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「ナポレオンといえば、今でもフランス人の間では大人気の英雄です。その人生や戦略・戦術は研究対象としてもよく取り上げられています。ここでは、フランスの英雄・ナポレオンの人生を見ていきたいと思います。」
名もなきOL
「歴史教科書としてのナポレオン時代の話は、こちらで解説しています。まだ読んでない方は、ぜひぜひ読んでみてくださいね。
ナポレオン時代」
年 | できごと |
1768年 | コルシカ島独立戦争 コルシカ島はフランスに敗北 |
1769年8月 | (15日)コルシカ島のアジャクシオでナポレオン誕生 |
1770年 | 父カルロがフランス貴族に叙せられる |
1778年12月 | 父カルロ、兄ジョセフと共にフランスへ出発 |
1779年1月 | オータンの学校でフランス語を学ぶ |
1779年5月 | ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学 |
1784年10月 | パリの陸軍士官学校 砲兵科に入学 |
1785年2月 | 父・カルロが死去 |
1785年9月 | 陸軍士官学校を卒業 |
1785年11月 | バランスの街の砲兵連隊士官に任命される |
1786年 | 休暇でコルシカ島へ行く |
1789年 | フランス革命勃発 |
1790年7月 | コルシカ独立運動の指導者・パオリがコルシカ島に戻る |
1793年6月 | ナポレオン一家がコルシカ島を追われ、フランスに移住する |
1793年9月 | トゥーロン包囲戦に従軍 |
1793年12月 | トゥーロンを攻略 旅団陸将に昇進し若き英雄となる |
1794年8月 | ロベスピエール派と見られて逮捕される 釈放されるも、予備役に回される |
1795年10月 | ヴァンデミエールの反乱を鎮圧し、国内軍司令官に任命される |
1796年3月9日 | ジョゼフィーヌと結婚 |
1796年3月11日 | 第一回イタリア遠征に出陣 |
1796年4月 | サルデーニャ王国を破り、サヴォイアとニースをフランスに割譲させる |
1796年5月 | ロディの戦い ミラノ入城 |
1797年10月 | カンポ=フォルミオの和約でオーストリアと和平 |
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「ナポレオンが生まれたのは1769年8月15日のこと。ヨーロッパ世界史の中では、七年戦争終結から6年が経過し、アメリカでは少しずつ独立の機運が高まっている頃ですね。父はカルロといい、イタリア貴族の血を引いているコルシカ島の貴族で、母はマリア・レティツィア」
名もなきOL
「へ〜、ナポレオンも貴族の出身なんですね。でも、イタリア系貴族なんだ。」
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「教科書では出てこないのですが、ナポレオンの人生を見るときには重要な社会の話です。まず、ナポレオンが生まれたコルシカ島なんですが、ここは元からフランス領だったわけではありません。中世に興隆したジェノヴ共和国の支配を受けていました。なので、コルシカ島にはイタリア系の人々が多かったんです。使う言語も、当然フランス語ではなくコルシカ語という、イタリア語に近い言語だった。近いと言っても発音はけっこう違うようで、イタリア人との会話はあまり通じないそうです。そんなわけで、コルシカ島は独自の歴史と文化を持つ場所でした。
やがて近世になり、ジェノヴァ共和国の力が衰え始めると、コルシカ島に独立の機運が高まりました。1729年の農民反乱をきっかけに、ジェノヴァ共和国との長い戦いが始まりました。最終的に、ジェノヴァ共和国はコルシカ島をフランスに売却。1768年、フランス軍がコルシカ島に攻め込んできたため、ナポレオンの父・カルロと、そして母のマリア・レティツィアはコルシカ独立軍のために武器をとって戦いました。」
名もなきOL
「お父さんが戦った、というのはともかく、お母さんまで戦った、というのは凄いですね。やっぱりナポレオンのお母さんは一味違うのね。」
マリア・レティツィア・ボナパルト肖像画 画:Robert Lefevre 作成年:1813年
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「この戦いはフランスの勝利に終わり、コルシカ島をフランス領となります。戦後、フランスの政治体制がコルシカ島にも持ち込まれたので、イタリア貴族の血を引く父のカルロは、1770年にフランス貴族として認められます。このため、その息子であるナポレオンや兄弟たちが、フランスの学校で学ぶ権利を得ることができました。これは、歴史の中では非常に些細なことですが、これが無かったらフランスの英雄・ナポレオンは存在しなかったでしょうね。」
名もなきOL
「ほんと、人生って何がどうなるかわからないですね。」
