はアラービー=パシャの乱と呼ばれていました。これはイギリスの視点から見た表現ですね。なので、最近ではこの事件は「革命」の部類になるとみなされてウラービー革命と呼ばれたりしますね。」
名もなきOL
「なるほど、歴史イベントの名前の付け方にも歴史があるんですね。」
big5
「イギリスは軍を派遣してウラービーの一派を攻撃。翌年の1882年にはスエズ運河も占領し、敗れたウラービーはセイロン島に流刑となりました。以後、スエズ運河は一時的にイギリス軍が駐留して安全を確保する、ということになりました。イギリスが軍を置いてスエズ運河を管理するのはあくまで「一時的」という扱いだったのですが、「一時的」な扱いが取られたのはなんと約60年。第二次大戦後の1953年にスエズ運河がエジプト国有化されるまで、イギリス軍が駐留を続けました。」
名もなきOL
「イギリスは、こういうグローバルな戦略が上手いですね。地中海の出口のジブラルタル海峡も、未だにスペイン側の一部をイギリス領として持っていますし、スエズ運河もなんだかんだで軍を置いて守っていたんですね。」
big5
「こうして、スエズ運河はイギリス軍が管轄し、エジプト政府はイギリスとフランスの影響を受ける、という状態になりました。ムハンマド=アリーが実力でオスマン帝国から事実上の独立を勝ち取ったエジプトでしたが、約30年後には英仏の影響を色濃く受けた半独立国に転落してしまいました。さらに時が経ち第一次世界大戦がはじまった1914年には、正式にイギリスの保護国となります。
このように、イギリスによるスエズ運河の株式買収とその後のスエズ運河駐留は、イギリスの帝国主義の始まりと考えられています。また、同時にヨーロッパ列強によるアフリカ分割の先駆け的な事件となりました。」

コンゴ自由国とアフリカ分割に関するベルリン会議

アフリカ探検

big5
「さて、続いてはヨーロッパ列強によるアフリカ分割政策の代表例ともいえるコンゴ自由国ビスマルクが開催したベルリン会議の話です。ちなみに、このベルリン会議は、1884年に開催されたもので、内容はヨーロッパ列強がケンカしないで仲良くアフリカを分割支配しましょう、というものです。1878年に同じくビスマルクが開催した露土戦争の講和条約・サン=ステファノ条約(『ロシア アレクサンドル2世の農奴解放令と露土戦争』参照)を修正するためのベルリン会議とは違いますので、混同しないように注意してください。開催年も近いので、ごっちゃになりがちです。」
名もなきOL
「ひっかけ問題のネタになりそうですね。どっちも場所はベルリンで、ビスマルクが開催していていますしね。」
big5
「さて、ベルリン会議の一番の議題となったのがベルギー王レオポルド2世の私領とされたコンゴ自由国の承認なのですが、これについては前置きの説明が必要ですね。
冒頭のあらすじで述べたように、1800年代後半、ヨーロッパ諸国にとってアフリカの存在価値が変わってきました。それは、産業革命で発達した自国の製品を売る市場としての役割と、地下資源などの供給地としての役割です。こうなると、沿岸部に拠点を置いて取引するだけでは足りず、内部まで入り込んでいく必要がでてきました。そういった背景のもと、ヨーロッパ人による「アフリカ探検」が盛んに行われるようになったんです。」
名もなきOL
「「探検」って聞くと、なんだかワクワクしますが、この「探検」は嫌な予感しかしないですね・・・。」
big5
「さすがOLさん。いい勘してますね。ですが、最初の探検の話は侵略の話ではないです。 最初に紹介する探検家はリヴィングストン(Livingstone 1813-1873)です。リヴィングストンはイギリス人(スコットランド人)で、職業は医師でありキリスト教福音主義の伝道師でもありました。なので、探究心と野心に満ちた「探検家」とは一線を画す人ですね。イギリスの国益のためや個人的な金儲けのためではなく、神学と医学を学び、アフリカでの布教と医療提供に邁進した人です。特に、アフリカのイスラム教スルタンによる黒人奴隷貿易に強く反対し、探検中に発見した黒人奴隷キャラバンを襲撃して、捕らえられていた黒人奴隷らを解放する、という力技も見せています。」
名もなきOL
「すごい!この人はかなりいい人なんじゃないですか?この時代でも、リヴィングストンさんみたいに正義感に燃える人はいたんですね。」
big5
「リヴィングストンは布教と医療提供を続ける中で、地理的な探検も熱心に取り組むようになりました。当時、アフリカ大陸の内部はまだまだ「未知の領域」であり、「暗黒大陸」と呼ばれていました。そのため、誰もが知っている有名なナイル川についても、ナイル川の水源がどこなのか?はまだ完全には知られていなかったんです。」
名もなきOL
「ナイル川の水源って、ヴィクトリア湖でしたっけ?」
big5
「一般的にはそれでほぼ正解です。ですが、実はヴィクトリア湖に流れ込んでいる川がいくつか存在するため、ヴィクトリア湖がナイル川の水源とは言い切れないんですね。リヴィングストンの時代も、ヴィクトリア湖がナイル川の水源であるという説と、水源は他にあるという説で論争が起きていました。リヴィングストンは、水源は他にあると考えて1865年8月14日(この年52歳)にイギリスを出発し、探検に向かいました。
しかし、この旅の途中で奴隷商人らの妨害にあい、奴隷商人に買収されたポーターがリヴィングストンの医療道具一式を盗んで逃げるという事件も発生。飢餓と病気に苦みながらも、リヴィングストンはなんとかウジジという村にたどりついて、静養しながら周辺の調査も続けていました。
一方その頃、イギリスではリヴィングストンが消息不明となったというニュースが広まり、リヴィングストンを探す調査隊が派遣されたりしましたが、いずれも失敗。そんな中、アメリカの新聞社「ニューヨーク・ヘラルド」の特派員であるスタンリー(Stanley 1841-1904)がリヴィングストン探索に出発。1871年にウジジ付近でリヴィングストンの従者と出会い、従者の案内でリヴィングストンを発見。その時のリヴィングストンは骸骨のように痩せ衰えていたそうです。」

