Last update:2022,Jun,11

しのぎを削る列強

滅びゆく清

あらすじ

big5
「今回のテーマは清の凋落です。17世紀に、女真族が漢民族らを征服して建国した大帝国・清でしたが、19世紀後半は、ヨーロッパ列強の食い物にされて半植民地化されていきました。ヨーロッパ列強から国を守るために、李鴻章らの漢人官僚が洋務運動を展開して改革に励んできましたが、清仏戦争、さらに日清戦争に敗北。これではいけない、ということで康有為らがより一層の改革を目指した変法自強運動を展開しますが、保守派のトップである西太后(せいたいこう)の反対で大失敗(戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん))。さらに、義和団事件で大暴れしたものの(北清事変)、列強諸国から手痛い反撃を受けて北京議定書に調印させられ、その凋落に歯止めがかからなくなり、いよいよ滅亡の時を迎える、という話です。」
名もなきOL
「清って、親近感もなくて馴染みも感じないですけど、近代になってこんな形で終焉するなんて、悲哀を感じますね。」
big5
「はい、かつての大国が落ちぶれた果てに滅んでゆく、という話には諸行無常の響きを感じますね。さて、いつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。」

年月 清のイベント 世界のイベント
1884年 ベトナムの宗主権をめぐって清仏戦争勃発
1885年 天津条約締結 清仏戦争終結
1894年 朝鮮の宗主権をめぐって日清戦争勃発
1895年 下関条約締結 日清戦争終結
康有為らが変法自強運動を開始
三国干渉
1898年 戊戌の政変 変法自強運動失敗
ドイツが膠州湾、ロシアが旅順・大連、イギリスが威海衛・九龍半島を租借
米西戦争
1899年 国務長官ジョン・ヘイの門戸開放宣言
フランスが広州湾を租借
南ア戦争 開戦
1900年 義和団事件勃発 清は義和団に味方して列強に宣戦布告(北清事変
1901年 義和団と清が敗北 北京議定書調印

度重なる敗北

清仏戦争 敗戦

big5
「まずは1884年に勃発した清仏戦争の話からですね。「しのぎを削る列強 インド大反乱と仏越戦争」で見たように、ナポレオン3世時代のフランスはヴェトナム侵略を始めました。ナポレオン3世退位後も、第三共和政フランスはその政策を引き継ぎ、ヴェトナム侵略をさらに進めました。1883年にフランスは阮朝ヴェトナムとフエ条約を結び、ヴェトナムをフランスの保護国とします。これに反対したのが、以前からヴェトナムの宗主国であった清です。清から見れば、子分であるヴェトナムをフランスに奪われたことになります。」
名もなきOL
「強国2国に挟まれて、モノ扱いされるヴェトナムはたまったものではないですね。」
big5
「そのとおりです。清もフランスも譲らなかったので、1884年6月に戦争となりました。これまで、ヨーロッパ列強にまったく歯が立たなかった清ですが、清仏戦争ではわりと善戦します。フランスは思わぬ反撃を受けて損害を増やし、フランス軍司令官が戦死し、当時のフランス内閣は責任を取って総辞職する事態になりました。」
名もなきOL
「清、すごいじゃないですか!洋務運動の効果があったんでしょうね。」
big5
「洋務運動の効果はある程度あったようですが、清仏戦争で活躍したのは、劉永福率いる黒旗軍でした。劉永福は漢民族で、太平天国の乱にも参加していた人物です。清とは敵対関係にありました。ヴェトナム北部で、独自の勢力を培っていたのですが、フランスのヴェトナム侵略にあたっては、対フランスの主力部隊となっています。黒旗軍の指揮の高さや、戦功はヴェトナム軍や清軍よりも高かったんです。
黒旗軍の活躍があったものの、フランスがさらなる増援を投入すると形勢はフランスに傾きはじめ、やがて膠着状態になります。翌年の1885年に両国は天津条約を結び、清はヴェトナムがフランスの保護国となることを認め、戦争は清の敗北で終結しました。」
名もなきOL
「せっかく洋務運動を進めたのに、清軍の出番があまりなかったんですね。」
big5
「はい。これには、いろいろと理由が考えられていますが、よく挙げられているのは、西太后李鴻章が、最新鋭の主力部隊を出し惜しみしたからだ、という説ですね。実際、同じころに朝鮮で親日派と親清派が対立を激化させて政変が起こっているのですが、そのために最新鋭部隊を温存した、という説はあまり説得力がないと思います。
こうして、フランスは苦戦しながらもヴェトナムを支配下に置くことに成功しました。一方、清はますます国威を失墜させることになります。そして、次は朝鮮の内紛をめぐって日本と戦うことになります。日清戦争です。」

