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中世

ゲルマン人諸国の興亡

導入

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「今回のテーマはゲルマン人の大移動です。古代世界の覇者となったローマ帝国が衰退し、西ローマ帝国が滅んだことでヨーロッパ世界は「中世」と呼ばれる時代に突入しますが、中世に至る道筋を作ったのがゲルマン人の大移動になります。年号も重要なので、覚えておきましょう。このゴロ合わせが有名ですね。
皆Go(375)!ゲルマン人
名もなきOL
「この覚え方はわかりやすくていいですね。」
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というわけで、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」

年月 ゲルマン人のイベント 他地方のイベント
375年 フン族の圧迫によりゲルマン人(西ゴート族)が大勢ローマ帝国に侵入 ゲルマン人の大移動
395年 テオドシウス帝死去し、ローマ帝国は東西に分裂
418年 イベリア半島に西ゴート王国成立
429年 ガイセリック率いるヴァンダル族がカルタゴの故地にヴァンダル王国を建国
443年 南ガリアにブルグント王国成立
449年 アングロ=サクソン人がブリテン島に侵入開始
451年 カタラウヌムの戦いで西ローマ・西ゴート連合軍がアッティラを破る
453年 アッティラ死去し、フン族の帝国は瓦解
455年 ヴァンダル王国がローマ掠奪
476年 西ローマ帝国滅亡
481年 メロヴィング家のクローヴィスがフランク諸部族を統一してフランク王国を建国
493年 東ゴート族のテオドリックがイタリアに侵入してオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国
527年 東ローマ皇帝・ユスティニアヌス即位
534年 フランク王国がブルグント王国を併合
東ローマ帝国がヴァンダル王国を滅ぼす
555年 東ローマ帝国が東ゴート王国を滅ぼす
568年 イタリア半島でロンバルド族が反乱し、ランゴバルド(ロンゴバルド)王国建国

フン族の進出とゲルマン人の大移動 375年

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「さて、まずはゲルマン人の大移動について確認していきましょう。冒頭でも紹介したように、375年にゲルマン人の集団が大規模な移動を開始したのですが、これのきっかけとなったのが民族系統不明のフン族(Hun)でした。フン族の正体については様々な意見がありますが、今のところ中央アジアの騎馬民族で、おそらく中国北方にいた匈奴(きょうど)の一派なのではないか、とされていますね。」
名もなきOL
「ふ〜ん、謎が多いんですね。」
big5
「ローマ人の多くは、ゲルマン人を「野蛮で残忍な蛮族」というイメージを持っていましたが、この頃にローマに伝えられたフン族の噂は「あのゲルマン人が恐れおののくほど恐ろしいのがフン族」というもので、たいへん恐れられていたんです。フン族は黒海北部の平原地帯からヨーロッパ方面に侵入し、この辺りにいた東ゴート族を武力で支配。これに驚いた大勢の西ゴート族が、ドナウ川を越えてローマ帝国内に侵入してきた、というのが375年のゲルマン人大移動の背景です。
ちなみに、ゲルマン人大移動の年号を376年としている資料もあります。これは、西ゴート族がドナウ川を越えた年です。ドナウ川を越えた時点で、ゲルマン人の大移動、とみなす考え方ですね。ここでは、ゴロ合わせで覚えやすい375年をゲルマン人大移動の始まり、と考えることにします。」
名もなきOL
「ゲルマン人の大移動はローマ人にとっては迷惑だったんでしょうけど、そのゲルマン人もフン族に追われるような形でローマ帝国に来たんですね。」
big5
「そのとおりです。ちなみに、ゲルマン人がローマ帝国に入ってくること自体は、今回が初めてというわけではありませんでした。ローマ帝国の後期から既に、傭兵として雇われていたり、下級官吏として働いていたり、戦争捕虜などはラティフンディアでコロヌスとして働いていたりと、数は少ないですがゲルマン人はローマ帝国社会に入り込んでいたんですね。ただ、375年の大移動は量的にもはるかに大きく、その後の戦いでローマ皇帝が戦死しており、歴史上の大事件となったわけです。
以降、ゲルマン人たちは地中海世界を集団で移動して各地に自分達の王国を築いていきます。」


