Last update:2022,Apr,9

しのぎを削る列強

ロシア アレクサンドル2世の農奴解放令と露土戦争

あらすじ

big5
「今回の舞台はロシアです。クリミア戦争(しのぎを削る列強 クリミア戦争)に敗北し、自国の遅れを認識したロシアのアレクサンドル2世は、上からの改革に着手した、というところから話が始まります。」
名もなきOL
「この頃のロシアって、外国の騒乱に乗じて領土を拡大してた時期ですよね?エジプト=トルコ戦争(自由と革命の時代 エジプト実質独立とムハンマド=アリーの台頭)とか、アロー戦争(しのぎを削る列強 太平天国の乱とアロー戦争)とかで。」
big5
「そうですね。対外的には、アロー戦争と太平天国の乱で苦しむ清の弱みに付け込んで、愛琿条約(アイグン条約)で黒竜江州を、北京条約で沿海州を奪い取り、ついに日本海に到達。ウラジオストクの建設に着手していますね。
その一方で、ロシア国内の農民はほとんどが農奴と呼ばれる中世さながらの半奴隷状態でした。イギリスやフランスなどの列強と比べると、国民の生活水準はかなり差があったんです。アレクサンドル2世はロシアにおいても産業技術を発展させるべく、様々な改革に着手しました。特に有名なのは、農奴解放令ですね。ロシアの農奴の身分を引き上げさせた、という話が教科書で挿絵付きで説明されることが多いですね。」
名もなきOL
「それなら、アレクサンドル2世はいい人なんですね。どんなお方なのかしら?」
big5
「ただ、アレクサンドル2世の農奴解放令は中途半端なものでした。よく「上からの改革で不徹底であった」と評価されていますね。
そのようなロシアでは、次第に知識人の若者らが農民を啓発して革命運動を起こそうとするナロードニキが盛んになりました。しかし、農民はナロードニキはほとんど無関心。ナロードニキは衰退し、代わりにニヒリズム(虚無主義)やアナーキズム(無政府主義)の思想が広がり始めました。」
名もなきOL
「ニヒルとアナーキー・・なんだか、暗い響きがする言葉ですね。」
big5
「はい、これがやがてロシアのテロリズムに繋がっていきます。1877年には、露土戦争が始まり、ロシアはオスマン帝国に大勝し、ロシアに有利なサン=ステファノ条約を結びます。しかし、ロシアの南下を警戒するイギリス、列強のパワーバランス維持を重視するドイツのビスマルクの介入を受け、サン=ステファノ条約は破棄。代わりにベルリン条約を結ばざるを得なくなり、ロシアの南下は妨害されました。
そして1881年、アレクサンドル2世はテロリストによって爆弾で暗殺されました。」
まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 ロシアのイベント 世界のイベント
1855年 アレクサンドル2世 即位
1856年 クリミア戦争に敗北 パリ条約
1858年 アイグン条約 黒竜江州を獲得
1860年 北京条約 沿海州を獲得 アロー戦争 終結
1861年 アレクサンドル2世が農奴解放令を発表 イタリア王国成立
南北戦争 開戦
1863年 ポーランド反乱
1865年 南北戦争 終結
1867年 財政難などの理由でアラスカをアメリカに売却 大政奉還
1871年 ドイツ帝国成立
1873年 三帝同盟成立
1877年 露土戦争 開戦
1878年 露土戦争 終結 サン=ステファノ条約締結するもベルリン会議でひっくり返される
1881年 清とイリ条約 締結
アレクサンドル2世暗殺される

