Last update:2021,NOV,20

日本史 武士の台頭

義経と奥州藤原氏の滅亡

あらすじ

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「「源平合戦 後編」で見たように、1180年の源氏挙兵から、激動の時を経て天下を取っていた平家は滅亡。残った巨大勢力は、鎌倉に拠点を置く源頼朝と、東北を支配する奥州藤原氏です。そして、朝廷の後白河法皇は、どんどん強くなる武士勢力に対抗するため、再び得意の策謀を巡らし、これが源義経による挙兵に繋がり、頼朝勢力で仲間割れが発生しました。」
名もなきOL
「あぁ、義経さんの悲しい歴史が始まるのね。。」
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「この争いに敗れた義経は、若い頃に自分を匿ってくれた奥州藤原氏を頼ります。しかし、当主の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が亡くなると、事態は一変。秀衡の後継者となった藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は頼朝の圧力に屈し、義経を攻撃してこれを討ち取りました。しかし頼朝は、義経がいない奥州藤原氏は何も怖くない、と考えていたかのように、すぐに大軍を動員し、奥州藤原氏も滅ぼしてしまったのです。」
名もなきOL
「義経さん、可哀想。それにしても、頼朝って性格悪いですよね。武士の棟梁という割には、策略とか騙し討ちが得意で、全然武士っぽくないです。」
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「そのとおりですね。頼朝は「武将」というよりは「政治家」に近い人だったと思います。実際、義経追討から奥州藤原氏征伐という一連の事件で、鎌倉幕府の支配権を全国に広げることに成功しました。これ以降、しばらく日本は「武士」の世の中になるわけですね。
さて、いつもどおりまずは年表から見てみましょう。」

イベント
1185年
元暦2年
10月
源義経が後白河法皇から頼朝追討の院宣を得る。
1185年
元暦2年
11月
源頼朝が後白河法皇から義経追討の院宣を得る、全国に守護・地頭の設置を認めさせる。
1187年
文治3年
藤原秀衡死去
1189年
文治5年
閏4月
藤原泰衡が源義経を討つ。
1189年
文治5年
9月
源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす。

義経追討と守護・地頭の設置

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「さて、宿敵であった平家を滅ぼした源氏ですが、平和の訪れはまだ先でした。今度は、頼朝と義経の仲が悪くなってしまいます。」
名もなきOL
「頼朝が義経さんを嫌った理由って、確か・・・
@義経が戦で手柄を立て過ぎたのを妬んだ(頼朝は戦は弱いので、なおさら)
A義経が頼朝の許可を得ないで、官位を得たから。
B梶原景時が義経の悪口を頼朝にたくさん言って、頼朝が景時の言うことを信じたから。
でしたっけ?」
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「はい、それでほぼ合っていると思います。@については、推測の域を出ないのですが、私個人はこれが大きいと思いますね。Aに関しては「許可を得る得ないの是非」について、専門家の方が議論しているのもあり、現時点で「頼朝の許可を得なかったから問題」と言い切れるかどうかは微妙です。ただ、後白河法皇は義経だけ特別扱いし、院への昇殿を許しています。明らかに、義経を味方に付けて頼朝との仲を裂こう、としていますね。Bは、吾妻鏡(あずまかがみ)などの史料にも記載されていることなので、これは真実でしょう。
こういった経緯を経て、さらに後白河法皇の策謀も加わった結果、ついに頼朝と義経は袂を分かちます。1185年10月、義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(いんぜん 院政を行う法皇が出した命令)を取り、畿内の武士を集めて対抗しようとしました。ところが、院宣があるにも関わらず、兵は200ほどしか集まりません。あまりの少なさに驚いた義経は、あちこちを転々として逃げていきました。」
名もなきOL
「義経さん、かわいそう。。でも、武士たちの気持ちもわかりますね。ようやく、源平争乱が終わったのに、休む間もなく次の戦乱、では疲れますよね。でも、大々的に反旗を翻した以上、義経さんはタダでは済まされないですよね。」
big5
「はい、11月には頼朝が軍事力を背景に、後白河法皇に事情を説明させます。後白河法皇は「自分は知らなかった、義経が勝手にやったんだ」と言い訳をしました。私個人の見解ですが、いわゆる「部下が勝手にやったこと」というよくある管理職の言い訳は、この人が初出なんじゃないか、と思います。
それはさておき、後白河法皇もタダでは済みませんでした。頼朝に「日本国第一の大天狗」と言われ、さらには義経追討の院宣を出させます。そして、義経逮捕を目的として日本全国に守護・地頭を設置することを認めさせました。この「日本全国に守護・地頭を置くことを認めた」というのが、歴史の授業では重要ポイントですね。」
名もなきOL
「つまり、源頼朝がそれぞれの土地を治める守護と地頭を任命する権利を持つことを朝廷が認めたことで、武士が日本を実質的に支配する基礎になった、ということですね。だから、重要なんですね。」
big5
「そのとおりです。鎌倉幕府が成立した年について、昔は頼朝が征夷大将軍に任命された1192年として「いい国作ろう鎌倉幕府」といって覚えてましたが、最近の教科書は1185年とするものが増えているそうですね。私個人としては、1192年の方が覚えやすくていいと思うのですが、何を以って鎌倉幕府成立とするか、はいろいろな意見がありますね。いずれにしても、1185年が重要な年であることは間違いないです。平家が滅び、義経と頼朝が仲違いし、結果として頼朝が日本全国に守護・地頭を設置することを認められた、というまさに変化の年でした。」

