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「「源平合戦 前編」で見たように、以仁王の令旨をきっかけとして、反平氏勢力が一斉に蜂起。平家の大黒柱である清盛は病死し、反乱勢力の鎮圧も不完全な中、源義仲は平家を都から追い落としたのですが、その無作法な振る舞いは後白河法皇らの反感を買ってしまいました。ついには、後白河法皇を幽閉するという強硬手段に出たため、鎌倉で様子を見ていた源頼朝は、弟の範頼と義経に義仲追討の軍を派遣した、という話でしたね。」
名もなきOL
「義経さんが表舞台に登場するのもここからですね。楽しみです。」
年 | 源平合戦イベント |
1180年 治承4年 2月 |
(21日)高倉天皇退位 |
1180年 治承4年 4月 |
(9日)以仁王が平氏追悼の令旨を出す (22日)安徳天皇が即位 |
1180年 治承4年 5月 |
宇治川の戦いで以仁王、源頼政が敗死 |
1180年 治承4年 8月 |
源頼朝が伊豆で挙兵するも敗北 |
1180年 治承4年 9月 |
源義仲が信濃で挙兵 |
1180年 治承4年 10月 |
(20日)富士川の戦いで平氏が戦わずして敗走 (21日)源頼朝と源義経が黄瀬川で会見 |
1180年 治承4年 10月 |
源頼朝が侍所別当に和田義盛を任命 |
1180年 治承4年 12月 |
平重衡が東大寺・興福寺を焼く |
1181年 治承5年 閏2月 |
平清盛死去 |
1181年 治承5年 3月 |
州の股合戦で平知盛が源行家、義円率いる源氏軍を破る |
1182年 養和2年 |
西国を中心に凶作と飢饉に見舞われる(養和の飢饉) |
1182年 寿永元年 5月 |
元号が「寿永」に改元される |
1182年 寿永元年 9月 |
横田河原合戦で源義仲が城長茂率いる平家方の軍を破る |
1183年 寿永2年 5月 |
源義仲が倶利伽羅峠の戦いで平氏を破る |
1183年 寿永2年 7月 |
平氏の都落ち、源義仲が入京 |
1183年 寿永2年 10月 |
寿永二年十月宣旨で源頼朝の東国支配権が認められる |
1183年 寿永2年 閏10月 |
源義仲が水島の戦いで平氏に敗れる |
1183年 寿永2年 11月 |
源義仲が後白河法皇の御所を襲撃 |
1184年 寿永3年 1月 |
源範頼、源義経が源義仲を破る。義仲戦死 |
1184年 寿永3年 2月 |
一の谷の戦いで源義経が平氏を破る |
1184年 寿永3年 8月 |
源義経が左衛門少尉、検非違使に任じられる |
1184年 寿永3年 9月 |
源範頼が追討使に任じられ、3万騎を率いて九州へ陸路で向かう |
1184年 寿永3年 10月 |
源頼朝が問注所を設置 |
1185年 元暦2年 2月 |
屋島の戦いで源義経が平氏を破る |
1185年 元暦2年 3月 |
壇ノ浦の戦いで源義経が平氏を破る 平氏滅亡 |
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「年が明けて1184年(寿永3年)1月、源頼朝が派遣した軍は2手に分かれて進軍しました。範頼率いる3万5000騎が勢田へ向かい、義経率いる2万5000騎が宇治へ向かいます。この時『平家物語』で有名なお話が宇治川先陣争いの話ですね。」
名もなきOL
「あ、それ聞いた覚えがあります。たしか、2人の武者が競争した、っていう話ですよね。」
big5
「そのとおりです。梶原景季と佐々木高綱の2人ですね。当初は梶原景季が戦闘だったのですが、佐々木高綱が「梶原殿、宇治川は西国一の大河。気を付けなされ。ところで、貴殿の馬は腹帯が緩んでいるようですぞ。」と声をかけ、そのとおりだと思った梶原が腹帯を解いて締めなおしている間に、佐々木が追い越して宇治川に飛び込みました。佐々木が乗っていた馬は「生食(いけずき)」という名馬で、出陣前に頼朝からもらった名馬です。生食は宇治川の流れに負けずに渡り切り、見事に一番乗りの名誉を獲得した、という話ですね。」
