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世界大戦と平和への試み

第一次世界大戦 (World War I) 後編

あらすじ

big5
「今回は、前回「第一次世界大戦 前編」の続きである「第一次世界大戦 後編」です。前編で見てきたように、1914年に開戦してから1916年まで、ドイツ・オーストリアを主軸とする同盟陣営と、イギリス・フランス・ロシアを主軸とする連合陣営は一進一退の攻防を繰り広げていました。飛行機や戦車、さらには毒ガスという新兵器も登場した第一次世界大戦は、戦場でこれまでにないくらいの多くの死傷者を出すようになったうえに、参戦している国の多くは物資不足による物価高騰などの経済的な悪影響にも苦しむようになり、戦争はこれまでのような「軍隊 vs 軍隊」の勝負というよりも、一般市民を含めた「国 vs 国」の様相を呈し始めていました。」
名もなきOL
総力戦、といわれていますね。」
big5
「そんな中、国内に多くの問題を抱えていたロシアで革命が勃発。およそ300年に渡ってロシアを支配してきたロマノフ王朝とロシア帝国がついに倒れ、結果として社会主義国家・ソヴィエト連邦(ソ連)が誕生しました。」
名もなきOL
「ソ連は第一次世界大戦中に誕生したんですね。そうなると、ロシアも戦争どころではなくなってしまいますよね。」
big5
「はい。ソ連は連合陣営から離脱し、ドイツと単独講和して戦争から離脱。これで、ドイツはロシアとの東部戦線に割いていた戦力を膠着している西部戦線に送ることが可能になり、戦況はドイツ有利に転じたかのように見えました。」
名もなきOL
「・・・ということは、そうはならなかったんですね。」
big5
「はい。1917年にもう一つ起きた重大な事件がアメリカ参戦です。ドイツの無制限潜水艦作戦に対し、アメリカのウィルソン大統領はドイツに対して宣戦布告。結果として、1918年にブルガリアやオスマン帝国など同盟陣営参加国が次々に降伏し、最後はドイツ国内のキール軍港で水兵が反乱したのをきっかけとして、ヴィルヘルム2世は退位してドイツ帝国も崩壊1918年11月に休戦条約が結ばれ、第一次世界大戦はようやく終結しました。

と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 ヨーロッパのイベント 他地域のイベント
1914年7月 オーストリアがセルビアに宣戦布告(第一次世界大戦 開戦)
1917年2月 ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言
1917年3月 ロシア革命三月革命勃発
1917年4月 アメリカが連合国側で参戦
1917年11月 ロシア革命十一月革命勃発
1918年1月 アメリカのウィルソン大統領が14箇条の平和原則を発表
1918年3月 ブレスト=リトフスク条約でロシアがドイツと単独講和
1918年11月 キール軍港水兵暴動発生
ドイツが連合国と停戦条約に合意

無制限潜水艦作戦とアメリカ参戦

big5
「さて、次の話題はアメリカ参戦です。開戦から約3年間、アメリカは伝統的なモンロー主義(ヨーロッパの揉め事には関わらない)に基づいて中立を保っていたのですが、1917年4月に中立を捨てて連合陣営で参戦。膠着状態だった西部戦線は動き始めました。なので、アメリカ参戦は重要ポイントですね。」
名もなきOL
「どうしてアメリカは中立を捨てて参戦を決めたんですか?」
big5
「直接のきっかけとなったのは、ドイツによる無制限潜水艦作戦です。前編のユトランド沖海戦でも説明したように、イギリス海軍 vs ドイツ海軍の戦いも膠着状態でした。ドイツ海軍は戦況を打開するために、潜水艦(Uボート)を使って密かに沖に出て、イギリスの商船を撃沈して物資不足に陥らせる、という作戦を取っていました。潜水艦による攻撃は一定の効果を生んでいたのですが、戦局を打開するためには、潜水艦による攻撃をもっと拡大することを決めました。つまり、「イギリスに向かう商船は例え中立国の船であっても無警告で撃沈する」としたんです。これを、無制限潜水艦作戦といいます。」
名もなきOL
「これってかなり危険なんじゃ・・。中立国船も撃沈すれば、確かにイギリスのダメージは大きいんでしょうけど、中立国を敵に回してしまいますよね?」
big5
「その通りです。実際、ドイツでも無制限潜水艦作戦には反対する人々も多かったんですが、1917年2月に無制限潜水艦作戦の実施を宣言します。そして、本当にアメリカの船も撃沈したため、ついにアメリカも参戦することとなったわけですね。
アメリカ参戦ですぐに戦局が動いたわけではありませんが、上記のようにロシア革命も勃発したことで、長かった第一次世界大戦もようやく終結に向かうことになります。」

