big5
「さて、西暦も1800年代に突入しましたね。フランス革命で頭角を現したナポレオンは、ブリュメール18日のクーデタで第一統領となり、実質的にフランスの指導者となります。ここから、ナポレオンがヨーロッパを動かしていくことになるので、ナポレオン時代と呼ばれていますね。」
名もなきOL
「フランス革命の話は、こちらで解説しています。まだ読んでない方は、ぜひぜひ読んでみてくださいね。
フランス革命 前篇
フランス革命 後篇」
big5
「さて、まずはナポレオン時代のあらすじを見ていきましょう。まずは1812年時点のこちらの地図を見てみてください。」
名もなきOL
「緑系の色で塗られているところが、フランスの勢力範囲ですね。かなり広いですね!ヨーロッパの半分以上がナポレオンの勢力圏内に入ってるんですね!」
big5
「そうなんです。1812年はナポレオンの勢力圏が最大になった頃ですね。その広さが一目瞭然になっていると思います。
さて、話は1800年から始めましょうか。第一統領となったナポレオンは、フランス銀行の設立や、アメリカ大陸に残っていた植民地である広大なルイジアナをアメリカに売却したりと、混乱していたフランス国内の態勢を整えます。なかでも特に重要なのは、1804年3月に制定したナポレオン法典ですね。」
名もなきOL
「ナポレオン法典って、法律ですか?ナポレオンって軍人のイメージがあるので、法典なんてちょっと意外ですね。」
big5
「ナポレオンはけっこう読書家なんですよ。若い頃に『ローマ法大全』を読破して、一部は暗唱できたそうです。ナポレオン法典はあだ名です。内容は「民法」で、当初の名前は『フランス人の民法典』でした。フランス革命で謳われた、市民の所有権の絶対や、契約自由の原則などを定め、この後の市民社会に大きな影響を与えています。そういう意味では、軍事的な領土拡大よりも、世界に与えた影響は大きいですね。」
名もなきOL
「なるほど。ナポレオンは、軍事の天才だけの人物じゃなかったんですね。」
big5
「一方、軍事面では第2次イタリア遠征を行ってオーストリアを破り、リュネヴィル条約を締結して和睦。さらにローマ教皇とコンコルダート(宗教和約)を結んでカトリック勢力とも和解します。1802年にはイギリスとアミアンの和約を結んで和睦し、第2回対仏大同盟を瓦解させました。これらの功績が認められ、1804年5月に国民投票によってナポレオンはついに皇帝に即位しました。
第2次イタリア遠征の際に、アルプス山脈を越えるナポレオンを描いた下の絵が、とくに有名ですね。」
名もなきOL
「この絵、知ってます。ナポレオンといえばこの絵ですよね。そっか、これって第2次イタリア遠征に行くときの絵だったんですね。」
big5
「ナポレオンの皇帝即位に対し、イギリスをはじめとした周辺諸国は警戒を強めて、1805年に第3回対仏大同盟を結成。この年に有名な2つの戦いが起こりました。1つは、トラファルガーの海戦です。フランス艦隊は、ネルソン提督率いるイギリス艦隊と地中海の入り口付近で大海戦を演じます。ネルソン提督自身は戦死するもフランス艦隊は大敗北を喫し、ナポレオン率いる陸軍がイギリス本土に上陸することは阻まれました。もう1つはアウステルリッツの三帝会戦です。三帝とは、フランス皇帝のナポレオン、それから敵対したオーストリア皇帝とロシア皇帝の3人の皇帝を指します。この3者が一堂に会した戦いになったので、この名前がついています。アウステルリッツの三帝会戦はナポレオンが大勝利し、第3回対仏大同盟はまたしても瓦解。フランスはドイツ方面に大幅に勢力を拡大させました。イタリアのナポリやオランダにはナポレオンの兄弟を国王として送り込み、フランスはヨーロッパの覇者となりました。その勢力範囲はフランス史上最大です。ナポレオンは、フランス国民から英雄と称えられます。」
名もなきOL
「ナポレオンがフランス人に人気の英雄、というのも理解できますね。」
big5
「そんなナポレオンに唯一従わないのが、海軍大国イギリスです。ナポレオンはイギリスの勢力を削るために大陸封鎖令を発表。ヨーロッパのほぼすべての国にイギリスと貿易させないことで、イギリスの経済力を削るのが狙いでした。ところが、ロシアが途中から言うことを聞かなくなります。経済や産業が未発達のロシアは、イギリスと貿易ができなくなるとだんだんロシア経済が厳しくなっていったんです。1812年、ナポレオンは約70万もの大軍を率いてロシア遠征に出陣します。ナポレオン軍はモスクワを占領しますが、ロシアの厳しい冬に苦しめられやむを得ず撤退。大損害を出してパリに退却していきました。」
名もなきOL
「ナポレオンもロシアの冬には勝てなかったんですね。」
big5
「ロシア遠征の失敗は、これまでナポレオンに従っていた周辺諸国の反乱を招きました。1813年に第4回対仏大同盟が結成され、ナポレオンはライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で敗北。パリが陥落し、1814年にナポレオンは皇帝退位を余儀なくされました。退位したナポレオンは、コルシカ島とイタリア半島の中間にある小さな島、エルバ島に流刑となりました。」
