Last update:2022,MAR,26

しのぎを削る列強

ドイツ 統一と帝国

あらすじ

big5
「さて、今回のテーマはドイツ帝国成立ですね。イタリアと同じく、ドイツも数多くの中小国が乱立している状態が長く続いていました。しかし、そんな状態もこのイタリアの少し後に、プロイセン主導によってようやく一つの国家に統一されることになります。」
名もなきOL
「イタリアの場合はサルデーニャ王国でしたね。イタリア統一はサルデーニャ王国、ドイツ統一はプロイセン王国が主導して進めたんですね。」
big5
「その通りです。1861年、イタリア王国が成立した年。プロイセンではヴィルヘルム1世(この年64歳)が即位しました。ヴィルヘルム1世は「鉄血宰相」の異名を持つビスマルク(Bismarck この年47歳)を宰相に任命。ビスマルクは軍事力の拡大を進めると同時に、周辺の強国を警戒させないように上手く立ち回りながら、1864年にデンマーク戦争でデンマークを破り、1866年には普墺戦争でオーストリアを破り、そして最後は1871年に普仏戦争ナポレオン3世のフランスを破って、ドイツ帝国を成立。プロイセンによるドイツ統一を成し遂げた英雄となりました。」

Bundesarchiv Bild 146-2005-0057, Otto von Bismarck
ビスマルク(この年75歳) 写真撮影:Pilartz, Jacques 撮影日時:1890年8月31日

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「それでは、いつもどおり関連年表を見てから本編の話を進めましょう。」

年月 イベント 世界のイベント
1861年 プロイセン王ヴィルヘルム1世即位 イタリア王国成立
アメリカ南北戦争 開戦
1862年 ビスマルクがプロイセン宰相に就任
1864年 デンマーク戦争(シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争)
1866年 普墺戦争 イタリアがヴェネツィアを併合
1867年 北ドイツ連邦成立
オーストリア=ハンガリー二重帝国成立
大政奉還
1870年 エムス電報事件
普仏戦争 開戦
イタリアがローマ教皇領占領
1871年 普仏戦争 終結 ドイツ帝国成立 廃藩置県

ビスマルクの鉄血政策

big5
「サルデーニャ王国によってイタリアのほぼ統一が成し遂げられた1861年、プロイセンではヴィルヘルム1世(この年64歳)が即位。ヴィルヘルム1世が1862年にプロイセンの宰相として任命したのがビスマルク(Bismarck この年47歳)です。即位の翌年にビスマルクを任命した、その後約25年もの長きに渡ってビスマルクを宰相として重用してきました。」
名もなきOL
「「鉄血宰相」というあだ名がついているんですよね、ビスマルクおじさん。何だか怖そう・・。なんでビスマルクのあだ名は「鉄血宰相」なんですか?」
big5
「それは、宰相となったビスマルクが議会の演説が由来になっているんです。『世界史詳覧』(浜島書店)にその演説の一部が載っているので引用します。
言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。言論や多数決は1848年及び1849年の欠陥でありました。鉄と血によって、これらの問題は解決されるのであります。
という内容です。「鉄」とは軍事力を、「血」とは軍の兵士のことを指しています。ビスマルクはプロイセンの軍事力強化を進めることで、軍事力によるドイツ統一を進めようとしたわけです。この演説で用いた表現が「鉄血宰相」の異名を取り、ビスマルクが進めた政策は「鉄血政策」と呼ばれるようになりました。」
名もなきOL
「なるほど〜。確かに、インパクトのある表現ですよね。これは印象に残るわ。」
big5
「ビスマルクの政策は一部の議員からは猛反発を受けたのですが、ヴィルヘルム1世はビスマルクを支持。議会の反対をあしらいながら、ビスマルクは政策を推進していきました。これにより、プロイセンの軍事力は当時の技術の進歩もあって、かなり強化されていったんです。」
名もなきOL
「随分、強引な感じがしますけど、時には強引さも必要なんでしょうね、国家の運営には。」

デンマーク戦争(シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争)

big5
「ビスマルクの鉄血政策の効果が試される機会は、わりと早く訪れました。1864年のデンマーク戦争です。デンマークと戦ったのでこの名前がついてますが、私個人はイマイチなネーミングだと思いますね。デンマークが関わった戦争なら、他にもたくさんあります。別名としては、係争地域名からシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争という名前もありますが、これだとかなり長いですね。
シュレスヴィヒとホルシュタインの位置は、『世界の歴史まっぷ』さんの地図を使わせていただきます。イタリア王国成立のページと同じ地図です。」



