Last update:2021,Feb,20

自由と革命の時代

フランス革命 (French Revolution) 後編

あらすじ

big5
「さて、フランス革命の後編ですね。ここからは、ルイ16世が処刑されてイギリス首相ピットの提唱により、第一回対仏大同盟が結成されたところから話をはじめますね。フランス革命のあらすじとか、前編はこちらからいけますので、まだ見ていない方はぜひぜひ見てくださいね!」

フランス革命 前編

big5
「まずは、フランス革命後編で扱う時代を年表でもう一度見てみましょう。」
名もなきOL
「big5さんは、いつも年表を使ってますよね。」
big5
年表は歴史の基本ですからね。忘れちゃったり、気になった時には、めんどくさがらずに何度も見直すことが重要ですよ。ことあるたびに、年表を確認する、というのは受験生にもオススメの勉強法ですね。」

できごと
1793年1月 ルイ16世処刑
1793年2月 (13日)イギリス首相ピットの提唱で第1回対仏大同盟 結成
(24日)徴兵制開始
1793年3月 革命裁判所設置
1793年6月 (2日)ジャコバン派独裁と恐怖政治が始まる
(24日)1793年憲法(ジャコバン憲法)決議
1793年8月 メートル法の制定
1793年10月 革命暦採用
1794年7月 (27日)テルミドール9日のクーデター
(28日)ロベスピエールら処刑
1795年8月 1795年憲法決議
1795年10月 総裁政府成立
1796年3月 ナポレオンの第1回イタリア遠征開始
1796年5月 バブーフの陰謀
1797年10月 ナポレオンがイタリアでオーストリアに勝利
カンポ=フォルミオの和約
1798年5月 ナポレオンがエジプト遠征開始
1798年12月 第2回対仏大同盟結成
1799年8月 ナポレオンがエジプトから脱出
1799年11月 ブリュメール18日のクーデター
1799年12月 統領政府成立

外国との戦争、暴走する革命

big5
「さて、第一回対仏大同盟が結成されたことで、フランスの周囲は敵だらけになりました。国境付近では諸外国との激しい戦闘が繰り広げられました。これに対応するためには、当然軍隊の拡充が必要になります。そこで、フランス政府は1793年2月24日、徴兵制(Conscription)を敷いて、フランス全土から兵士を集めた結果、その数は30万になったそうです。
今やフランスは共和国です。フランスは、王様のものでも貴族のものでも、ましてや聖職者のものでもありません。国民のものです。フランス人権宣言でも、「主権は国民にある」と明記されています。その祖国が危機に瀕した時、フランスを守るのは誰か、となると当然国民であるわけですよ。」
名もなきOL
「なるほど。国民の国なんだから、国民が国を守る、という話ですね。筋は通っていると思いますが、私は徴兵制というと暗いイメージしかないですね。戦時中の日本みたいに。」
big5
「それは当時のフランスでもある程度あったようです。徴兵制が決まった時、いかにして兵役を逃れるか、というパンフレットが出回ったそうです。革命が掲げる理想に共感できる人は、自ら進んで兵役志願したそうですが、貧しい農村の人々にとっては、徴兵制なんて迷惑極まりない制度だったことでしょう。
また、徴兵制で一つ重要なことがあります。それは、軍隊の実力主義です。この頃のヨーロッパ諸国では、上級指揮官や将軍などの役職は上級貴族がやるのが普通だったのですが、共和政フランスでは革命の過程で多くの貴族が外国に逃亡したり、処刑されたりしたので、数がかなり少なくなってしまいました。そこで、下級貴族や平民でも、実力さえあれば将軍になれる道が開けたんです。これが、田舎の下級貴族であったナポレオンや、その配下の将軍たちが頭角を現す基礎になったんです。」
名もなきOL
「なるほど、徴兵制がナポレオンに繋がっていくんですね。歴史って、何がどう繋がっていくかがわかると、面白いですね。」
big5
「そして1793年3月には革命裁判所が設置されます。革命裁判所の設置目的は、共和政に反対する者や革命に反対する者を公的に裁いて処罰する、という政治的な弾圧を目的としたものでした。この革命裁判所が、恐怖政治を象徴する機関になるわけですね。王妃マリー・アントワネットは革命裁判所で裁判を受け、1793年10月16日にコンコルド広場で処刑されています。」