ロシア革命

big5
「まず、ロシア革命について。ロシア革命によって、ロシアは新しい国家へと生まれ変わりました。ソヴィエト連邦(略称:ソ連)です。史上初の社会主義国を生み出したロシア革命には重要な用語やイベントが多いので、詳しくは別に1ページ作って扱います。ここでは、ロシア革命の概要と第一次大戦から見たロシア革命の影響を見ていきます。
まず重要なことは、ロシア革命は二段階に分かれている、ということです。一段回目の革命は1917年の3月、二段階目は1917年11月に勃発していますので、それぞれ三月革命十一月革命と呼ばれています。なお、ロシアが使っていたロシア暦では、それぞれ2月と10月にあたりますので、二月革命十月革命とロシア暦に基づいた名称もあります。ややこしいですね。ここでは、両方をまとめて「ロシア革命」と単純に呼ぶことにします。」
名もなきOL
「歴史イベントの名前は一つにまとめてもらった方が、勉強する方としてはありがたいんですけどね・・・」
big5
「さて、第一次大戦でドイツ・オーストリアと戦ったロシアですが、戦況は不利でした。国内では戦争による物資不足&物価高でロシア民衆の暮らしはかなり厳しかったようです。その一方で、戦争継続のために経済は回さなければなりませんので、民衆は働かざるを得ません。ロシア民衆の不満は募りに募って、一部はストライキを起こします。これらのストライキは警察などによって解散させられたりしましたが、1917年3月8日(ロシア暦2月23日)に首都・ペトログラードで発生したストライキにはロシア軍の一部も加わり、ついに民衆が武力蜂起に至りました。
この結果、3月15日に皇帝・ニコライ2世は退位し、約300年続いたロマノフ王朝は終焉を迎えました。代わりにロシアの政治を担った臨時政府は、ブルジョワ階級を中心に構成されていました。この時点では、まだ社会主義国ではなかったわけですね。」
名もなきOL
「絶対君主制から共和制へ移行した、というかんじですよね。」
big5
「はい。しかし、革命が起きたばかりのロシアの状況は、混沌としていました。ブルジョワ階級が占める臨時政府が戦争継続していたのに対し、地方では民衆や一部の軍がソヴィエトを形成していました。「ソヴィエト」とは、ロシア語で「会議」とか「打ち合わせ」などという意味です。ソヴィエトは革命の徹底と第一次大戦からの離脱を唱えたため、ロシア国内は大きく二分された状態になりました。これを「二重権力」と呼んだりします。この時、各地のソヴィエトをまとめて第二の革命を起こしたのがレーニンです。」

Vladimir Lenin
1920年のレーニン

big5
「レーニンは各地のソヴィエトを糾合して臨時政府との戦いを始めました。そして、1917年11月に全ロシア=ソヴィエト会議を開催してソヴィエト政権の樹立を宣言。これが、世界初となる社会主義政権の誕生ですね。この後、ソヴィエト連邦の形成に至るまでにいくつかの段階があるのですが、このページでは省略します。」
名もなきOL
「なるほど、ロシア革命が2段階というのは、こういうことなんですね。
1段階目:ロマノフ朝が倒れる
2段階目:ソヴィエトが成立
これが、1917年という1年の間に起きたなんて、まさにロシアにとって激動の年だったわけですね。
そして、もう一つ知名度はイマイチなのですが、重要な話があります。ソ連誕生と同時に、レーニンは全世界に対して「平和についての布告を発表しました。ドイツなど、敵国に対して無賠償(敗戦国から賠償金を取らない)・無併合(領土の割譲や併合は行わない)・民族自決・秘密条約の廃止をポイントとして休戦交渉を開始する、と宣言したんです。」
名もなきOL
「おぉ、レーニンさん、かなりハッキリとしたことを言ったんですね!」
big5
「そうですね。革命で成立した新国家らしい発信だと思います。ただ、このようなソ連の立場は連合国陣営にとっては簡単に歓迎できるものではありません。なにしろ、ドイツの戦力を東に引きつけていたロシアが、戦争から抜けるとなると、ドイツは東部戦線の戦力を膠着している西部に回してくることは明らかです。それに、新しく誕生した社会主義国家の革命理念が自国に波及する恐れもあります。かつてのフランス革命の時のように。
結果として、連合陣営はソ連を承認せず、ソ連とドイツの講和は妨害すると対応することに決めました。加えて、アメリカ大統領のウィルソンはレーニンに対抗すべく、年が明けた1918年1月に平和14原則(The fourteen points)を発表します。主だった内容は・・
@講和交渉の公開と秘密外交の廃止
Aアルザス、ロレーヌのフランスへの返還
Bイタリア国境の調整
Cバルカン諸国の独立保障
Dポーランド独立
E国際連盟の結成
です。第一次大戦後の姿を見据え、戦後のビジョンを明確にすることで、ソ連主導ではない、アメリカ主導の平和の回復を目指したわけですね。」
名もなきOL
「アメリカとか連合陣営の都合もわかりますけど・・・私は純粋に早く戦争が終わってほしいな、と思いますね。」
big5
「一方、ドイツにとってレーニンによる講和の提案は渡りに船です。早速、ドイツはソ連と休戦することを決め、また講和条約締結交渉も進めました。レーニンは「無賠償・無併合」を理念として発表しましたが、ロシアとの戦争を有利に進めていたドイツにとって、単純な講和では納得できません。結局、1918年3月、旧ロシア帝国の領土だったポーランド、フィンランド、バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)、ウクライナ、ベラルーシを放棄し、コーカサス地方をオスマン帝国に割譲することで、ソ連はドイツを始めとした連合陣営と講和することになりました。この講和条約がブレスト=リトフスク条約です。いわゆる単独講和で、ソ連は自分だけ連合陣営から抜け出して一足先に終戦を迎えたわけですね。」
名もなきOL
「単独講和でも戦争を終わらせることができたのなら、ロシアの民衆は嬉しかったでしょうね。その代わり、連合陣営の国々からは白い目で見られるでしょうが・・・」
big5
「はい。連合陣営のイギリス・フランス・アメリカ・日本は革命を潰すべく、それぞれソ連領内に出兵します。太ソ干渉戦争の始まりです。日本ではシベリア出兵という名前で呼ばれる事件です。この時点では、ソ連の足元はまだまだ固まっていませんでした。」

