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「さて、今回は「日本史 武士の台頭」の「源平合戦」の「詳細篇」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人は、まずはこちらに本編から見てくれよな。」
・源平合戦
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」
・以仁王と源頼政の挙兵 動機
・以仁王と源頼政の挙兵 推移
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「以仁王と源頼政の挙兵が、源平合戦の始まりを告げる兵乱の始まりであることは周知のとおりなんだが、その辺の詳細を見てみようか。出典は『平家物語』だぜ。
1180年のある日の夜、源頼政が以仁王の御所を訪問した。頼政は、以仁王は正当な天皇の子であるにも関わらず、「王」の扱いのまま数え年30歳を迎える不遇を嘆いた。そして、挙兵して平家を滅ぼし、鳥羽殿に幽閉された父である後白河法皇を救い出して、自らは天皇に即位すべきです、と説く。その意思があるなら、令旨を下せば喜んで馳せ参じる源氏の者は多数います、と令旨の発行を促した。」
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「『平家物語』では、以仁王の挙兵を促したのは源頼政、ということになっていますね。ただ、私は逆なんじゃないか、と思っています。というのも、頼政は1180年で76歳になり、当時ではかなりのご長寿です。しかも、1179年11月には出家して家督を息子の仲綱に譲っています。言ってみれば、隠居した高齢者なわけです。そんな頼政が、一族の生死に関わるような反乱を提案するでしょうか?そうではなく、以仁王が頼政を説得して、挙兵に加えたんじゃないか、というのが私の推測です。」
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「一理ある考え方だと思うぜ。実際、以仁王と頼政の関係性を記した史料は今のところ発見されていないので、挙兵の動機には諸説あるぜ。さて、『平家物語』に戻ろうか。頼政は、挙兵に応じる全国の武士を具体的に挙げている。名前を上げられた人は以下の通りだぜ。ちなみに、人名に入っている「前司(ぜんし)」とは「元国司」のこと。「冠者(かじゃ)」は元服済の成人、「先生(せんじょう)」は御所の警備隊長、という意味だぜ。
(京都)
1〜4:出羽前司光信の子である伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能
(熊野)
5:源為義の末子である十郎義盛(源行家)
(摂津)
6〜8:多田蔵人行綱(源行綱)の弟である多田次郎朝実、手島冠者高頼、太田太郎頼基
(河内)
9:石川郡を知行している武蔵権守入道義の子である石川判官義兼
(大和)
10〜13:宇野七郎親治の子である太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治
(近江)
14〜16:山本、柏木、錦古里
(美濃・尾張)
17〜26:山田次郎重広、河辺(こうべ)太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食(あじき)次郎重頼、その子太郎重資、木太(きだ)三郎重長、開田(かいでん)判代官重国、矢島先生(せんじょう)重高、その子太郎重行
(甲斐)
27〜36:逸見冠者義清、その子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定
(信濃)
37〜41:大内太郎惟義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子四郎義信、故帯刀先生義賢の次男木曽義仲(源義仲)
(伊豆)
42:前右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)頼朝(源頼朝)
(常陸)
43〜48:信太(しだ)三郎先生義教、佐竹冠者正義、その子太郎忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義孝
(陸奥)
49:故佐馬頭義朝の末子九郎冠者義経(源義経)
だな。ただ、これを聞いただけでは、以仁王はどうすべきか判断できなかった。そんな以仁王を決断させたのは、人相を見るのに優れていた少納言の惟長という人物だった。彼は、その優れた人相見の能力のために「相少納言」と呼ばれていた。その相少納言が以仁王の人相を見たところ「天皇に即位するはずの人相です。」と言ったので、以仁王は挙兵の決意をした、となっているな。」