日清戦争 敗戦

big5
「次は1894年の日清戦争の話です。日清戦争の要因となったのは、朝鮮の奪い合いです。当時の状況を現したこの風刺画が有名ですね。」

Coree
魚釣り会 制作者:Georges Ferdinand Bigot  制作年代:1887年

名もなきOL
「この絵は見たことがあります。左が日本で右が清、池にいる魚が朝鮮ですね。」
big5
「はい。そして、それを橋の上からロシアが狙っている、という状況ですね。この風刺画に描かれているように、この時代は朝鮮の支配権をめぐって、日本、清、ロシアの三国が争っていました。以前から、朝鮮は清の実質保護国だったのですが、弱体化する清に対して、新興国である日本は力を付け始め、朝鮮半島におけるパワーバランスは変わり始めていました。また、シベリア鉄道を建設していたロシアも、朝鮮半島方面に勢力を伸ばそうとしていたわけです。」
名もなきOL
「ここでも、弱者の朝鮮の事情は考慮されないわけですね。帝国主義の時代ってイヤだな。。」
big5
「この3国の政治駆け引きが続いた結果、1894年に朝鮮で大規模な農民反乱が勃発しました。反乱に加わった農民の多くは東学という宗教の一種の信徒だったので、この反乱は東学の乱と呼ばれます。ちなみに、私が子供の頃は「東学党の乱」という名前でしたが、最近は「東学の乱」と呼ばれます。理由は「東学党」というほどの組織はなかったから、だそうです。」
名もなきOL
「東学は、どんな宗教だったんですか?」
big5
「東学は、朝鮮に古くから根付ている儒教に、仏教やその他の民間信仰を加えたもので、特にキリスト教(西学)に対抗する目的で「東学」という名前になったそうです。しかし、東学は李氏朝鮮には受け入れられず、弾圧されていました。」
名もなきOL
「なるほど。以前から存在していた宗教で、李氏朝鮮は東学を弾圧していたんですね。」
big5
「1894年、東学弾圧を名目として農村を収奪する不正役人に怒りを爆発させた民衆が武装蜂起。これに、東学の指導者らが信徒を率いて参加したことで、複数の地域で大規模反乱となりました。規模が大きくなったこの反乱は、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)と呼ばれます。甲午農民戦争で、リーダー的な役割を果たしたのが全ホウ準(ぜんほうじゅん 「ほう」は王へんに奉)です。」
名もなきOL
事の発端は、李氏朝鮮で起きた農民反乱だったんですね。」
big5
「李氏朝鮮に、自力で反乱を鎮圧する力は無かったため、日本と清の両国が軍隊を派遣しました。もちろん、この両国は協力して反乱を鎮圧しにきたわけではありません。どちらも「自分が李氏朝鮮の保護者である」と主張してやって来たわけです。この頃、甲午農民戦争は下火になっていたので、李氏朝鮮は日本、清、両国に撤退を求めましたが、両方とも「日本(清)が撤退してから、自軍も撤退する」と言って聞きません。結局、日本も清も撤退せずに実力行使することとなり、日清戦争開戦となりました。」
名もなきOL
「欧米列強のやり方はかなり悪辣ですけど、こっちの方は意地の張り合い、という感じがしますね。本当に、李氏朝鮮の親分はどっちか、という戦いなんですね。」
big5
「当時、日本はまだまだ新興国と見られていました。実際、約30年前はまだ侍の時代でしたからね。一方、清は「眠れる獅子」と呼ばれており、弱体化していることは明らかなものの、まだ大国であり侮れない力を持っている、と考えられていました。なので、日清戦争は清が優勢だろう、と見られていのですが、実際には日本軍が優勢に戦いを進めました。李鴻章が作った北洋艦隊も日本海軍との戦いで敗北して壊滅しました。なお、全ホウ準率いる農民軍は再び蜂起したのですが、日本と李氏朝鮮の連合軍に鎮圧されています。
こうして、朝鮮の民衆反乱から始まった日清戦争は日本の勝利で終わり、1895年4月17日に下関条約が締結されました。日本側大使は伊藤博文陸奥宗光、清側の大使は李鴻章です。下関条約の主な内容は以下の通りです。
@清は、日本に賠償金として2億両(テール)を支払うこと。
A清は、李氏朝鮮に対する宗主権を放棄し、朝鮮は独立国となる。
B清は、日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する。
です。」
名もなきOL
この時から台湾は日本領となったんですね。」