名もなきOL
「ナポレオンが第一統領になったのが1799年の12月だから、退位するまでだいたい14年間ですね。けっこう長かったんですね。」
big5
「ナポレオンの話はまだ少しだけ続くんですよ。イギリスやオーストリアなどの諸国がオーストリアの首都・ウィーンで戦後処理の会議をしている時、1815年の3月にナポレオンがエルバ島を脱出するという事件が起きます。ナポレオンは再び皇帝に即位して反撃を狙います。周辺諸国は慌てて軍隊を動員し、約3か月後のワーテルローの戦いでイギリスのウェリントン率いるイギリス軍とプロイセンの連合軍にナポレオンは敗北。今度は大西洋の孤島・セントヘレナ島に流刑となり、その地で1821年に死去しました。52歳になる年でした。
フランス革命の激動の中でその才能を開花させ、ついにはフランスの皇帝となってヨーロッパを席巻。各地に自由と革命の精神を伝播させたものの、最後はロシア遠征失敗が原因となって退位し、大西洋の絶海の孤島で生涯を終えるという、まさに激動の人生でした。」
年 | できごと |
1800年2月 | フランス銀行設立 |
1800年5月 | 第2次イタリア遠征 開始 |
1801年2月 | リュネヴィルの和約 オーストリアと和睦 |
1801年7月 | ローマ教皇とコンコルダート(宗教和約)を締結 |
1802年3月 | アミアンの和約で第2回対仏大同盟解消 |
1802年8月 | ナポレオンが終身統領となる |
1803年4月 | 西ルイジアナをアメリカ合衆国に売却 |
1804年3月 | ナポレオン法典 制定 |
1804年5月 | ナポレオンが皇帝に即位 |
1805年8月 | 第3回対仏大同盟 結成 |
1805年10月 | トラファルガーの海戦でネルソン提督率いるイギリス艦隊がフランス・スペイン艦隊を粉砕 |
1805年12月 | アウステルリッツの三帝会戦 |
1806年7月 | ドイツ西部にライン同盟 成立 |
1806年8月 | フランツ2世が神聖ローマ皇帝から退位 神聖ローマ帝国消滅 |
1806年10月 | イエナの戦い アウエルシュタットの戦いでナポレオンがプロイセンに大勝 |
1806年11月 | 大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発表 |
1807年7月 | ティルジット条約 プロイセン・ロシアと和睦 |
1807年10月 | プロイセンの改革開始(シュタイン・ハルデンベルクの改革) |
1807年11月 | ジュノー将軍率いるフランス軍がポルトガルの首都・リスボンを占領 ポルトガル王族はブラジルへ逃亡 |
1808年5月 | スペイン反乱(半島戦争) 開戦 スペイン民衆のゲリラ戦で長期化 |
1808年6月 | ナポレオンの兄・ジョゼフがスペイン王に即位 |
1809年12月 | 妻ジョゼフィーヌと離婚 |
1810年4月 | オーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚 |
1810年7月 | オランダを併合 |
1810年12月 | ロシアが大陸封鎖令に背いてイギリスとの貿易開始 |
1812年5月 | ロシア遠征 開始 |
1812年10月 | フランス軍 モスクワから退却開始 |
1813年2月 | 第4回対仏大同盟 結成 |
1813年10月 | ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオン敗北 |
1814年4月 | ナポレオン退位 |
1814年9月 | ウィーン会議 始まる |
1815年3月 | ナポレオンがエルバ島を脱出 (ナポレオンの百日天下) |
1815年6月 | ワーテルローの戦いでイギリスのウェリントンがナポレオンを破る |
1815年10月 | ナポレオンがセントヘレナ島へ流される |
1821年5月 | ナポレオン セントヘレナ島で死去 |
big5
「ブリュメール18日のクーデタで第一統領となったナポレオンは、まずフランス国内経済の立て直しを図ります。最初の一手となったのが、フランス銀行の設立ですね。1800年2月13日、ナポレオンの指示によってペレゴーといったパリの大銀行家らが作りました。このフランス銀行が、フランスの通貨である「フラン」を発行するようになり、フランスの中央銀行になります。」
名もなきOL
「ナポレオンと銀行って、あんまり関係あるイメージがないので、このような話は意外に感じますね。」
big5
「まぁ、それも仕方ないです。一般的には冒頭に紹介したアルプス越えの軍人のイメージですからね。ただ、ナポレオンは革命時代の申し子なので、近代市民社会の成立にも様々な面で関与しているんですよ。フランス銀行はその一つですね。