義経の最期と奥州藤原氏の滅亡

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「一方、味方集めに失敗して頼朝の追手から逃亡する日々を過ごしていた義経ですが、1187年くらいに、かつて自分を匿ってくれた奥州の藤原秀衡を頼って落ち延びていました。しかし、秀衡は既に60代半ばに差しかかっており、この年の秋に亡くなってしまいます。」

Fujiwara no Hidehira
「三衡画像」に描かれた藤原秀衡  毛越寺―山白王院所蔵

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「秀衡の後継者は次男の藤原泰衡となったのですが泰衡に対し『義経を主君として一致団結して頼朝に備えるように』遺言したそうです。」
名もなきOL
「自分の息子を後継者としながらも、逃亡の貴公子である義経を主君とする、といのはずいぶん思い切った遺言ですよね。」
big5
「そうですね。秀衡の死後、間もない間はこの遺言は守られたのですが、頼朝の耳に義経が奥州にいることが伝わると状況は変わります。泰衡は、奥州を攻撃しようとする頼朝の圧力に屈してしまい、1189年閏4月、突如義経を襲撃して、討ち取りました。この戦いを衣川の戦い(ころもがわ)と呼んだりしますが、義経側の戦力は10人くらいだったそうで、一方的な勝負でした。義経、31歳になる年でした。」
名もなきOL
「義経さん、可哀想。。あれだけの活躍をしたのに、最後は裏切られて殺されたんですね。。本当に諸行無常だわ。」
big5
「泰衡は義経の首を頼朝に送り、頼朝に従う姿勢を見せたのですが、頼朝は許しませんでした。義経を匿っていた、という名目で奥州征伐の大軍を動員します。この大軍を泰衡は防ぐことができず、奥州藤原氏の本拠である平泉が陥落。9月に泰衡は落ち延びた先で部下に殺され、奥州藤原氏は滅びました。」

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衣川館跡地に立つ義経堂
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名もなきOL
「平家に対する不満を糾合して源氏が挙兵したのが1180年。そして、1189年には奥州藤原氏が滅んで、一連の騒乱は終わったんですね。振り返ってみると、本当にいろいろあった9年間でしたね。」
big5
「はい、まさに激動の9年間だったと思います。そして、源頼朝から武士の時代が始まりますので、まさに時代の転換点だった、と言えると思います。
『世界史日本史研究室 北の陣』では、平将門の乱から、奥州藤原氏滅亡までを『武士の台頭』という区分でまとめています。これ以降の歴史は教科書でもおなじみの『鎌倉時代』という枠で紹介していこうと思いますので、そちらもよろしくお願いします。」



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参考文献・Web site
・詳しくわかる高校日本史



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