Marie Antoinette Execution1
王妃マリー・アントワネットの処刑 画:シャルル・モネ 1794年作成

名もなきOL
「人権宣言を出した頃の革命とは、だいぶ空気が変わってしまったんですね。これだと、独裁国家と同じような状況じゃないですか。」
big5
「政治形態」と「自由」は別物、ということなのかもしれませんね。さて、共和政フランスは1793年6月にジャコバン派がジロンド派を武力で脅して追放すると、ますます暴走し始めます。「反革命的」とみなされた人々は、革命裁判所に連行されて、死刑判決を下されてコンコルド広場にてギロチンにかけられました。」
名もなきOL
「怖いですね。本当に怖いです。革命の名のもとに、公然と人が殺されていくなんて・・・」
big5
「この時期の革命の凄まじさを伝える史料に、『フランス革命下の一市民の日記』という、当時パリに住んでいた市民の日記がありますので、機会があったら是非読んでみてください。このサイトでも、機会があれば紹介したいですね。
さて、ジャコバン派独裁になったことを象徴する一つのイベントが、1793憲法(ジャコバン憲法)の制定です。8月10日事件の後、フイヤン派を追放した国民公会は、共和政フランスに相応しい新たな憲法を作ろうとしました。」
名もなきOL
「そういえば、1791憲法って立憲王政を定めた憲法でしたもんね。」
big5
「ジロンド派とジャコバン派、それぞれが新憲法の案を作っていましたが、ジロンド派は追放されましたので、ジャコバン派の案が憲法となりました。その内容を見ると
(1) 労働者の権利
(2) 社会保障
(3) 男子普通選挙(つまり、財産による制限などがない)
が盛り込まれ、かなり民主的な内容になっています。ただ、この憲法は諸外国との戦争の激化などを理由にして10月10日に延期が発表され、実施されることはありませんでした。」
名もなきOL
「ジャコバン派って、憲法の内容は民主的でよかったのに。。恐怖政治になってしまったところが、とても残念です。」
big5
「1793憲法は実施に至りませんでしたが、現在に繋がる基礎的ですが重要な変化もこの時期になされたんですよ。まず、メートル法の採用ですね。これまで、フランスでは地域によって長さや重さの単位がバラバラだった、という現代では考えられない違いがありました。」
名もなきOL
同じ国の中で違う、というのは不便ですよね。国が違うから単位が違うっていうのならまだわかりますけど・・」
big5
「そうですよね。ただ、これを統一しようとすると、けっこうモメそうですよね。どこの地域の単位が統一単位になるか、ということで政治的な抗争にもなりえますし。ただ、その点はジャコバン派独裁政権のもとで強制的にメートル法が制定されたわけです。
他にも基礎的ですが重要な変化として、革命暦の採用があります。革命暦が採用された背景の一つは、カトリック教会との対立です。カトリック教会の聖職者らも、これまで平民を支配していたけしからん支配階級、というのがジャコバン派の考えです。これまで使われていたグレゴリウス暦(1582年にカトリック教会が定めた)を廃止して、新しい暦を作ったわけです。」
名もなきOL
「革命暦って、どんな暦なんですか?今の暦には使われていないような気がします。」
big5
「一番の特徴は、1週間が10日になっていることですね。そして、1カ月は3週間、つまりちょうど30日です。1日も、24時間ではなく10時間となり、1時間は100分、1分は100秒でした。」
名もなきOL
「う〜ん、全部10で繰り上がる、っていう意味ではわかりやすいと思いますが、なんだかずいぶん違和感がありますね。。」
big5
「そうなんですよ。革命暦は使いにくかったのか、1806年に皇帝となったナポレオンが廃止したので、革命暦が使われたのはわずか13年間でした。ただ、この間の出来事はすべて革命暦で記録されたので、史料を調べたりするときは注意が必要ですね。」