さて、とりあえず国内を安定させたナポレオンは、早速戦争の挽回に向かいます。ナポレオンがエジプト遠征に行っていたころ、ヨーロッパではオーストリアが盛り返してきて、北イタリアで占領地を拡大していたんです。1800年5月、ナポレオンは第2次イタリア遠征に出発します。アルプスのサン・ベルナール峠を越えてきたイタリアに出たナポレオンは、6月にマレンゴの戦いでオーストリア軍になんとか勝利。その後もフランス軍が戦いを優勢に進め、1801年2月にフランス東部の都市・リュネヴィルで講和が締結されました。この講和により、北イタリアはナポレオンが第1回イタリア遠征で独立させた複数の共和国を再度独立させ、さらにライン川西岸のラインラントと呼ばれる地域をフランスが獲得する、という内容でオーストリアとの戦いをいったん終わりにしました。これは、第2次対仏大同盟からオーストリアが脱落したことを意味します。」
名もなきOL
「オーストリアは、またしてもナポレオンに敗れたんですね。」
big5
「ナポレオンの勝利により、イタリアはフランスに服属する複数の国々で構成されることになりました。そんなイタリアの中で、一つ忘れてはならない特殊な国があります。どこだと思いますか?」
名もなきOL
「う〜〜ん・・・、あ、わかった。ローマ教皇ですね。そういえば、フランス革命の時に、教会の財産没収とかでカトリックの聖職者はずいぶん迫害されていたんですよね。」
big5
「そのとおりです。フランス革命は、ローマ教皇に忠誠を誓うカトリックの司祭たちを厳しく迫害しました。しかし、フランス国民の大部分は昔からカトリック信者です。ローマ教皇との争いを続けることは、フランス国内で不安要素の一つでした。1801年7月、ナポレオンはローマ教皇・ピウス7世とコンコルダート(宗教和約)を結びました。フランスは、カトリックがフランス国民大多数の宗教であることを認める代わりに、ローマ教皇は司教の任命権をフランスの主権者に与える、ということで両者は和睦したわけです。
さらに、イギリスとは1802年3月にフランス北部の街・アミアンでアミアンの和約を締結して和睦。これで、これで第2次対仏大同盟は消滅し、ヨーロッパは一時的に平穏になりました。」
名もなきOL
「フランス革命が始まってから13年、ようやく平和が戻ったんですね。」
big5
「1802年8月、これらの功績を成し遂げたナポレオンは、フランス国民の多くの支持を受けて「終身統領」となります。第一統領の任期は10年だったのですが、終身となったのでほぼ「国王」みたいなものですね。
終身統領となったナポレオンは、フランス国内の整備に取り組みます。まず、1803年4月にアメリカ大陸に残っていた広大な植民地であるルイジアナの西部(ミシシッピ川よりも西)を、アメリカ合衆国(当時の大統領は第3代のジェファソン)に売却しました。ルイジアナ買収と呼ばれるイベントで、これでアメリカ合衆国の領土は2倍以上に拡大し、西部開拓推進のきっかけになったので、アメリカ合衆国の歴史でも重要事件ですね。
そして一番重要なのがナポレオン法典ですね。1804年3月に制定されました。冒頭のあらすじで、ナポレオンが『ローマ法大全』を読破してその一部は暗唱できた、と話しましたが、ナポレオンも法典の起草・審議に参加しています。ナポレオンがセントヘレナ島へ流された後に書いた回顧録で
「余の真の栄誉は40回の戦いの勝利ではなく、・・(中略)永久に生きるのは余の民法典である」
と書いているくらい、ナポレオンの強い思い入れが入ったものなんです。」
名もなきOL
「これもけっこう意外ですね。数々の勝利よりも、民法典の方を誇りに思っているなんて。ナポレオン法典は、どんな内容なんですか?」
big5
「フランス革命の内容を反映し、市民の権利や義務を定めた近代的な内容になっています。まず、万人の法の下での平等、信仰の自由が認められています。教科書などによく採り上げられるのは「契約自由の原則」「所有権の絶対」「家族制度」ですね。以下、抜粋します。
213条:夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う。(家族制度)
371条:子は年齢のいかんを問わず、父親に対し尊敬の義務を負う。(家族制度)
545条:何人も、公益の理由に基づき、かつ正当な事前の補償を受けるのでなければ、その所有権の譲渡を強制されることはない。(所有権の絶対)
1134条:適法に締結された合意はそれをなした当事者間では法律たるの効力を有する。(契約自由の原則)」
名もなきOL
「契約自由の原則と、所有権の絶対はともかく、家族の部分は納得いかないですね。」
big5
「これは歴史的な慣習を法律として明確にしているんですね。男女平等の現代には批判されがちな内容ですが、夫は妻を保護することが「義務」であるので、現代日本の社会問題の一つである「離婚した夫婦の子供の養育費」問題なんかは、この条文から考えれば夫に養育の義務がある、と判断されるでしょうね。」
名もなきOL
「う〜〜ん、そういう面もあるのかぁ。。法律って奥が深いなぁ・・」
big5
「ナポレオン法典の話はこれくらいにして、話を進めましょう。ナポレオン法典が制定されてから2か月後の1804年5月、国民投票によってナポレオンの皇帝即位が決まります。フランス皇帝・ナポレオン1世の誕生ですね。ナポレオンの戴冠式の絵は、これまた有名な絵があります。」