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「この辺の話は、いかにも「読み物」っぽいですね。あともう一つ、頼政の挙兵の動機として有名なのは『平家物語』巻四「競」にある名馬「木の下(このした)」をめぐる頼政の息子・仲綱と平宗盛の揉め事ですよね。
宗盛が仲綱所有の名馬「木の下」があまりに評判なので、馬を寄越せと仲綱に命令。仲綱は「最近、乗りすぎて疲れたようなので、しばらく田舎に戻している」と返事したが、平家の侍たちは「おとといも昨日も、その馬を見た」と言ったので宗盛は激怒。何度も何度も「馬を寄越せ」としつこく迫ったので、たまりかねた頼政が、息子に馬を渡すように指示。しぶしぶ馬を渡したのだが、宗盛の怒りは収まらず、馬に「仲綱」と書いた焼き印を入れて、訪れる人々に見せて笑いものにした。この仕打ちに頼政が怒った、という話ですね。」
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「『平家物語』にある話なので有名なんだが、史実であることを裏付ける史料が他にないのが現状だな。
他の有名な史料といえば『吾妻鑑』(あづまかがみ)だよな。吾妻鑑は、鎌倉幕府の北条氏の歴史書という立ち位置なので、以仁王の挙兵に関する記述は少しだけだ。吾妻鏡では、以仁王に挙兵を持ちかけたのは源頼政と息子である伊豆守仲綱、と書いてある。要約するとこんなかんじだ。
『日ごろから清盛打倒の準備をしていたが頼政だったが、個人的なたくらみでは成功はおぼつかない。そこで、4月9日の夜、頼政と仲綱が人目を忍んで高倉御所に入り以仁王に挙兵を持ちかけた。源頼朝らにも挙兵するように令旨を出した。』」
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「『吾妻鑑』の記述は、わりとあっさりですね。北条家や鎌倉幕府に直接関係ない話ですからね。一つ、注目するとしたら、頼政・仲綱が以仁王を尋ねたのが4月9日と明記しているところでしょうか。平家物語では、ある日の夜、としか書いてませんが、吾妻鑑は具体的な日にちを書いてます。この出所は何だったのか、というのは興味がありますね。この日にちの記述が、後のイベントの日にちの違いに繋がっていますね。」
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「それでは、次に以仁王と源頼政挙兵の推移を、年表形式で見てみようか。これも『平家物語』を基に作成しているぜ。」
1180年 治承4年 |
源平合戦イベント |
4月28日 | 源行家が以仁王の令旨を持って都を出発。まずは近江に赴く |
5月10日 | 源行家が伊豆の頼朝に令旨を伝える |
5月??日 | 熊野で湛増(平家)と源氏方で3日間戦闘が発生 |
5月13日 | 平宗盛の願いを清盛が聞き入れ、後鳥羽法皇が鳥羽殿から解放される 湛増の飛脚が以仁王の謀反を都へ報告 |
5月15日 | (夜)頼政の使者が以仁王に挙兵が露見したことを伝える。以仁王は三井寺へ向かう 平家の軍勢300余騎が以仁王の御所を襲撃。長谷部信連の奮戦 |
5月16日 | (未明)以仁王が三井寺に到着 (夜)源頼政らが館を焼き払い、一族を率いて三井寺へ |
5月18日 | 三井寺が以仁王の挙兵に応じるよう、牒状を延暦寺、興福寺に送る 興福寺、軍勢の招集を始める |
5月21日 | 興福寺が挙兵に応じる返書を三井寺に送る |
5月??日 | 三井寺が平家に夜襲を仕掛ける作戦を計画するも、時間切れ。 原因を作った阿闍梨の真海を襲撃する。 |
5月23日 | 以仁王・源頼政らが三井寺を出て興福寺へ向かう |
5月??日 | 橋合戦 |
5月27日 | 平家が三井寺を攻撃。三井寺は陥落して炎上 |
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「こうしてみると、源行家が以仁王の令旨を持って都を出発してから、約1か月で兵乱は終息しているんですね。意外と短いですね。」
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「そうだな。ただ、始まりをいつにするのか、で期間も変わってくるな。例えば、源頼政が以仁王に挙兵を促すところから数えてもいいんだが、『平家物語』でも、それがいつなのかは記載していない。これは俺の見立てなんだが、安徳天皇が即位して少し経ったくらいなんじゃないか、と思っている。それでは、ここから以仁王と源頼政の挙兵の詳細を見ていこうか。」