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「このような両親に育てられ、ナポレオンは「フランス貴族のコルシカ人」として幼年期をコルシカ島で過ごすことになりました。なので、名前も当初は「ナポレオーネ・ディ・ブオナペルテ」というイタリア風の綴りと発音だったんです。「ナポレオーネ」とは「荒れ野のライオン」という意味だそうです。その名のとおり、かなりわんぱく坊主だったようで、「虹をつかまえられたら願いがかなう」という話を信じて虹をつかもうとし、崖から落ちて大けがをした、というエピソードがあります。」
名もなきOL
「あらあら、それはかなりわんぱくですね。でも、ナポレオンらしいエピソードだと思います。」
big5
「1778年12月、ナポレオンが9歳の時に、父カルロはナポレオンを陸軍学校に、兄のジョセフはおとなしい性格だったので、司祭にするためにフランス本土へ連れていくことにしました。ちなみに、費用はフランス国庫負担だったそうです。ナポレオンは、母マリア・レティツィアと弟妹達に見送られ、生まれ故郷であるコルシカ島を出発しました。」
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「1779年1月、ナポレオンと兄ジョセフはオータンの町の学校でフランス語を勉強しました。」
名もなきOL
「きっと、天才ナポレオンなら成績優秀だったんでしょうね。」
big5
「いえ、あまり身が入らず学習は進まなかったようです。それでも、3カ月ほどで読み書きできるようになり5月からオータンの北にあるブリエンヌの陸軍幼年学校に通い始めました。当時のフランスでは、陸軍幼年学校に入り、その後士官学校に入って卒業する、というのが一般的な軍人になる道のりだったんです。
入学当初、ナポレオンを待ち受けていたのは同級生らから付けられた変なあだ名「ラパイヨネ(la paille au nez:鼻先にくっついた藁くず)」でした。これは、ナポレオンの名前「ナポレオーネ」が、コルシカ訛で「ラパイヨネ」と聞こえる、という理由でバカにされて付けられた名前です。」
名もなきOL
「子供って、そういうのを面白がりますもんね。学校でのナポレオンの成績はどうだったんですか?」
big5
「数学の成績は良かったそうですが、他の科目は並だったそうですよ。この頃のナポレオンは、友人付き合いもかなり少なかったです。唯一、友人といえたのは同い年のブーリエンヌ(Bourrienne)だけです。ブーリエンヌは、後にナポレオンの秘書官となっています。
友人も少なく、成績も数学以外は今一つだったナポレオン。そんな彼が、陸軍幼年学校時代に熱中していたのが読書でした。」
名もなきOL
「え!?読書!?・・・なんか、全然イメージないんですけど・・・」
big5
「このエピソードは意外ですよね。「天才」と評されることが多いので、読書にいそしむ姿はあまり想像できないですよね。これは、本編でも書きましたが、ナポレオンはかなりの読書家です。人間ナポレオンの姿に迫るときは、外せないポイントですね。この頃は、古代ローマの歴史家・プルタルコスの「英雄伝」がお気に入りで、特にアレクサンドロス大王やカエサルの話が好きだったそうですよ。」
名もなきOL
「アレクサンドロス大王にカエサル。2人とも、天才肌の名将ですね。それはわかる気がします。」
big5
「もう一つ、この頃のナポレオンに有名なエピソードが「雪合戦」です。ある冬、生徒たちが2組に分かれて雪合戦を楽しんでいたのですが、ナポレオンが指揮を執った組は常勝無敗だったそうですよ。」
名もなきOL
「へ〜、それはナポレオンらしいエピソードですね。」
big5
「これが実話なのかどうかはハッキリしていないそうですが、それっぽいエピソードですよね。
1784年10月、パリの陸軍士官学校に入学します。陸軍士官学校には歩兵科、騎兵科、砲兵科の3つがあったのですが、ナポレオンが選択したのは砲兵科でした。当時、人気だったのは騎兵科だったので、当時としては地味な選択をしています。」
名もなきOL
「士官学校時代にはどんなエピソードがあるんですか?」
big5
「特にないですね。」
名もなきOL
「え!?ないの?軍事の天才ナポレオンなのに?」
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「探せばあるかもしれませんが、私はまだ見つけてません。というのも、ナポレオンが在校していたのは約11か月程度だったんです。1年もいなかったんですね。卒業するには、試験を受けて合格する必要があるのですが、ナポレオンは合格者58人中42位という成績で卒業しました。順位を見るとパッとしませんが、通常は卒業まで4年かかるのを、11か月で卒業したのは最短記録なんだそうです。」
名もなきOL
「な〜んだ、あるんじゃないですか!ナポレオンらしいエピソードが。」
big5
「このスピード卒業の背景には、父・カルロの死があると思います。カルロは1785年2月24日に死去しました。死因は胃癌と考えられています。しかも、カルロは浪費癖があったようで財産をほとんど残していなかったんです。おそらく、ナポレオンは父亡き後の大黒柱として、一刻も早く収入を得る必要があったのではないか、と思います。」
