Last update:2021,Dec,11

しのぎを削る列強


19世紀後半の幕開け

始めに

big5
「さて、19世紀も後半戦です。ここから、世界史の内容はかなり濃くなってきます。これまで、各地域ごとに個別の歴史を歩んできた諸国は、19世紀後半からお互いの距離はより近くなり、まさに「世界全体」に影響を及ぼし合うようになってきました。高校世界史でも、話がだんだんややこしくなって複雑になってくるのもこのあたりですね。」
名もなきOL
「あちこちでいろんな事件が起きて、それぞれの前後関係とか内容とか、ごっちゃになっちゃいますよね。」
big5
「ですよね。そこで、ここでは時系列順に見ていくことを基本にして、関連事項は随時説明していこうと思います。まずは、ここまでの復習も兼ねて、1850年頃の主要国の状況から見ていきましょう。」

イギリス 世界の先進国

big5
イギリス自由主義の発展とアヘン戦争のページでも紹介したように、当時のイギリスは世界の先進国でした。産業革命が進み、議会政治が発展し、様々な自由主義的改革を重ねていち早く近代国家として完成しています。その一方で、アヘン戦争を仕掛けて麻薬を清に売り続け、香港島まで奪い取りました。強大な軍事力を背景に、アジア諸国を植民地化していくきっかけになった戦争でしたね。
この時代、イギリスはヴィクトリア女王の治世にあたり、この時代をヴィクトリア時代と呼ぶこともあります。そのヴィクトリア時代を象徴するかのようなイベントが、1851年のロンドン万国博覧会(Great Exhibition)でした。ヴィクトリア女王の夫、アルバートが総裁となって推進したロンドン万博は、イギリスの国家事業として進められ、様々な近代工芸品などを展示する博覧会でした。会場は水晶宮(クリスタルパレス)と呼ばれた、ガラス張りの建物でした。」

The Crystal Palace in Hyde Park for Grand International Exhibition of 1851

名もなきOL
「これが万博の始まりなんですね。当時はどれくらいの国が参加していたんですか?」
big5
「参加国は34か国です。5月1日〜10月15日の会期で、入場者数は603万9000人、という記録になっているそうです。この数は、イギリス総人口の約3分の1であり、ロンドン人口の3倍にあたります。利益は約18万ポンド、という大成功を収めました。成功要因の一つはトーマス・クック(Thomas Cook:43歳)の旅行会社が挙げられますね。万博来場者の約4%は、トーマス・クックが手配した汽車・馬車そして宿を組み合わせた団体旅行商品の利用者だったそうです。」
名もなきOL
「この頃から、もう既に旅行会社があったんですね!」
big5
「はい。トーマス・クックは、まだまだ高価な乗り物だった汽車を、集団利用で手配することにより安価な乗り物にできることに気づき、団体旅行というパッケージ商品にして売り出したんです。そのため、一般庶民でも旅行が楽しめるようになり、イギリスでは旅行が人々の娯楽として定着していきました。その後も、トーマス・クックの旅行会社は、有名な歴史イベントにも関わっていますので、随時紹介していきますね。」
名もなきOL
「団体旅行か〜。懐かしいな。今では団体旅行は廃れていって、自分で手配する個人旅行が主流ですよね。でも、旅行会社というものが、この頃から既に活躍していた、というのは驚きました。」
big5
「もう一つ、会社事業という点で重要なのが、ロイター通信社の創業ですね。ドイツ人のロイター(Reuter:45歳)がロンドンでロイター通信社を興しました。ちなみに、通信社とは、様々な情報を集めて、それを新聞社などに配信する会社の事です。「ニュースの卸問屋」というあだ名がわかりやすいですね。通信社自体はロイター以前からあったのですが、この頃に創業されて、現在まで残っているのはロイター通信社くらいですね。昔は、通信社の情報獲得手段は伝書鳩だったのですが、1851年にイギリス=フランスを繋ぐ海底ケーブルがドーバー海峡に敷設され、ロイター通信社は伝書鳩の代わりに海底ケーブルの電信を使って情報を集めていたそうです。情報伝達手段に電信が使われている、というのが、イギリスの技術の進歩を示していますね。
余談が入ったので長くなりましたが、19世紀後半が始まった頃のイギリスは、このような状態でした。」