以仁王の挙兵がバレる
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「まず、以仁王の令旨を東日本の源氏に配って回ったのが、源行家(みなもとのゆきいえ)だ。生年ははっきりしないが、1141年〜1143年ということなので、1180年時点では38歳くらい、ということになる。源為義の十男で、母は不明。源義朝の異母弟にあたるので、頼朝や義経、義仲から見ると叔父にあたるな。、当初の名乗りは義盛だったが、以仁王に召しだされて蔵人に任命。行家と改名させて、都を出発したのが4月28日ということだ。近江、美濃、尾張と回って伊豆の頼朝のところに着いたのが5月10日となっているな。その後、常陸の信太義憲を訪問してから、義仲のところに行った、とある。」
『平家物語絵巻』「源氏揃えの事」 馬に乗っているのが行家 作成年代:江戸時代
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「日付が明記されているのは、都を出発した4月28日と、頼朝の所についた5月10日だけで、他は日付の記述はありません。でも、28日に京都出発で、5月10日に伊豆到着なら、まぁ標準的な日数かと思いますね。
ところが、そんな平家物語と違って『吾妻鑑』では、行家が頼朝の元に到着したのが4月27日、となっています。平家物語では京都を出発する1日前になりますが、吾妻鏡ではもう既に伊豆に到着しています。吾妻鏡では、以仁王の令旨が4月9日ということになっているので、その後間もなく京都を出発すれば、27日に伊豆に着いても妥当な日数ですね。『吾妻鏡』では、5月10日は、下野の下河辺荘を治める下河辺行平(しもこうべゆきひら)が、源頼政の計画を頼朝に伝えた、と書いています。おそらく、平家物語は下河辺行平が来たのを、行家の訪問と勘違いしてしまった、のではないかと思いますね。」
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「そうだな。さて、そんな中、以仁王の令旨が平家方に知れることになった。きっかけは、熊野別当の湛増に情報が漏れたことだった。湛増は
・新宮の十郎義盛(源行家)が以仁王の令旨をもらって、美濃、尾張の源氏に謀反を呼び掛けていること
・那智、新宮の寺社勢力は、謀反に手を貸すこと
以上を、飛脚を送って平家に知らせている。さらに、自身は1000人の兵を率いて新宮に向かい、那智・新宮勢と交戦。3日間の戦闘の結果、湛増は家の子、郎党らを失い、自身も負傷して命からがら本宮に退却した、となっている。なお、新宮勢として鳥井の法眼、高坊の法眼、武士の宇井、鈴木、水屋、亀甲。那智勢として執行法眼の名が挙げられており、合計兵力は約2000人となっているな。」
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「なぜ、湛増は行家が令旨を持って挙兵を呼び掛けていることを知ることができたんでしょうね?。『平家物語』でも、「どのようにして漏れ聞こえたのかわからないが」としているので、当時から既に経路は不明だったみたいですね。おそらく、行家が挙兵を持ちかけた那智・新宮の寺社勢力のうちの誰かが、湛増と繋がっていた、とかが考えられますね。
ちなみに、『吾妻鏡』ではこの件は記載なしです。」
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「これは後の話も関係することだが、この情報の中に源頼政が含まれていないことがポイントだな。『平家物語』でも、頼政が謀反に加わっていることを、平家はまだ知らなかった、と明記しているな。5月15日、清盛の命を受けて300余騎の軍勢が以仁王の御所に押しかけるんだが、この中に頼政の次男である兼綱が含まれているんだ。当然、挙兵がバレたことは頼政の耳にも入るわけだ。頼政は密かに使いを送って以仁王に脱出を勧める。以仁王は女装し、六条の亮大夫宗信と鶴丸という童のみ伴って三井寺に向かう、という流れになっている。そして、『平家物語』は以仁王の御所で奮戦する長谷部信連(はせべのぶつら)の活躍の話が始まる。」
以仁王御所の戦い 長谷部信連の奮戦