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「そんなわけで、16歳で砲兵士官として勤務を始めたナポレオンですが、その生活は質素極まりなかったそうです。食事は1日1回で、しかも内容は干からびたパンと水だけ、というのが基本だったとか。生活費を切り詰めて、コルシカ島の母マリア・レティツィアに送金していたそうです。」
名もなきOL
「そんな、貧乏軍人だったなんて、英雄・ナポレオンからは、なかなかイメージできない。でも、ナポレオンさん、偉いわ。家族のために頑張ってたのね。」
big5
「そんなナポレオンは、部隊勤務以外の時間はもっぱら読書に費やしていました。特にこの頃はゲーテが著した『若きウェルテルの悩み』がお気に入りだったそうです。」
名もなきOL
「ゲーテは知ってますが、『若きウェルテル』ってどんな話なんですか?」
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「青年ウェルテルが婚約者がいる女性に恋をしてしまい、結果自殺してしまう、という悲恋物です。」
名もなきOL
「悲恋物ですか・・・、これもナポレオンのイメージに合わないな・・意外。」
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「『若きウェルテルの悩み』は、1774年に刊行されてからすぐにベストセラーになり、ゲーテの名を上げた作品です。元はドイツ語ですが、すぐに英語やフランス語の翻訳版も出版されています。ちなみに、後のエジプト遠征の際に『若きウェルテルの悩み』を持って行って、何度も読み返した、とナポレオン本人が述懐しています。
それに影響されたのか、ナポレオン本人もいくつか作品を書いたりしたようです。」
名もなきOL
「それもなんか意外。でも、面白いですね。あのナポレオンに、そんな一面があったなんて。」
big5
「1786年、ナポレオンは休暇を取って久しぶりに故郷のコルシカ島に帰りました。それ以降もしばしば、ナポレオンはコルシカ島に帰って、実家の農作業の手伝いなどをしています。そういうところからも、この時期のナポレオンは「フランス軍人」というよりも「コルシカ島愛国者」といった方が正しいですね。
1789年、ナポレオンが20歳になる年に
名もなきOL
「そういえば、フランス革命の最初のほうの話では、ナポレオンは全然出てこないですよね。何をしていたんですか?」
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「コルシカ島愛国者であるナポレオンは、フランス革命にはあまり興味を示しませんでした。むしろ、革命政府が「コルシカ島を独立州としてフランス共和国に加える」という決定に喜び、早速コルシカ島に帰ります。1790年7月には、コルシカ独立運動の英雄・パオリが亡命先のイギリスから20年ぶりにコルシカ島に戻ってきたので、挨拶しています。」
名もなきOL
「ナポレオンが味方になるなら、パオリさんもきっと心強いですね。」
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「ところが、パオリのナポレオンに対する心象は逆でした。パオリにとってフランスは敵国であり、そのフランスの軍人であるナポレオンは、むしろ敵です。ナポレオンだけでなく、フランスによって貴族に叙せられたボナパルト家そのものを、味方ではなく敵と考えたようです。」
名もなきOL
「う〜〜ん、でも確かに、第三者から見たらナポレオンは「フランス軍人」ですもんね。フランスがコルシカ島独立を阻む相手なら、フランスは敵になりますね。ナポレオンは、コルシカ島が大好きなのに・・・」
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「ナポレオンの兄・ジョセフがコルシカ島議会議員に立候補しますが落選。コルシカ島では親イギリス派が優勢となり、1793年6月、ナポレオンはじめボナパルト家はコルシカ島から追放されました。コルシカ島を愛してやまなかったナポレオンにとって、母国に追放されるという運命はたいへんな衝撃だったと思います。ただ、ここから「フランスの英雄・ナポレオン」としての人生が本格的に始まります。」
big5
「ナポレオンがコルシカ島を追放されたころ、フランス本国はジャコバン派牛耳っており、国民公会が指揮する革命が暴走している時でした。」
名もなきOL
「ロベスピエールらの恐怖政治ですね。」
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「本編では省略しましたが、ジャコバン派による急進的な革命に反発した王党派などが、南フランスを中心に反乱を起こしました。その一つが、港町トゥーロン(Toulon)です。トゥートンはイギリスやスペインなどの外国勢力を援軍に迎え、街を要塞化して籠城しました。フランス革命軍はトゥーロンを包囲しますが、守りが固くなかなか落とせません。そんな中、フランス革命軍の砲兵隊長が負傷したため、代わりにナポレオンが砲兵隊長となりました。」
名もなきOL
「ここから、ナポレオンの快進撃が始まるんですね?」
