small5
「今回は「中世(後編)」の詳細篇ということで、建国後のポルトガルの歴史について、見ていくぜ!ポルトガル建国の歴史については、こっちを見てくれよな。
中世(後半)詳細篇 ポルトガル建国」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
ポルトガルと言うと、大航海時代が始まりのようなイメージがありますが、それより前の中世の時代はどうだったのか、あまり知られていませんよね。なので、ここでは中世代のポルトガルの歴史を見ていきましょう。」
| 年月 | ポルトガルのイベント | その他のイベント |
| 1191年 | ムワッヒド朝がテージョ川まで領土回復 | |
| 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍に任命される | |
| 1211年 | サンショ1世死去、アフォンソ2世即位 | |
| 1212年 | ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教国連合軍がムワッヒド朝を破る | |
| 1217年 | アフォンソ2世、アルカセル・ド・サルを再征服 | |
| 1223年 | サンショ2世即位 | |
| 1245年 | 教皇インノケンティウス4世がサンショ2世の廃位を命令 | |
| 1248年 | アフォンソ3世即位 | |
| 1249年 | ファロ、シルヴェスを征服(ポルトガルのレコンキスタ完了) | |
| 1254年 | コルテス(身分制議会)に平民代表が参加 | |
| 1258年 | 国王検地実施 | |
| 1267年 | カスティーリャがポルトガルのアルガルヴェ領有を承認 | |
| 1274年 | 蒙古襲来 文永の役 | |
| 1279年 | ディニス1世 即位 | 克Rの戦い 元が南宋を滅ぼす |
| 1290年 | コインブラ大学創立 | |
| 1296年 | 公文書に使う言語をラテン語からポルトガル語に変更 | |
| 1297年 | アルガニーゼス条約 カスティーリャとの国境確立 | |
| 1319年 | 解散されたテンプル騎士団のポルトガル分所をキリスト騎士団として再編 | |
| 1325年 | アフォンソ4世即位 | |
| 1340年 | サラドの戦いに参戦 | |
| 1348年 | ポルトガルでペスト大流行 | |
| 1357年 | ペドロ1世即位 | |
| 1367年 | フェルナンド1世即位 | |
| 1383年 | 10月22日 フェルナンド1世死去 ポルトガル王位継承戦争 開戦 | |
| 1384年 | 5月22日 ジョアン1世即位 アヴィス朝の始まり | |
| 1386年 | ウィンザー条約を締結し、イングランドと同盟 | |
| 1415年 | 8月アフリカ北岸の街・セウタを攻略 | |
small5
「さて、建国王・アフォンソ1世によってポルトガル王国が建国されたが、その後はムラービト朝を破って勢力を拡大させていたイスラム教のムワッヒド朝が強くなって、テージョ川まで領土を奪還されてしまっていたんだ。
しかし、1211年にアフォンソ2世が即位し、1212年にラス・ナバス・デ・トロサの戦いでカスティーリャ、ナバラ、アラゴン、ポルトガルのキリスト教国連合軍がムワッヒド朝を破ると、軍事バランスはキリスト教国優勢に傾いたんだ。ポルトガルは、この流れに乗るかたちで南に領土を拡大させていくぜ。1217年には奪われていたアルカセル・ド・サルを奪還しているぜ。」
big5
「その一方で、聖職者と貴族の反乱により国王が廃位される、という事件も起きています。1223年、アフォンソ2世の息子のサンショ2世がポルトガル王に即位しました。サンショ2世は南への領土拡大を進めていきました。」
![]()
サンショ2世 制作者:不明 制作年:1639年
small5
