Last update:2023,JUL,1

古代

帝政ローマ

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「今回のテーマは帝政ローマです。いわゆるローマ帝国の時代ですね。これまで共和政ローマ、そして内乱の一世紀で見てきたように、イタリア半島の小さな都市国家から始まったローマは少しずつ力をつけていき、ついには地中海を内海とする大帝国に成長しました。人類史上、地中海を自国の内海にした国は、ローマのみなんです。」
名もなきOL
「まさにローマは一にして成らず、でしたね。いろいろたいへんな時代でしたが、これで地中海世界にもようやく平和が訪れるんですね。」
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「それは半分正解ですが半分は間違いです。確かに、ローマ帝国の成立によって、これまで群雄割拠の戦国時代だった地中海世界は、一つの国にまとまりました。このれをパクスロマーナ(ローマの平和)と呼びます。確かに、戦争もなく平和だった時期もありますが、それも長続きはしませんでした。ローマ帝国に従わないゲルマン民族や東方の国との抗争がなくなることはなかったんです。そして、時代の移り変わりとともにローマ帝国も滅びの時を迎えることになります。
さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

年月 帝政ローマのイベント 他地方のイベント
前27年 オクタヴィアヌスがアウグストゥスの称号を授けられる
9年 トイトブルクの森の戦いでローマ軍
30年頃 イエス刑死
54年 ネロ 即位
64年 ローマ大火 キリスト教の大迫害始まる
79年 ヴェスヴィオス火山噴火 ポンペイが埋没する
80年 コロッセウム完成
96〜180年 五賢帝時代
ネルヴァ⇒トラヤヌス⇒ハドリアヌス⇒アントニウス・ピウス⇒マルクス・アウレリウス・アントニウス
212年 カラカラ帝がアントニヌス法を制定 属州の全自由民にローマ市民権付与
216年 カラカラ浴場完成
224年 パルティア滅亡
235〜284年 軍人皇帝時代
26人の皇帝が廃立される
260年 エデッサの戦い
293年 ディオクレティアヌス帝が帝国の4分統治体制を採用
297年 東方的専制君主制(ドミナートゥス)を行う
303年 キリスト教最後の大迫害 始まる
313年 コンスタンティヌス帝がミラノ勅令を出し、キリスト教を公認
325年 ニケーア公会議 アタナシウス派を正統とする
330年 ビザンティウムに遷都 コンスタンティノープルと改名
332年 コロヌスの身分規定(土地定着強制法)⇒職業・身分の固定化
392年 テオドシウス帝がキリスト教を国教化
395年 テオドシウス帝死去しローマ帝国が東西に分裂
431年 エフェソス公会議でネストリウス派を異端とする
476年 西ローマ帝国滅亡

帝政ローマの始まりとパクスロマーナ

アウグストゥス(尊厳者)

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「さて、最初は事実上の初代皇帝となったオクタヴィアヌス。の話から始めましょう。数々の英雄がローマの覇権をめぐって争った内乱の一世紀は、最終的にオクタヴィアヌスが勝利して幕を閉じました。前27年、オクタヴィアヌスは元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を授けられ、事実上の初代皇帝となりました。」
名もなきOL
「アウグストゥス(尊厳者)というのが、皇帝という意味なんですか?」
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「アウグストゥス=皇帝、と考えてもだいたい合っていますね。ちなみに、「ローマ皇帝」に相当するような一つの称号というのは存在しないんです。アウグストゥスは、それ以外にも様々な称号を持つことで事実上の最高権力者になる、というのが正しいですね。ですが、「アウグストゥス」の称号がローマの最高権力者を意味するようになるので、「アウグストゥス=皇帝」と考えておいても、ローマ史を専門にしない限りは大丈夫でしょう。」
名もなきOL
「「皇帝」という一つの称号ではなく、複数の称号を一人が集中して持つことで「皇帝」になる、という仕組みが珍しいですね。」
big5
「そうですよね。それでは問題です。なぜオクタヴィアヌスはローマの皇帝(王)にならなかったのでしょうか?
名もなきOL
「なぜ?う〜ん・・・・」
big5
「ヒントは、内乱の一世紀の最後の話です。」
名もなきOL
「・・・・あ、わかった。カエサルは王になろうとして暗殺されたから!」
big5
「そのとおりです。義父であるカエサルが共和制主義者によって暗殺された、という事実をオクタヴィアヌスが忘れることはなっかったでしょう。そこで、名目上はあくまでも共和制を維持したかった、と思います。事実上の皇帝となったオクタヴィアヌスは元老院と協調して政治を行いました。そこで、多くの人が想像する「絶対的な権力を持った王 or 皇帝が統治する仕組み」とは異なるため、帝政ローマの初期の政体は元首政といいます。君主政の一歩手前のような政体ですね。」