名もなきOL
「なんか佐々木さんのやり方は微妙な気もしますが、それを真に受けてしまう梶原さんもどうかな、と思いますね。梶原さんはどうなったんですか?」
big5
「梶原景季が乗る馬は「摺墨(するすみ)」という名馬で、これも頼朝から与えられた名馬です。景季も佐々木高綱に続いて宇治川に飛び込むのですが、摺墨は宇治川に押し流されてしまい、やや川下から上陸しました。それでも、2番乗りでした。『平家物語』では、宇治川の戦いについて義経軍の武者の活躍ぶりを強調して描いており、義仲軍の記述はかなり少ないです。義仲軍は十分な防備と兵数をそろえられず、宇治川の防衛線は容易く突破されたのではないか、と思います。こうして義経軍は京の都に入り、まずは幽閉されていた後白河法皇を解放。義仲は都の六条河原で大勢の義経軍に包囲されるも、義仲とその側近6騎はなんとか囲みを突破しました。『平家物語』では、「木曽殿の最期」という題名で、義仲と側近たちの最期を劇的に描いていますね。
義仲は武勇を奮いながら落ち延びようとしますが、近江国の粟津の松原というところで戦死。側近たちも自害したり捕らえられた後斬首され、義仲一党はここに滅亡しました。」
名もなきOL
「義仲さん、最期はあっという間に滅亡へと向かっていった、というかんじですね。倶利伽羅峠の戦いで、颯爽と登場した一方で、滅亡する時はあっという間。平家の栄枯盛衰を、わずか2,3年で体現してしまった、というかんじですね。」
big5
「平家物語のテーマは「諸行無常」ですが、これが当てはまるのは平家だけではなく、義仲もそうなんじゃないか、と思いますよね。」
big5
「さて、義経と範頼が義仲を滅ぼした翌月の2月、彼らは時を置かずに平家攻撃に出発しました。というのも、頼朝勢と義仲が戦っている間、平家は四国の屋島に拠点を構え、形勢挽回を図り、かつての遷都を強行した福原までまで進出していたんです。」
名もなきOL
「源氏同士の抗争なんて、平家にとってはいいチャンスですもんね。」
big5
「義経と範頼が後白河法皇に出陣の挨拶に行くと、後白河法皇は平家追討の宣旨を出すと共に、平家に持ち出された三種の神器の奪還を命じられます。さて、ここで問題です。OLさんは、三種の神器って何のことだかわかります?」
名もなきOL
「え〜っと、天皇家の大事な宝物ですよね。確か、剣と鏡だったような・・・」
big5
「3割正解、といったところですね。三種の神器とは、天皇家に代々伝わる宝物で、天皇の位と共に継承される、たいへん重要な宝物です。「三種」の名の通り3つあって、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の3つです。平家は、安徳天皇と共に三種の神器を持って都落ちしていったので、後白河法皇が奪還を命じたわけです。ちなみに、平家が都落ちした後の1183年9月に高倉天皇の第4皇子(母は坊門殖子)であった後鳥羽天皇が即位しました。つまり、この時点で2人の天皇が存在していたことになります。」
名もなきOL
「なるほど。後白河法皇にとっても、平家にとっても、たいへん重要な問題だったわけですね。」
big5
「さて、源氏軍は再び二手に分かれて進軍することになりました。範頼は5万騎を率いて昆陽野(こやの 現兵庫県伊丹市)に向かい、そこから山陽道を通って東から一の谷に向かいます。いわば、正面担当ですね。義経は1万騎を率いて丹波を通って播磨の三草山に向かいました。これは迂回して西から一の谷へ向かう、いわば裏門担当ですね。一方、対する平家は東の守りとして平知盛・平重衡の軍が生田の森で防衛線を張っており(兵数不明)、北は三草山で平資盛が3000騎で防衛。そして、西は一の谷で平忠度らが守っていました。南は瀬戸内海で、平家の軍船が配備されていました。」