世界の歴史まっぷ さん作成 ゲルマン人とスラヴ人の移動の地図

西ゴート王国 418〜711年

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「早い段階でローマ帝国に侵入し、永続的な王国を築いたのが、フン族に追われてきた西ゴート族でした。ローマ軍を実力で破った西ゴート族は、当初はドナウ川とバルカン山脈の間あたりへ居住と自治が認められ、帝国内の独立自治領のような形になりました。その後、ローマ帝国が東西に分裂してからは、西ゴート王・アラリックに率いられて410年にイタリアに攻め込んでローマを掠奪するなど暴れ回りっています。
<覚え方のポイント>
この頃のゲルマン人王国の王は「〇〇リック」と、名前の最後が「リック」で終わる人物が多いので、後になって「アラリックってどこの国王だっけ?西ゴート?東ゴート?それともブルグントだったっけ?」という具合に迷ってしまうことが多々あります。なので、アラリックについては
西ゴートのアラリック
と、国名とセットで覚えておくのがおススメです。」
名もなきOL
「何かと関連付けて覚えた方が、覚えやすいですもんね。」
big5
「アラリックはローマ略奪の後、間もなく病気で死んでいます。しかし、アラリックの死後も西ゴート族の移動は止まらず、ガリア南部(現在のフランス南西部、アキテーヌ地方)を支配。さらにその後415年にイベリア半島に侵入し、西ゴート族よりも一足先にイベリア半島に来ていたヴァンダル族(後で再登場)を蹴散らして、418年にイベリア半島北部を支配し、西ゴート王国を建国しました。
451年には、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国と協同してアッティラ(後に再登場)率いるフン族の軍を撃退するなど、活躍しています。」
名もなきOL
「イベリア半島なんて、随分と遠くまで移動していったんですね。イベリア半島ということは、西ゴート王国が後のスペインになるんですか?」
big5
「いえ、西ゴート王国は711年に、急成長してきたイスラム教徒の軍に滅ぼされたので、直接的なスペインの基になったわけではありません。ですが、西ゴート王国は、南ガリアを別のゲルマン民族であるフランク王国(後に再登場)に奪われてイベリア半島の国となり、首都をトレド(Toledo)に置きました。トレドは街全域が世界文化遺産に登録されており、スペインの古都として文化的にも大きな役割を果たすことになります。
西ゴート王国は初期に建国され、約300年と他のゲルマン民族の国よりも比較的長続きしたのが特徴ですね。」

Toledo Skyline Panorama, Spain - Dec 2006
Wikipediaより トレド全景 権利者:Diliff 撮影日:2006年12月28日

ヴァンダル王国 429〜534年

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「次に登場するのは、西ゴート王国の話でも少しだけ登場したヴァンダル族(Vandal)です。ヴァンダル族の起源も、諸説様々あって判然しないのですが、一つ特徴的なのは早い段階からアリウス派キリスト教を信仰していたことです。「古代 帝政ローマ」でも説明したように、アリウス派はイエス・キリストも申請ではあっても人間、と考える説です。」
名もなきOL
「そうでした。三位一体説(神・イエスと聖霊の3つは一体である)を唱えたアタナシウス派が正統とされ、アリウス派は異端とされましたが、わかりやすいのはアリウス派なので、おそらくアリウス派が信仰されたのでしょうね。私もアリウス派の方がわかりやすいと思いますし。」
big5
「ヴァンダル族は406年からフン族に圧迫されてガリア方面に流れ、西ゴート族よりも先にイベリア半島に居ついていました。イベリア半島南部はアンダルシア(Andalusia)と呼ばれていますが、元々はヴァンダル族の(Vandalusia)だった、という説があります。しかし、上述のように西ゴート族に追い出されてしまったため、ヴァンダル族は新天地を探すことになりました。それが、古代にカルタゴとして繁栄していた現在のチュニジアです。429年、この地を拠点としてヴァンダル王国を建国しました。」
名もなきOL
「西ゴート族もかなりの距離を移動していますが、ヴァンダル族はそれ以上ですね。イベリア半島に行った後、アフリカ北岸に渡って東に向かっていったんですね。」
big5
「ヴァンダル王国を有名にしたのは、455年のローマ掠奪です。後述しますが、この3年前にフン族の王・アッティラ率いる軍勢がローマに迫ったのですが、教皇・レオ1世の説得によってアッティラは退却。ローマは略奪を免れています。しかし、その2年後にヴァンダル王・ガイセリック率いるヴァンダル族は、大々的にローマを略奪したんです。
<覚え方のポイント>
「西ゴートのアラリック」と同様に「ヴァンダルのガイセリック」とセットで覚えるのがおススメです。二人ともローマ略奪を行っているところも共通点なので
ローマ略奪コンビ 西ゴートのアラリックとヴァンダルのガイセリック
とユニットにして覚えるとさらに良いです。」