名もなきOL
「デンマークのすぐ南がシュレスヴィヒ、そのさらに南がホルシュタインですね。ユトランド半島の南半分くらいに相当する部分ですね。なんで、このシュレスヴィヒとホルシュタインが問題になったんですか?」
big5
「このあたりは、デンマークに属する地域だったのですが、ドイツ系住民もけっこう多かったんです。特に、南のホルシュタインはドイツ系住民が半数以上だったんです。そのため、ウィーン体制の頃からデンマークから離脱してドイツに属しよう、という住民運動が盛んだったんです。1848年の革命の時には、ドイツ系住民らが臨時政府を樹立するまでに至るのですが、欧州列強が介入して
・シュレスヴィヒとホルシュタインは、以前から引き続き公国として、デンマークとの同君連合とする。
・シュレスヴィヒ、ホルシュタインの両公国は強い自治権を持つ。
・デンマーク憲法は適用しない。
ということで妥協案が採用され、元通りに戻ったわけですね。
ところが、時が流れて1863年。デンマークがシュレスヴィヒ公国にデンマーク憲法と適用して併合する、と発表しました。」
名もなきOL
「あれ、妥協案がひっくり返されましたね。これは揉めるでしょう。」
big5
「実際、そうなりました、シュレスヴィヒはホルシュタインと共に反発。ビスマルクはこれを好機として、1864年2月、オーストリアを誘って共同で軍を送り込みました。鉄血政策によって強化されたプロイセン軍は強く、デンマーク軍は様々な面でプロイセン軍に遅れをとってしまいました。デンマーク軍はユトランド半島の奥まで追い込まれてしまい、プロイセン・オーストリアの勝利が確定しました。」
名もなきOL
「シュレスヴィヒとホルシュタインはどうなったんですか?」
big5
「この2公国の処遇をめぐってひと悶着あったのですが、最終的に北のシュレスヴィヒをプロイセンが獲得し、南のホルシュタインはオーストリアが獲得することになりました。しかし、シュレスヴィヒとホルシュタインの領有をめぐって今度はプロイセンとオーストリアが争う普墺戦争に続くことになります。」

