Last update:2023,AUG,19

広がる世界・変わる世界 詳細篇

帝国騎士の乱とドイツ農民戦争(Ritterkrieg & German Peasant's War)

small5
「今回は「広がる世界・変わる世界」の詳細篇ということで、ルターの宗教改革初期に発生した2つの争乱帝国騎士の乱(騎士戦争、とも Ritterkrieg)とドイツ農民戦争(German Peasant's War)について、本編よりも詳しく見ていくぜ!」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」

1522~23年 帝国騎士の乱(騎士戦争)

small5
「さて、まずは1522年から1523年にかけて戦われた「帝国騎士の乱」から見ていこう。ちなみに、日本語では「騎士戦争」という別名もあるのだが、ここでは「帝国騎士の乱」の名前で統一するぜ。
まず、事件の背景から確認していこう。主な背景はだいたい以下になるな。
@1517年から始まったルターの宗教改革とカトリック教会への批判
A時代の変化に伴う騎士階級の没落
@については、本編(ルターの宗教改革)でも説明しているとおりだ。帝国騎士の乱を指導したフッテン(1522年で34歳)は、皇帝直属の騎士であると同時に、人文主義に深く入れ込んでいて、ルター登場前からロイヒリンの宗教裁判にもロイヒリンを公然と支持するなど、カトリック教会と対立していた人物だった。」

Huttenフッテン 制作者:Erhard Schon 制作年:1522年

big5
「Aについては、2つの側面があります。一つは、戦場における騎士の重要性の低下、です。古代や中世では戦場の華であり、そして重装騎兵として強力な攻撃力を持っていた騎士は軍の主力部隊でした。ところが、火縄銃などの火器が発達するにつれて、重たい甲冑では銃弾を防ぎきれなくなってしまい、結果重いというデメリットだけが残ってしまいました。また、戦術面でも変化が起きていました。軍の主力となるのは、長槍を装備した徒歩の傭兵で、長槍兵が方陣を組んで敵と戦うという、古代ギリシャのファランクス戦法のような戦い方が主流になっていました。そのため、重装騎兵は限定された使い方しかできず、あまり活躍できないようになっていたのです。
もう一つは経済面ですね。経済面での困窮が目立つようになりました。経済圏が広がり、商業が発達し始めたことにより、小さな所領から得られる収入だけでは暮らしに不自由するようになる騎士が増えてきていました。
そんな時にルターが現れ、贖宥状の販売を批判し、現在のカトリック教会の体制に異議を唱えたことが、没落していた騎士の心に火をつけたわけですね。」
small5
「では、次に乱の経緯を見ていこう。1522年9月、ライン川流域のシュワーベン、フランケン地方の騎士達は、F・ジッキンゲン(41歳)、フッテン(34歳)らに率いられ、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃したことで始まった。反乱騎士達の首領となったジッキンゲンは、1481年3月2日、エーベルンブルクにて生まれ、1517年(36歳)に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕えていた。1519年の神聖ローマ皇帝選挙では、カール5世を助けた功で帝国侍従・顧問官に任命されている。この経歴からすると、現体制に反対するような立場には感じられませんが、ジッキンゲンは相棒のフッテンに感化され、ルターの宗教改革に著しく共鳴していたんだ。
フッテンは、1488年4月21日にフルダ近郊で生まれました、フルダの修道院学校に入りましたが途中で脱走している。1515年(27歳)、従兄弟がウルリヒ公爵に殺害されたのを機に、権威に対抗する文筆と闘争の世界に入っていった。文才に優れていたフッテンは人文主義の大物エラスムスと交流した他、詩人としても評価されており、1517年にはカール5世から桂冠詩人に叙せられている。フッテンは教会を激しく非難し、愛国心を鼓吹して騎士達を鼓舞する、精神面での指導者となった。
ジッキンゲン、フッテンらの軍に襲撃されたトリエル大司教は、すぐにファルツ伯とヘッセン伯爵ヘッセン・フォン・フィリップ(18歳)に救援を要請し、態勢を整えると反撃。結果、騎士軍は敗北。ジッキンゲンは居城のラントシュトゥールに敗走し、その後1523年5月7日、城内で死去した。フッテンはスイスのチューリヒに逃亡し、そこで宗教改革を進めていたツヴィングリに保護された。しかし、それから間もない1523年8月29日、チューリヒ近郊湖上のウーフェナオ島にて病気で死去(享年35)。 こうして帝国騎士の乱はあっけなく終焉を迎えた。帝国騎士の乱の評価はいくつかあるようだが、あまり重要視されることはないようで、宗教改革の過程で勃発した私闘(フェーデ)に過ぎない、と見る意見が多いようだぜ。」

1524~25年 ドイツ農民戦争

small5
「さて、次は帝国騎士の乱よりも遥かに影響が大きく、歴史的に重要な意義を持っているドイツ農民戦争(単に「農民戦争」とも。ここでは「ドイツ農民戦争」で統一)についてだ。
まず、ドイツ農民戦争の主役であるこの頃のドイツ農民の生活から見ていこう。当時のドイツ農民は、まさに圧政に耐えて最低限のところで生き延びている、という状態だったそうだ。とにかく税金が重かったらしい。教会に収穫の10分の1を納める「十分の一税」をはじめ、山で薪を拾うと税金を取られ、川で魚を釣っても税金を取られ、死亡すると死亡税が取り立てられるなど、普通に生きていくのも難しい環境だったようだな。」
big5
「そんな中、ルターによる宗教改革の波が起ります。この波に乗って、農民たちに蜂起を促したのがトマス・ミュンツァーでした。」