名もなきOL
「この辺りは、南が海で北は山。東西の狭い道をしっかり守れば、かなり堅固な防衛陣地になりますよね。」
big5
「そうですね。実際、正面から攻め込んだ範頼軍は、平知盛率いる軍と一進一退の攻防を繰り広げていた、と『平家物語』記述しています。この均衡を破ったのが、義経軍です。義経は平資盛の陣地を攻撃するにあたり、土井実平の意見を受け入れて夜襲を行いました。資盛の軍は、戦闘は明日だと思ってゆっくり休んでいたため、夜襲は大成功。資盛は500騎余りを討たれて逃走し、播磨の高砂から船に乗って屋島に逃げていきました。この戦いは、「三草合戦」と呼ばれることもあります。」
名もなきOL
「三草合戦は、有名な「逆落とし」ではないのですか?」
big5
「有名な逆落としは、この次ですね。三草合戦で勝利した義経軍は、ここで二手に分かれます。一隊は、土井実平が率いて、回り込んで一の谷に西から向かいました。そして義経は3000騎を率いて、鵯越(ひよどりごえ)に向かいました。ここが平家物語でも有名な「逆落とし」の場所ですね。崖の上に立つ義経軍。下には、平家の陣地があります。ただ、この崖を降りるのは不可能に思えました。とことが、鹿が崖を降りていくのを見た義経は「鹿が下りれるところを、馬が下りれないはずがない」と言って。自ら先頭を切って崖を降り始めました。義経配下の30騎が続き、そして3000騎の武者全員が崖を降り始めました。平家の軍は、突如崖の上から降りてきた義経軍の攻撃に大混乱。これがきっかけとなって平家軍は逃亡を始めます。しかし、東は範頼軍、西は土井実平軍がいるため、逃げるとしたら南の海しかありません。平家軍は我先にと船に乗ろうとしますが、乗れずにおぼれ死んでしまう者が続出。逃げられなかった者は討ち死にするか捕らえられ、甚大な損失を出して敗北してしまったのです。
平家一門の者も、多数戦死者が出ました。戦死者の名前は、史料によって異なる部分がありますが、『平家物語』では、戦死したのは
1.清盛の弟で和歌に優れた薩摩守忠度
2.3.清盛の弟・教盛の子である通盛と業盛兄弟
4.5.6.清盛の弟・経盛の子である敦盛、経正、経俊の三兄弟
7.重盛の子である師盛
8.知盛の子である知章
9.清盛の八男である清房
10.清盛の養子である清貞
と、一門に連なる者が10名戦死するほどの敗戦だったわけです。また、清盛の弟である重衡は捕虜となっています。」
名もなきOL
「平家一族クラスの人がそんなに打ち取られてしまうなんて、よほどの大敗北ですね。富士川、倶利伽羅峠以上の打撃なんじゃないか、と思います。」
big5
「同感です。一の谷の戦いは、鵯越の逆落としを始め、謎な部分も多いのですが、この戦いで平家が大損害を被ったというのは間違いない事実でしょう。」
big5
「さて、一の谷戦いで大勝利を収めた源氏でしたが、平家の拠点である四国の屋島、そして関門海峡の彦島に攻撃を仕掛けることができませんでした。OLさん、どうしてだと思います?」
名もなきOL
「それは知ってますよ。源氏には強い水軍が無かったからです。それに対して、平家は有力な水軍を持っていたので、海上での戦いは強かったんですよね。」
big5
「その通りです。そのため、源氏は何かしらの対策が必要になったんですね。鎌倉から出陣してきていた軍は、範頼が率いていったん帰り、京都には義経が残って平家の残党や反乱勢力の鎮圧を行っていました。後白河法皇は、1184年8月に義経を検非違使(けびいし:都の治安維持を任務とする)、左衛門尉(さえもんのじょう)に任命しています。9月になると、頼朝は再び範頼に3万騎余りを率いさせて、陸路で山陽道を通り、九州平定に向かわせました。範頼は、部下の不平不満を抑えながらなんとか長門まで行くのですが、兵糧不足や武士たちの反抗が続出。それ以上の進軍が難しくなってしまいました。年が明けて1185年2月、義経率いる軍が京の都を出発し、摂津に向かいました。ここから、調達した船に乗って平家の拠点・屋島を攻撃するという作戦です。ここで、その船に、後退用の櫓(逆櫓(さかろ))を付けるか付けないかで梶原景時と義経がケンカした、という「逆櫓」のエピソードが有名ですね。」