名もなきOL
「この絵、資料集に載ってました。ナポレオンは自分で帝冠をかぶり、妻のジョゼフィーヌに冠を授けるところを描いているんですよね。」
big5
「そうそう、そこ重要なんですよ。これも、ナポレオンの強い意思表示ですね。ナポレオンはコンコルダートを結んだ教皇・ピウス7世を戴冠式に呼び、正面に座らせておきましたが、教皇に与えられるのではなく自分で帝冠をかぶる、という形にして封建時代の戴冠式の常識を変えたわけですね。自分自身で帝冠をかぶり、皇后の冠をジョゼフィーヌに授ける。教皇・ピウス7世はそれを見ているということで、この即位が教皇の承認を得た正統なものである、という政治工作になっているわけですね。
これは余談ですが、有名なエピソードなので紹介します。ナポレオンの皇帝即位の知らせを聞いて、激怒した人物がいました。それは、ドイツの古典派音楽家・ベートーヴェン(この年34歳)です。ベートーヴェンはドイツ人なのですが、ナポレオンのことを「フランス革命の精神である自由と平等を広める解放者」として考えており、ナポレオンを祝福する曲として交響曲第3番「英雄(エロイカ)」を作曲した、と言われています。ところが、ナポレオンが皇帝に即位したという知らせを聞いたベートーヴェンは「奴もまた凡人にすぎなかったか!」と激怒して、ナポレオンへの献辞を書いた楽譜の表紙を破り捨てた、という話です。ちなみに、交響曲第3番の当初の名前は「ボナパルト」だったそうですよ。」
名もなきOL
「当時のナポレオンが、周辺諸国の人にどう思われていたか、を表す一つのエピソードですよね。」
big5
「さて、ベートーヴェンの怒りを買ったナポレオンの皇帝即位により、ヨーロッパは再び戦乱の時代に突入することになります。」
big5
「ナポレオンの皇帝即位に危機感を募らせたイギリスとオーストリアらは、ロシアとスウェーデンを加えて第3回対仏大同盟を結成し、ナポレオン包囲網を敷きます。ナポレオンは、フランスの最大の敵はイギリスであるということで、自身が率いる強大なフランス陸軍をイギリス本土に上陸させて侵攻する作戦を練りました。これに立ちはだかったのは、精強イギリス海軍を率いるネルソン提督です。」
名もなきOL
「エジプト遠征の時に、フランス艦隊を壊滅させてナポレオンを孤立させたあの人ですね。」
big5
「ナポレオンは陸戦の天才ですが、海戦は専門外だったんです。なので、部下に艦隊を任せていたのですが、1805年10月、地中海の出口であるジブラルタル海峡の付近のトラファルガー岬の沖合で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊とフランス艦隊それから味方のスペイン艦隊が激突します。トラファルガーの海戦です。」
アウステルリッツ 画:フランソワ・ジェラール 1810年作成
big5
「アウステルリッツの三帝会戦は、ナポレオン時代の代表的な戦闘なので、とても多くの人が研究しています。ここでは、戦術の詳しい話は省略しますが、気になる人はいろいろ調べてみてください。ナポレオンは自軍の右翼を意図的に弱くしておいて敵の攻撃を誘い、敵軍の中央が薄くなったところで自軍中央を一気に前進させて中央を突破し、敵軍を分断するという「中央突破」戦術で勝利を収めました。」
名もなきOL
「ナポレオンってやっぱり強いんですね。」
big5
「当時はまぎれもなくヨーロッパ1の陸軍指揮官だったと言えるでしょう。会戦から2日経った12月4日、オーストリア皇帝フランツ1世はナポレオンと会見して和平を提案。12月26日にプレスブルクの和約が結ばれ、オーストリアはナポレオンに領土割譲と賠償金の支払いを行うことで和睦しました。ロシア軍も、ロシアの地へ帰ることを許されました。こうして、またしてもオーストリアが早々に第3次対仏大同盟から脱落となりました。ナポレオンの勢力範囲は、イタリアとドイツ西部に広がりました。
年が明けて1806年。ナポレオンは兄のジョゼフをナポリ王に、弟のルイをオランダ王に任命した他、ドイツ西南部のバイエルン、ヴュルテンベルク、レーゲンスブルク、バーデンなどの16の神聖ローマ諸侯国をまとめてライン同盟を結成させました。これにより、神聖ローマ帝国はほとんどの諸侯国が離脱したために、オーストリアのフランツ1世は神聖ローマ帝国皇帝を退位。これにより、神聖ローマ帝国は完全に消滅しました。」
名もなきOL
「実質的にはほとんど無かったとはいえ、ここまで名前が保たれたのは凄いですね。そして、ナポレオンは本当に旧来のヨーロッパの体制をどんどん破壊していったんですね。」
big5
「ナポレオンの進撃はこれで終わりません。ライン同盟にフランス軍約20万が駐留していることに、プロイセンが危機感を募らせます。実はプロイセンは、第2回、第3回の対仏大同盟には加わっておらず中立を保っていたんです。」
名もなきOL
「プロイセンが対仏大同盟に参加したのは、第1回のルイ16世処刑の時だけだったんですね。」
big5