恐怖政治の終焉とナポレオンの台頭

big5
「このように多くの犠牲を払いながら革命に邁進していったジャコバン派でしたが、ジャコバン派の中で意見が分かれるようになります。それは派閥争いに発展し、ついにはジャコバン派内で、相手を裁判にかけて処刑する、という激しい内部抗争に発展しました。有名どころでは、8月10日事件で名を上げたダントンも、ロベスピエールと意見が異なるようになったために、処刑されています。ジャコバン派内でも粛清が始まると、これまでジャコバン派を支持していたサンキュロットらも少しずつ離反し始めました。そして1794年7月27日、ついにクーデターが発生し、ロベスピエールとその取り巻きは逮捕され、翌日28日にコンコルド広場でギロチンにかけられました。このクーデターをテルミドール18日のクーデターと言います。「テルミドール」とは革命暦の月である「熱月」のことで、7月27日が革命暦では「熱月(テルミドール)9日」にあたるので、この名がついています。」

Robespierre
ロベスピエール肖像画 作成:1790年 作者:不明

名もなきOL
「ようやく恐怖政治が終わったんですね。話を聞いてるだけで、気分がしんどくなりました。。」
big5
「恐怖政治の終わりとともに、フランス革命も後半に入ります。1795年8月、共和政フランスに相応しい憲法を作る、ということで、1795年憲法が制定されました。1795年憲法は、ジャコバン憲法(1793年憲法)ほど民主的なものではありません。選挙権は一定の納税者だけに限定されており、普通選挙ではありませんでした。1795年憲法で特徴的なのは、「総裁」という総理大臣のような職位を置いたことですね。総裁は5人おり、この5人が行政の指揮を執る、という形です。「総裁」を1人ではなく、5人置くことで特定の誰かに権力が集中するのを防ぐのが狙いだった、と思われます。なので、この頃の共和政フランスは「総裁政府」と呼ばれています。」
名もなきOL
「権力を1人に集中させないために、5人にするっていうのは、理屈はわかるんですけど、実際にはあまり機能しない気がしますね。結局誰かに権力が集中しちゃったり、逆に意思統一できずに何も決められなかったり。。」
big5
「総裁政府がどれだけ機能したか、は気になるところですね。しかし、総裁政府は約4年という短命に終わりました。総裁政府を終わらせたのが、しばらく後に皇帝となるナポレオンです。この頃、ナポレオンは革命戦争の中で活躍し、1796年(この年、ナポレオン27歳)には北イタリア方面の指揮官に任命されて出陣します。イタリア遠征の始まりです。」
名もなきOL
「イタリアに遠征?イタリアも共和政フランスと戦争してたんですか?」
big5
この頃のイタリアは、まだ群雄割拠の戦国時代のように、中小国家が入り混じっている状態だったんですよ。そして、北イタリア方面の多くはオーストリアの領地だったんです。オーストリアと、その仲間のイタリア中小国がフランスの南東部を攻撃していたんです。北イタリアに攻め込んでオーストリア領を奪い取ってフランス南東部を守ることが、ナポレオンのイタリア遠征の目的でした。」
名もなきOL
「なるほど。当時は北イタリアもオーストリア領だったんですね。それで、ナポレオンはやっぱり強かったんですか?」
big5
「強かったですね。兵力の劣勢や武器・弾薬の不足にもかかわらず、ナポレオン軍は進撃を続けました。約1年半後の1797年10月、オーストリアとカンポ=フォルミエの和約を締結し、遠征はフランス軍の完勝でした。第1回対仏大同盟は、オーストリアの敗北をきっかけに崩壊しました。」
名もなきOL
「やっぱり、ナポレオンは強かったんですね。」
big5
「将軍としての指揮力は、まぎれもなくSランクでしょうね。それから、これは教科書には省略されがちな話なのですが、この時ナポレオンが奪取した北イタリアの領地は、フランスの領地になったのではなくいくつかの共和国として独立させた、ということです。もちろん、これらの共和国はフランスの影響を強く受けるわけですが、名目上はフランス軍は「圧政からの解放者」であって侵略者ではない、という大義名分を掲げていました。この政略は見事に当たり、ナポレオンは「圧政からの解放者」としてヨーロッパの民衆から支持を集めるようになっていきます。英雄、ナポレオンの誕生ですね。」
名もなきOL
「弱きを助け、強きを挫く、っていうのはヒーローの典型ですもんね。」
big5
「1798年5月には、エジプト遠征に出発します。これはエジプトは「インドへの道」ということで、エジプトを占領することでイギリス経済に打撃を与える、という目的だった、とされています。」
名もなきOL
「この頃のエジプトって、イギリス領でしたっけ?あと、「インドへの道」っていうのは、スエズ運河のことですか?。」
big5
「そこは誤解しやすいポイントなので、改めて説明しましょう。
まず、スエズ運河が完成したのは1869年。日本では明治時代になったばかりの時ですね。なので、ナポレオン時代にはまだスエズ運河はありませんでした。ただ、古代からスエズ運河の構想はあったそうで、ナポレオンの遠征に参加していた地理学者や技術者らにスエズ運河に関する調査をさせています。
それから、当時のエジプトはイギリス領ではなく、オスマン帝国に属する複数のマムルークが統治していました。なので、イギリスの領土を直接攻撃しているわけではないんですね。エジプト遠征の大義名分は、マムルークの支配からエジプト人民を解放する、ということでした。
フランス艦隊に乗って地中海を渡り、エジプトに上陸したフランス軍は、迎撃に来たマムルークの軍団とピラミッド近くで戦い、(ピラミッドの戦い)大勝利を収めるのですが、大きな問題が発生します。」