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「そう簡単には行きませんでした。ナポレオンは、トゥーロン湾の入口にある岬を占領し、そこから砲撃して湾内のイギリス艦隊を砲撃する、という作戦を提案したのですが、将軍のカルト―(42歳)はこれを最初無視。ナポレオンが食い下がると、厄介払いするかのように、わずかの兵力で岬を攻撃します。しかし、わずかの兵力では岬を占領することはできませんでした。」
名もなきOL
「なんでナポレオンの作戦を認めなかったんですか?」
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「一言でいうと、軍事の素人だったから、ですね。カルト―は竜騎兵としての軍隊勤務経験があるのですが、途中で画家を志して、絵の道を歩んでいた人なんですよ。しかし、革命が起こると国民衛兵として軍に戻り、時流に乗ってジャコバン派の軍人としての地位を築いたんです。革命という大動乱にうまく乗って立身出世した人物の一人ですね。」
名もなきOL
「こんな人が総司令官だなんて・・・ナポレオンもやってられませんね。」
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「ナポレオンも堪忍袋の緒が切れたのか、国民公会政府にカルト―の無能さを指摘しています。国民公会政府も、カルト―の指揮力の問題に気付いて、11月11日にカルト―を解任。代わってドッペを指揮官に任命しますが、ドッペも医者あがりで軍事指揮力には欠けていました。」
名もなきOL
「う〜〜ん、人材不足感が凄すぎる。。」
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「ドッペは自ら辞任し、次にデュゴミエ(55歳)が指揮官となります。デュゴミエは16歳の頃から戦場を経験し、七年戦争、アメリカ独立戦争にも従軍したいわゆる「たたき上げ軍人」として名を上げていたベテランです。」
名もなきOL
「ようやく話がわかりそうな人が来ましたね。」
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「11月20日にトゥーロンに到着したデュゴミエはナポレオンの作戦をすぐに認め、ナポレオンの作戦を実行すべく本格的動き始めました。ナポレオン自身は戦いの最中に足を撃たれて負傷し、後方に下がって治療を受けることになりましたが、12月18日についにトゥーロンは陥落。この功績が認められ、国民公会はナポレオンを旅団陸将(少将)に昇進させました。つまり、24歳で将軍となったわけです。
なお、トゥーロンの戦いを解説している動画がYoutubeにありますので、ここに貼っておきます。」
名もなきOL
「戦いの前は一士官にすぎなかったのに、戦いの後に将軍になるなんて、まさにナポレオンの登竜門になった戦いですね。」
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「そうですね。ただ、その地位は間もなく一時的に失われてしまいます。1794年7月27日にテルミドール反動によってロベスピエールが失脚・処刑されると、ナポレオンもロベスピエールの仲間と見られて逮捕されてしまったんです。幸い、10日後には釈放されたのですが、軍隊では予備役に左遷されてしまったので職務もなく、1年弱ほど活躍の場を失ってしまいます。」
名もなきOL
「ナポレオンも、けっこう浮き沈みのある人生なんですね。」
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「しかし、チャンスはわりとすぐに訪れました。1795年、国内軍司令官に出世していたバラスから、副官に抜擢されたんです。その目的は、パリで武装蜂起の準備をしている反革命派を鎮圧することでした。ナポレオンは、パリのサントレノ通りで、主に民衆で構成されている反乱軍に大砲を撃つ、それも近距離用の散弾である葡萄弾を撃って、すぐに反乱を鎮圧しました。」
名もなきOL
「けっこう過激な対応をしたんですね、ナポレオンも。」
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「ですね、パリの街中で大砲を使う、というのはかなり思い切ったやり方だと思います。
その後、1795年憲法に基づいて選挙が行われ、国民公会は解散して総裁政府が樹立されました。ナポレオンを登用したバラスは総裁の1人になり、ナポレオンはバラスに代わって国内軍司令官に昇進しました。」
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「さて、次のイベントは結婚ですね。1796年3月9日、ナポレオンは結婚しました。相手はジョゼフィーヌ(この年33歳)です。ナポレオンはこの年27歳なので、6歳年上の姉さん女房ですね。」