「サンショ2世は王権強化を進めていったのだが、これが教会や一部の貴族の反発を買ってしまったんだ。1245年、教皇インノケンティウス4世が勅書を出して、サンショ2世は廃位させられてしまったんだ。このため、ポルトガルは一時期混乱したが、1248年にサンショ2世の弟のアフォンソ3世がポルトガル王に即位することで混乱は収まったぜ。」
big5
「1249年、アフォンソ3世はポルトガルはアルガルヴェの南端にあるシルヴェスとファロを征服しました。これでポルトガルのレコンキスタは完了した、と言われますね。イベリア半島における、ポルトガルの領土拡大はほぼこの時点で完了となったわけですね。
これ以後、歴代のポルトガル王達は「ポルトガル王国ならびにアルガルヴェ王国の王」という称号を名乗るようになりました。」
small5
「ちなみに、アルガルヴェ領有については、カスティーリャはしばらくの間認めなかったんだ。この問題は後にディニス1世が1297年のアルガニーゼス条約で両国の国境を確定させることで解決したぜ。」
small5
「「ポルトガルのレコンキスタ」完了後、ポルトガルは国内政治が安定し、経済も発展していった。まず最初のポイントは、身分制議会であるコルテス(Cortes)の登場だな。コルテスは、中世ヨーロッパ諸国でよく見られた議会と同様の存在で、聖職者、貴族、そして平民の3身分の代表者で構成されていた。」
big5
「1258年には、ポルトガル史上初となる国勢調査である国王検地も実施されています。」
small5
「中世ポルトガル最盛期の王となったのがディニス1世(Dinis I 1261年10月9日〜1325年1月7日)だ。」
small5
「ディニス1世の時代、ポルトガル国内は様々な面で発展したんだ。農地の開墾が進んで農産物の収穫量が増加し、従来の移動的牧羊は減少していった。商業も発展し、各地に定期市が立つようになってきたんだぜ。」
big5
「海外貿易も発展しました。ポルトガルからは輸出品としてワイン、オリーブ油、塩、イチジク、アーモンドなどで、輸出先はイギリスやフランドル地方が多かったそうです。また、ジブラルタル海峡の航行が従来より安全になったことで、ジェノヴァやフィレンツェからのイタリア商人がポルトガルで商売するようにもなりました。1317年には、ジェノヴァからマヌエル・ぺサーニャを招いて、ポルトガル海軍の強化も行っています。」
small5
「文化面では、1296年の公文書のポルトガル語表記だな。従来はラテン語だっただが、ポルトガル語に変更されたんだ。ポルトガル語普及が加速する重要な要因となったぜ。
次に、1319年にはフランス王フィリップ4世に解散させられたテンプル騎士団がポルトガルに領有していた土地と人材を、キリスト騎士団として再編し、ポルトガル王国の外郭団体として取り込んでいるぜ。キリスト騎士団は大航海時代の初めに、エンリケ航海王子が騎士団長に就任し、探検航海事業に人材面、経済面で貢献することになるぜ。
また、海運事業の安定化を図るために、一種の保険制度も作ったそうだ。この保険制度の詳細はよくわからないのだが、14世紀の時点でそこまで社会制度が整えられるのは凄いことだよな。」
big5
「さて、ディニス1世関連で、私からは王妃のイサベルの話を紹介しましょう。ディニス1世の王妃イサベル(Isabel de Aragao 1271年1月4日〜1336年7月4日)は、アラゴン王ペドロ3世の娘で、幼い頃から敬虔で慈悲深い王妃として評判でした。こんな逸話が残っています。
ある日、イサベルは貧者に施しをしているところをディニス1世に咎められます。イサベルは「パンではありません」と咄嗟に嘘をつきましたが、ディニス1世はエプロンを広げるように命令しました。イサベルがエプロンを広げたところ、パンがバラの花に変わっていた、という話です。
そんなイサベルは1625年に列聖されています。」
small5
「さて、ディニス1世が1325年に死去し、息子のアフォンソ4世(Afonso IV 1291年2月8日〜1357年5月28日)の時代になると、ポルトガル王国の勢いに陰りが見え始めるぜ。」
big5