普墺戦争

big5
「デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタインを仲良く奪い取ったプロイセンとオーストリアでしたが、間もなくこの2国は戦争することになりました。1866年、普墺戦争です。「普墺」の「墺」はオーストリアのことです。つまりプロイセンとオーストリアの戦争ですね。プロイセン vs オーストリアというドイツ人国家の2大巨頭の戦いは、およそ100年前の七年戦争以来です。ウィーン体制後に成立したドイツ諸国の緩やかな連帯であったドイツ連邦に加盟している諸国もプロイセン派とオーストリア派に分かれ、激しい戦いになることが予想されました。
また、成立したばかりのイタリア王国も参戦したことが重要ですね。イタリアはどちらに付いたと思います?」
名もなきOL
「え〜、どっちだろ・・?・・・あ、わかった、きっとプロイセンだわ。」
big5
「正解です。イタリアはヴェネツィアなど、未だにオーストリア支配下に置かれている本来イタリアの地域を奪還する目的で、プロイセンに味方して参戦しました。このように、普墺戦争は五分五分の戦いで長期化するだろう、と予想されていたのですが、意外にもあっさりとプロイセン勝利で決着がつきました。プロイセンによる宣戦布告が1866年6月15日、講和条約であるプラハ条約が締結されたのが8月23日なので、開戦から講和までわずか2カ月間です。」
名もなきOL
「なんでそんなに早く決着がついたんですか?」
big5
「理由はいくつかありますが、まずはプロイセンの参謀本部長・モルトケ鉄道を活用した作戦が挙げられます。この頃には鉄道の敷設が進められており、兵士や軍需物資を重要拠点に素早く陸送する、ということが可能になっていました。それ以前は、陸路の輸送は馬車などを使わざるを得なかったのですが、それが鉄道になったわけです。従来では考えられないほど早いスピードで、ヒト・モノの輸送が可能になったわけですね。モルトケは、鉄道を活用してプロイセン軍を主要な宣戦にいち早く送り込み、オーストリア軍が態勢を整える前に撃破してしまったんです。他には、電信の利用もあります。戦場で、部隊が連絡を取り合う手段は、昔は馬に乗った伝令の役割でした。しかし、人と馬の伝令に変えて電信設備を使うことで素早く指揮命令を伝えることが可能になりました。最後は、後装式のドライゼ銃の採用ですね。」
名もなきOL
「ドライゼ銃っていうのは銃の名前ですよね。後装式っていうのは何ですか?」
big5
「銃弾を銃の後ろの方、だいたい手で持って狙いをつける部分の辺りからから装填する方式です。元込め式、ともいます。今の銃はだいたい後装式ですね。それ以前の銃は前装式(先込め式)といって、銃弾が出ていく銃口から弾丸を装填する方式でした。前装式の場合、一発撃ってから次弾を撃つためには、銃口から弾丸を入れなければならなかったので、立って作業する必要があったわけですね。しかし、後装式の場合は次弾装填のために立つ必要がなく、伏せている態勢でも装填が可能でした。また、装填にかかるスピードも後装式の方が圧倒的に早いです。オーストリアの兵士が撃ってから、立った状態で次弾を装填している間、プロイセンの兵士は伏せたままの状態で5発撃つことができる、くらいの違いだったそうですよね。想像してみてください。伏せた状態で5発撃てるプロイセン兵と、立った状態で1発しか撃てないオーストリア兵が正面か撃ち合った場合、勝つのはどっちでしょうか?」
名もなきOL
「それは当然、プロイセンの方が圧倒的に有利です。なるほど、軍事技術の差がかなりあったんですね。」
big5
「このあたりの細かい話は、もっと詳しく専門的に紹介しているページもあります。機会があったら、詳細篇で取り上げるかもしれないです。
さて、本編であまり専門的な詳細には触れませんので、普墺戦争の重要ポイントの続きを。
普墺戦争の結果として重要なのは、プロイセンがドイツ北部に領土を拡大し、オーストリアを除外した北ドイツ連邦を率いてドイツ帝国建国へ進むことになった、ということです。普墺戦争の戦後処理の主なポイントは以下になります。
@ドイツ連邦は解体。
Aシュレスヴィヒ、ホルシュタインはプロイセン領とする。ハノーファー、ヘッセン、ナッサウ、フランクフルトなど北部中部ドイツの主要エリアもプロイセン領とする。
Bプロイセンを中心とした北ドイツ連邦を結成。⇒この北ドイツ連邦がドイツ帝国の基礎となる。
Cヴェネツィアとその周辺地域はイタリア領とする。
D敗れたオーストリアは、支配下の民族独立運動を抑えるためにハンガリーを形式的に独立させて、オーストリア=ハンガリー二重帝国を結成。

まず、@ですが、ウィーン体制から発足した緩やかな連帯であるドイツ連邦は解体されました。代わりにAのように、プロイセンは北部・中部ドイツで領土を拡大させました。さらにBの北ドイツ連邦を結成して、残りの北部ドイツ諸国をまとめ、プロイセンが彼らのリーダーとなる、という組織を作りました。この北ドイツ連邦が、この時から約5年後のドイツ帝国の基礎になります。
話からしていきます。勝利したプロイセンは、北部・中部に領土を拡大し、さらに残りの北部ドイツ諸国をまとめてCは、プロイセン側で参戦したイタリアの領土拡大ですね。ヴェネツィア一帯を回復し、イタリア統一はまた一歩前進です。そして、Dが敗れたオーストリアの話です。普墺戦争で、軍事面での技術力の圧倒的な差を見せつけられて敗北した多民族国家・オーストリアでは、支配下の諸民族の独立運動が盛んになってきました。オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世は1867年、民族運動を抑えるために、ハンガリー王国の独立を認めました。ただ、ハンガリー王はオーストリア王が兼任する、つまりフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー王なので、独立は形式的なものです。しかし、ハンガリー王国は独自の議会を持ち、オーストリア政府とハンガリー政府の共通閣議やオーストリア議会とハンガリー議会の共通会議なども持たせて、ハンガリー人を帝国の支配者階級に加える姿勢を見せたんです。このような、ちょっと特殊な形式の国家になったために、この国はオーストリア=ハンガリー二重帝国(「二重」を省略して「オーストリア=ハンガリー帝国」とも)と呼ばれています。」
名もなきOL
「けっこう内容が多いですね。普墺戦争は、戦後処理の内容が重要なんですね。」
big5
「そのとおりです。さて、次はいよいよ最後のイベント、1870年の普仏戦争ですね。」