Peace Conference at Shimonoseki by Nagatochi Hideta (Meiji Memorial Picture Gallery)
下関講和談判 制作者:永地秀太 制作年代:1929年

big5
「賠償金に領土と、日本が得るものが多かった下関条約でしたが、間もなく、ドイツ・フランス・ロシアが「極日本が遼東半島を支配することは、東アジアの平和に対する脅威となる。遼東半島は清に返還すべき」と迫った三国干渉により、やむを得ず遼東半島は清に返還されることになりました。もちろん、この3国が、一心に東アジアの平和と清のためを考えて、干渉を行ったのではありません。時代は帝国主義です。ロシア、ドイツ、フランスの三国はそれぞれ清に対して「遼東半島を取り返してやった見返りをよこせ」と迫り、それぞれ利権を得て満足しました。」
名もなきOL
「なんかこう、ヤクザの利権抗争みたいですね。嫌な時代ですね、帝国主義時代って。」
big5
「清にとって、日清戦争の敗北は衝撃でした。ヨーロッパ列強に勝てないだけでなく、こないだまで侍の時代だった日本にも完敗したという事実は、清の凋落の証拠とみなされ、列強はさらに中国侵略を進めていくことになります。
ちなみに、下関条約の会議が行われたのは、下関にある春帆楼という立派なふぐ料理屋さんです。下関条約の会場は「日清講和記念館」として当時の部屋や調度品を再現しています。近くに行った時は、ぜひ見学してみてください。ホームページはこちらです。」

改革の試み

変法自強運動と戊戌の政変

big5
「清仏戦争、日清戦争の敗北で、危機感を募らせた人物がいました。康有為です。清が日清戦争に敗北した1895年に科挙を受けて合格した康有為(この年37歳)は、科挙受験者を集めて徹底抗戦を呼びかける上奏文を作って有名人となります。さらに、帝国主義時代の世界の近況を分析し、清は変革しなければ生き残れないと主張。ロシアのピョートル大帝と日本の明治維新をモデルにした改革を行うべき、と訴えました。康有為の提言は時の皇帝、光緒帝(この年24歳)に採用され、清の改革運動が始まりました。この運動を変法自強運動といいます。」
名もなきOL
「ピョートルさん、覚えています。デキル男で、古いロシアの改革者でしたよね(『18世紀欧州戦乱 大トルコ戦争後編』参照)。
でも、ピョートルさんは、古きロシアを好む保守派からは「伝統の破壊者」として嫌われたんですよね。長い歴史を持つ清なら、頑強な保守派が改革に抵抗するんじゃないかしら?」
big5
「鋭いですね、OLさん。そのとおりです。変法自強運動に反対する保守派はかなりの数いたようで、彼らは西太后を頼って康有為らの改革に反対します。西太后は光緒帝の叔母にあたり、強いリーダーシップを持つ人物だったので、康有為らは困りました。康有為らは西太后を離宮に隔離するクーデターを計画しますが、これが露見して失敗。康有為らは外国に脱出し、光緒帝は幽閉。この事件を戊戌の政変と呼びます。戊戌の政変後、清は西太后が実権を握ることになります。」