キール軍港の水兵反乱と第一次世界大戦の終焉

big5
「ソ連(ロシア)が単独講和で脱落したことで、ドイツは東部戦線の戦力を膠着している西部戦線に移動させ、戦争は新たな局面を迎える、かと思われましたが、西部戦線に大きな変化は生じませんでした。」
名もなきOL
「何かトラブルでもあったんですか?」
big5
「理由はいろいろあるようですが、主な理由の一つは、ブレスト=リトフスク条約で獲得した領土の防衛に戦力を回さざるを得なかった、というものです。ポーランドやバルト三国はかなりの面積を持った国ですから、それらの地域の治安維持にはかなり人手が必要となります。そのため、ロシア(ソ連)との講和が成立しても、西部戦線に回せた戦力はあまり多くなかった、ということですね。
そして、ブレスト=リトフスク条約がドイツにもたらした大きな要素は「厭戦(えんせん)気分」でした。開戦時は盛り上がっていたドイツ民衆も、この頃には長引く戦争や物資不足による生活苦で、とにかく戦争をもう終わらせたい、という気分でいっぱいだったんですね。」
名もなきOL
「わかります。戦争でいろいろなことが普通じゃなくなって・・そんな状態が4年も続いたら気が滅入りますよね。」
big5
「そのとおりです。そんな中、1918年春にはスペイン風邪が流行しはじめ、敵味方関わらず前線の兵士たちが次々に感染。結果として、スペイン風邪による死者は15万人にも及び、前線の兵士たちの疲労困憊はもう限界を超えていました。1918年11月に、キールというドイツ北部、ユトランド半島の付け根に位置する軍港で、水兵たちが出撃命令を拒否する、という事件が起こりました。上官の出撃命令を拒否するなんて、近代の軍隊では立派な反逆行為です。通常でしたら、命令を拒否した水兵たちは逮捕されて軍法会議にかけられて処分されるのですが、この時は命令を拒否した水兵らに他のドイツ軍部隊も同調し、ついには軍隊による反乱となりました。
皇帝・ヴィルヘルム2世は事態を収拾することができず、退位を表明して亡命。ドイツ帝国は崩壊し、一時的にドイツ共和国が成立して連合陣営に降伏することとなりました。こうして、約4年半に及んだ第一次世界大戦は、ようやく幕を下ろすことになったわけです。」
名もなきOL
「最後はロシア(ソ連)の単独講和と疫病流行で終わったんですね。2020年以降、新型コロナウィルスで世界は大混乱に陥って、感染して亡くなった人や、経済の行き詰まりで生活苦になった人も大勢いてたいへんですけど、約100年前は戦争終結の一因になるなんて・・・本当に皮肉な話ですね。」
big5
「疫病が人類にとって恐るべき脅威であることは、昔から変わりませんね。疫病がいいことだ、とは思いませんが、疫病流行により戦争が終結へ向かう、という流れは、歴史上でもしばしば発生します。テストに出てくることはあまりないと思いますが、第一次世界大戦を終結させた一つの要因としてスペイン風邪があった、ということは知っておくべきことだと思います。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回は、今回簡単な説明にとどめたロシア革命についてです。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


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令和4年度再試 世界史B 問題26 選択肢1
・(アメリカの失業率のグラフを見て)
アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦した年から翌年にかけては、アメリカ合衆国の国内の失業率は上昇した。 〇か×か?
(答)×。アメリカの参戦は上記の通り1917年。グラフでは、1917年と1918年を比べると失業率は低下しているので選択肢の内容は×となります。なお、グラフは1914年から1915年は上昇、それ以降は1918年まで前年より低下しているので、アメリカ参戦が1914年だと誤解していなければ、選択肢が×という結論にはなります。とはいえ、アメリカ参戦の年が正確にわからないと、迷ってしまう問題なのでやや難しいです。



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