Siliqua Vandals Honorius
コインに刻まれたガイセリックの肖像

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「西ゴート族も410年にローマを掠奪していますが、ヴァンダル族のローマ掠奪は2週間に及び、多くの人々が捕らえられて身代金を取られたり奴隷として売られたうえに、神殿の装飾物が解体されて持ち帰られるなど、地中海の覇者であったローマ帝国の首都は無残な姿になってしまったんです。西ローマ帝国の滅亡はこの21年後のことでした。このため、英語で"vandalize"は公共物などを故意に破壊する、という意味になり"vandalism"は芸術破壊行為を意味するようになりました。」

Heinrich Leutemann, Plunderung Roms durch die Vandalen (c. 1860?1880)
ヴァンダル族のローマ掠奪 制作者:Heinrich Leutemann 制作年:1860〜1880年

名もなきOL
「まさに「蛮族」という感じですね。それにしても、ローマ帝国の凋落ぶりが凄いですね。同じ国とは思えないです。」
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「しかし、ヴァンダル王国は短命に終わりました。533年、東ローマ帝国の皇帝・ユスティニアヌスが送り込んだ名将・ベリサリウス率いる軍に大敗し、翌年534年にはヴァンダル王国は滅亡し、東ローマ帝国領となりました。約300年続いた西ゴート王国とは異なり、約100年で滅んだのがヴァンダル王国です。」

フン族の王国とアッティラ 376くらい〜454年頃

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「さて、次にゲルマン人大移動のきっかけとなったフン族の話です。上述のように、フン族は東ゴート族の居住エリアを征服し、その後ローマ帝国にも侵入してパンノニア(現在のハンガリー)、ドイツ、ポーランドあたりに巨大な王国を築きました。周辺を荒らしまわったフン族はたいへん恐れられていたのですが、特に有名なのが433年にフン族の王に即位したアッティラ(Attila 生年不詳)です。」

Brogi, Carlo (1850-1925) - n. 8227 - Certosa di Pavia - Medaglione sullo zoccolo della facciata
16世紀に作られたアッティラのレリーフ 

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「アッティラはローマ帝国と時に戦い、時に講和しましたが、負けるのはいつもローマ帝国側で、たいへん恐れられていました。しかし、451年に西ローマ・西ゴートの連合軍がカタラウヌムの戦いで破ると、勢いに陰りが見え始めます。年が明けて452年には北イタリアに侵入し、略奪して暴れ回ってローマに迫りますが、時の教皇レオ1世に説得され、なんと説得が成功して退去していきました。約1000年後、ルネサンスの時期に有名なラファエロが、その場面を描いたこちらの絵が有名ですね。」

Leoattila-Raphael
レオ1世とアッティラの会見

名もなきOL
「よく説得できましたね、フン族のような暴れ者を。どうやって説得したんでしょうかね?」
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「よく言われているのは、「平和にローマを去ればアッティラの後継者の一人が「聖なる王冠」を手にする」と言ったとか、410年にローマを掠奪した西ゴート王が、その後間もなく死んだという話をしたとか、、この時点でアッティラ軍に疫病が流行していたから、とかの理由ですが、実際のところは金品を渡して帰ってもらったのではないか、とも考えられています。
その効果があったのか無かったのかわかりませんが、翌453年、アッティラは自分の結婚を祝う席上の祝宴で急死。アッティラの死後、フン族の王国はすぐに瓦解して歴史から姿を消すことになりました。」
名もなきOL
「フン族って、これだけ歴史に影響を与えているのに、本当に謎が多いんですね。」

ブルグント王国 443〜534年

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「続いて登場するのはブルグント王国です。「ブルグント」はフランス語では「ブルゴーニュ」で、ブルグント王国が短命で滅んだ後もこの方面は「ブルゴーニュ」と呼ばれるようになりました。中世ではブルゴーニュ公は大きな力を持っていましたし、現代でもブルゴーニュワインなどで日本でも有名ですね。
ブルグント王国を建国したブルグント族は406年にライン川を越えてガリア東部に入り、その辺りに住み着いたのですが、437年にフン族と激しく戦って敗北しました。なお、この時の戦いを叙情詩にしたのが、中世ドイツの文学作品として有名なニーベルンゲンの歌です。
その後、443年にフランス南東部・スイス方面に再び国を作り、これが「ブルグント王国」と呼ばれました。ただ、ブルグント王国は534年に後述するフランク王国に滅ぼされ、短命に終わっています。」