名もなきOL
「あ、それ聞いたことあります。梶原景時が「船が後退できるように逆櫓を取り付けるべき」と主張したのに対し、義経は「逆櫓を付けると逃げ腰になるからだダメだ」と言って、揉めたんですよね。」
big5
「その通りです。純粋に船の機能の面から考えると、梶原景時の意見の方が正しいと思います。ただ、義経の言う「兵の士気への悪影響」というのも、理解はできますね。
さて、ひと悶着あった後、この方面を暴風雨が襲いました。当然、出港は延期されるかと思いますが、なんと義経は出港を指示。しかも夜です。船乗りたちは「自殺行為だ」と言って嫌がりますが、義経は「出港しないならこの場で射殺する」と脅して出港させました。この時、源氏の軍船は200艘あったのですが、義経はこのうち5艘を使って、暴風雨の夜に出港したんです。」
名もなきOL
「なんか義経さん、暴走してるような・・・・」
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「ところが、運が義経に味方したのか、それとも義経の見立てが正しかったのか、5艘の船は一晩でなんとか海を渡り切って、四国の阿波(徳島県)にたどり着きました。もちろん、平家は義経が渡海したことには気づいていません。少数の義経軍は、平家に従う近隣の武士らを下しながら屋島に向かって進軍し、平家に気づかれる前に屋島を襲撃しました。平家は、源氏がの襲撃は船に乗って海から来る、と想定していました。まさか陸側から来るとは思っていません。突然の襲撃に、平家の人々は逃げまどうばかり。安徳天皇や三種の神器など重要品を運んで船に乗って逃げようとするばかりでした。」
名もなきOL
「一の谷に続いての奇襲ですね。義経さんは、奇襲が得意なんですね。」
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「平家の軍が船に乗り、出港して一息ついてあらためて屋島を見てみると、源氏の軍勢はごくわずかしかいないことに気づきます。ここで、平教経が指揮を執って反撃に移り、両軍で激しい弓矢の射撃戦になりました。この戦闘で、義経の従者の一人・佐藤嗣信が矢から義経をかばって戦死しました。『平家物語』「嗣信の最期」の段ですね。
もう一つ、屋島の戦いには有名なエピソードがあります。那須与一(なすのよいち)が射抜いた「扇の的」です。」
名もなきOL
「波で揺れる船の上に置かれた扇を弓矢で見事に打抜いた、っていう話ですよね。この話は屋島の戦いの時の話だったんですね。」
big5
「戦いが一進一退の引き分けのまま日没を迎え、戦いは打ち切りになります。この時、平家の軍船のうちの1艘が、船の舳先に黄金の扇を掲げて「これを射抜ける者はいるか?」と暗に問いかけるんですね。これに対し、義経が弓の名手として推薦された那須与一に射撃を命じます。与一は、見事に扇を射抜いて敵味方双方から喝采を受けました。」
名もなきOL
「与一さん、カッコイイですよね〜。」
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「ただ、扇を掲げていた船で平家の50代くらいの武士が長刀を掲げて踊りだすと、義経の部下の伊勢三郎が「義経様の命だ、あの男も射よ。」と命じたので、与一は踊っている平家の武士も見事に射抜きます。この一射に平家は怒り、再び両軍の間で合戦となりました。」」
名もなきOL
「う〜ん、私、伊勢さんってどうも好きになれません。この件も、完全に興醒めです。。」