「プロイセンはイギリス、ロシアと同盟してフランスに宣戦布告しますが、この時のプロイセン軍はフリードリヒ2世の七年戦争(1756〜1763年)とほとんど変わっていなかったそうです。戦乱続きのヨーロッパにおいて、軍の装備や仕組みが約40年前とほとんど変わらない、というのは完全に時代遅れだったそうです。
1806年10月、フランス軍はイエナの戦い、アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝し、10月25日にはプロイセンの首都・ベルリンを占領してしまいます。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は¥や一部の軍人らは、各地で抗戦を続けてしまいましたが、プロイセンのほぼ全土がナポレオン軍の占領地となっていました。そんな中、11月にナポレオンは大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発表します。これは、唯一敗北しないで残っているイギリスを経済的に封じ込めるために、ヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を一切行わせない、という命令でした。この時点で、ナポレオンは既にイギリスとの戦いを頭に入れいていたわけですね。」
名もなきOL
「七年戦争の時は、フリードリヒ2世の指揮で厳しい戦いを勝ち抜いてきたプロイセンなのに、ナポレオンの前にボロ負けだったんですね。」
big5
「年が明けて1807年、残党のプロイセン軍はロシアの援軍を得て戦闘を続けますが、ロシア軍もナポレオンの前に敗北。1807年7月にティルジット条約が結ばれて、フランスとプロイセン・ロシアの間で和睦が成りました。領土のほぼすべてを占領されていたプロイセンに対する扱いは厳しく、エルベ川以西の領土はウェストファリア王国の領土とし、その国王にはナポレオンの弟ジェロームが即位しました。また、ポーランド分割で得ていた領土は、ワルシャワ大公国として独立させ、その大公位はザクセン公が兼ねる。そして、バルト海に面しているポーランドの主要港・ダンチヒは自由市とすること、賠償金をフランスに支払うこと、となっていました。ロシアに対しては、第3次対仏大同盟から脱退して大陸封鎖令に参加し、さらにイギリスに対して宣戦布告する他、イギリスに味方するスウェーデンを攻撃することが決められました。」
名もなきOL
「ナポレオンって、本当にすごいですね。オーストリアを破り、プロイセンを破り、ロシアも負かして東側の主要国を全部下してしまったんですね。」
big5
「ナポレオンは、フランスの英雄なんですよ。
さて、ティルジット条約をもってナポレオンの「大陸制覇」は完了した、と言われています。この章を終える前に、もう2点だけ話をしておきましょう。まず、大敗したプロイセンですが、1807年10月から改革が始まります。このプロイセンの改革は、最初に主導した首相・シュタイン、その後に首相となったハルデンベルクによって主導されたため、「シュタイン・ハルデンベルク改革」とも呼ばれています。この改革は、自分たちを負かしたフランスをモデルにして農奴解放令を出すなどしましたが、「上からの改革」ということで根本的な改革にはならなかった、と評価されています。ただ、一つだけ大きな見逃せない影響力を持ったのがプロイセンの哲学者・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』と、1807〜1808年にかけてベルリン大学で14回にわたる講演です。フィヒテにより、これまで神聖ローマ帝国・プロイセン・オーストリアとバラバラになっていたドイツ人に対して祖国愛・民族団結精神の下地が促進されていったんです。これが、ナポレオン失脚後のドイツ統一の原動力に繋がっていきます。」
名もなきOL
「確かに、「ドイツ人」っていう視点で見るとオーストリア、プロイセンの2トップがコテンパンに負けてますもんね。ナポレオンに大敗北したことが、ドイツ人っていうアイデンティティーを強めるきっかけになったんでしょうね。」
big5
「もう一つはワルシャワ大公国です。この国は、3回にわたるポーランド分割で滅んだポーランドの復活、と多くのポーランド人から考えられました。ポーランド人にとって、ナポレオンは自分たちの国を滅ぼしたドイツ人やロシア人をコテンパンに打ち負かしてくれた「解放者」と見られたわけです。」
名もなきOL
「単純な「敵の敵は味方」理論だけではない、もう少し特別な意味がありますね。「解放者」という言葉には。」
big5
「もちろん、ナポレオンもそういうポーランド人をうまく味方につけることを考えたと思います。実際のところ、ワルシャワ大公国のトップはドイツ人であるザクセン公であり、領土もポーランド分割前のすべてではなく、プロイセンが分捕った部分だけです。ただ、元々ポーランドは18世欧州戦乱の時から、外国人が国王になるのが普通だったので、それほど違和感はなかったのかもしれません。そういうわけで、ポーランド人は外国民族の中で最もナポレオンに忠誠と貢献を行った民族でした。」
big5