Baron Antoine-Jean Gros-Battle Pyramids 1810
ピラミッドの戦い 画:Antoine-Jean Gros 1810年作成

名もなきOL
「どんな問題ですか?」
big5
「アレクサンドリア沿岸のアブキール湾に停泊してたフランス艦隊が、イギリス艦隊の攻撃を受けて壊滅する、というアブキール湾の戦いです。このイギリス艦隊を率いていた、かの有名なネルソン提督です。」
名もなきOL
「フランス艦隊が壊滅しちゃったってことは・・・」
big5
「そう、フランス軍が帰れなくなってしまい、エジプトで孤立してしまったんです。これにはさすがのナポレオンも大ピンチです。これを好機と見たイギリスやオーストリアは、1798年12月に第二回対仏大同盟を結成。ナポレオン軍がエジプトで孤立している間に、ヨーロッパ戦線で挽回を図りはじめます。
ピンチのナポレオンでしたが、陸戦では圧倒していました。孤立した後も、マムルークやオスマン帝国の軍を破りながら進軍を続けます。ただ、孤立状態で長期戦を行うのはナポレオンでも不可能だったようで、1799年8月、わずかな側近だけを率いてひそかにフランスに脱出しました。」
名もなきOL
「他の人たちはどうなったんですか?」
big5
「置いてけぼりにされたんです。ナポレオン脱出後のフランス軍は、ドゼーやクレベールといった将軍たちが率いてがんばりましたが、最終的には1801年に約1万5000のフランス兵士がイギリスとオスマン帝国に降伏しました。というわけで、エジプト遠征は失敗に終わったわけですね。」
名もなきOL
「うーん、部下を置いてけぼりにしてしまった、というのは意外ですね。ナポレオンにもそんな一面があるんですね。」
big5
「これについては、やむを得なかったのではないか、と個人的には思います。遠征軍全体をフランスに帰すとなると、海戦でネルソン提督を破るか、イギリスと不利な条件で講和する、とかになってしまうでしょうし。
ともあれ、エジプト遠征は失敗したわけですが、一つだけ有名な話をしておきましょう。それは、ロゼッタ・ストーンの発見ですね。」