「アフォンソ4世の治世がおかしくなった直接のきっかけは、嫡男のドン・ペドロの2回目の結婚でした。1339年、ドン・ペドロはカスティーリャ王族の娘であるコンスタンサと政略結婚したのですが、コンスタンサの侍女として随行してきた貴族の娘イネス・デ・カストロ(1325年〜1355年1月7日 以後、イネスと表記)が、ドン・ペドロの寵愛を一身に受けてしまいました。」
small5
「イネスは「うなじが鷺のように美しい」と評される美人で、ドン・ペドロは一目ぼれしてしまったらしい。二人はすぐに恋仲となったそうだ。1345年、コンスタンサは後にポルトガル王となるフェルナンドを出産した後に死去してしまう。すると、ドン・ペドロは堂々とイネスと同棲しはじめ、4人もの子供を成してしまった。
これには父のアフォンソ4世も側近たちも反対したのだが、ドン・ペドロは聞く耳を持たなかった。教皇に対してイネスと正式に結婚したい、と申請したのだが、教皇は「2人は親族関係が近いから結婚は不可」と回答されてしまった。だが、ドン・ペドロはイネスを諦めなかったんだ。」
big5
「こうなると、イネスの実家のカストロ家はこれを利用しようと考えます。イネスの父・ペドロ・フェルナンデスはカスティーリャ宮廷の有力貴族の一人でした。イネスの兄のアルヴァロは、イネスが産んだ子がやがてポルトガル王となり、さらにカスティーリャの王となって、カストロ家が国王の母の実家として君臨するという野望を描き、ドン・ペドロをそそのかしてカスティーリャ王位の継承権を主張するようにけしかけました。しかし、アフォンソ4世はじめポルトガルの貴族はこのような野望を望まず、むしろ危険視して1355年1月、アフォンソ4世の命によりイネスを逮捕して斬首刑に処すという、強硬策に出ました。この時の一場面として、イネスがアフォンソ4世に命乞いをするところが絵画にもよく描かれています。」
small5
「これに対し、当然のようにドン・ペドロはブチ切れた。兵を集めて反乱を起こしたんだ。しかし、この反乱は母に説得されていったん矛を収めた。もちろん、これはドン・ペドロが納得した、という意味ではない。
1357年、アフォンソ4世が死去し、ドン・ペドロがペドロ1世(この年37歳)として即位すると、早速行動を開始したんだ。」
big5
「まず、ペドロ1世は、イネスが正式な妻であると高らかに宣言。大理石の棺を作らせました。そして、イネス殺害の実行役となった者の逮捕を命じました。捕まった2人は心臓をえぐられて殺されています。さらに、イネスの遺骸を墓から掘り起こして玉座に座らせ、臣下たちにイネスの手に接吻して忠誠を示すように要求する、という狂気じみたこともしていますね。」
small5
「イネスの話については、その後ポルトガルの文学作品などで何度も取り上げられているぜ。作者や時代によって、イネスを悪女と見たり、悲劇の王妃と見たり、イネスよりもペドロ1世の残虐な報復に焦点が当てられたりと、様々だな。
なお、ペドロ1世の治世は短く、即位11年目となる1367年(この年47歳)に死去した。遺体はアルコパサのサンタ・マリア修道院にイネスと並んで安置されているぜ。」
small5
「1367年、いろいろと世間を騒がせたペドロ1世が死去し、息子のフェルナンド1世(この年22歳)がポルトガル王に即位した。フェルナンド1世は、かつてイネスのその実家が画策した「カスティーリャ王位の乗っ取り」を実際に行おうとし、カスティーリャ王位継承のゴタゴタに積極的に介入していったんだ。そしてカスティーリャと3度戦ったが3度とも敗北を喫してしまった。その結果、一人娘のベアトリスをカスティーリャ王フアン1世(1358〜1390年)に嫁がせることになったんだ。一見すると、ベアトリスの産んだ子が、ポルトガルとカスティーリャ両方の王位を継承できるようになった、という話にも見える。ただ、ベアトリスが子孫を残さなかった場合はカスティーリャ王がポルトガル王を継承する、という条項が定められていたんだ。この時点で、フェルナンド1世にはベアトリスしか生存している子供がおらず、ベアトリスにも子供はいなかった。そんな中、1383年10月22日にフェルナンド1世は嫡出男子がいないまま死去してしまった。この年38歳だ。」