Rencontre de Livingstone - How I found Livingstone (fr).png
パブリック・ドメイン, リンク

リヴィングストンと出会ったスタンリー 『Commnet j'ai retrouve Livingstone』の挿絵

名もなきOL
「かなり危ない状況だったんですね。無事に発見されてよかったです。」
big5
「その後、スタンリーは帰国。病気が治ったリヴィングストンは再び探検に乗り出しますが、1873年にマラリアに罹って死去。アフリカ探検という多くの功績を残してこの世を去りました。」
名もなきOL
「リヴィングストンさん、死の間際まで探検を続けたんですね。尋常ならぬ情熱の人ですね。」
big5
「一方、リヴィングストン発見で有名になったスタンリーは、その後もコンゴ川流域の探検などで、探検家としての名声を高めていました。そんなスタンリーに目を付けたのが、ベルギー王レオポルド2世(Leopold U 1835-1909)です。」

レオポルド2世のコンゴ自由国とベルリン会議

big5
「レオポルド2世は、王太子の時代からベルギーも植民地を獲得すべき、と考えていました。というのも、ベルギーは1830年にフランス七月革命の影響で独立した小国(詳しくは「自由と革命の時代 七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊」をご覧ください。)です。国土も面積も小さいです。しかし、隣国のオランダは同じ小国でありながら、海外植民地から上がる利益でヨーロッパの中堅国として経済力と軍事力を持っていました。レオポルド2世は、ベルギーも植民地を持てば、オランダのように強くなれる、と考えていました。強くなければ、弱肉強食のヨーロッパでは生き残れませんからね。
しかし、この時点で経済性がある土地はほぼヨーロッパ列強が支配をすすめており、候補地がありません。そんな中、唯一手つかずで残っていたのが「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ中部のコンゴでした。しかも、今後はダイヤモンドや天然ゴムといった資源も豊富で、植民地支配するメリットが十分あります。そこで、レオポルド2世はリヴィングストン発見で有名になったスタンリーのパトロンとなり、スタンリーにコンゴを探検させました。この探検は純粋な探検ではなく、植民地化を狙った探検です。こうしてコンゴは徐々にレオポルド2世の植民地となっていきました。」
名もなきOL
「レオポルド2世の植民地になった、ということはベルギーの植民地、ということですよね?」
big5
「それが、そうとも言えますがそうとも言えない"Yes and No"の状態でした。というのも、ベルギー議会は「植民地は必要ない」という姿勢で、レオポルド2世の方針とは180度違う意見です。なので、コンゴ植民地化はあくまでレオポルド2世の私的な行動、という扱いとなり、ベルギー政府は植民地経営に一切関与しない、という状況になりました。そういうわけで、「コンゴはベルギー王レオポルド2世の私領」という扱いになったわけですね。」
名もなきOL
「う〜ん、なんだか言いくるめられているような気がします。。」
big5
「そうですね。国王の領地であるならば、それはその国の領地、と考えるのが普通ですよね。
ベルギーによるコンゴ支配を契機とし、アフリカの征服についてヨーロッパ諸国がルールを決めましょう、という目的でビスマルクが1884年に開催したのがベルリン会議です。またしても、ビスマルクが利害関係の調整に乗り出したわけですね。ベルリン会議によって、コンゴはレオポルド2世個人の領土として認められ、コンゴ自由国という名称で国家になりました。しかし、「自由」とは名ばかりの、過酷な搾取でコンゴ人が虐待される酷い状態となり、ヨーロッパ諸国からもその悪政を批判される、という結果になってしまうのですが・・。」
名もなきOL
「ベルリン会議の決議事項で、他にはどんなものがあったんですか?」
big5
「その他に重要なポイントは、アフリカ支配の原則は「先に占領した国が、その地域の領有権を持つ」です。一言でいうと早い者勝ちです。一番最初に占領して実効支配した国が、その地域を植民地として支配できる権利を持つ、というものです。支配される側のアフリカの事情など、少しも考えられていません。これが、当時の国際社会の一般的な考え方だった、ということをしっかり覚えておきましょう。」