Statue-Augustus有名なアウグストゥス像 制作年:1世紀 制作者:不明

パクスロマーナ(ローマの平和)

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「オクタヴィアヌスがローマをまとめたことで、長かった内乱はようやく終息し平和が訪れました。ローマによってもたらされた平和をパクスロマーナ(ローマの平和)といいます。」
名もなきOL
「ようやく平和が訪れたんですね。やっぱり平和が一番ですよ。」
big5
「ただ、残念なことに戦争が無かったわけではありません。オクタヴィアヌスの治世でも、ゲルマン民族との戦いはしばしば発生しています。紀元後9年(この年オクタヴィアヌス70歳)には、トイトブルクの森の戦いで奇襲を受けたローマ軍がほぼ全滅する、という惨敗を喫しています。」
名もなきOL
「帝国になったローマ軍でも、負けることがあるんですね。意外です。でも、パクスロマーナといいながら戦争はしていた、というところが残念ですね。」

キリスト教の始まり

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「初代皇帝・オクタヴィアヌスは紀元後14年、76歳になる年で死去しました。その後、オクタヴィアヌスの血縁者がアウグストゥス(皇帝)の地位を世襲していくことになります。
それから間もない紀元後30年頃、属州ユダヤ(現在のイスラエル)にて、一人の若者が磔になって処刑されました。この若者がイエス・キリストです。キリスト教の教祖ですね。」
名もなきOL
「イエスが十字架にかけられたのって、この時代だったんですね。ちなみにどうしてイエスは磔になってしまったんですか?」
big5
「通説では、ユダヤ教を改革しようとしたからとよく説明されています。イエスはユダヤ人なので、当然のようにユダヤ教徒でした。ユダヤ教にもいくつかの宗派があるのですが、その中でも特に厳しいパリサイ派をイエスは厳しく批判しました。このため、イエスはパリサイ派をはじめとする保守派の恨みをかい、その結果政治犯として処刑された、ということですね。ただ、「イエスはなぜ処刑されたのか?」という問いについては、様々な人が研究して様々な説を発表しています。歴史研究のテーマとしてはたいへん面白いですね。」
名もなきOL
「なるほど、ユダヤ教の宗教改革をしようとした、ということですね。確かにそれなら、命に関わるほどの事態になっても変ではないですね。」
big5
「はい、宗教は人類の歴史において非常に重要な役割を持ってるので、それを改革するのは一大事ですからね。帝政ローマの歴史にとって重要なのは、イエスの死をきっかけに原始キリスト教が少しずつローマ帝国に広まっていった、ということです。特に、「異邦人の使徒」の異名を持つパウロでした。パウロはユダヤ人ですがギリシア語を話すことができたので、非ユダヤ人(異邦人)への布教にも積極的に取り組んだんです。キリスト教の重要な教義の一つである「イエスの死は救世主が人々の罪をあがなったもの」とする解釈に加えて、宗教上の決まり事ではなく信仰が大事という信仰義認説は、民族の垣根を超えた救済を目指すものでした。そのため、キリスト教は最初は不満度の高い帝国の下層民を中心に少しずつ広まっていき、やがては多数派となってローマ帝国の国教にまでなります。」

ネロとキリスト教迫害

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「54年、ネロ(この年17歳)が第5代ローマ皇帝となりました。一般には暴君として有名ですね。」