big5
「あらかじめ決めていたように、フェルナンド1世の後継者はベアトリスとなり、摂政として母のレオノールが就任しました。ただ、この体制はポルトガル人の中小貴族や民衆には嫌われました。というのも、レオノールの愛人がカスティーリャの貴族だったからです。カスティーリャ色が強い王家の体制に反対するポルトガル人はかなりたくさんいました。
この状況に対して挙兵したのが、フェルナンド1世の庶弟でありアヴィス騎士団長のドン・ジョアンです。
ドン・ジョアンは悪政の元凶としてレオノールの愛人のカスティーリャ貴族・アンデイロ伯を斬り、反カスティーリャ民衆の支持を集めて挙兵しました。一方、ベアトリス側にはカスティーリャ王フアン1世や、それに連なるポルトガルの大貴族が味方につきました。1383年、ベアトリス派とドン・ジョアン派に分かれてポルトガル王位継承戦争が始まりました。
1384年、フアン1世は大軍を率いてポルトガルに侵攻。首都のリスボンを包囲します。しかし、ドン・ジョアンはリスボンをよく守りました。やがて、フアン1世の陣でペストが流行し始めたこともあって、カスティーリャ軍は包囲を解いて退却しました。この年の5月、ドン・ジョアンはコインブラで開催された議会(コルテス)において、ポルトガル王ジョアン1世(この年26歳)として即位。王家はボルゴーニャ王朝からアヴィス王朝へと交代しました。しかし、カスティーリャ王フアン1世はこれで諦めません。再び軍を率いてポルトガルに攻め込みますが、8月14日、アルジュバロッタの戦いで、少数ながら地の利を活かしてイギリス軍の援軍も得たジョアン1世がカスティーリャ軍を破りました。ここに、ジョアン1世は名実ともにポルトガル王となりました。」

small5
「ポルトガル王となったジョアン1世は、法学者のジョアン・ダス・レグラスをはじめとした法学者を登用し、中央集権化を進めたんだ。財政面でも、都市の収入であった物品税(シザ)を国の収入として取り込んでいるぜ。
外交面では、イングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと1386年に同盟したことだな。この条約はウィンザー条約といい、現存する最古の2国間同盟となっているぜ。以後、イングランドとポルトガルは長期間に渡って同盟関係となったんだ。この同盟の証として、ジョン・オブ・ゴーントの娘・フィリッパがジョアン1世に嫁いだ。この二人の間に生まれたのが、大航海時代を牽引するエンリケ航海王子なんだ。」
big5
「ジョアン1世即位後も、たびたびカスティーリャとの戦いは発生しましたが、1411年に和睦が成立。重要なのは、その後の1415年にイベリア半島の対岸にあるアフリカ北岸の街・セウタを攻略したことですね。」
big5
「当時、セウタの街にはアフリカのスーダン方面から流入する金の集散地として知られていました。また、豊かな穀倉地帯もあるため、かなり価値の高い都市だったそうです。領土拡大の野心を持つポルトガル貴族から見ると、魅力的な街です。また、リスボンやポルトの大商人らも貴金属不足が商売の足枷になっていたので、金の集散地であるセウタをポルトガル領とすることは希望に叶う話でした。」
small5
「貴族と大商人の支持を得て、ジョアン1世はポルトガル史上初となる海外遠征セウタ攻略を数年かけて準備したんだ。1415年8月、200隻の船に2万の将兵というたいぐんをセウタに送り込んだ。セウタ側はこの情報を掴んでいなかったようで、突如現れたポルトガルの大軍の攻撃に組織的に対抗することができず、1日でセウタは陥落したんだ。
ジョアン1世はセウタを今後の勢力拡大の橋頭保として領有することにしたんだが、以前のような利益は得られなくなってしまった。というのも、イスラム商人らの貴金属の商流はセウタを避けるようになったので、以前のような金の集散地ではなくなってしまったんだ。また、穀倉地帯についても、周囲のイスラム教徒がたびたび襲撃するためにあまり利用できず、ポルトガルの守備隊は城壁を守ることに手いっぱいとなってしまった。つまり、海外に孤立した街を一つ保有しているだけ、という状態になってしまったんだ。ただ、その後のポルトガルの国策は海外進出となり、大航海時代を牽引していくことになる。セウタ攻略は、その始まりと考えられているな。」