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「『平家物語』では、信連の装束も「薄青の狩衣の下に萌黄威(もえぎおどし)の腹巻を着て、衛府の太刀を帯びていた」と詳しく書いてますね。信連は「自分がここに仕えていることは誰もが知っている。なのに、ここにいなければ「逃げたんだ」と思われ、弓矢を取る者として名が廃る」といって、留守居を引き受けるんですよね。戦闘場面も詳しく描かれているのが「軍記物」らしい特徴ですよね。長谷部信連は、武勇の名声が高い武士で、6人組の強盗を一人で追いかけて4人を斬り、2人を生け捕りにした功を認められて、左兵衛尉に任命された、という豪の者です。」
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「戦闘描写は『平家物語』にお任せするのでここでは省くが、信連は武装した武士を相手に一人で奮戦し、約15日人を切り伏せるという軍功を上げる。しかし、敵は300余騎。多勢に無勢でついに捕らえられてしまった。清盛の前に引き出され、首をはねよと言われるものの、信連は「以仁王がどこに行ったのか知らないし、例え知っていたとしても絶対に言わない」と堂々と黙秘を決め込んだ。この立派な態度に平家の侍も感心したため、清盛も死罪ではなく伯耆の日野へ流罪、とするに留めた。後に信連は源頼朝に登用されて、能登に所領を与えられた、というところで信連の出番は終わりだ。
」
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「『吾妻鏡』でも、日付は5月15日で同じですね。ただ、記載内容はあっさりしています。」
渡辺競の知略
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「さて、御所を脱出した以仁王は、慣れない山道を歩いて16日未明に、無事に三井寺に到着した。三井寺の僧らは驚きながらも、以仁王は迎え入れた。16日は、以仁王が謀反を企てて都から消えた、という話で溢れていた。そんな中、夜になって源頼政とその一族は自邸を焼き払い、300余騎を率いて三井寺に入った。」
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「ちなみに、三井寺は滋賀県と京都府の県境に近い、滋賀県大津市にあります。正式名称は園城寺(おんじょうじ)です。公式ホームページもあるので、是非一度見てみてください。さらにちなみに、京都駅から三井寺まで歩くと、その道のりはだいたい13kmなので、成人の平均歩速である時速4kmで計算すると3時間少々になります。ただ、これは歩きやすい山科経由での話。道が良くない山道を、しかも夜に歩いた以仁王はもっと時間がかかるはずです。ただ、道に迷いさえしなければ、一晩中歩けばたどり着ける道のりですね。」
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「さて、次に登場するのは渡辺競(わたなべきそう)だ。渡辺競も、名の知れた勇士だった。強弓を扱い、矢継ぎ早に連射も可能で、力も強く、装備した24本の矢で24人を射殺すことができる、と恐れられていた。渡辺競は頼政に仕えていたのだが、どういうわけかその渡辺競がぽつねんと残っていた。これを知った宗盛が何そしているのかと聞くと
「何かあれば先陣を駆けて命を差し上げようと思っていましたのに、どういうわけか殿は何も言いませんでした。」
と答えた。それならばワシに仕えよ、と宗盛はその場で採用。競も「朝的となった人には味方できない」といって、宗盛に仕えることにした。その夜、競は宗盛に
「頼政は三井寺にいるようです。かくなるうえは、渡辺の近親の者を選んで討ち果たしたいところですが、あいにくと馬が盗まれてしまいました。どうか、殿の馬を一匹貸していただけませんか?」
と頼んだところ、宗盛は快諾。爰廷という名馬を早速貸し与えたのだが、これが競の罠だった。競は自宅に戻ると早々に出陣準備を整え、妻子を隠すと自宅に火を放って三井寺へ爰廷を走らせた。競の家が火事だ、と騒ぎになったところで、宗盛は騙されたと気づいた。すぐに競を追うように命じる者の、競の弓の腕を恐れた平家の侍たちは、誰も追おうとはしなかった。
三井寺で頼政と合流した競は、爰廷を仲綱に献上。仲綱は、かつて宗盛が「木の下」に行ったように、「昔は爰廷、今は平宗盛入道」という焼き印を押して、尾とたてがみも切った。次の夜、密かに平家の六波羅へと送り返されたのだが、これを知った宗盛は大激怒した、という話だ。」
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「主君に与えられた屈辱の仕返しをする、という見事な家臣の働きが描かれていますよね。」
三井寺の呼びかけ・平家襲撃計画