ロシア改革の始まり 農奴解放令

big5
「さて、まずはアレクサンドル2世の業績として有名な農奴解放令から話を始めましょう。まず、当時のロシアの「農奴」についてです。」
名もなきOL
「「農民」じゃなくて「農奴」という名前になっているところで、なんとなく予想できます。確か、中世ヨーロッパの農民も「農奴」って呼ばれていませんでしたっけ?」
big5
「そうですね。「奴隷」と「農民」の中間くらいが「農奴」でしょうか。OLさんが記憶している通り、中世ヨーロッパの封建制の特徴の一つが農奴制です。よく土地に縛り付けられるという表現がされるのですが、農奴は領主の農地を耕す労働力に過ぎず、様々な税や労役を課せられてこき使われる一生を過ごしていました。ある程度の自由や家族を持つことはできるので、奴隷とは異なりますが、生活の向上や自立がほぼ不可能であり、結局は生まれた土地の領主の労働力として生きるしか道が無い、という点では奴隷とほぼ同じと言えるでしょう。
封建制の破綻と共に、西ヨーロッパでは農奴制も廃れていったのですが、ロシアの場合は事情が異なりました。農奴制が形成され始めたのが、15世紀後半くらいと考えられており、ステンカ=ラージンの乱プガチョフの乱などの大規模な農民反乱が鎮圧された後、農奴制はより厳しくなっていたんです。」
名もなきOL
「それぞれの国で事情が異なるわけですよね。でも、自由とか革命とかで揺れ動いている西ヨーロッパから見ると、だいぶ遅れているな、とは思います。」
big5
「下の絵は『ヴォルガの舟曳き』と呼ばれている有名な絵です。歴史の資料集にも、ロシアの農奴を描いた作品としてよく登場する有名な絵です。」

Ilia Efimovich Repin (1844-1930) - Volga Boatmen (1870-1873)
ヴォルガの船曳き  制作者:レーピン(Ilya Repin)  制作年代:1870年

名もなきOL
「この絵、覚えてます。なんか、すごい辛そうですよね。奴隷が無理やり船を引っぱらされている絵ですよね。」
big5
「舟曳きは、いちおう「お仕事」です。なので、曳いている人たちには賃金がもらえます。苦労するわりには、かなりの低賃金だったそうですが、それでもやらないと生活ができない農奴たちが、船曳きの仕事をしていたそうです。
ヴォルガというのはロシアを流れている川で、貿易品を積んだ船の通り道になっていました。船が川を上るとき、風向きが良ければ帆を張れば進めるのですが、風がよくないと進めないです。なので、その時は船曳きを雇って引っぱってもらうわけですね。」
名もなきOL
「絵の力って凄いですね。この絵で、ロシアの農奴のイメージがつかめました。」
big5
「ロシア人口の大半を占める農民が、このような貧しい生活と労役をしている、となるとイギリス、フランス、ドイツなどの列強が備えるような軍隊を作ることは厳しく、産業革命などは夢の話でしょう。アレクサンドル2世の農奴解放令は、ロシア社会からこのような「農奴」を解放し、ロシアの近代化を進め、軍事力の強大化を進めることにありました。農奴解放令のポイントは以下になります。
(1) 農奴は人格的に解放される
(2) 農奴には基本的に土地が与えられるが有償(地代の約16倍)。支払いが完了した者だけが、土地を自分のモノにできる。
(3) 土地は、農奴個人個人に与えられるのではなく、いったん農奴が所属するミールに与えられ、ミールから農奴に支払額に応じた土地が分与される。
というところです。」
名もなきOL
「えっと、とりあえずタダで土地が貰えるわけではないんですね。そして、土地をもらうにはかなり厳しい条件がついていることもわかりました。それで、ミールってなんですか?」
big5
「ロシアの農村にあった自治体みたいなものです。日本の江戸時代で例えると五人組とかに近いでしょうかね。ミールのリーダーは構成員の中から選ばれ、納税は連帯責任になる、というものでした。農奴個人個人を管理するよりも、農奴をミールという組織でまとめて管理したほうが効率が良かったんだと思います。
さて、農奴解放令の結果です。上記のような内容だったので、農奴解放令で土地持ちの自立農民になった農奴はごくわずかでした。なので、農奴解放令は中途半端で不徹底であった、という評価がされています。確かに、農奴を自作農に昇格させる、という目的から考えると不十分どころか失敗に近いですが、その他の政策との相乗効果もあって、ロシアでも遅まきながら産業革命が進む基礎となった、とも考えられていますね。」