アングロ・サクソン人のブリテン島侵入と七王国の成立 449年頃〜829年

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「さて、次に登場するのはアングロ・サクソン人と彼らが建国した主だった7つの王国、七王国(ヘプターキー)です。ちなみに「ヘプタ」とはギリシア語の接頭辞で「7」を意味しています。
449年頃から、アングロ・サクソン人は海を渡ってブリテン島へ侵入しました。アングロ・サクソン人らは先住のケルト人を駆逐してブリテン島に住み着き、やがてこの土地は「アングル人の土地」、つまりイングランドと呼ばれるようになりました。7世紀頃には、↓の主だった七王国が建国されました。」


世界の歴史まっぷさん作成 七王国

名もなきOL
「ウェセックスとか、聞いた覚えがありますね。この七王国って覚えなきゃダメですか?」
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大学入試センター試験対策なら、覚えなくていいです。個々の大学の入試対策なら、傾向を見ながら必要に応じて、というところでしょうね。ちなみに、七王国といってもこの境界線で長いこと共存していたわけではなく、互いに争ったり同盟したりで状況は変わっていきました。特に重要なポイントとして、597年にキリスト教が伝来し、早くも601年には南西端のケントにカンタベリー大司教座が設置されたことです。」
名もなきOL
「なるほど、これをきっかけにブリテン島にカトリックが広まっていくんですね。」
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「その通りです。そして、七王国は最終的に1国にまとめ上げられ、その後の中世で重要な役割を果たすことになるのですが、それについては次回以降で扱います。」

フランク王国 481年〜843年

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「続いて登場するのはフランク族が建国したフランク王国です。フランク王国は、後にヨーロッパの覇者となるので、たいへん重要ですね。フランク王国の始まりは、西ローマ帝国が滅んでから5年後の481年。メロヴィング家クローヴィスがフランクの諸部族を従えて統一した時点から始まります。」

Francois-Louis Dejuinne (1786-1844) - Clovis roi des Francs (465-511)
19世紀に描かれたクローヴィス 制作者:Francois-Louis Dejuinne 制作年:1837年

名もなきOL
「この肖像画は近世に描かれた絵ですね。そのせいか、十字架を持っていてキリスト教徒みたいに描かれていますね。」
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「実はそうこがフランク王国の重要ポイントの一つなんですよ。クローヴィスは496年に正統とされたアタナシウス派のキリスト教に改宗したんです。これまで登場してきたゲルマン人諸国の王たちは、アリウス派のキリスト教を信仰しましたが、フランク王国だけは早い段階でアタナシウス派に改宗していました。そのため、ローマ・カトリック教会と信仰上の繋がりができあがり、これがやがて政治的にも結びついて国が大きくなっていくことになったんです。
その後、フランク王国は534年にブルグント王国を吸収し、西ヨーロッパにおける大国として君臨することになります。詳しくは、次回説明します。」

東ゴート王国 493年〜555年

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「続きまして登場するのは、東ゴート族によって493年に建国された東ゴート王国です。建国者はテオドリックです。東ゴートのテオドリック(Theodoric)、と覚えましょう。なお、テオドリックは「テオドリック大王」と呼ばれることもありますが、ここでは大王をつけないで「テオドリック」としておきます。」

Teodorico re dei Goti (493-526)
テオドリックが描かれた金貨

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「テオドリックの東ゴート王国は、これまで見てきたゲルマン人諸国やフン族とは異なり、東ローマ皇帝からの要請で、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを討ち果たし、その褒美としてイタリア半島を領土とした王国を与えられた、という経緯になっています。名目上は東ローマ帝国の家臣にあたりますが、事実上は独立国でした。
そんな経緯もあってか、テオドリックの東ゴート王国は、支配者層はゴート族でありながらも大多数の被支配民族は旧西ローマ帝国の人々だったので、なるべくローマ帝国時代の法律や習慣を残して統治にあたりました。そのため、「テオドリック大王」と尊称されたりしています。」
名もなきOL
「確かに、これまでのゲルマン人国家とはだいぶ様子が異なりますね。」
big5
「しかし、宗教面では、テオドリックも他のゲルマン人諸国と同様にアリウス派を信仰していたため、領内にあるローマ・カトリック教会との関係は構築できなかったんです。テオドリックが526年に死んだ後、東ゴート王国は衰退していき、555年に東ローマ帝国のベリサリウス将軍によって滅ぼされてしまいました。」
名もなきOL
「テオドリックはうまく統治していたようですが、その後はうまくいってなかったんでしょうかね?東ゴート王国は意外にも短命で終わってしまったんですね。」