Nero pushkinネロ 

名もなきOL
「私も暴君・ネロという異名は知ってます。でも、どうしてネロは暴君と呼ばれるようになったんですか?」
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「若くして皇帝となったネロは、当初は名君として讃えられていました。哲学者としても有名なセネカを家庭教師とし、周囲の助けを得ながら順調に治世を開始したんです。しかし、実母や正妻との折り合いが悪くなった頃から、個人的な怨恨や気まぐれで人に死刑を命じるようになりました。家庭教師のセネカも、ネロに自殺を命じられています。これが「暴君」と呼ばれる理由ですね。
64年(この年ネロ27歳)、ローマで大火が発生しました。人口密集地帯で発生した大火事は6日7晩にわたって続き、多くの人がなくなったうえに、家財を失った人が多数いました。火事の原因は不明なのですが、ネロはキリスト教徒が犯人として、捕えられて処刑されました。キリスト教から見ると、ネロが最初に一般のキリスト教徒大々的に迫害した人物、とされていますね。
68年、ネロに対する不満が爆発して反乱が勃発。評判の悪いネロは周囲の支持を取り付けることができず、逃亡先で自殺しました。その後、次の皇帝をめぐって内戦が起きますが、本編ではこの経緯は省略します。」

五賢帝時代

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「ネロの死後、何回かの内乱を経て、ローマ帝国は五賢帝時代()と呼ばれる時代を迎えます。西暦96年〜180年の100年弱の間、5代にわたって優れた皇帝が国を治め、ローマ帝国は繁栄を極めた時代でした。」
名もなきOL
「やっぱりトップが誰かって、重要ですもんね。五人の賢帝って、どんな人だったんですか?」
big5
「1人目はネルウァ(ネルヴァ、とも 在位96~98年)です。皇帝位を巡って生じた騒乱を収め、元老院と協調して混乱を鎮めました。2人目がトラヤヌス(トライアヌス、とも。在位98〜117年)です。有能な将軍で、」ダキア(現在のルーマニアのあたり)を征服し、東のパルティアにも遠征して成功しています。トラヤヌスの時代に、ローマ帝国の領土は最大になった、というのが重要です。また、ローマではなく属州出身者で初めて皇帝になった人物、というのもポイントですね。
3人目がハドリアヌス(在位117~138年)。トラヤヌスが拡大した広大な帝国の防備を固めることを優先し、各地を巡察しながら防衛強化に努めました。ブリテン島の北部に今でも残るハドリアヌスの城壁が有名ですね。
4人目はアントニヌス・ピウス(在位138~161年)。ローマの歴史の中でも、最も平穏だった時代を治めました。
最後の5人目がマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161~180年)。哲学者としても有名で哲人皇帝という異名があります。」
名もなきOL
「5人も優れた皇帝が続くなんてすごいですね。父親による教育がよかったのかしら?」
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「実は、五賢帝は親子ではないんですよ。ハドリアヌスはトラヤヌスの従兄弟の子なので、やや遠めの親戚、アントニヌス・ピウスはハドリアヌスやトラヤヌスの遠い親戚、そしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスも遠い親戚です。直接の親子ではなく、親戚の中から後継者として指名されたわけですね。
ちなみに、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの後継者は息子のコンモドゥスですが、コンモドゥスは「賢帝」とは評価されていません。
五賢帝時代が終わると、ローマ帝国は少しずつ少しずつ衰退の道を歩んでいくことになります。」

ローマ帝国の衰退

カラカラのアントニヌス勅令

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「212年、カラカラ(「カラカラ」はあだ名。この年24歳)が皇帝だった時に、アントニヌス勅令(アントニヌス法、とも)が発令されました。これはどういう法令だったかというと、属州の自由民にもローマ市民権が付与された、というものです。」
名もなきOL
「これは・・・聞いたかんじではいい政策に聞こえます。イタリア半島の市民も、属州の市民も等しくローマ市民、ということになれば、平等でいいと思います。」
big5
「現代人から見ると、そのように評価できますね。アントニヌス勅令の背景や狙いについては、歴史学者が様々な見解を発表しています。属州民にもローマ市民と同等の課税をして財政改善を図ったとか、各地でばらつきがあった法をまとめる目的だった、などです。一方で、これまで属州民には長期間の軍役を務めなければ得られなかったローマ市民権を、あっさりと与えてしまったために属州民がローマ軍に入隊する機会を著しく失わせ、ローマ軍の弱体化につながった、という見方もあります。『ローマ人の物語』で有名な塩野七生氏はこの視点で書いていますね。」
名もなきOL
「ハッキリしない法令の目的が議論される、というのも面白いですね。みんなが納得できるような答えを出すのは難しいかもしれませんが、歴史を考える面白さの一つですね。」