ポーランド反乱 1863年

big5
「農奴解放令の影響は、ロシアの支配下に置かれていたポーランドにも影響を与えました。当時、ポーランドはウィーン体制下で発足したポーランド立憲王国となっていましたが、国王はロシア皇帝が兼任しており、実質はロシア領でした。1863年、猟銃や大鎌などで武装した民衆が蜂起します。ポーランド反乱です。ロシアは武力でこれを鎮圧。反乱関係者は厳罰に処しました。その後、ポーランドではロシア語の強制などのロシア化政策が数進められました。結果として、ポーランドの独立は、第一次大戦の後まで待つことになります。
さて、ポーランド反乱の4年後の1867年。日本では大政奉還が行われ徳川幕府が終焉を迎えた年ですね。この年、日本でおそらく一番有名なポーランド人女性が誕生しました。さて、誰でしょう?」
名もなきOL
「日本で一番有名なポーランド人女性・・・あ、もしかしてキュリー夫人ですか?」
big5
「正解です!キュリー夫人が生まれたのは、大政奉還と同じ1867年です。これは覚えておくと、受験とかで役に立つこともあると思います。キュリー夫人は、1863年のポーランド反乱が鎮圧され、厳しいロシア化政策が実施されていく中で、幼少期を過ごしたわけですね。」

アラスカ売却 1867年3月30日

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「1867年つながりで言うと、1867年の3月30日は、ロシアがアラスカをアメリカ合衆国に売却した年ですね。アラスカは、18世紀頃からロシアが発見・進出して毛皮貿易会社を設立したりしていたのですが、防衛の難しさや財政難などの様々な理由で、領有のメリットが感じられなくなっていたそうです。アレクサンドル2世は持て余しているアラスカは売ってお金に変えようと考え、南北戦争が終わって国土統一を進めていたアメリカ合衆国にとってもちょうどいい、ということになり、取引が成立しました。取引額は、720万ドルです。ちなみに、当時の720万ドルを1ドル100円で換算すると、7億2000万円です。高いように感じますが、アラスカの広大な国土を考えると、面積当たりの金額はかなり安いですね。もっとも、これは1867年時点の貨幣価値での計算です。720万ドルを現在のUS$に直すと約1億2000万ドルとなり、これを日本円にするとだいたい130億円になります。それでも、だいぶ割安な取引ですね。」
名もなきOL
「でも、アラスカって何かありましたっけ?スーパーでアラスカ産の魚とかは見たことありますけど・・・」
big5
「当時、アメリカでも「巨大な冷蔵庫を買った」と評されてバカにされることもありました。でも、アラスカは地下資源が豊富だったんです。アラスカ売却からしばらく経った後、まずは金鉱が発見されました。これを知ったロシアは、さぞ売ってしまったことを後悔したでしょうね。その後、20世紀になってからは石油もあることがわかり、アメリカ合衆国の貴重な地下資源の供給源になってます。冷戦時代も、アメリカの戦略的拠点となっており、アラスカはかなり重要な役割を果たしているんです。」


三帝同盟 1873年

big5
「次の話は三帝同盟です。三帝とは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ロシア皇帝アレクサンドル2世、そしてオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世のことで、ドイツ、オーストリア、ロシアの三国同盟のことです。ビスマルクによって結成されたことで有名ですね。」
名もなきOL
「1873年ということは、ドイツ帝国成立からわずか2年後ですね。そっか、ロシア、オーストリアと同盟してドイツの東を守る戦略なんですね。」
big5
「そうですね。ドイツ帝国成立後、ビスマルクが最も恐れたのはフランスの逆襲でした。普仏戦争に敗れ、ヴェルサイユ宮殿で戴冠式も行われたフランスの恨みは強く、やがて復讐に出てくることを恐れたわけですね。その時、フランスがロシアやオーストリアと結んでしまうと、ドイツは包囲されることとなり、約150年前の七年戦争のような厳しい状況に置かれるかもしれません。三帝同盟は、ビスマルク外交の一環として結成されたものでした。」
名もなきOL
「なるほど。敵が同盟を作って強大化する前に、自分が同盟国を作って抑え込む、という作戦ですね。さすがは鉄血宰相。手堅い外交戦略ですね。」
big5
「ただ、この三帝同盟には弱点がありました。それは、バルカン半島の支配権をかけて、オーストリアとロシアが対立している、という問題です。バルカン半島は、長い間オスマン帝国の支配下に置かれていましたが、オスマン帝国が衰退すると、オーストリアやロシアが勢力を拡大。ブルガリア、ルーマニア、セルビアなどのバルカン半島の諸民族国家の建国を支援して影響下に置く、という方法で勢力争いをしていたんです。せっかくの三帝同盟も、そのうち二人がケンカ別れしたら、機能低下は免れません。ビスマルクは、ロシア・オーストリア間をなんとか取り持つように努力することになるのですが、それはまた別の機会に説明するとして、ここでは次の話に行きましょう。」