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「そうですね。やがて夜になりました。平家は夜襲をかけようとするのですが、誰が夜襲の先陣を務めるかでもめている間に時期を逸してしまいます。結局、平家は屋島を奪還することができず、さらに西、壇ノ浦に落ちのびていきました。その後、梶原景時率いる200艘の本隊が屋島に到着したのですが、屋島は既に義経が制圧済です。義経の兵らは、景時を「間に合わなかった間抜け」と罵り、義経と景時の溝はますます深まってしまいました。
ともあれ、こうして平家は屋島も失い、本当に最後の拠点、壇ノ浦に追い込まれてしまったのです。」
big5
「屋島の戦いの後、義経平家を追って関門海峡へ向かい、範頼の軍と合流します。一方、平家は彦島の拠点に戻って、なんとか形勢挽回を図っているところでした。」
名もなきOL
「そういえば、水軍の件はどうなったんですか?屋島は、義経さんの奇襲でなんとか勝利したものの、水軍は平家優勢のままなんですよね?」
big5
「いえ、この時には既に逆転していました。屋島の戦いの後、源氏の優勢が明らかになったため、水軍も次々と源氏に鞍替えしていきました。主だったところでは、熊野水軍と四国の河野通信(こうのみちのぶ)の水軍が源氏に鞍替えしました。これにより、源氏の軍船は約3000艘、対する平家は約1000艘となり、その戦力差は歴然としていました。」
名もなきOL
「あちゃ〜、ここまで差が付いたら、もう平家に勝ち目はありませんね。」
big5
「戦争は流れを掴むことが重要です。勝ちそうな方には味方が増え、負けそうな方は味方が減るのは古今東西共通の法則ですね。壇ノ浦の戦いの序盤は平家が優勢だったものの、だんだんと源氏が盛り返し、平家についてた田口重能(たぐちしげよし)の水軍も源氏に寝返ったため、壇ノ浦の戦いは源氏の完勝となりました。」
名もなきOL
「平家の人々はどうなったんですか?」
big5
「まず、安徳天皇(この年7歳)は、祖母である二位尼(にいのあま 平時子 この年59歳)に抱かれて入水自殺。母の建礼門院徳子も入水しますが、源氏の兵に長い髪を熊手でからめとられて救出されました。統領である宗盛は海に飛びこもうとしないため、部下に海に突き落とされました。これを見た息子の清宗は海の飛び込みますが、2人とも泳ぎが得意だったためか、源氏の兵に発見されて捕らえられました。時子の兄である平時忠は捕らえられました。生き残っていた平家の者たちも海に身を投げていきました。そんな中、教経は弓矢で抗戦を続け、何人もの源氏の兵を打ち倒し、さらには義経の首を狙って追いかけまわします。義経も、教経にはかなわないと見て船から船へと飛び移って逃げました。これが「義経の八艘飛び」です。」
名もなきOL
「へ〜、八艘飛びって、義経が教経から逃げ回っている時の話なんですね。次から次へと平家の船に飛び移って攻撃していたんだと思っていました。」
big5
「しかし、教経の奮戦もここまで。最期は、源氏の武者2人を道連れに海の飛び込みました。教経、この年25歳。そして、知盛は「見るべきものは見た」と言って最後に飛び込みました。知盛、この年33歳。」
名もなきOL
「そういえば、三種の神器はどうなったんですか?」
big5
「安徳天皇の女官たちが、三種の神器を持って入水しました。その後の捜索で、鏡と勾玉は発見されましたが、草薙剣は見つからなかったんです。これについては、義経の失敗として後の事件の一因になります。
こうして、壇ノ浦の戦いは終わり、平家は滅亡しました。捕らえられた宗盛、清宗親子は捕虜として鎌倉に連れていかれました。宗盛は鎌倉で頼朝の前に引き出されますが、命乞いばかりする宗盛は嘲笑の的でした。その後、京都に護送される途中、息子の清宗と共に近江の篠原で斬首されました。宗盛、この年38歳。清宗、この年15歳。平時忠は能登に流罪となり、4年後の1189年に配流先で死去しました。59歳になる年でした。建礼門院徳子は出家して大原で静かに過ごして余生を送りました。亡くなった年は、意外なことに史料によってまちまちです。