アフリカ切り取り合戦

イギリスのアフリカ縦断政策

big5
「さて、1884年のベルリン会議も終わり、ヨーロッパ列強がアフリカ支配の原則も決まりました。後は、列強がアフリカの分捕り合戦を行うことになります。」
名もなきOL
「弱肉強食が自然界の掟とはいえ、アフリカから見たらたまったものではないですね。」
big5
「植民地支配のトップバッターといえば、やはりイギリスです。アフリカ分割においても、イギリスは他国に先んじていました。アフリカにおけるイギリス進出の重要地域は、上述のスエス運河買収を始めとしたエジプトですが、もう一つ重要なのが、アフリカ南端のケープ植民地です。イギリスがケープ植民地を領有したのは、ナポレオンが敗北した後のウィーン会議の時『自由と革命の時代 ウィーン体制とラテンアメリカ諸国の独立』参照)です。北にエジプト、南にケープ植民地という2大拠点を持っていたイギリスは、この2つを繋ぐようにアフリカ支配を進めていきました。これは、アフリカ縦断政策と呼ばれています。「世界の歴史まっぷ」様作成のこちらの地図がわかりやすいですね。」


名もなきOL
「ピンク色がイギリス領ですね。確かに、エジプトから始まって南に進んでスーダン、ウガンダ、ケニアを支配していますね。途中でドイツ領タンガニーカというのがはさまってますが、その南はローデシア、そしてケープ植民地と、アフリカ大陸を南北にほぼ縦断していますね。それで「アフリカ縦断政策」なんですね。」
big5
「ですが、そんなイギリスのアフリカ縦断政策には、大きな障害がありました。それは、スーダンのマフディーの乱(最近ではマフディー運動、ともいう)です。「マフディー」とはアラビア語で「救世主」を意味する言葉です。1881年、エジプトでウラービー運動が始まった時、エジプト支配下にあったスーダンではムハンマド=アフマドが自らをマフディーと称して、支配者であるエジプトに対して反乱を起こしました。」
名もなきOL
「元々は、エジプトに対する反乱だったんですね。」
big5
「はい。ウラービー運動、さらにはその後のイギリス軍の侵攻もあり、エジプトにマフディーの乱を鎮圧することはできず、スーダンはしばらくの間、ムハンマド=アフマドが支配することになりました。この時のスーダンを、「マフディー国家」と呼ぶこともあります。
マフディー国家はかなりの期間存続しました。イギリス軍によって鎮圧されたのが1899年なので、約18年間も続いたことになります。その点は、清の太平天国の乱に似ていますね(『しのぎを削る列強 太平天国の乱とアロー戦争』参照)。イギリスは、マフディー鎮圧のために、太平天国の乱で常勝軍を率いて武名を上げたゴードンを向かわせますが、ゴードンは1885年に敗北して戦死(この年52歳)。イギリスは、マフディー国家の鎮圧にかなり骨を折ることになりました。」
名もなきOL
「アフリカはやられる一方ですけど、スーダンのマフディーはかなり奮戦したんですね。」
big5
「状況が変わったのは1896年、キッチナーが将軍となって指揮を執り始めてからは、マフディーの旗色が悪くなり始めます。そんな折、今度はフランスがスーダンに進出してきました。」
名もなきOL
「フランス?なんか唐突に出てきましたね。なぜフランスが?」
big5
「フランスは、イギリスには及びませんが、既にアルジェリアを支配しており、エジプトにもイギリスと共に介入していたので、アフリカ分捕り合戦では他のヨーロッパ列強に比べて先んじていました。フランスは、アルジェリアからサハラ砂漠を渡って東に向かい、紅海の出口であるジブチに至るアフリカ横断政策を進めていたんです。縦断政策のイギリスと、横断政策のフランス、両者が鉢合わせとなったのが、スーダンのファショダという所でした。イギリス軍とフランス軍はファショダで対峙し、もうすぐにでも戦闘が始まってもおかしくない、という一触即発の事態となったのですが、最終的にはフランスが譲歩することで和解しました。これがファショダ事件です。」
名もなきOL
「さすがのフランスも、相手がイギリスだと分が悪かったんでしょうかね。」
big5
「それもありますが、他にはドイツという新たな脅威の存在が大きかったと思います。後で述べますが、ドイツはヴィルヘルム2世が積極的にアフリカ侵攻に乗り出してきていたため、イギリス・フランスは連携してドイツに対抗する方を選ぶんです。
こうして、ファショダ事件は終結。翌年の1899年には、キッチナー率いるイギリス軍によってマフディー国家は滅ぼされ、スーダンもイギリスの支配下に置かれることになりました。」

南アフリカ戦争(南ア戦争)