「東ヨーロッパを征したナポレオンにとって、残る敵はイギリスです。イギリスを倒せば、ナポレオン率いるフランスは紛れもなくヨーロッパの覇者になります。そんな中、ポルトガルが大陸封鎖令に従わず、イギリス船が港に寄港することを認めていたので、ナポレオンは「イギリス船に港を使わせるな!」と指示したのですが、ポルトガルはこれを拒否。」
名もなきOL
「この時点でナポレオンの言うことを聞かないって、かなり勇気がいりますよね。それに、なんでポルトガルはイギリスとの貿易を続けていたんですか?」
big5
「大航海時代で歴史の表舞台に立っていたポルトガルですが、その後はスペインに一時的に併合されたりと、歴史の表舞台からはすっかり退場していました。1640年にスペインから分離独立したものの、経済的にイギリスとの貿易に頼らざるを得なかったそうです。そのため、ナポレオンの大陸封鎖令に従うとポルトガル経済が立ち行かない、という問題がありました。
ナポレオンは、そんなポルトガル事情を受け入れず、部下のジュノー将軍を送ってリスボン1807年11月に首都・リスボンを占領。時のポルトガル女王・マリア1世と王族、その取り巻きらはイギリス艦隊に助けられて植民地のブラジルへ避難しました。これで、ヨーロッパのポルトガル本土はフランスに支配されたわけです。」
名もなきOL
「ナポレオンはヨーロッパの西も支配したんですね。そういえば、スペインはどうなっていたんでしたっけ?」
big5
「当時、スペインはナポレオンの味方でした。スペインは、スペイン継承戦争(1701-1713年)でルイ14世の孫のフィリップがフェリペ6世として即位して以来、ブルボン家の王家が君臨していました。そのため、戦争・外交面ではフランスの味方をするのが基本戦略です。フランス革命の際は、ルイ16世を処刑した革命フランスと戦いますが、その後はナポレオンと提携し、トラファルガーの海戦でもスペイン艦隊はフランス艦隊と共にイギリス艦隊と戦った壊滅しています。」
名もなきOL
「スペインも、大航海時代の後は歴史の表舞台から退場してますよね。たまに出てくるくらい、のイメージですね。」
big5
「しかし、スペインではナポレオンに味方するか否かでもめ始めます。時のスペイン王・カルロス4世は親ナポレオンだったのですが、息子で王太子であるフェルナンドは反ナポレオンでした。1808年3月に反ナポレオンのスペイン民衆が暴動を起こしてカルロス4世を追放し、王太子のフェルナンドがフェルナンド7世として即位します。ここで、スペインは反ナポレオンに舵を切ったわけです。これに対し、ナポレオンは部下のミュラを派遣してスペインに侵攻。首都・マドリードを占領しますが、スペイン各地で反ナポレオンの暴動が発生していました。この時、フランス軍は暴動を起こしたスペイン民衆を徹底的に鎮圧しています。スペインの宮廷画家であったゴヤが、この時の様子を描いた絵が有名ですね。」
big5
「ナポレオンはフェルナンド7世を退位させ、代わりにナポリ王に任命していた兄のジョゼフをスペイン王・ホセ1世として即位させます。ナポレオンはスペイン政策の特徴である異端審問制の廃止や、封建的諸権利の廃止など、フランス革命の主要概念を持ち込んで、あくまで「解放者」であることを主張しましたが、スペイン民衆の反フランス感情は収まらず、各地で散発的にフランス軍を襲撃します。この戦術はゲリラ戦(Guerrilla Warfare)と呼ばれ、軍事用語として使われるようになりました。」
名もなきOL
「ゲリラって言葉は知ってましたが、この時に登場した言葉なんですね。」
big5
「スペイン語で「戦争」を「ゲラ」と言い、その縮小語尾をつけると「ゲリラ」となるそうです。直接の意味は「小さな戦争」と言ったところでしょうか。ゲリラ戦は、これまでのような国家の軍隊同士が戦う戦闘は異なるものでした。異なる点は
(1) ゲリラ戦を行うのは武器を取った一般民衆であることが多い。つまり、正規の軍人ではないことが多い。
(2) 一か所に固まらずに各地に散らばっており、敵軍の小部隊や輸送隊を襲撃するなど、小規模な戦闘を繰り返すことで敵軍を疲弊させることが主目的になる。
というものです。このような戦術は古代から存在していましたが、このスペイン反乱の時に「ゲリラ戦」という名前で呼ばれるようになりました。」
名もなきOL
「なるほど、ナポレオン軍と正面から戦っても勝ち目は薄いですもんね。だからゲリラ戦、っていうのはわかるんですけど、戦うのが一般民衆、っていうところが怖いですね・・。」
big5
「そうなんです。ゲリラ戦の展開により、フランス軍はハッキリ見えない「敵軍」と戦わざるを得なくなります。今までなら「一般人」とみなしていた村の人が、油断していると後ろから襲い掛かってくる「ゲリラ兵」かもしれないわけです。フランス兵は、自分の命を守るために怪しい一般人も殺害せざるを得なくなります。同胞を殺されたスペイン民衆は、その報復としてフランス兵を攻撃します。このような負の連鎖が、ゲリラ戦を長期化・過激化させることとなり、半島戦争は長期化することとなりました。また、ゲリラ戦にはイギリスが後方から支援したことも重要な役割を果たしています。」