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「妻となったジョセフィーヌは美貌で有名で、多くの人生経験を積んでいました。ジョゼフィーヌは16歳の時にボアルネ子爵と結婚しており、長男のウジェーヌ、長女のオルタンスを産んでいましたが、夫のボアルネ子爵との仲は悪く、結婚して4年後の1783年に離婚しています。その後フランス革命が起こり、元夫のボアルネは1794年にロベスピエールに処刑されてしまい、ジョゼフィーヌも逮捕されて処刑されるところだったのですが、その前にテルミドール反動でロベスピエールが処刑されたので、命拾いしたんです。その後、権力者となったバラスの愛人として、「陽気な未亡人」として社交界の花形になっていました。
ナポレオンは、ジョゼフィーヌにすっかり惚れこんでしまい結婚に至るのですが、ジョゼフィーヌは当初はナポレオンのことはそんなに好きではなかったようです。しかも、ナポレオンは結婚2日後に北イタリアのオーストリア軍を攻撃すべく、イタリア方面軍の司令官として出陣しました。」
名もなきOL
「あ〜、このパターンは・・・」
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「はい、ジョゼフィーヌは元々男好きで経験も豊富なので、ナポレオンがイタリア遠征中にも浮気をして遊んでいました。遠征中のナポレオンから熱烈な愛の手紙が届いても、ほぼ無視。ナポレオンが「イタリアに来てほしい」と言っても無視。あまりの新妻の対応の酷さに、ナポレオンの精神への悪影響を恐れた総裁政府の命令が出て、渋々イタリアに向かっているくらいです。」
名もなきOL
「結婚の2日後に遠征に出発、っていう時点で、この夫婦の今後が心配ですね。」
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「1796年から1797年の約1年半に及んだ第一回イタリア遠征は、ナポレオンの一軍の総司令官としての能力が発揮された遠征になりました。まず、遠征にあたりナポレオンは兵士たちにこう演説しています。
「兵士諸君、裸だ、食べ物はない。政府は諸君に何も与えてくれない。私は諸君を世界で最も肥沃な平原に連れて行く。諸君はそこで、名誉・栄光・富を得るであろう」
この時、北イタリア方面のフランス軍は総勢約6万ほどでしたが、上の演説にあるようにその実情は酷いものでした。兵士たちへの給料の遅配、軍服や武器弾薬が不足しており、靴がないので裸足で歩いている兵が多数いる、という状況です。」
名もなきOL
「ナポレオンって、演説はけっこう上手いんですね。なにか、兵士たちに期待させることができる話だと思います。実績と知名度のあるナポレオンなら、なおさらですね。」
big5
「古代ローマの英雄・カエサルも演説上手でした。プルタルコスの『英雄伝』を愛読していたナポレオンも、兵士たちに対するも演説の重要性を認識していたと思います。
4月、イタリアに入ったナポレオンは早速オーストリアと同盟しているピエモンテ=サルデーニャ王国を攻撃して破り、和平を結びます。勝利の対価として、ピエモンテ=サルデーニャ王国はサヴォイアとニースをフランスに割譲し、さらに賠償金も支払うという内容で講和しました。
ナポレオンはここであまり時を置かずに東に向かってオーストリア軍を攻撃。ミラノに近いロディで、ポー川を挟んでオーストリア軍と対峙しました。ロディの戦いです。」
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「この時、ナポレオンは軍記を掲げてポー川にかかる橋を駆け抜けて敵陣に突入していった、という伝説が残っています。漫画などでは、劇的で勇ましい場面なのでよく描かれていますが、これが本当の話かどうかは怪しいようですね。」
名もなきOL
「普通に考えたら、総司令官が最前線に立って突撃する、なんてのは実際には無さそうですもんね。でも、若い時のナポレオンならそれくらいのことはしたような気もします。」
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「ロディの戦いで勝利した後、ナポレオンはミラノに入城。フランス軍は、ミラノ市民らから「オーストリア圧政からの解放者」として歓迎されます。しかし、オーストリア軍はマントヴァという要塞で守りを固めていたため、ナポレオンはマントヴァ要塞の攻略に向かいました。ここでもオーストリア軍を破り、ナポレオンの勝利が確定すると、ナポレオンは平定した北イタリアにシスパダーネ共和国、チザルピーナ共和国を作り、1797年10月にはオーストリアとカンポ=フォルミオの和約を結び、イタリア遠征をフランス勝利で終えました。」
名もなきOL
「ナポレオンって、本当に強いんですね。」
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「ただ、総裁政府には「ナポレオンが勝手にオーストリアと和平を結んだのはけしからん」と言って怒る人もいました。しかし、1797年11月にナポレオンが16万人もの捕虜と鹵獲した1500門の大砲と共にパリに凱旋すると、パリ市民に拍手喝采で迎えられます。ナポレオンは、戦勝とともにフランス国民の支持を大きく得ることに成功したわけです。」
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