一の谷の戦いで捕虜になっていた清盛の五男・重衡は、奈良の僧兵らに引き渡されて京都の木津で斬首されました。28歳になる年でした。
せっかくなので、平家滅亡の際に幼少だった子らの話もしておきましょう。まず、宗盛の次男である副将丸(ふくしょうまる)です。「副将丸」という変わった名前は、宗盛が長男の清宗を大将軍、弟は副将軍、という思いで名付けられたそうです。父や兄と共に、壇ノ浦で捕えられたのですが、この時7歳、あるいは5歳でした。副将丸は京都で預けられていたのですが、頼朝は宗盛・清宗親子と同様に処刑を命じたため、京都で処刑されました。『平家物語』では、状況を理解していない純粋な幼児として描かれ、滅んだ平家の悲哀を象徴する存在になっています。」
名もなきOL
「そんな幼児まで殺すなんて・・・。頼朝って冷酷なんですね。」
big5
「そうですね。頼朝は冷酷になれる人だったと思います。ただ、自分自身のことも考えたはずです。頼朝自身、平治の乱で敗れた時に処刑されてもおかしくありませんでした。ところが、運よく命を助けられ、そしてこうして平家を滅ぼしたわけです。今ここで平家の幼児たちを生かしておいたら、成長した平家の遺児たちが挙兵するかもしれない。そんな心配をしたんだと思いますね。それを未然に防ぐための必要悪、と考えたのかもしれません。
次に、平維盛です。実は、維盛は一の谷の戦いの後、いつの間にか平家を離れて熊野で出家していました。」
名もなきOL
「維盛さんって、富士川・倶利伽羅峠で大敗したあの維盛さんですよね。まさか出家していたとは・・・でも、どうして一人で出家したのかしら?」
big5
「理由は不明なのですが、維盛は清盛の長男・重盛の長男なのですが、重盛は清盛よりも先に亡くなったため、平家の棟梁は宗盛になりました。そのため、平家一門の中でもやや浮いた存在になります。その後、1184年に那智の沖で入水自殺した、とされていますが、異説もあり、はっきりしません。
最後に、維盛の子・六代(ろくだい)の話を。六代は維盛の長男ですが、生年ははっきりしません。1173年ころではないか、と推定されます。六代の場合、他の平家の人々とはやや事情が異なります。まず、六代は1183年の平家都落ちの際に、平家一門にはついていかずに京都で母親と隠れていました。その後、1185年に壇ノ浦で平家が滅びた後、北条時政が平家の残党狩りに京都にやってきた際に発見されて捕らえられますが、六代の曾祖母にあたる頼池禅尼が頼朝の助命嘆願をした、という縁もあって助けられ、出家して生き延びました。『平家物語』では、その後1199年に謀反の疑いをかけられて処刑された、とされていますが、別史料では処刑に触れていないものもあり、その後のことは不明な点が多いです。」
名もなきOL
「なるほど。でも、源平合戦で、平家はほとんど滅亡してしまったんですよね。」
big5
「いえ、完全には滅亡していません。歴史の表舞台からは消滅しましたが、その血筋は完全に絶えたわけではありません。まず、清盛の弟の平頼盛(たいらのよりもり)です。頼盛は1183年の平家都落ちの際に、宗盛に置いてけぼりにされたがために、後白河法皇に降って、その後頼朝に保護されています。他にも、平家一門の中で消息不明となっている人物もいるため、平家一族が完全に滅んだとは言えないと思いますね。とはいえ、平氏が日本の政権を担うことは、もうありませんでした。そういう意味では「平氏の時代は終わった」と言えますね。」
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