名もなきOL
「ナポレオンはどうしていたんですか?」
big5
「最初は大軍を率いてイベリア半島に攻め込み、ある程度の戦果は挙げたものの、ゲリラ戦への効果的な対処はナポレオンにもできませんでした。その後ロシア遠征が始まることになるので、ナポレオン本人はフランスに帰国しています。」
big5
「半島戦争から帰還したナポレオンを待ち受けていたのは政治問題でした。1809年でナポレオンは40歳になるのですが、皇帝であるナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの間には子供が生まれなかったんです。ジョゼフィーヌは、ナポレオンと結婚する前はフランスの貴族と結婚しており、子供を4人産んでいるので、子供が生まれないのは自分自身に原因がある、とナポレオンは考えていたそうです。ところが、ナポレオンと関係した2人の女性は男子を産んだので、ナポレオンは自分自身に問題があるわけではない、と考えるようになります。、」
名もなきOL
「ヨーロッパでは、正妻が産んだ子供でないと後継者にはなれない習慣なんですよね。それにしても、ナポレオンも浮気するんですね。これだから男って。。」
big5
「ちなみに、ジョゼフィーヌはたくさん浮気していたんですよ。ナポレオンが遠征中で不在にしている時も、美男の騎兵大尉イッポリトと浮気していたことが知られています。というよりも、これは時代の常識・文化の違いなんです。当時のヨーロッパでは裕福な家の男女は政略結婚が普通だったので、公式な結婚とは別に、男女ともに別の相手と恋愛を楽しむのが普通だったんですよ。ナポレオンは愛人は少ないほうです。」
名もなきOL
「う〜〜ん、なんだか釈然としないなぁ・・」
big5
「まぁ、この話はおいおい別の機会に語るとして、ナポレオンに話を戻しましょう。そういうわけで、40歳にして後継者のいないナポレオンは1809年12月にジョゼフィーヌと離婚します。代わりに、オーストリア皇帝フランツ2世の娘であるマリー・ルイーズ(この年18歳)を皇后として迎えました。フランスとオーストリアの政略結婚ですね。」
big5
「マリー・ルイーズは期待された役目を果たし、1811年3月20日にナポレオン待望の男子・ナポレオン2世が誕生します。」
名もなきOL
「釈然としない部分もありますが、後継者問題も解決したことですし、ナポレオン政権も安泰になったんですね。」
big5
「ところがナポレオン政権は後継者問題ではなく、戦争に負けて崩壊するんです。ナポレオン失脚の直接の引き金となったのが、1812年に始まったロシア遠征でした。遠征の理由は、ロシアが大陸封鎖令に従わずにイギリスと穀物取引を継続していたこと、その一方でフランスからの輸入品には高い関税をかけ始めたこと、などが挙げられていますね。大陸封鎖令は、イギリス経済にダメージを与えると同時に、フランス産業の保護育成を目的としたものでしたが、貿易大国であったイギリスと取引ができないことは、周辺諸国にもフランス自身にもダメージが大きい諸刃の剣のようなものだったわけですね。」
名もなきOL
「ロシアもポルトガルと同じように、イギリスとの貿易がないと自国の経済が立ち行かなかった、というのが大陸封鎖令に従わなかった理由の一つですよね。」
big5
「1812年5月、ナポレオンは総勢約70万という大軍を率いてロシア遠征に出発します。70万のうち、フランス兵は約30万ほどで、残り40万はオーストリア、プロイセン、ライン同盟などの同盟国からの兵でした。ちなみに、祖国ポーランドの完全復活を願うポーランド人のワルシャワ大公国は10万の兵を参加させています。」
名もなきOL
「ポーランド人にとっては、ロシアは祖国の敵ですからね。「敵の敵は味方」ですね。」
big5
「ナポレオンの大軍に対し、ロシアはお家芸と言っていい「焦土戦術」で対抗しました。」
名もなきOL
「18世紀の大北方戦争でスウェーデンのカール12世を苦しめた「焦土戦術」ですね。まだ見ていない方は、こちらもぜひぜひ読んでみてくださいね。」
big5
「ナポレオン軍は進軍していきますが、焦土戦術によって補給が困難になります。さらに悪いことに、ナポレオン軍の中で赤痢が流行し始めました。それに、フランス兵やポーランド兵はともかく、同盟国から集められたドイツ兵の士気は低いため、脱走兵が続出するという問題も発生します。それでも、9月14日にはモスクワに入城しましたが、首都・モスクワも焦土戦術でもぬけの殻となっていました。」
名もなきOL
「首都まで焦土にするなんて、徹底していますね。」
big5
「そして、間もなく厳しいロシアの冬がやってきます。もぬけの殻となっているモスクワで冬を超すことは不可能、と判断したナポレオンは、やむを得ず撤退を開始しました。この撤退の時に、ナポレオン軍は食料不足による飢えやゲリラ戦などで追い打ちをかけられ、ナポレオンは大損害を出してフランスに撤退していきました。こうして、約70万という大兵力を動員したにもかかわらず、ほとんど戦果を挙げられずに遠征は大失敗したわけです。」
名もなきOL