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「さて、次は三井寺衆徒らによる平家の襲撃計画の話だ。以仁王を迎え入れた三井寺は、5月18日付けで比叡山延暦寺と南都興福寺に手紙を送る。『平家物語』では、この手紙を「牒状(ちょうじょう)」と呼んでいる。『平家物語』には、この手紙の内容もしっかり記載されている。詳細は省略するが、だいたいこのような内容だ。
「園城寺(三井寺)に以仁王が来たのは、いい機会である。園城寺と延暦寺は、元は同じ天台宗の寺であり、例えるなら鳥の翼の両翼であり、車の両輪のようなものである。過去のいざこざは水に流し、今こそ園城寺を破滅から救ってほしい。」
という内容だ。」
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「補足ですが、当時は(も?)延暦寺と三井寺は同じ天台宗の寺ですが仲は悪かったんです。993年に、延暦寺の内部で円珍と円仁という2人高僧の派閥争いが発生し、円珍派が延暦寺を引き払ってみ園城寺を拠点として以来、大小さまざまな揉め事が起きていたんです。手紙にある「過去のいざこざ」とは、このような歴史的な因縁のことを指しています。」
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「しかし、延暦寺は三井寺の牒状を見て、むしろ怒りはじめた。「鳥の両翼のようなもの、車の車輪のようなもの」という例えは、三井寺が自身を延暦寺と同レベルとみなしている、けしからん、という理由だ。延暦寺から見れば、三井寺は後からできた延暦寺の末寺でしかなかった。そんな末寺が大本山である延暦寺と同格だ、とは身の程知らずも甚だしい、というわけだな。加えて、清盛は延暦寺を懐柔すべく近江米2万石と北国の織延絹3000疋を贈答していたこともあり、三井寺の要請を却下することにした。もちろん、三井寺への返事は「味方するかどうかはまだ未定」と答えた。」
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「清盛はうまい具合に延暦寺を中立に持って行ったんですね。このあたりはやはり上手いな、と思います。平家と延暦寺の関係は決して良好ではないので、場合によっては延暦寺も反平家で挙兵しえますからね。」
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「一方、ほぼ同じ内容の手紙を受け取った興福寺は
「そもそも清盛は平氏のカス(糟糠)で、武家のゴミ(塵芥)です。平家の横暴は古今未曾有の域に達しています。実は既に清盛が三井寺に攻め込もうとしているニュースは知っておりましたので、18日の午前8時に兵を招集させていました。そんな折に、三井寺さんの手紙を持った使者が来たのです。共に戦いましょう。」
と、清盛と平家を罵倒して三井寺と共に戦うことを言明した。」
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「興福寺はもともと藤原氏縁の寺なので、かつての権力者であった藤原氏を凌駕する存在になった平家とは仲が良くありませんでした。それにしても、ここまで時の権力者を堂々と罵倒する手紙も珍しいですね。」
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「こうして、興福寺は三井寺を助けるために動き始めたが、なにぶん奈良なので京都に着くまで時間がかかる。近い延暦寺は傍観を決め込んでいる。そうしている間にも、平家は三井寺に大軍を送る準備を進めているわけだ。三井寺は、平家の準備が整う前に夜襲をかけることを考えた。ところが、この積極策に反対する者がいた。一如房の阿闍梨・真海だ。真海は、昔平家のために祈祷をしたこともあり、三井寺の中でも平家よりの僧だった。真海とその弟子数十人は「攻め込んでも落とすことは難しいから、味方をもっと集めてから攻め込むべき。」と長々と論じ始めた。『平家物語』は、真海の意図は時間を引き延ばすことだった、としている。打ち合わせに時間がかかってしまい、山路を通って北から攻め込む搦手勢と、東から攻め込む大手勢に分かれた総勢1500の軍勢が三井寺を出陣したものの、逢坂の関のあたりで鶏が鳴きはじめる時間になったため、退却してしまった。若い衆徒らは「夜襲ができなかったのは、真海の時間引き延ばし工作のせいだ」と怒って、帰ってきてから真海とその弟子を攻撃。数十人の弟子が討ち死にし、真海は命からがら六波羅に逃げて、事の次第を平家に報告した。しかし、この時平家は既に数万の軍勢を集めており、真海の話を聞いてもまったく動じなかった、と『平家物語』は伝えている。」