軍人皇帝時代 235~284年

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「アントニヌス勅令を出したカラカラですが、彼はネロと同様に多くの人を処罰したために恨まれており「暴君」の一人として評価されることが多いです。217年に暗殺された後、皇帝の位を巡って再び内乱が勃発。異民族の襲撃も相次ぐ中、235年〜284年の約50年の間に26人の皇帝が廃立されるという軍人皇帝時代と呼ばれる時代に入ります。「軍人皇帝」とは、ローマ軍の中から有力だった者が推薦されて皇帝に即位する、というパターンが多かったためについた名前です。国家のトップが、一部の軍の有力者らによって決められ、場合によっては複数の皇帝が擁立されて内戦も勃発するという、内乱の時代と言っていい時代です。」
名もなきOL
「五賢帝の頃から1世紀後には、長い内乱の時代を迎えてしまったんですね。」
big5
「この時のローマの弱体化を象徴するような事件が、260年のエデッサの戦いです。この頃、ローマの東では224年にパルティアが滅亡し、代わってササン朝ペルシアが興隆していました。ローマ皇帝ウァレリアヌスはササン朝のシャプール1世とエデッサで戦ったものの敗れたうえに、捕虜となってペルシアに連行される、という前代未聞の事件が発生しています。」

Shapur I Valerian Bas Relief捕虜となりひざまずくウァレリアヌスと馬上のシャプール1世

名もなきOL
「皇帝本人が捕虜になるなんて、なかなかない負けっぷりですよね。捕らえられたウァレリアヌスさんはその後どうなったんですか?」
big5
「消息不明です。ウァレリアヌスは生年不詳なのですが、若くても260年時点で60歳だった、と推定されているので、おそらく間もなく亡くなったのではないか、と思われます。言い伝えレベルでは、その後奴隷にされたとか皮剥ぎの刑に処されたとかがありますが、確かなことは言えません。
これでローマが滅んだわけではありませんが、ローマ帝国の衰退を示す象徴的な事件として重要ですね。」

ディオクレティアヌスの立て直し

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「軍人皇帝時代の混乱を収拾し、ローマ帝国の安定を図ったのがディオクレティアヌス(在位284~305年)です。」

Diocletien Vaux1ディオクレティアヌス胸像

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「ディオクレティアヌスは一兵卒から出世して皇帝にまでなった人物で、たいへん優秀な人でした。ディオクレティアヌスはローマ帝国の体質を大きく変更したことで有名です。その象徴ともいえるのが4分統治(テトラルキア)と呼ばれる、ローマ帝国を四分して2人の正帝と2人の副帝を置いて担当エリアを決める、という帝国の分割統治政策でした。」
名もなきOL
「これは思い切った政策ですね。ローマ帝国はかなり広いので、きめ細かい対応をするためにはある程度分割して統治する、というのは有効そうですね。でも、一つの国を分割して治めるのは、やがて国が分裂していくことに繋がるんじゃないでしょうか?」
big5
「鋭いですね、実際、後の時代にローマ帝国は分裂することになります。これについては後述しますね。ですが、ディオクレティアヌスの時代は、この方法で状況改善できたそうですね。
また、ディオクレティアヌスは東方的専制君主制(ドミナートゥス)を導入しました。これは、これまでは名目上は「君主」ではなったローマ皇帝を、名目上も「君主」であるかのように崇め奉る政策でした。これ以降、ローマ帝国は名目上も「皇帝」という君主が統治する政体となりました。」
名もなきOL
「ディオクレティアヌスさんって、かなりの決断力があるんですね。これほどの政策を決断するには、かなりの勇気が必要だったんじゃないか、と思います。」
big5
「このような政策はさらにエスカレートし、ディオクレティアヌスは自らを「ユピテル神の子」として、ローマの神々と共に祀ることを義務付けました。」
名もなきOL
「ここまで来ると、かなり行き過ぎちゃってますね。。大丈夫かな。」
big5
「303年、皇帝崇拝政策に反対するキリスト教徒が反発したために、ディオクレティアヌスはキリスト教徒の弾圧に乗り出します。軍役を拒否する者は逮捕し、キリスト教の聖職者を捕まえて改宗を強制するなど、宗教弾圧は徹底的に行われました。結果的に、これがローマ帝国時代に行われた大々的なキリスト教徒弾圧になったので、最後の大迫害と呼ばれています。」
名もなきOL
「ということは、そろそろキリスト教が認められる時代になる、ということですね。」