ランゴバルド国 568〜774年

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「最後に登場するのが、ランゴバルド王国(別名「ロンゴバルド王国」)です。英語で書くと"Kingdom of the Lombards"となるのですが、イタリア語の音に由来して「ランゴバルド」とか「ロンゴバルド」とも書かれますが、ここではランゴバルド王国と記載しますね。ちなみに、イタリア北部に「ロンバルディア」という地域がありますが、これはランゴバルド王国に由来しています。
ランゴバルド王国が建国されたのは568年のこと。東ゴート王国が東ローマ帝国に滅ぼされ、イタリア半島は一時的に東ローマ帝国によって回復されたのですが、その後維持することができず、イタリア半島では被支配民族が反乱を起こしました。その中で、北イタリアでアルボイン率いるランゴバルド族が反乱し、パヴィアを首都とした王国を建国しました。その後、ランゴバルド王国はイタリア半島全土を支配下に置いたので、東ゴート王国の後継国のようになっていますね。」
名もなきOL
「ふむふむ、東ゴート王国が滅んだ後、短い東ローマによる統治を経て、ランゴバルド王国に置き換わった、ということですね。」
big5
「ランゴバルド王国は、東ゴート王国とは異なってローマの伝統などは次々と廃止・破壊していきました。また、この後は、歴史を変えるほどのゲルマン人の大移住は発生しなくなったので、民族大移動の終幕、と呼ばれたりします。ランゴバルド王国は774年まで、およそ200年継続したので、この後にも再登場することになります。」
名もなきOL
「現在の国ごとにだいたいまとめると
現イギリス:アングロ・サクソン人の七王国
現フランス:フランク王国
現イタリア:ランゴバルド王国
現スペイン:西ゴート王国
上記よりも東:東ローマ帝国
という勢力圏ができたわけですね。」
big5
「結果としてはそのとおりです。ゲルマン人の大移動が一段落したところで、ヨーロッパ世界は新たな時代を迎えることになります。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

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「大学入試共通テストでは、ゲルマン人諸国の興亡ネタはしばしば出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

平成30年度 世界史B 問題21 選択肢B
・クローヴィスは、ヴァンダル族を統一した。〇か×か?
(答)×。クローヴィスが統一したのはフランク族です。

平成30年度 世界史B 問題33 選択肢@
・(スペインは)東ゴート王国の支配下に置かれた。〇か×か?
(答)×。東ゴート王国が支配下に置いたのはイタリア半島です。スペインを支配下に置いたのは西ゴート王国になります。

令和2年度 世界史B 問題35 選択肢@
・西スラヴ人は、フン人の移動をうけて、イベリア半島に入り建国した。〇か×か?
(答)×。西スラヴ人ではなく、西ゴート人です。

令和2年度追試 世界史B 問題18 選択肢@
・ブルグンド人(ブルグント人)は、北アフリカに王国を建てた。〇か×か?
(答)×。北アフリカに王国を建てたのはヴァンダル族です。ブルグント人の王国・ブルグント王国はフランス南東部ブルゴーニュ方面とスイス方面です。

令和4年度 世界史B 問題29 選択肢@&C
800年にローマ皇帝として戴冠した(ア)の事績として、正しい選択肢を選べ。
@フン人を撃退した。
Cフランク国王として初めて、アタナシウス派キリスト教に改宗した。
(答)@、Cともに×。まず、(ア)はカール大帝であることがわかりますが、@フン人を撃退したことがあるのは、西ゴート王国と西ローマ帝国(カタラウヌムの戦い)です。Cのアタナシウス派への改宗は、クローヴィスの事績であって、カール大帝の事績ではありません。

令和5年度 世界史B 問題28 選択肢@
・クローヴィスの改宗によって、フランク王国は、先祖のノルマン人の支持を得ることができた。〇か×か?
(答)×。クローヴィスのアタナシウス派への改宗によって、ローマ・カトリック教会との繋がりができました。また、フランク人の先祖はノルマン人ではありません。

令和5年度追試 世界史B 問題8 選択肢A
・カール=マルテルの子であるピピンが、メロヴィング朝を開いた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、メロヴィング朝を開いたのはクローヴィスです。なお、ピピンが開いたのはカロリング朝です。


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参考文献・Web site