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「この話が、何日のことなのか『平家物語』は明示していません。冒頭に「延暦寺は傍観で、興福寺はまだ来ない」とあるので、少なくとも手紙を出した18日以降であることはわかるのですが、具体的に何日かはわかりません。ただ、「興福寺はまだ来ない」というのは、援軍ではなくおそらく手紙の返事のことでしょうね。興福寺の返事は21日なので、手紙を持った使者が三井寺に来るのはもっと後になります。そうなると、後の「橋合戦」の件とは時間的に整合しなくなりますね。
いずれにしても、この時点で平家はある程度兵を招集済だったよ思われるので、真海の言うように夜襲をかけても勝利はできなかったのではないか、と私は思います。」
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「そうかもな。だが、攻撃のやり方によっては、平家に一撃与えることはできたんじゃないか、と俺は思う。まぁ、「歴史にもしもはない」ので、俺の個人的な見解だがな。」
クライマックス 橋合戦
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「夜襲が未遂に終わった後、以仁王は23日の明け方に三井寺を出て興福寺へ向かうこととした。所持していた名笛「蝉折」を奉納し、源頼政一族と三井寺の若い衆徒、悪僧(「強い僧兵」という意味。「悪い」かどうかは別)ら約1000人を率いての出発となった。以仁王は、道中6度も落馬しながら宇治の平等院に到着し、しばらく休憩を取った。ところが、ここで平家の軍勢に追い付かれてしまった。平家の陣容は以下のとおり。
将軍:平知盛、平重衡、平行盛、平忠度
侍大将:藤原忠清とその子藤原忠綱、飛騨守藤原景家とその子景高、高橋長綱、河内秀国、武蔵有国、平盛継、藤原忠光、悪七兵衛景清
総勢:2万8000騎」
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「28,000騎という兵力は、だいぶ過剰に表現していると思いますね。ただ、以仁王らの軍勢よりもかなり多かったのは事実だと思います。」
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「平家軍は木幡山を越えて宇治橋までくると、以仁王が平等院にいると見てとった。しかし、以仁王軍も宇治橋の橋板を外して渡れないようにするなどの防衛体制を整えていたため、これに気づかなかった平家の後陣200騎は端から落ちて流されてしまった。」
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「200騎も橋から落ちた、というのもかなり大げさだと思いますね。」
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「そうだな。だが、ここで以仁王側が橋板を落として防備を整えていた、というのは戦術的にも正解だ。少数が大軍とまともに戦っても勝ち目はない。まともに戦わないための方策はいくつかあるが、そのうちの一つが「敵との交戦エリアを絞る」というものだ。橋板を落とした橋くらいしか接敵する部分がないと、その場所にいないその他大勢の兵は見ているだけになる。戦場となる橋は、限られた人数しか入れないので、少数の軍でも数的不利にはならないわけだな。実際、『平家物語』でも戦況を詳しく書いているが、以仁王側の猛者の活躍をイキイキと描いているんだ。
まず、最初の弓矢の射撃戦では、以仁王軍の大矢の俊長、五智院の但馬、渡辺省、渡辺授、続源太の放つ矢は鎧も盾も貫通した、と記述している。その後、五智院の但馬が橋に進み出て、平家の武者が放つ矢をひらりひらりとかわして「矢切の但馬」と呼ばれた。その後、筒井の浄妙明秀が進み出て、装備していた24本のうち23本で12人を射殺し、11人を負傷させ、その後は弓を捨てて長刀を持って橋を渡って切り込み、5人を倒した。6人目で長刀が折れたので、続いて太刀を抜いて奮戦。蜘蛛手、かく縄、十文字、蜻蛉返り、水車という技を駆使して8人を斬り倒し、9人目の兜に当たったところで太刀は根元から折れてしまった。それでも明秀は奮戦し「一騎当千の兵」に恥じない獅子奮迅の働きを見せている。」
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「明秀の強さが描かれていますね。その一方で、使用している武器が途中で折れるなど、戦闘描写もけっこうリアリティがありますね。」