small5
「さて、ここまで中世ポルトガルの歴史の流れを見て来たので、次は当時の社会の仕組みについて見ていこう。まずは身分の話からだ。
中世と言えば貴族が大きな力を持っていたが、貴族にもランク付けがあった。ポルトガルも例外ではないぜ。ポルトガル貴族は大別して以下のように4つに分類できる。」
1.リコ・オーメン(大貴族):宮廷で特権を持つ。戦時には家臣の小貴族を率いて国王を支援する義務を持つ。
2.インファンサン(中貴族):血統貴族。レコンキスタ後には没落していった。
3.カヴァレイロ(小貴族、騎士):馬と武器を所有する財力がある。
4.エスクデイロ(従士):カヴァレイロなどの楯持ち
big5
「これらのうち、カヴァレイロとエスクデイロはレコンキスタ後、フィダルゴと呼ばれて、誇りだけ高い貧乏貴族の代名詞となったそうです。日本の江戸時代の武士に似ていますね。」
small5
「続いて平民階級だ。平民はいわゆる「民衆」で、様々な職業についているから生活水準や社会的地位は様々だ。ただん、平民の中でも裕福な部類は「平民騎士」と呼ばれ、騎士として国王の戦争に従軍するなどしていた。身分制議会コルテスに平民からも代表者が参加しているが、平民代表となるのはこれらの平民騎士や裕福な名望家だった。
また、ポルトガルは基本的に農業国なので、自営農は農民の代表だな。その下に荘園などで働く、自分の農地を持たない使用人としての農民も多かった。他には、商業・工業系職業の手工業者や商人、現代でいうフリーターに近い日雇い労働者(ジョルナレイロ)、というかんじだな。」
big5
「宗教面はわりと単純ですが、民衆の大半はキリスト教徒です。他には、ユダヤ教徒も少数ながらいたのは他のヨーロッパ諸国と同様です。イスラム教徒も少数ながら孫愛したのは、イベリア半島らしいですね。ユダヤ教徒もイスラム教徒も差別されていましたが、独自のコミュニティを築いて生活していました。特にユダヤ教徒は、キリスト教価値観で卑しい仕事とされている大商人や高利貸しを営んでおり、政治力は低くても経済力は高い存在でした。これも、他のヨーロッパ諸国と同様ですね。」
small5
「コインブラ大学も、中世ポルトガルの歴史の中で重要な役割を果たしているな。歴史あるヨーロッパの大学の一つで、その始まりは1290年、ディニス1世がリスボンにエストゥード・ジェラル(一般教養学院)を創立したことだ。これがコインブラ大学の前身となった。コインブラ大学となったのはもう少し後の時代、近世16世紀のことだ。
学部は法学部、文法・論理学部、医学部などで、聖職者ではなく俗人教育を目的としていたことが特徴だな。聖職者は、アルコバッサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院には聖職者のための大学があったんだぜ。」
big5
「ポルトガル語が確立したのも中世のことでした。元はドーロ川以北で話されていたガリシア・ポルトガルの祖語が、レコンキスタの進展とともになんかしていき、テージョ川以南で話されていたルシタニア・モサラベ語と融合してポルトガル語となった、と考えられているそうだ。
上述のように、ディニス1世が公文書にポルトガル語を使わせたことで、普及が進んだな。」
small5
「次に宮廷文化について。13世紀後半からフランス・プロヴァンス起源のトルバドゥール文化(吟遊詩人の文化)が広まった。イスラムの詩的伝統を受け継ぎながら、独自の発展を遂げたぜ。ガリシア・ポルトガル語で書かれた恋・あざけり・罵りの歌なんかが残っている。ディニス1世も作詞したものが残っているそうだ。」
この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。