big5
「さて、イギリスによるアフリカ侵略・最後の話題は南アフリカ戦争です。略称の「南ア戦争」という用語もよく使われます。南ア戦争は、アフリカの先住民族国家を相手にした戦争ではなく、イギリスがケープ植民地を獲得する以前から、ここに住んでいたオランダ人を相手にした戦争でした。」
名もなきOL
「ケープって、元々はオランダ人が移住して発展した街なんですね。」
big5
「南ア戦争の話の前に、その辺りから話を始めていきましょうか。
ナポレオン戦争の後のウィーン会議で、ケープ植民地はイギリス領となったため、イギリス人入植者が徐々に増えていき、オランダ系入植者はだんだん数の面で圧迫されてきました。また、イギリスが他国に先んじて自由主義的改革を進め、奴隷貿易を廃止、さらには奴隷制度も廃止されると、ケープ植民地でも奴隷制度は廃止となります。それに困ったのが、オランダ系入植者です。彼らは黒人奴隷を使って農園を経営していたので、奴隷制度が廃止されれば経営は大きく傾きだします。そこで、オランダ系入植者らはケープ植民地を捨てて、より内陸部に移動して新たな国を作りました。それがオレンジ自由国トランスヴァール共和国の2国です。そして、この移動部は無人の荒野を行く旅ではなく、地元のアフリカ部族らとの戦いを含んだ「遠征」のようなものだったので、グレート=トレックと呼ばれています。」
名もなきOL
「上の地図だと、オレンジ自由国は白地にオレンジ色の斜線が入ったエリアで、その北の濃いピンク色のエリアがトランスヴァール共和国ですね。両方とも「(ブ)」って書いてますけど、これは何のことですか?」
big5
ブール人(Boer)のブですね。オレンジ、トランスヴァールの2国を作ったオランダ系植民者のことです。ブールという読み方は、オランダ系入植者の自称です。昔は、英語発音から「ボーア人」と呼ばれていましたが、これはイギリス人が彼らを呼ぶときに使った蔑称なので、最近はブール人と書くことが多いですね。」
名もなきOL
「南ア戦争は、イギリスがオレンジ、トランスヴァールの2国に攻め込んだことで始まったんですよね。原因は、その位置でしょうかね。縦断政策の通路になっていますし。」
big5
「それもありますが、この2国の場合は金やダイヤモンドという貴重な資源があったことも要因の一つです。1886年、トランスヴァール方面で金鉱が発見されました。このニュースに目を付けたのが、ケープ植民地首相のセシル・ローズです。冒頭の挿絵に出てきた、ライフルを背負ってアフリカに仁王立ちしているおじさんですね。
セシル・ローズは1890〜1894年にかけて、トランスヴァール方面に遠征軍を送ってアフリカ原住民族から土地を奪い取っていきました。さらに、トランスヴァール共和国にも軍を送りましたが、これは敗北。セシル・ローズは、これまでの強引なやり方で批判されていたこともあり、この敗北をきっかけとしてケープ植民地首相から解任されました。
ただ、セシル・ローズが切り取った植民地は、1911年にローズの名前を取ってローデシアと命名されました。1980年になって、ローデシアはジンバブエと国名が変わるのですが、それはまた別の機会にしましょう。」
名もなきOL
「セシル・ローズが解任された後はどうなったんですか?」