普仏戦争

big5
「「ドイツ統一」の最後のイベントは、1870年から始まった普仏戦争です。名前のとおり、プロイセンとフランスの戦争です。普仏戦争の原因となったのは、スペイン王位継承問題でした。」
名もなきOL
「あれ?スペイン王位の問題って、前もありましたよね?」
big5
「はい、この時代から約170年前のスペイン継承戦争ですね。我が『世界史日本史研究室 北の陣』でも、「18世紀欧州戦乱 スペイン継承戦争」のページで紹介しています。まだ見ていない方は、是非是非見てみてください。
今回のスペイン王位継承問題は、スペインで革命が勃発したことで国王が外国に亡命してしまい、後継の王を外部から迎える、という話でした。そこでビスマルクが推したのが、プロイセン王家であるホーエンツォレルン家のレオポルトです。レオポルトはちょうどいいことに、カトリック信者でポルトガル王家ともつながりがあったので、スペイン王に相応しい、ということになり、スペイン側もビスマルクの案に同意しました。ところが、これに待ったをかけたのがフランスのナポレオン3世です。もしもプロイセン王家の親戚筋にあたるレオポルトがスペイン王になったら、フランスはスペイン=プロイセン連合に包囲される形になりますね。これはヤバイというわけです。」
名もなきOL
「なんか、そういう話って前にも聞いたような・・」
big5
「ハプスブルク家のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の時もそうでしたね。スペイン=神聖ローマが同君連合となると、フランスが包囲されるからヤバイ、という話とほぼ同じです。
この問題は大きな外交問題となりました。ナポレオン3世はヴィルヘルム1世に強く反対し、ヴィルヘルム1世にレオポルトのスペイン王位継承を取り下げさせました。さらに、駐プロイセン大使のベネデッティを、エムス(ルクセンブルクの東にある街)に滞在していたヴィルヘルム1世に送って「今度一切プロイセンはスペイン王位に介入しない」、という約束を取り付けようとさせました。」
名もなきOL
「ヴィルヘルム1世に直接掛け合って、ビスマルクの案を潰したんですね。この問題は、外交でナポレオン3世が勝ったんですね。」
big5
「ところがここで事件が起こります。ヴィルヘルム1世とフランス大使ベネデッティの対談は1870年7月13日に行われ、その内容が電報でベルリンのビスマルクにも伝えられました。ビスマルクはこの内容を、以下のようにまとめて新聞を通じて公表しました。
(1) フランスは大使をヴィルヘルム1世に送り込んで、既に撤回したレオポルト王子のスペイン王位継承案に関して、今後一切プロイセンはスペイン王位継承の話が来ても同意してはならない、と要求してきた。
(2) ヴィルヘルム1世は、これに対してフランス大使と会うことを拒否。副官と通じて、フランス大使に「これ以上何も伝えることはない」と伝えた。
この内容が新聞に載ったため、ドイツ国内では「フランスの過大な要求に対して、毅然とNoを突き付けた国王・ヴィルヘルム1世。それにしても、フランスはなんて偉そうなんだ。」という国民感情が広がりました。一方、フランスでも「プロイセンの態度はけしからん」という反プロイセン感情が盛り上がりました。結果として、ナポレオン3世は7月19日にプロイセンに対して宣戦布告。普仏戦争開戦となったわけです。この事件をエムス電報事件といいます。」
名もなきOL
「エムス電報事件って、ビスマルクは狙ってやったんでしょうか?」
big5
「ビスマルクが故意にやったかどうか、については現代でも研究者たちが調べていて、いろいろな説があります。普仏戦争の結果から考えると、「ビスマルクがフランスを挑発して宣戦布告させるために、故意に情報操作をした」という説が支持されていますね。ただ、これまで見てきたように、歴史は必ずしも意図した通りに動くわけではありませんので、結果から考えるだけでは不十分だ、と私は思います。私個人は、ビスマルクがプロイセン国民に反フランス感情を持たせるような内容で発表したら、ナポレオン3世の方が過剰に反応して戦争になった、というのが実情ではないか、と思います。ま、証拠はないのですが。
さて、普仏戦争の経緯を見ていきましょう。プロイセン側には、北ドイツ連邦諸国に加えてバイエルン王など北ドイツ連邦には加盟していないドイツ諸国もプロイセン側で参戦しました。そのため「普仏戦争」という表現よりも「独仏戦争」という方が正しい、という意見もあります。
ドイツ vs フランスという列強同士の対決となった普仏戦争ですが、決着はあっさりとそして明確につきました。プロイセンの圧勝です。」 名もなきOL
「ビスマルク時代のプロイセンって強いんですね。戦争では連続圧勝してますね。」
big5
「開戦間もない8月、ナポレオン3世は自ら出陣しましたが、モルトケ率いプロイセン軍に大敗。スダン(「セダン」とも書くが、ここでは「スダン」で統一します。)要塞に立てこもりますが、プロイセン軍はドイツのクルップ社が作った鋼鉄製のクルップ砲を使って要塞を砲撃。9月1日に約8万3000の将兵と共にナポレオン3世は降伏しました。」