フランス ナポレオン3世の登場

big5
「フランス革命以降、革命続きで変動が大きかったフランスですが、1848年の二月革命により、第二共和政がスタートしました。第二共和政の大統領に就任したのが、英雄ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオンでしたね(詳しくは七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊を参照)。ロンドン万博の1851年にはクーデターを起こして大統領権限を強化し、この勢いでフランス国民の大多数の支持を受けて、1852年にフランス皇帝・ナポレオン3世(44歳)として即位しました。フランスの政体はまたしても変わり、第二帝政となります。」

Franz Xaver Winterhalter Napoleon III
ナポレオン3世肖像  制作者:フランツ・ヴィンターハルター  制作年代:1855年

名もなきOL
「フランス革命勃発から約60年、フランスは本当に変化が激しいですね。」
big5
「そうですね。ナポレオン3世のもと、フランスはナポレオン時代の栄光を取り戻すために積極的に活動を始めていきます。フランスの動向も重要ですね。」

ドイツ&オーストリア 統一国家への歩み

big5
「さて、この頃のドイツは、まだ「ドイツ」という国に統一されていませんでした。七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊で見たように、ウィーン三月革命は、落ち着きを取り戻したオーストリア皇帝と政府が自由主義者を弾圧して失敗に終わり、ベルリン三月革命はプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世がフランクフルト国民議会が作った憲法を否定してさらに武力鎮圧したので、けっきょく元のバラバラ国家の緩い連合、という状態でした。ドイツの統一は、「鉄血宰相」の異名を持つビスマルクが登場するまでお休みです。
一方、オーストリアはウィーン三月革命の後、1848年にフランツ・ヨーゼフ1世がわずか18歳で皇帝に即位しました。フランツ・ヨーゼフ1世は第一次世界大戦中まで、およそ70年に渡って帝位に就くことになります。」
名もなきOL
「70年ってかなり長いですね。ということは、オーストリアはしばらく「帝国」を維持したわけですね。」
big5
「はい。ただ、フランツ・ヨーゼフ1世は時代に逆行するかのような、王権神授説を信じて疑わない、強烈な保守派でした。」

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フランツ・ヨーゼフ1世  制作者:Miklos Barabas  制作年代:1853年

big5
「オーストリアは、ドイツ統一、イタリア統一、ロシアの南下政策など、周辺諸国の情勢に振り回されるような時代を歩むことになります。余談ですが、フランツ・ヨーゼフ1世の妻は美人で有名なエリーザベト(愛称:シシー)です。この話は、世界史の重要ポイントではないのですが、とても興味深い話なので、機会を見つけて紹介したいと思います。」

イタリア 統一国家への歩み

big5
「続いてイタリア。イタリアも、ドイツと同様に「イタリア」という一つの国家で統一されていませんでした。青年イタリアを率いたマッツィーニらが活動した結果、1849年にローマ共和国を一時的に立ち上げますが、フランスなどの介入で崩壊。元通りの中小国の群雄割拠状態に戻ってしまいます。イタリア統一なんて、夢のまた夢・・・そんな風に思われていた中、1852年にカヴール(Cavour 42歳)がサルデーニャ王国の宰相に就任します。このカヴールが、粘り強く根気よく、イタリア統一に尽力した英雄です。
19世紀後半のイタリアは「イタリア統一」がテーマですね。」

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カヴール  制作者:Francesco Hayez  制作年代:1864年