「話を聞いてみると、ナポレオンはロシアとの戦いに敗れて負けたのではなくて、ロシアの土地と冬に負けた、というかんじですね。」
big5
「まさにそのとおりですね。そして、ロシア遠征の失敗は周辺諸国を「反ナポレオン」で団結させるきっかけになりました。1813年2月にイギリス、プロイセン、ロシアが中心となって第4回対仏大同盟を結成。途中からライン同盟の諸国や政略結婚したオーストリアも同盟に参加し、ナポレオンに戦いを挑みます。ナポレオンは新兵を徴収してなんとか戦力の回復を図りましたが、1813年のライプツィヒの戦いでオーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデンなどの連合軍と戦闘になりましたが、戦力不足により敗北。1814年4月にナポレオンは退位し、連合軍がパリに入城しました。ナポレオンは、故郷であるコルシカ島とイタリア半島の間にある小さな島・エルバ島に流されます。そして、オーストリアのウィーンでは連合国が集まってウィーン会議が開催されました。」
名もなきOL
「でも、ナポレオンって脱出するんですよね?」
big5
「そうです。ウィーン会議で連合国が、お互いの利益をめぐって全然進まない中、1815年3月にナポレオンは密かにエルバ島を脱出。パリに帰還して再度皇帝に復帰します。」
big5
「敗れたとはいえ、フランスをヨーロッパの覇者に導いたナポレオンの人気は、まだまだ健在でした。ナポレオンに仕えていた将兵は、ほとんどが解雇されて無職になるなど不遇だったのですが、そんな彼らはナポレオンの脱出を聞いて再び集まりました。」
名もなきOL
「やっぱり、ナポレオンはフランスの英雄なんですね。」
big5
「そして、1815年6月、ベルギーのブリュッセル近郊の村・ワーテルローでイギリスのウェリントン率いるイギリス・オランダ・プロイセンその他の連合軍と対戦します。ワーテルローの戦いですね。ナポレオンの最後の戦いとなったワーテルローの戦いは、非常によく研究されていて、映画や小説の題材にもよく取り上げられています。
戦闘詳細を描き始めると、それだけで一つのウェブサイトができてしまうほどの分量になってしまうので、ここでは簡単に。フランス軍とイギリス・オランダ連合軍の戦力はだいたい同じでした。ところが、ワーテルローの戦場には、連合軍の援軍としてプロイセン軍が接近しており、プロイセン軍が到着する前にナポレオンは勝負を決める必要がありました。ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍を果敢に攻撃をかけますが、ウェリントンは兵士らを鼓舞しながらなんとか戦線を維持。激しい攻防戦が続く中、プロイセンの援軍が到着したことで勝負は決しました。疲れがたまっているフランス軍が新手のプロイセン軍を迎撃できるはもなく、ついにフランス軍は崩壊し、ナポレオンは敗北しました。」
名もなきOL
「ナポレオンも最後は戦闘で敗れてしまったんですね。」
big5
「その後、ナポレオンは再び退位し、1815年10月に大西洋の絶海の孤島・セントヘレナ島に流されました。そして約6年後の1821年5月にナポレオンは死去します。52歳になる年でした。
こうして、ナポレオンがヨーロッパを席巻した15年間の歴史に終止符が打たれました。時間としては15年間で、長い歴史の中のごく短い期間にすぎませんが、この15年間に起きた様々な事件はたいへん濃密なものです。ナポレオンは敗北しましたが、フランス革命がもたらした国民主権と近代市民国家の思想はナポレオンを通してヨーロッパ諸国に波及し、新たな歴史の流れの源流となるわけです。
最後に、ナポレオン時代を描いた有名な作品を紹介しますね。一番はやはりロシアの文豪・トルストイが描いた『戦争と平和』。ナポレオンと戦うロシア人を見事に描いた超大作です。アウステルリッツの三帝会戦やロシア遠征の話も出てきますよ。『戦争と平和』は、文学作品としてもあまりに有名なので、これはまた別に取り扱いたいと思います。ひとまず、ナポレオン時代の本編はここでいったん終了としますね。」
big5
「大学入試共通テストでは、ナポレオン時代のネタはたまに出題されています。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」
平成31年度 世界史B 問題12 選択肢4
・ダヴィドが、「ナポレオンの戴冠式」を描いた。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、有名なナポレオンの戴冠式はダヴィドが描きました。
令和6年度 世界史B 問題6 選択肢4
・共和政期のイングランドで出された大陸封鎖令は、英蘭戦争の引き金になった。〇か×か?
(答)×。上記の通り、大陸封鎖令を出したのはフランスのナポレオンであり、共和政期のイングランドではありません。なお、英蘭戦争の引き金になったのは航海法であり、大陸封鎖令ではありません。
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