Krupp 50 ton gun - Scientific American - 1870
1867年 パリ万国博覧会で展示されたクルップ社の大砲

big5
「ナポレオン3世降伏の知らせがパリに届くと、当然大混乱です。ティエールらが臨時政府を発足させ、プロイセンとの和睦交渉にあたります。年が明けた1871年1月18日、プロイセンは占領したヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を盛大に行いました。フランス王家の象徴であったヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の戴冠式が行われる、というフランスには屈辱的な歴史イベントとなりました。下の絵が有名ですね。」

A v Werner - Kaiserproklamation am 18 Januar 1871 (3. Fassung 1885)
ドイツ帝国の成立 制作者:Anton Alexander von Werner  制作年代:1885年
中央やや右の白い服を着ているのがビスマルク

名もなきOL
「この絵は高校世界史の資料集で見たのを覚えています。場所は、ドイツのベルリンとかではなくて、ヴェルサイユ宮殿だったんですね。この時点でドイツ帝国が成立したことはわかったんですが、普仏戦争の戦後処理はどうなったんですか?」
big5
「はい、歴史ではそこが重要ですね。フランス臨時政府は、50億フランの賠償金の支払いと、アルザス・ロレーヌ地方の割譲という条件で和睦しました。ところが、1871年3月、それに納得できないパリ民衆の一部が暴徒化し、パリ・コミューンと呼ばれる史上初の労働者による政権を樹立しました。パリ・コミューンは臨時政府軍とプロイセン軍に攻撃され、5月には崩壊してしまうのですが、混迷期の短期間とはいえ、労働者が政権を作ったというのは画期的な話ですね。」
名もなきOL
「労働者が作った政権ってすごいですね。その後、どういう運営がなされたのか見れないのが残念です。ナポレオン3世はどうなったんですか?」
big5
「降伏後、ドイツのヴィルヘルムスヘーエ城に軟禁されていましたが、1871年3月19日に釈放され、イギリスに亡命。その後間もない1873年1月9日、イギリスのケントで亡くなりました。65歳になる年でした。死因は膀胱炎による衰弱とのことです。尿結石ができてしまい、死の数日前に手術して摘出したのですが、容体は悪化して帰らぬ人となったそうです。
こうして、ドイツは鉄血宰相・ビスマルクによって、軍事力の増強によってプロイセンを強国に成長させ、最後はドイツのライバルであるフランスを降し、盛大なドイツ皇帝戴冠式を行う、という形で成し遂げられました。その後も、ビスマルクはヨーロッパ国際社会でもリーダー的な手腕を発揮し、ドイツ帝国の安定に取り組んでいきます。一方、敗れたフランスは共和政国家(第三共和政、という)となり、フランスの再建に取り組むこととなりました。
そして、忘れがちなのですが、イタリアにも一つポイントがあります。教皇領、ローマの占領です。教皇を保護するためにローマに駐留していたフランス軍が撤退したため、これを好機としてイタリアがローマを占領しました。そして、1871年にはイタリアの首都となっています。これでまた、イタリア統一に一歩前進ですね。」




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