Thomas Muentzerミュンツァー 

big5
「ミュンツァーは1490年頃、シュトルベルクの生まれ。ルターの説に共感し、1519年のライプツィヒ論争の後の1520年、ルターの推挙を得てツウィッカウへ布教を行いました。しかし、ミュンツァーの論理はルターのそれよりもかなり急進的で過激なものでした。ミュンツァーは、カトリック教会とそれに結託している世俗の領主らは堕落の道を歩んでおり、現在の秩序は終焉を迎えるであろう、と説きます。そして、その後、本来の平等を取り戻してこの地上に「神の国」を建設するのだ、という革命的な説教を行いました。そのあまりに過激な説教は、共感者を増やすことにはつながらず、むしろあちこちで論争を巻き起こしたために、ミュンツァーはツウィッカウを退去します。次はプラハに行って説教を行いますが、ここでも同じようなことになり、退去して今度はザクセンへ、ということを繰り返していました。元々、ルターにはカトリックを打倒するという革命的な考えは持っていません。そんなルターと、革命を考えるミュンツァーはやがて対立するようになり、ついに決別しました。1523年3月、ミュンツァーはアルシュテットで牧師となり、ドイツ語による礼拝を導入し、そのための礼拝式も新たに作りました。そして、蜂起の時を窺っていました。日々の圧政に耐えかねているドイツ農民にとっては、ルターの理論よりもミュンツァーの革命論の方が心に響いたようでした。」
small5
「ミュンツァーは宗教家というよりは革命家という人物だからな。圧政に苦しむ貧民から見れば、ルターよりもミュンツァーの方が「自分達を救ってくれる人」だったんだろうな。帝国騎士の乱の後、1524年末には農民戦争の前触れとも言える暴動がニュルンベルクとチューリンゲンで発生した。そして1525年2月に蜂起の絶好の機会が訪れる。この頃、神聖ローマ皇帝カール5世のライバルであるフランス王フランソワ1世は、北イタリアをフランスの領土とすべく、自ら大軍を率いて北イタリアに進軍してきた。これに対し、カール5世も大軍を動員してフランス軍の撃退に向かわせた。これはチャンスだ。各地で農民達が武装蜂起し、教会や領主を襲撃しはじめた。」
big5
「各地で大暴れする武装農民らに貴族らは恐れおののき、農民軍はあちこちで略奪を行うようになりました。時が経つにつれて、ドイツ農民戦争は革命を起こすためではなく、単に略奪をして日ごろの憂さ晴らしをしているような状態になりました。そのため、ルターも当初は農民らに同情的な態度をとっていましたが、暴徒化する農民を見て憤りを感じ、さらにミュンツァーがある農民軍の指導者となっていることを知ると、「現世の主権は神の摂理であり、これに刃向うのは涜神行為である」と批判するようになりました。一方、2月末にゼバスティアン・ロッツァーとクリストフ・シャッペラーによって書かれた「シュヴァーベン地方における農民団の12カ条」という、農民戦争の基本綱領がありますが、その内容は比較的温和なものであったそうです。」
small5
「この大規模な農民反乱は、最初はかなり恐れられていたんだが、すぐに鎮圧の目処がつきはじめた。まず、各地で暴れている農民軍同士はそれぞれ独立しており、横の連携はほとんどなかった。これはつまり、各個撃破が可能であることを意味している。そして第2に、北イタリアでの対フランス戦に派遣された神聖ローマ軍が、フランソワ1世を捕虜にするという快勝を成し遂げて、ドイツに帰還してきたことだ。この軍を個別バラバラに行動する農民軍に順番に当てていけば、農民反乱もやがて収束する、という目処が立ったわけだな。しかし、これには懸念もありました。神聖ローマ軍といっても、その多くはランツクネヒトと呼ばれるドイツの傭兵隊で構成されている。このランツクネヒトの兵士たちは、多くが農民出身なんだ。ランツクネヒトを農民鎮圧に用いると、逆に農民側に加担するのではないか、という不安があったわけだな。実際、バイエルン侯国の官房長レオンハルト・フォン・エックは、ランツクネヒトよりもボヘミア(現在のチェコ)傭兵を使うことを提案している。結局、ランツクネヒトが反乱鎮圧に宛てられることになったんだが、レオンハルトの懸念は一部当たっていた。ランツクネヒトの一部は、同胞である農民軍と戦うことを嫌い、むしろ農民軍に味方して、戦術や武器の使い方を教える者たちが現れたんだ。しかしこれは少数派で、多くのランツクネヒトは雇い主の下に残った。また、帝国騎士の乱の鎮圧に活躍したヘッセン・フォン・フィリップも農民軍鎮圧に大きく貢献した。」
big5
「その後、農民軍は一気に瓦解していきました。ライプハイム(4月4日)、ヴルツァッハ(4月14日)、ベブリンゲン(5月12日)、ツァベルン(5月16日)と連敗を重ねます。ミュンツァーは5月15日のフランケンハウゼンの戦いで敗北し、捕えられました。反乱の首謀者であるミュンツァーには苛酷な拷問が加えられ、自説を棄ててカトリックに改宗させられてから、5月27日に斬首となりました(享年35歳?)。」

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