Rosetta Stone
大英博物館に展示されているロゼッタ・ストーン

名もなきOL
「ロゼッタ・ストーンって、大きな石板ですよね?字が書いてある。」
big5
「そうです。これを発見したのは、エジプト遠征に参加していたフランスの学者たちだったんです。ロゼッタ・ストーンは、フランスが降伏した際にイギリスに持ち帰られました。ロゼッタ・ストーンには古代エジプトの神聖文字・ヒエログリフと民衆文字・デモティック、そしてギリシャ語の3つの言語で同じ内容の文章が書かれている、という考古学上たいへん有用な史料でした。これを機に、ヒエログリフの解読など古代エジプトの研究が飛躍的に進展した、という大きな考古学上の成果があったんです。
このように、ナポレオンのエジプト遠征は単純な軍事力での征服だけではなく、学者や技術者なども多数参加している探検事業のような性格も帯びていたのが特徴ですね。」

ブリュメール18日のクーデタと革命の終わり

big5
「さて、長かったフランス革命の話もついに終盤です。エジプトからなんとか逃げ帰ってきたナポレオンを待っていたのは、なんとクーデターの誘いでした。」
名もなきOL
「え?クーデターに誘われたんですか?」
big5
「はい。当時の共和政フランスは5人の総裁をトップに置く組織でしたが、財政難など様々な問題を抱えていました。総裁の1人であったシェイエス(この年、51歳)は、より強力な政府を作って事態の収拾を図りました。そんな彼の計画を正当化するのに、うってつけの男が英雄・ナポレオンでした。クーデターに正当性を持たせるためには、民衆に人気があるナポレオンを仲間に加えるのが一番、と考えたわけです。」
名もなきOL
なるほど。民衆に人気があるナポレオンなら、みんなにも受け入れられやすい、ということですね。」
big5
「1799年11月9日、革命暦ではブリュメール(霧月)の18日、ナポレオンは兵士を率いて議会に侵入して制圧。総裁政府は解散させ、代わりに3人の「統領」を置く統領政府を樹立することに成功しました。これがブリュメール18日のクーデタです。統領政府のトップである統領は3人ですが、実質的には第一統領に権力が集中していました。そして、第一統領に就任したのがナポレオンだったわけです。」

Bouchot - Le general Bonaparte au Conseil des Cinq-Cents
ブリュメール18日のクーデタ 画:Francois Bouchot 1840年作成

名もなきOL
「誘われて参加したわりには、一番おいしいところをナポレオンが持っていったわけですね。」
big5
「まさにそのとおりですね。こうして、1799年12月25日に正式に統領政府が成立しました。政体としては「共和政」ではありますが、実質的にはナポレオンが単独でフランスの指導者でした。
こうして、1789年に始まったフランス革命は、10年間の間にいくつもの変化を経て、最後はナポレオンの独裁体制に落ち着いて終焉したわけですね。」
名もなきOL
「本当に、フランス革命は内容が濃いですね。10年間で、これだけの内容があるなんてビックリです。」
big5
「人権、平等、政治形態、思想、英雄、戦争、宗教と、フランス革命はいろんなテーマを抱えた大イベントです。これでも、けっこう省いて本編は作りました。省略してしまった面白いエピソードなど、フランス革命は本当にネタが豊富なんです。
というわけで、次はナポレオン時代ですね。ヨーロッパ世界は、ナポレオンの登場で大きく揺れ動いていくことになります。」


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