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「明秀の背後から、腕っぷしの強さで有名な一来法師が明秀の代わりに前線に出て戦ったが、一来法師は討死。明秀の活躍に反して、記述はあっさりだな。その後、明秀は後退し、甲冑を脱ぎ捨てて自分が受けた傷を確認した。鎧の矢傷は63か所、そのうち5か所は貫通していたが軽傷だったので、お灸で治療して普通の僧に扮して奈良に退却していった、と記述されている。」
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「大きな軍功を立てて、堂々した退場も見事ですね、筒井の浄妙明秀さん。」
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「浄妙明秀に続けてとばかりに、三井寺衆徒や渡辺勢が次々と橋を渡って切り込み始め、橋での戦闘は激しさを増していった。これを見ていた上総守藤原忠清は「橋での戦いは不利。一気に川を渡りたいところだが、五月雨の季節で水かさも増しており、無理に渡れば人も馬も流されてしまいます。ここは、淀、一口へ向かうか、あるいは河内路に迂回しましょう」と提案するが、下野の足利又太郎忠綱(この年16歳?)が
「坂東武者が敵を目の前にした川を隔てた戦いで、迂回するなどありえない。この川と利根川にどれほどの違いがあるというのか、おのおのがた、我に続きなされ」
と言って、川に飛び込んだ。これに大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫広綱四郎大夫、小野寺禅師太郎、辺屋子の四郎が続いた。郎党では、宇夫方次郎、切生の六郎、田中の宗太をはじめ、300余騎が飛び込んだ。足利忠綱が指揮を執り、飛び込んだ300余騎は1騎の落伍者も出さずに渡河に成功。さらに名乗りを上げて平等院に攻め込んでいった。これを機に、平知盛が全軍の渡河を指示。川に流された者も出たが、大多数は渡河に成功。平等院の内外で激しい戦闘となった。この間に、以仁王は興福寺へ向けて脱出し、殿として源頼政一門が平等院を拠点に防戦を続けた。しかし、多勢に無勢であり、頼政の子である仲綱、兼綱は討死。頼政も負傷して自害して果てた。宗盛から名馬を騙し取った渡辺競も奮戦したが、重傷を負って自害。円満院の大輔源覚は包囲を突破して宇治川飛び込み、なんとか三井寺へ生還した。
一方、以仁王は戦場を落ち延びて興福寺へ向かっていたが、経験豊富な飛騨守藤原景家率いる500騎の部隊で以仁王は追った。以仁王は30騎余りで興福寺へ向かっていたが、光明山の鳥居の前で追いつかれ、矢を受けて落馬。そのまま首を取られてしまった。この時、興福寺の軍勢7000余騎がもう50町先のところで待っていたのだが、以仁王の死を聞いて、興福寺に撤退していった。
勝利した平家の軍勢は、討ち取った人々の首を太刀や長刀の先に差して掲げながら、夕方に六波羅へ帰還した。27日、平家は平重衡を大将、平忠度を副将とする10,000騎で以仁王を迎え入れた三井寺を攻撃。午前6時から弓矢の射撃戦が始まり、三井寺も懸命に戦ったが、300人ほどが討たれてしまった。夜になると、平家軍は寺内に侵入してあちこちに火を放ち、建物637棟、大津の民家1853棟、経典7000巻、仏像2000体を焼失する、という壊滅的な打撃を受けた。生き残った僧たちも、幹部13人は罷免されて検非違使預かりの身となり、浄妙明秀他30人の悪僧は流罪とされた。人々は「このような大乱はただ事ではない。平家の余が終わる前兆だろう」と囁いていた。ということで『平家物語』巻4は終わる。」
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「『平家物語』の躍動感ある記述は、読み物として秀逸ですよね。橋合戦の件も、激しい戦いの様子が想像できます。」
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「こうして以仁王と源頼政の挙兵は失敗に終わった。以仁王には2人の息子がいたが、2人とも出家することを条件に命は助けられた。やはり、平家の血筋ではないとはいえ、後白河法皇の孫たちに厳しい措置は取れなかったのだろう。なお、以仁王は平家によって「源茂仁(もちひと)」として臣籍降下させられている。名目上の話ではあるが、平家でも、皇族を討つ、という形式にしておくのは憚られたようだな。」
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