進む中国分割

アメリカ国務長官ジョン・ヘイの門戸開放宣言

big5
「清国内で政変が続く間、ヨーロッパ列強は中国の植民地化を進めていきました。「世界の歴史まっぷ」さんのこちらの図がわかりやすくていいですね。」



big5
「戊戌の政変があった1898年には、ドイツが山東半島南側の膠州湾を租借し、イギリスが同じく山東半島の北東側にある威海衛を租借。イギリスは、香港の北側に当たる九龍半島も租借していますね。また、ロシアは三国干渉で日本から強制的に清に返還させた遼東半島の先端にある旅順・大連を租借しています。要するに、ロシアは自分が遼東半島を取りたかったわけですね。1899年にはフランスが中国南部の広州湾を租借し、ヨーロッパ列強による侵略の手は留まるところを知りません。そんな状況を見て、焦ったのがアメリカ合衆国です。南北戦争などのために海外進出が遅れたアメリカ合衆国は、国務長官のジョン・ヘイが「アメリカ合衆国にも取り分を寄越せ」と言わんばかりの門戸開放宣言(門戸開放通牒)を出しました。」
名もなきOL
「門戸開放宣言って、具体的にどんな内容だったんですか?」
big5
「中国市場における高関税の廃止や列強による通商権の独占をやめて開放すべき、ということですね。つまり、アメリカ合衆国も中国市場に参入できるようにしろ、ということです。これを「門戸開放」と「機会均等」の原則、と呼ぶことがあります。翌年の1900年には、清の領土は奪い合わないで保全すべきだ、という「領土保全」の原則も加わり、ヘイの三原則と呼ばれることもあります。」
名もなきOL
「完全に、アメリカが中国争奪戦に出遅れたから、文句を言っている、というかんじですね。」
big5
「そうですね。ちなみに、この歴史イベントは門戸開放「宣言」と呼ばれることが多いですが、これは世界各国に発信したものではなく、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、日本の6か国に手紙として送られたものでした。なので、「宣言」ではなく「通牒」と記載する本も少しずつ増えてきているようです。」

義和団事件

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「さて、本編最後の歴史イベントである1900年に勃発した義和団事件の話を始めます。まず、義和団について。
義和団は、民間の拳法団体が複数集まってできた組織で、修行と呪術によって神が乗り移った者は、刀、槍、銃弾までも跳ね返す不死身の体になる、という信仰を持っていました。また、キリスト教は大嫌いですし、キリスト教を持ち込んだヨーロッパ列強も大嫌いです。そのため、キリスト教徒や輸入製品やそれを扱う商社を攻撃対象としました。義和団の信者は急速に増え、やがて「扶清滅洋」というスローガンを掲げます。扶清滅洋は「清を扶け(たすけ)、洋(外国)を滅ぼす」という意味です。
1900年6月、義和団が北京を占領して日本とドイツの外交官を殺害。清の西太后は義和団を鎮圧するのではなく、義和団と共にヨーロッパ列強とアメリカ、日本に対して宣戦布告し、戦争となりました。これに対し、ヨーロッパ列強(イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ロシア)&アメリカ、日本の8か国連合軍が共同で出兵。イギリスは泥沼化した南ア戦争の真っ最中、アメリカもフィリピン独立運動を武力で鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争の真っ最中だったので、連合軍の主力は地理的に最も近い日本となっています。こうして、おそらく歴史上初となる「列強8か国連合軍」が結成されました。下の写真が有名ですね。」

Troops of the Eight nations alliance 1900
連合軍の兵士(左からイギリス、アメリカ、ロシア、英領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本) 撮影者:不明 撮影年代:1900年

名もなきOL
「西太后は、義和団の勢いに乗って列強に宣戦布告したんでしょうけど、冷静に考えて、8か国を同時に敵に回したらおそらく勝てないですよね。」
big5
「そのとおりですね。列強連合軍は開戦から約2カ月後の1900年8月には北京に至り、公使館に籠城していた各国公使や中国人キリスト教徒らを保護しました。ちなみに、公使館籠城の指揮を執っていたのが日本の砲兵中佐・柴五郎です。敵に完全包囲された北京公使館で、義和団&清軍から外交官とその家族を守り抜いた実績と勇気は、ヨーロッパ諸国で賞賛されています。この後、連合軍はドイツなどが大幅に兵力を投入して掃討戦に移りました。こうなると、西太后は手のひらを返して義和団を賊軍とし手を切り、列強連合軍によって義和団は壊滅させられました。しかし、これで清が義和団と結んで戦争を挑んだという事実が帳消しになるわけではありません。
1901年9月、連合国と清で北京議定書が調印されました。ちなみに、清の全権大使はまたしても李鴻章です。」
名もなきOL
「北京議定書はどんな内容だったんですか?」
big5
「主だった内容は以下の通りです。
@外交官を殺されたドイツ、日本に対して深く謝罪すること。
A賠償金として4億5000万両を銀で連合国に支払う。これは年利4%で39年間の分割払いとする。
B清は各国公使館に軍隊が駐留することを認めること。
ですね。賠償金は、日清戦争の2倍近い金額である上に、公使館に各国の軍体が駐留するといった、独立国とはいえない内容まで盛り込まれており、まさに清に対する懲罰的な内容となっています。
こうして、清は列強との戦いに敗戦を続け、賠償金を課せられて領土を奪われていきました。清は、改革を断行して形勢挽回を試みますが、成果を出すことはできず、ついに滅亡します。最後は、辛亥革命という形で終焉することになるのですが、それはまたの機会に。
本日もご清聴ありがとうございました。」



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