露土戦争とサン=ステファノ条約、ベルリン条約 1877〜78年

big5
「さて、次の話は題名にも入っている露土戦争ですね。まず、「露土戦争」という用語の使い方について。単に「露土戦争」というと、1877年に始まったこの戦争のことを指します。ただ、もっと意味を広くとって「ロシア−トルコ間の戦争」として、17世紀末にピョートル大帝がアゾフを攻撃したところから始まった幾度もの戦争を指すこともあります。ここでは、「露土戦争:1877年のロシア vs トルコの戦争」と扱いますね。
露土戦争のきっかけとなったのは、オスマン帝国領バルカン半島で発生したキリスト教徒農民反乱でした。ボスニアやセルビアといったスラヴ民族のキリスト教徒が反乱を起こしたわけですね。スラヴ民族によるバルカン半島統一を政策(パン・スラヴ主義)に掲げるロシアのアレクサンドル2世は、これを好機ととらえて1877年4月、バルカン半島のスラヴ民族キリスト教徒(ギリシア正教徒)の保護を口実として、オスマン帝国に宣戦布告したことで始まりました。」
名もなきOL
「宗教問題が戦争のきっかけになるのは、ちょっと久しぶりなかんじがしますね。露土戦争は・・・たぶんロシアが勝ったんですよね?」
big5
「はい、ロシアの圧勝でした。1878年1月にはロシア軍がオスマン帝国領に入り込んでアドリアノープルを占領。3月には講和会議が開かれてサン=ステファノ条約が結ばれました。サン=ステファノ条約の要点は以下になります。
(1)モンテネグロ、セルビア、ルーマニアが独立
(2)ブルガリアをオスマン帝国内の自治公国とする(実質はロシアの影響下)

『世界の歴史まっぷ』さんのこちらの図がわかりやすくていいと思います。」



名もなきOL
「緑の斜線が入っている、左からモンテネグロ、セルビア、ルーマニアがオスマン帝国から独立したんですね。この三国だけでも結構広いですね。しかも、ルーマニアの南のブルガリアも、ロシアの勢力圏ですか。。これはまた、ロオスマン帝国はけっこうな領土を失いましたね。」
big5
「しかし、サン=ステファノ条約の内容を知ったイギリスとオーストリアは抗議します。イギリスはエジプト−インドの経済ラインがロシアに脅かされることを警戒し、オーストリアはバルカン半島における勢力争いでロシアに遅れを取ることを意味するからです。そしてもう一人、この状況を危惧する人物がいました。」
名もなきOL
「ドイツの鉄血宰相・ビスマルクですね。」
big5
「はい。三帝同盟でフランスを抑え込むことで、ドイツの安全保障を確保したビスマルクにとって、バルカン問題をきっかけにしてオーストリアとロシアがケンカすることは、三帝同盟の崩壊を意味します。そこで、ビスマルクは自らを公正な仲介人と名乗って、1878年6月にベルリン会議を開催。ドイツ、イギリス、オーストリア、ロシア、オスマン帝国などの当事者らを集めて調停を行いました。その結果、サン=ステファノ条約は破棄され、ベルリン条約が結ばれました。サン=ステファノ条約からの主な変更点は以下になります。
(1)ブルガリア自治公国の領土はサン=ステファノ条約の約3分の1に削減し、さらに宗主国はオスマン帝国とする。
(2)オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得する。
(3)イギリスはオスマン帝国からキプロス島を獲得する。
という内容です。」
名もなきOL
「モンテネグロ、セルビア、ルーマニアのスラヴ系三国の独立は変わらなかったんですね。でも、これってロシアが譲歩してオーストリアとイギリスがどさくさに紛れて領地を分捕っていたように思います。イギリス、オーストリアはこれでOKかもしれませんが、ロシアは納得できないんじゃないでしょうか?」
big5
「そうですね。「公正な仲介人」を名乗ったわりには、イギリス、オーストリア贔屓の結果を残したように見えますね。ただ、当時の情勢から考えると、ベルリン会議が無かったらロシアはイギリスやオーストリアと戦争することになったかもしれないので、列強2国との戦争を回避できた、という条約には書いていない効果もありました。そうとはいえ、やはりロシアは納得できません。もう少し後になって1890年にビスマルクが引退すると、ロシアはフランスと同盟(露仏同盟)を組み、ドイツと敵対することになります。ビスマルクが恐れていた事態が実現してしまうんですね。ベルリン会議は三帝同盟を延命させることはできましたが、根本的な問題解決には至りませんでした。」
名もなきOL
「国際情勢って本当に難しいですね。ウチの会社の勢力争いは、単なる「好き嫌い」と「学閥」の2つの要素しかないので、わりと単純なんですけどね。。国際政治って難しいな。。」