big5
「イギリス本国の植民地大臣であるジョゼフ=チェンバレンがセシル・ローズの政策を継承して、1899年10月にオレンジ、トランスヴァールの両国に攻め込みました。南ア戦争、開戦です。
当初、大国イギリスに対してオレンジ・トランスヴァールの2国は小国に過ぎず、すぐにイギリス勝利で終結するだろう、と予想されていました。しかし、オレンジ、トランスヴァールの両国はドイツ製の銃砲で武装しており、武器の差はイギリス軍と大差ありませんでした。そのため、イギリス軍は意外な苦戦を強いられることになります。ちょうどその頃、先に述べたスーダンのマフディー国家を滅ぼしたばかりのキッチナーを将軍に任命して指揮に当たらせました。キッチナーは1900年3月にオレンジ自由国の首都・ブルームフォルテンを落とし、6月にはトランスヴァール共和国の首都・プレトリアを攻略。これで南ア戦争も終わったかのように見えました。」
名もなきOL
「ということは、これで終わらなかったんですね。」
big5
「はい。ブール人たちはゲリラ戦を展開してイギリス軍への抵抗を続けました。イギリス軍はゲリラ対策のために、農家などを焼き払う焦土作戦に出たため、戦場は泥沼化。戦争の長期化と、増大していく戦費を見てイギリス国内からも戦争継続に反対の声が強くなり、1902年にプレトリアで講和会議が開かれました。オレンジ、トランスヴァールの両国は将来的に自治権を付与される、という条件でイギリスに併合される、という条件で南ア戦争は終結しました。」
名もなきOL
「イギリスは意外にも苦戦したんですね。でも、金やダイヤモンドが取れる地域を取ったなら、それだけの価値はあったんでしょうかね。」
big5
「いえ、南ア戦争の戦費調達のために多量の国債を発行したため、イギリス国家財政はほぼ破綻したそうです。この責任を取る形で、ジョゼフ=チェンバレンは辞任しています。
また、長期間イギリス女王に在位していたヴィクトリア女王が1901年1月(82歳になる年)に死去しています。20世紀に入り、ヴィクトリア時代と呼ばれたイギリスの一時代が終わったことを象徴していますね。
余談ですが、南ア戦争に関連する2人の有名人がいるので、これも紹介しておきましょう。まず1人目は、ウィンストン・チャーチルです。南ア戦争が始まった1899年に25歳になったチャーチルは、新聞特派員として戦地に向かいました。ある日、装甲列車に乗って移動していたところを、ブール人の軍に襲撃されてしまい、チャーチルは捕虜になります。しかし、トイレの窓から脱走に成功。脱走したチャーチルは、南ア戦争に関する記事を書いて有名になって選挙で当選して政界入り。後の、第二次世界大戦でイギリス首相として歴史に名を残すことになります。
もう一人は、『シャーロック・ホームズ』の著者であるコナン・ドイルです。コナン・ドイルは南ア戦争が始まった1899年で40歳でした。既に、シャーロック・ホームズをはじめとした小説家として有名になっていましたが、軍医として南ア戦争に従軍しています。」
名もなきOL
「チャーチルは私も知っています。帽子がよく似合うおじさんですよね。南ア戦争は、第二次大戦の有名人が若い頃に相当するんですね。だんだん、現代に近づいてきたんだなぁ、と感じました。」