コンスタンティヌスの治世

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「さて、ディオクレティアヌスが断行した様々な改革によって、傾きかけていたローマ帝国は国の質を変えることでなんとか立ち直りました。しかし、その安定は長続きしませんでした。問題になったのは、4分割統治(テトラルキア)(2人の正帝と2人副帝を置き、帝国を4分してそれぞれ担当エリアを決めて統治する)です。」
名もなきOL
「それは私も想像できますね。カリスマのあるトップがいればまとまりますけど、そのトップがいなくなったら4人のトップが争い始めちゃいますよね。」
big5
「はい。実際、そのようになりました。ローマ帝国は再び内乱状態になります。この争いを勝ち抜いて、再びローマを一つにしたのがコンスタンティヌスです。」

0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (2)コンスタンティヌス胸像 カピトリーノ美術館蔵 制作年:4世紀 制作者:不明

名もなきOL
「なんか、目がギョロっとしてますね。ちょっと不気味・・・。」
big5
「コンスタンティヌスも、ローマ帝国の質を大きく変える変革を行いました。313年、ミラノ勅令キリスト教を公認する、としました。ローマは古くから多神教の国でした。ローマには数々の神々がいました。異民族を征服して領土を拡大する時も、元々多神教であるローマは異民族の神々も一部取り込んだりすることで、異民族統治を円滑にしていた面もありました。しかし、弾圧されてきたキリスト教は一神教です。キリスト教の教義を厳格に受け取れば、伝統あるローマの神々は存在を許されないことになります。」
名もなきOL
「なのに、どうしてキリスト教を公認することにしたんでしょうか?」
big5
「コンスタンティヌスがミラノ勅令を出した動機については定かではありません。コンスタンティヌス自身がキリスト教だった、という説もあります。ただ確実なのは、帝国内のキリスト教徒の数が増えたため、キリスト教徒を味方にする必要があった、という政治的な理由ですね。」
名もなきOL
「なるほど。この頃には、キリスト教徒はかなり増えていたんですね。多数派を敵に回すのは、確かに得策ではありませんね。」
big5
「キリスト教関連のイベントとしては、325年に開始されたニケーア公会議も重要です。この頃はイエスが処刑されて約300年が経過しており、時間が経つにつれて教義の細かい部分の解釈を異にする宗派が論争するようになっていたんです。そのため、キリスト教はたびたび会議(公会議という)を開いて、どの解釈が正しいのかを議論するようになるのですが、325年のニケーア公会議は記念すべき第一回でした。ニケーア公会議で正統とされたのは、三位一体説(さんみいったいせつ)を唱えるアタナシウス派でした。一方、異端とされたのがアリウス派です。」
名もなきOL
「三位一体説!この用語は覚えています。今でも、三者が連携することを「三位一体となって・・・」と言ったりしますよね。」
big5
「そうですね。三位一体説とは「父(神)と子(イエス)と霊(聖霊)の三つは一体である」という解釈です。言い換えると、神とイエスと聖霊は、切り離された別々の存在ではなく、一体のもの、ということでしょうか。考え始めると難しいですね。
アタナシウス派とアリウス派の考え方の決定的な違いは、イエス・キリストは神なのか人なのか、という問いに対する答えです。OLさんはどっちだと思いますか?」
名もなきOL
「え!?う〜〜ん・・・どっちだろう・・・。イエスさんって、磔になって亡くなった後に復活していますよね。でも、やっぱり神ではなくて人間、なんじゃないでしょうか?」
big5
「その考え方は、異端とされたアリウス派の考えですね。アリウス派は、イエス・キリストといえども神の創造物であり、神聖ではあるが人間だ、と考えました。しかし、正統とされたアタナシウス派は三位一体説を唱え、神とイエス・キリストは本質的に同じである、と考えたんです。つまり、イエス・キリストは神である(神性を持つ)、ということなんですね。」
名もなきOL
「なるほど。私はアリウス派の方がわかりやすいですね。」
big5
「これ以上は、キリスト教の勉強(神学)の分野になりますので、ここで切り上げます。重要なのは、コンスタンティヌスはニケーア公会議も招集することで、自分がキリスト教のリーダー的存在であることを示したわけですね。これらの業績を持つコンスタンティヌスは、キリスト教世界では「聖人」の一人に数えられています。」
ここまで、キリスト教関連の政策を見てきましたが、他にも重要な政策が2つあるので紹介します。
まず一つ目は330年のコンスタンティノープル遷都です。コンスタンティノープルは今のイスタンブルで、黒海の入り口であり、ヨーロッパとアジアの境界に位置する都市ですね。それまではビザンティウムという名前の都市でしたが、コンスタンティヌスはここに遷都したついでに都市名も自分の名前を取ってコンスタンティノープルと改称。これが、後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都としておよそ1000年もの間繁栄することになります。」