ロシア 南下の野望

big5
「ウィーン体制時代は「ヨーロッパの憲兵」という異名を持つほどの保守派大国のロシアでしたが、ウィーン体制が崩壊すると、自国ロシアの国益を優先して積極的に動いていました。具体的には、弱体化しているオスマン帝国を攻撃して、黒海から地中海に出るルートを確保する南下政策です。一方、東方進出も続けており、日本や清を力づくで開国させて貿易の発展も狙っていました。しかし、ロシアのこの動きは、イギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国に常に警戒されており、そう易々とは目的を果たすことができません。南下、東進を進めたいロシアと、それを妨害したい列強との対立が、19世紀後半のロシアのテーマになります。
もう一つのテーマは、近代化ですね。当時のロシアは、まだまだ中世的な社会構造が残っており、これが西欧諸国に後れを取っている原因だ、と思われるようになってきました。ところが、このような動きをロシア王家がそう簡単に認めるわけもなく、ロシア内部での対立も激しさを増していくところが重要ですね。」

オスマン帝国 瀕死の重病人

big5
「中世、そして近世ではヨーロッパ諸国を震え上がらせたほどの大国・オスマン帝国ですが、この時代のあだ名は「瀕死の重病人」。ギリシアに独立され、エジプトはムハンマド・アリーに奪い取られ、衰退の一途をたどっていました。国内の近代化をすすめるべく、タンジマートと呼ばれる改革を進めている最中ですが、そんなに簡単に結果が出るはずもなく、その道筋には暗雲が立ち込めている、という状況でした。」

清(中国) 崩壊の始まり

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「東アジアの大国・清も苦しい状況にありました。アヘン戦争で大敗し、軍事技術の圧倒的な遅れが暴露されると、ヨーロッパ諸国から魔の手が伸びてくるのは時間の問題でした。近代化は喫緊の課題でした。ところで、清ってどの民族の王朝だったか覚えていますか?」
名もなきOL
「えっと、漢民族ではないんですよね。征服王朝だから。う〜〜ん・・・、そうだ、女真族(じょしん)だ!」
big5
「正解です。17世紀に、女真族が漢民族の王朝であった明を滅ぼして建国したのが清ですね。弱体化している清を見て、被支配民族であった漢民族の洪秀全(こうしゅうぜん)が反乱を起こし、1851年に太平天国と号した国家を建国。当然、清が太平天国を認めるはずがなく、1864年まで続く太平天国の乱が始まりました。」
名もなきOL
「かなり長期間にわたった反乱だったんですね。なぜ、そんなに長い反乱になったんですか?」
big5
「太平天国の乱が続く中で、ヨーロッパ諸国が清への侵略を開始していったことなど、理由はいろいろあります。が、一言でいえば「清はすっかり弱体化してしまっていた」ということですね。実際、清の正規軍は太平天国の乱を鎮めることができなかったため、外国軍人を指揮官として傭兵部隊を雇ってようやく鎮圧しています。」
名もなきOL
「自力で反乱を鎮圧できない、というのは国の末期症状ですね。」

江戸幕府(日本) 幕末の始まり

big5
「一方、我が日本はこの頃まだ江戸時代です。第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の治世でしたが、長い鎖国政策の結果、世界の流れからは完全に切り離された、独自の文化を形成していました。そんな日本が、激動の世界に叩き起こされたのが1853年。アメリカ海軍提督ペリーが浦賀に来航し、蒸気船と大砲という最新兵器を使って幕府に開国を迫りました。これをきっかけに、幕末の動乱が始まるわけですね。」
名もなきOL
「そっかぁ、この頃になってようやく世界史に日本が登場するんですね。そして、それが幕末動乱の始まりだったんですね。なるほどなるほど、それは大変だったわけだ。」
big5
「明治維新を経て、日本も主要国の一員として世界の政治経済に関与していくことになります。世界史でも、日本の影響が少しずつ出てきますので、要注意です。
さて、他にも国はいっぱいありますが、今回はここまで。次回からは、激動の19世紀後半の歴史を見ていきましょう。まずは、1853年勃発のクリミア戦争からです。」


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