ドイツのアフリカ侵略

big5
「さて、続いてはドイツのアフリカ侵略を見ていきましょう。イギリスやフランスに比べると、ドイツはドイツとして統一されたのが1871年と、かなり最近です。アフリカ分割ベルリン会議から見ると、わずか13年前です。植民地獲得競争からは、完全に出遅れていました。めぼしいところは、イギリスとフランスが先にとってしまっていて、アフリカ中央部のコンゴはレオポルド2世のベルギーが取ってしまったので、ドイツはその他に空いているところに侵攻せざるを得ませんでした。具体的には、西海岸のカメルーン、後にタンザニアとなるドイツ領東アフリカが主だったところです。」
名もなきOL
「出遅れながらも、ベルリン会議を開いて、アフリカ分割にも乗り出すことができたのは、やっぱりビスマルクさんの政治力のおかげなんでしょうね。」
big5
「そうですね。しかし、ビスマルクが政治を動かしていたドイツも状況が変わります。1888年にヴィルヘルム2世(この年39歳)がドイツ皇帝に即位しました。ヴィルヘルム2世は、ヨーロッパのパワーバランスを重視するビスマルクのやり方が気に入らず、1890年にはビスマルクを辞職させ、自ら国政を担うようになりました。」

Kaiser Wilhelm II of Germany - 1902
ヴィルヘルム2世 撮影者:Thomas Heinrich Voigt 撮影年代:1902年

名もなきOL
「あら、ビスマルクさん、やめさせられちゃったんですか。優秀な人なのに、もったいない・・。」
big5
「ヴィルヘルム2世の方針は、強硬路線です。イギリスやフランスを敵に回すことを厭わず、ドイツが世界の王じゃたらんとした強気な政策を進めていきました。アフリカでは、3B政策を掲げました。これは、ベルリン。ビザンティウム(イスタンブル)、バグダードのBで始まる3都市を鉄道で結ぼう、というものです。この政策は、ケープタウン、カイロ、インドのカルカッタを結ぶ三角形地帯を抑えるイギリスの3C政策に対抗するものでした。その後、アフリカにおいてドイツはイギリスやフランスと衝突することになるのですが、それについては別の章で扱うことにしましょう。」

イタリアのアフリカ侵略とエチオピアの独立維持

big5
「ドイツと同じく、イタリアもイタリアとして統一王国ができたのは1861年なので、ドイツよりも10年早いだけです。当然、アフリカ切り取り合戦にも遅れていました。イタリアはアフリカ北東部のエリトリア、それから「アフリカの角」と呼ばれたソマリランドを支配しました。アフリカ北東部での勢力拡大を図って、エチオピアに宣戦布告します。ところが、エチオピアはフランスからの武器供与などの支援を受けたため、イタリア軍と互角以上の戦いを繰り広げ、1896年のアドワの戦いで、イタリア軍がエチオピア軍に大敗。この時代に、アフリカ諸国とヨーロッパ列強が戦った数々の中でも、たぶん唯一のヨーロッパ列強が敗北した戦争として、歴史に残ることとなりました。」
名もなきOL
「エチオピアも侮れないですね。それで、エチオピアはアフリカ分割時代でも、なんとか独立を維持できたんですね。」
big5
「この勝利で、エチオピアは国際的にアフリカの独立国として承認されます。後の第二次世界大戦の前に、イタリアは再びエチオピアに攻め込み、今度は勝利して復讐を果たすことになる(参考:第二次世界大戦 ファシズムの台頭)のですが、この時点では手痛い敗北を喫したのみでした。
ちなみに、アフリカ分割時代に、もう一国、独立を維持した国があります。どこの国だと思いますか?」
名もなきOL
「えっと、地図を見てみて、と。。あ、この西の方にあるリベリアですね。」
big5
「そのとおりです。リベリアが建国されたのは、1847年。1848年の革命の1年前のことです。アメリカで解放された黒人奴隷たちが組織を結成し、1821年からアフリカ西岸に入植していったことから始まりました。1847年に黒人の共和国として独立を宣言。この時点で、唯一の独立した黒人国家ですね。エチオピアと合わせて、独立を保ったアフリカ国家として覚えておきましょう。
さて、長くなりましたが、アフリカ分割の概要はこれで終了です。ヨーロッパ列強によるアフリカ分割は、帝国主義と呼ばれる、ヨーロッパ列強による世界各地の植民地化と弱肉強食の戦国時代のよな様相を呈する舞台となりました。この流れはさらに加速していき、20世紀に入ってから第一次世界大戦に繋がっていくわけですね。
本日もご清聴ありがとうございました。」




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