Bizansist touchup東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

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「もう一つは332年のコロヌス(小作人)の土地定着強制法です。共和政ローマの後半から、貴族らによる大土地所有とラティフンディアが拡大することで、ローマの農民の多くはコロヌス(小作人)として農作業に従事していましたが、コンスタンティヌスはコロヌスが勝手に引っ越すことを禁止し、生涯一つの土地で農作業することを強制しました。コロヌスは住処を選ぶ自由も奪われてしまったわけです。これが、中世の農奴の原型となり、中世社会の基礎となった、と言われています。」
名もなきOL
「なるほど。コンスタンティヌスは、ヨーロッパ中世の基礎となる社会を作り上げていったわけですね。」

テオドシウスの治世 キリスト教の国教化と帝国の分割

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「コンスタンティヌスによるローマ帝国再統一から時が流れました。375年、ゲルマン民族が大移動を開始したことにより、ローマ帝国はゲルマン民族によって脅かされることになります。この頃のローマ軍にかつての力はなく、ゲルマン民族との戦いも苦戦ばかりでした。もう、ローマ帝国の安定と平和は過去のことになりました。
379年に即位した皇帝・テオドシウスは、変化し続けてきたローマ帝国の最後の仕上げを行います。一つ目が392年のキリスト教をローマ帝国の国教化です。キリスト教が公認されたことによって、信者の数はどんどん増えていきました。テオドシウスによって、ローマ帝国は名実ともにキリスト教国家となったわけですね。」
名もなきOL
「ついに伝統あるローマの神々は廃れていってしまうわけですね。私はローマとかギリシアの神々の方が好きなので、残念ですね。」
big5
「古代ローマ・古代ギリシアの文化が復興するのは、中世の後半、ルネサンスの時代まで待つことになります。
そしてもう一つ重要なことが、395年のローマ帝国の東西分裂です。テオドシウスは死にあたり、二人の息子をそれぞれ西ローマ帝国と東ローマ帝国の皇帝として分割継承させました。これにより、広大なローマ帝国は東西に分裂したわけですね。
東ローマ帝国は、その後ビザンツ帝国というあだ名で呼ばれるようになり、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでおよそ1000年もの間命脈をつなぎますが、西ローマ帝国は長続きはしませんでした。」