ナロードニキとアレクサンドル2世暗殺 

big5
「いよいよ、本ページ最後のトピックですね。まずは重要用語のナロードニキ(Narodniks)の話から始めましょう。上述したように、アレクサンドル2世は1861年の農奴解放令を代表例とした「上からの改革」を行いました。その一方で、ロシアの知識階級らが「下からの改革」を目標とした運動が始まりました。これがナロードニキです。ナロードニキのスローガンは「ヴ ナロード(V narod 「人民の中へ」)」だったので、ナロードニキと呼ばれています。」
名もなきOL
「トップダウンではなくてボトムアップの改革ですね。これは期待できるかも。」
big5
「ところが、ナロードニキは結局は失敗に終わってしまいます。」
名もなきOL
「え、そうなんですか?ナロードニキはなぜ失敗してしまったんですか?」
big5
「それでは、ナロードニキの経緯から見ていきましょう。
まず、ナロードニキを主導したのはロシアの都市に住む知識階級です。農奴とは異なり、それなりに裕福で教育を受けてきた人々ですね。彼らはマルクスの社会主義国家を建国することを目指し、そのためには搾取されている農奴を導いて革命を起こす、という展開を考えました。農奴を導くために、都市を離れて農村に入り、農奴らとコミュニ―ケーションを取っていく活動を始めたわけですね。」
名もなきOL
「なるほど、地道な活動から始めていったんですね。」
big5
「しかし、ここでいろいろ問題がありました。ナロードニキ活動家と農奴では、あまりに生活環境が異なっていて、農奴らを導くことは到底無理だったんです。ナロードニキはフランス語やドイツ語なども交えて話をするような人々ですが、農奴は当然わかりません。ロシア語のみです。また、自由主義やマルクス主義といった政治思想の知識も、農奴には一切ありません。ナロードニキ活動家には理解できる理論を、農奴が理解するのは相当困難でした。それに、ナロードニキの最終目標はロシア皇帝の打倒にあります。ロシア政府から見たら危険な反乱分子です。農奴らの説得に成功した一部のナロードニキらが武装蜂起するという事件も起こったため、ロシア政府はナロードニキを徹底的に弾圧しました。それを示している有名な絵がこちらですね。」

Arrest of a Propagandist
ナロードニキの逮捕   制作者:レーピン(Ilya Repin)  制作年代:1880-89年、1892年

名もなきOL
「この絵、見覚えあります。」
big5
「作者は「ヴォルガの船曳き」と同じくレーピンです。中央やや右の赤い服を着ている男が逮捕されたナロードニキ、右下に、取り調べをしている警察みたいな人が描かれていますね。
こうして、政府の弾圧と農奴の無理解により、ナロードニキ運動はどんどん廃れていってしまいました。農奴を導いて革命を起こすのは無理だ、と考えた人々は、権力者を暗殺するしか方法は無いと考える「テロリズム」に流れていき、そもそも革命など無理なんだ、と考える人々は「ニヒリズム」に流れていきました。ナロードニキ運動は失敗に終わったわけです。」
名もなきOL
「「下からの革命」っていうのも難しいですね。フランス革命が一時的にでも成功したのは、やっぱり大事件だったんですね。」
big5
「そして、1881年、テロにはしった一部の元ナロードニキらによって、アレクサンドル2世は爆弾で殺害されました。63歳になる年でした。
その後、ロシアは1891年にフランスと同盟し、フランス資本を受け入れてシベリア鉄道の建設を開始します。そして、近代国家になったばかりの日本と対決することになるわけですが、これについてはまた別のページで紹介することにしましょう。
今回はここまでです。ご聴講ありがとうございました。」



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