エフェソス公会議 431年

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「さて、長かった帝政ローマの話も最終章です。キリスト教の歴史もここでもう一つイベント発生です。431年のエフェソス公会議です。エフェソス公会議では、ネストリウス派が異端として認定されました。」
名もなきOL
「ネストリウス派はどういう考え方だったんですか?」
big5
「簡単にいうと、アリウス派の考えを少し変えたもので、イエス・キリストはもともと人間だったのだが、後で神になったんだ、ということですね。そして、それと同時に聖母マリアに対する見解も異なりました。アタナシウス派はイエス・キリストにも神性があるとしているので、イエス・キリストを生んだマリアは「神の母」であり聖母として信仰の対象である、としました。しかしネストリウス派の考えでは、イエス・キリストは元々人間だったのだから、マリアは「神の母」ではなく「人間の母」にすぎない、ということになるんですね。聖母マリア信仰については、教科書等では省略されることが多いですが、これもその後の布教活動に大きく影響する決定でした。」
名もなきOL
「聖母マリアって、絵とかもたくさんありますし、信仰の対象としてちょうどいいですよね。これを認めない、となると庶民的な発想だと「なんか違う」と思われるんじゃないか、と思います。」
big5
「私も、そういう要素はおそらくあったと思います。この頃は聖母マリア信仰も増えてきており、教義的にこれをNoだというネストリウス派は政治的にもNoだったのでしょう。ネストリウス派はエフェソス公会議で異端とされましたが、その後東に伝播していき、中国ではある程度広まって景教と呼ばれるようになりました。
ここまで見てきたように、ローマ帝国はキリスト教を取り込むことによって大きく変化しました。伝統的なローマの神々はやがて忘れ去られ、強大な権力を持つ皇帝と、キリスト教が世界を支配する大きな力となる中世と呼ばれる時代に突入します。この時点でローマ帝国はまだ滅んでいませんが、以降の歴史は地中海世界の覇者としてではなく、地中海世界を構成する一要素としての歴史になりますので、本編はここで終了となります。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

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「大学入試共通テストでは、帝政ローマ(初期キリスト教)のネタはしばしば出題されています。優先的に復習しておくのがおススメです。」

平成30年度 世界史B 問題2
・「ローマの平和」と呼ばれる時期に起こった出来事として、謝っている文を選べ。
@ペテロやパウロによって、キリスト教が広められた。
A『ローマ法大全』が編纂された。
Bローマ帝国とインドとの間で、モンスーン(季節風)を利用した交易が行われた。
Cトラヤヌス帝の下で、ローマ帝国の版図が最大となった。
(答)A。ローマ法大全が編纂されたのは、ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝の時期なので、違います。

平成30年度 世界史B 問題10 選択肢C
・「シク教」は中国で景教と呼ばれた。〇か×か?
(答)×。中国で景教と呼ばれたのは、キリスト教ネストリウス派です。

平成30年度 世界史B 問題17 選択肢@
・エフェソス公会議で、ウィクリフが異端とされた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、エフェソス公会議で異端とされたのはキリスト教ネストリウス派です。

平成31年度 世界史B 問題27 選択肢A
・ニケーア公会議で、教皇の至上権が再確認された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ニケーア公会議ではイエス・キリストが神か人なのかという論題をめぐって、アタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端とされました。

令和2年度追試 世界史B 問題29
・5世紀にエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は、東方に伝播し、中国ではアよ呼ばれた。アに入る正しい語は?
@回教 A景教
(答)Aの景教

令和3年度 世界史B 問題2 選択肢A
・エフェソス公会議で教皇の至上権が再確認され、禁書目録を定めて異端弾圧が強化された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、エフェソス公会議ではネストリウス派が異端とされました。

令和4年度追試 世界史B 問題25 選択肢B
・「ローマ王政期」には、コロッセウムが建設された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、コロッセウムが建設されたのは帝政時代です。

令和5年度 世界史B 問題28 選択肢B
・コンスタンティヌス帝は、勢力を増したキリスト教徒を統治に取り込むために、統一法を発布した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、コンスタンティヌス帝が発布したのはミラノ勅令であり、統一法ではありません。

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参考文献・Web site